機動駐在コジロウ




雨降ってジョブ固まる



 薄い包装紙の中から、キツネ色に焼けたひよ子饅頭が現れた。
 なんてベタなお土産だろう、だが外れはないか、と思いつつ、羽部はそれを囓った。味は今一つ解らなかったが、 粉っぽい触感と砂糖の甘さが口の中に広がった。それを麦茶で胃に流し込んでから、隣に座って嬉しそうにひよ子 を頬張る美月を一瞥した。しかし、何もこんなところで佐々木つばめのお土産を広げることはないだろう。
 羽部と美月の前には、レイガンドーが胡座を掻いていた。もちろん、彼はひよ子饅頭を食べられないので、二人 が食べる様を眺めているだけだ。佐々木つばめから東京土産のひよ子をもらった、と嬉々として報告してきた美月は、 羽部を半ば強引にガレージに連れ込んでひよ子を渡してきた。突っぱねることも出来なくはないのだが、美月を無下に 扱うと後が面倒なので付き合ってやることにした。徹夜明けで小休止したいと思っていたのも事実だが。

「こんな場所で喰うことないじゃないか」

 包装紙を握り潰した羽部がぼやくと、美月は照れた。

「家の中よりもこっちの方が落ち着くから、つい」

 ガレージの隅に掛かっている砂埃を被った掛け時計を見ると、登校時間はとっくの昔に過ぎていた。今日は平日 であり、世間が機能を保つために人間が動き始める午前九時を回っている。美月の母親とその親族は、それぞれの 仕事に向かっていったので家はがらんとしている。それなのに、美月は未だに家にいる。

「学校、そんなに嫌?」

 羽部が素っ気なく言うと、美月は躊躇いがちに頷いた。

「前の学校は嫌じゃなかったんですけど、こっちのは……どうしても合わなくて。だから、この前、つっぴーが色々と 大変なことになっていた時に行かなかったから、そのまま行かなくなってもいいかなぁって思って。お母さんも羽部 さんが一緒にいるなら、って文句も言わなかったから」

「へえ、そう。でも、この僕と一緒にいることほど危険なこともないんだけど? 君ってさあ、この僕に対する警戒心 が薄過ぎやしないかい。そんなことじゃ、本当に危険な目に遭った時に何も出来ないよ?」

 この場で羽部が美月に咬み付いて毒を与え、殺すことなど容易なのだから。羽部は目を細めるが、美月は笑う。

「大丈夫です! その時はレイがいるから!」

「対人戦闘は行えないが、人間を照準にさえ収めていなければどうにでも出来るからな」

 レイガンドーが拳を掲げてみせると、美月は自慢げに語る。

「それに、この前のことでレイのプログラムが整理されたみたいで、状況を認識して判断して行動に出るまでの時間 がかなり短縮されるようになったんです。最近の人型ロボットは思考パターンの短絡化が進んではいるんですけど、 あんまり単純にしすぎると今度は細かい判断が出来なくなっちゃうって言う弊害があるんです。警官ロボットの思考 パターンを例に出してみると、右の道に行けば最短ルートで犯罪者を追跡出来るけど信号に引っ掛かる可能性が 高い、でも左の道に行けば迂回路になるけど信号には引っ掛からない、っていう状況を判断するためにはどちら側の ルートの情報収集を優先すべきかをまず判断しなきゃならないんです。もちろん、その判断と情報収集能力自体は 人間よりも遙かに迅速で的確なんですけど、優先順位の選定基準が微妙すぎて、結局は人間に判断を任せる場合 が多いんです。でも、レイはそうじゃなくなったんです!」

「へえ、たとえば?」

 羽部がやる気なく問うと、美月はレイガンドーの仕草を真似て麦茶の入ったコップを掲げる。

「相手の体格に合わせてプログラミング済みの戦法を使用するのではなく、相手の動作を常時分析して自己判断した 上で戦法を決められるようになったんです! まだホログラムのシャドートレーニングの段階ではありますが!」

「でも、それじゃセコンドの意味がないでしょ」

 羽部が突っ込むと、美月は勢いを失って腕を下ろした。

「そうなんですよー。レイが賢くなるのは嬉しいんですけど、あんまり賢くなりすぎても困るなぁって」

「その心配は必要ないさ。俺がいかなる行動を取るにしても、最優先すべきは美月の安全、そして判断と命令なん だからな。大体、俺達ロボットは、最後の最後では人間を越えないように出来ているんだ。最後の一線を越えるよう なことがあったとすれば、遠からず自滅する。俺達は、使ってもらってこそ価値が生まれるからな。立場が逆転した ところで、俺達は自分の能力を生かせなくなるのが関の山だ。生き物と人工物の間には越えられない壁がいくらでも ……って、なんだ? こんな思想、俺の中にはプログラミングされていないはずだが」

 長々と語った末にレイガンドーは我に返り、言い淀んだ。美月も不思議そうにきょとんとしたが、羽部にはそれ が誰の思想であり、なぜレイガンドーの思考回路に残留しているのかは、見当が付いていた。桑原れんげという名の 疑似人格を作り上げて自我を確立していた遺産、アマラの思想だ。レイガンドーがソフトのオンラインアップデートを するために接続していたインターネット回線を経由して彼の中に侵入し、一時的にボディを間借りしていた設楽道子 の電脳体の基礎は、もちろんアマラの量子アルゴリズムで出来上がっている。故に、その複雑な量子アルゴリズムが、 レイガンドーの単純なアルゴリズムに焼き付き、更に人格に思想を与えてもなんら不思議ではない。
 と、いう情報が羽部の脳内に注ぎ込まれているのは、今は亡きサイボーグの設楽道子の脳内にアソウギを含んだ 体液を侵入させてアマラに接触し、羽部の肉体を構成しているアソウギと同期させたからだ。遺産同士は互換性が あると同時に、ごくごく微弱な生体電流程度の電波で同調している。それがなければ、羽部には今の状況はまるで 解らなかっただろう。それがありがたい反面、佐々木つばめの管理者権限によって完全な制御下に置かれたアマラ を管理している設楽道子の電脳体から流れ込んでくる無秩序な思考が、羽部の脳内を掻き乱していた。

「そういうのは削除しておくべきだよ、この僕が言うんだから間違いなんてあるわけがないんだからね」

 羽部がレイガンドーを示すと、美月は麦茶のコップを両手で包んだ。

「やっぱりそうですよねぇ……。私も、レイに特定の思想が生まれるのは良くないことだって思うんです。だって、レイ はロボットだから、誰に対しても中立であるべきなんです。ロボットに対しても中立であるべきなんです。そりゃまあ、 何も考えられない木偶の坊になったりしたらそれはそれで困るんですけど、ロボットであることを卑下しすぎる思想を 持ったレイは嫌だなぁって。でも」

「でもって何だよ、鬱陶しいな」

 羽部が軽く苛立つと、美月は兄でもある人型ロボットを見つめた。

「レイが人間に近付いていくのは嬉しいなって、思っちゃうんです」

「それこそ、削除すべき思想だよ」

 羽部は冷たく言い放ち、麦茶を呷ってから腰を上げた。美月はまだ何か言いたげではあったが、母屋に戻っていく 羽部を引き留めようとはしなかった。靴の数が減った土間で靴を脱いでから薄暗い玄関に入り、階段を昇って二階の 自室に入った羽部は、腹の底からため息を吐いた。人間に近付いても、いいことなんて何一つない。
 その証拠がいくらでもある。ただの人間だった頃の羽部は誰にも認められず、愛されもせず、息を殺して生きようとも それすらも許してもらえなかった。だから、人智を越えた怪人になり、人間達を脅かせる立場になってようやく自分を 心の底から肯定出来るようになった。美月だってそうではないか。本人に非がないのに、その身を取り巻く環境に非が あるからというだけで転校先の中学校で蔑まれている。それなのに、なぜ人間を羨むようなことを言う。

「僕は……」

 知っている、解っている。ただ、認めたくないだけだ。人間に恋慕を抱くからこそ、疎ましくなるのだと。

「この僕らしからぬ考えじゃないのさ。全知的生命体を凌駕する知性を持った高等生物たるこの僕が、ねぇ」

 自虐しながら、羽部は学習机に腰掛ける。再度ため息を吐いてから、つま先で一番下の引き出しを開けると、そこ には美作彰の通学カバンの中から取り出したものを押し込んである。角が擦り切れた封筒の中に、半透明の薄い 板が入っている。大きさはいずれもタバコ大ではあるが、板の一枚一枚に恐ろしく細かい文字が模様のように刻み 込まれ、触れると淡く発光する。板はガラスのように美しく透き通っているが、異様に硬く、いかなる金属でも傷一つ 付けられなかった。現代科学の産物ではないのは確かだ。だが、問題は板の正体でも出所でもない。

「美作彰が、なんでこんなものを持っていたのか。それが大いに問題じゃないか」

 板を一枚手にした羽部は、目を凝らして模様を凝視した。規則正しい羅列と形状からして文字と見ていいだろうが、 羽部の知る文字ではない。これもまた遺産の一種か、或いは遺産に関するものか。羽部の脳内に流れ込んで きた設楽道子の過去の記憶が正しければ、美作彰もまたアマラを有していたが、その入手経路は不明瞭だ。どこの 誰が美作彰などというイカれた男に、アマラという過ぎたオモチャをプレゼントするのだろうか。佐々木長光が遺産 を所有していた時代の管理態勢に不備があったのだろうか。美作彰とアマラを繋ぐものが思い当たらない。
 それを考え込んでしまったから、久々に徹夜をしてしまった。羽部自身もアマラを操れたら、そんな情報などすぐに 割り出せるのだろうが、生憎、そこまでいい立場ではない。羽部の能力は微弱なテレパシーのようなネットワーク を通じてアマラの受けた情報を感じ取れることと、怪人体とヘビへの姿の変身能力ぐらいなものだ。それだけの力 では、このややこしくも根深い戦いを乗り切れない。だから、妥協して弐天逸流の手先になり、小倉美月の監視役と いう名の子守役を務めて首の皮を繋ぎ止めているのではないか。
 もう少し建設的な仕事をしたいものだ。だが、何の仕事をしたものか。吉岡りんねに頭を下げてまた雇ってもらうのは 死んでもごめんだ。あの美少女は有能ではあるが、それ故に欠けた部分も多すぎる。かといって、佐々木つばめ の配下となって扱き使われるのも猛烈に嫌だ。しかし、フジワラ製薬に戻ったところで居所もなく、他の企業にしても 羽部を雇ってくれるとは思いがたい。雇ってくれたとしても、必要な情報や体液だけを毟り取って捨てるだろう。だと すれば、やはり、小倉美月の子守に甘んじているしかないのか。
 それを思うと、気が滅入ってくる。




 仕事の量が増えるのは、良しとすべきことである。
 それだけ、計画が順調であるという証拠だからだ。仕事の量に応じて現場にやってくる従業員も増えてくれれば、 個人の作業量も分担されて負担が軽減する。だが、それは仕事の内容にもよるものだ、と武蔵野は痛感していた。 手狭なプレハブ小屋の中には、所狭しと大量の液晶モニターとパソコンが置かれていた。至るところにケーブルが 這いずり、機械熱が籠もっていて真夏のような暑さになっている。一応、換気扇を回しつつも冷房を効かせている はずなのだが、全く効果がない。それどころか、エアコンの室外機の機械熱さえも籠もっているようだ。
 あまりの蒸し暑さに軽く吐き気すら覚えながら、武蔵野は機械の中心で上機嫌な鼻歌を漏らしているサイボーグ、 鬼無克二の背中を見やった。こちらは全身隈無く汗を掻いているのだが、鬼無は汗を一滴も掻くはずもなく、水冷式 の外付け冷却装置であるチューブの付いたジャケットを羽織って景気良くキーボードを叩いていた。こういう瞬間 だけは機械の体が途方もなく羨ましくなる。

「おぅふ、順調順調ー。んふふー」

 鬼無は細長い体を左右に揺らしながら、液晶モニターに映し出された監視映像を見てにやけた。

「お嬢に感付かれた様子はないか?」

 武蔵野は額から流れた汗が目に入りかけたので、タオルでそれを拭い取った。

「いいえー、そんなヘマをこの俺がするわけがないじゃないですかー。感付かれたとしたってー、別回線で傍受して いますからどうってことないですってー。映像のデータにしても、受信した瞬間に外部サーバーに転送しつつもこっち のパソコンに保存して、同時に十五個の外付けHDDに同じデータをコピーするように仕込んでありますから、どれか 一つがパーになったって大丈夫ですー。んふふー」

「そうか、ならいいんだ。様子を見に来ただけだからな」

「武蔵野さんこそー、大丈夫ですかー? この監視小屋がある場所って普段のランニングのルートからは大分 外れているんですよねー? 帰投する時間がずれたりしたら、御嬢様に怪しまれませんかー?」

「それについては大丈夫だ。俺の自主トレの時間帯と所要時間に規則性は持たせていないんだ」

「それってー、俺が作戦に加わるって解った上の行動ですかー? だったらマジキモーい」

 首を百八十度回転させて振り返った鬼無の軽口に、武蔵野は辟易した。

「それもないわけじゃないが、俺の習慣だ。行動に規則性を持たせると、敵に行動パターンを読まれやすくなる なんてことは常識だろうが、俺達の世界じゃ。だから、そういうふうになっちまったんだよ」

「そりゃまー、そうですけどねー。だとしたら、御嬢様はどちらかってーとパンピーな感じですかねー」

 行動パターンが一定なんですよー、と言いつつ、鬼無は手近なノートパソコンを操作してグラフを表示させ、それを 武蔵野に見せてきた。りんねの監視を始めたのはごく最近のことではないので、りんねの行動パターンを割り出す ために必要な情報は集まっていたのだろうが、それをグラフにしていたとは知らなかった。出来ればあまり見たくは ないものではあるが、これも仕事の一つなので、武蔵野はりんねの行動パターンの回数と所要時間が仔細に記入 されたグラフに目を通した。
 起床時刻、顔を洗う時刻と所要時間、身支度を調える時刻と所要時間、朝食を取る時刻と所要時間、トイレの回数と 一回ごとの所要時間、などなど、項目を見ていくだけでうんざりしてきた。だが、そのどれもが計ったように正確で、 人間なら一回ごとに多少のばらつきがあるはずのトイレの所要時間すらも同じだった。しかも、秒単位で。

「この変態が」

 武蔵野が毒突くと、鬼無は肩を揺すった。

「その変態に仕事をさせているのはどこの会社ですかー? んふふー。我々の業界ではご褒美ですー」

「確かにお嬢は規則正しい生活を送っているとは思ったが、ここまでとはな。となると、予想通りか」

「かもしれませんねー。出来れば、考えたくないことですけどー」

「だとすると、あの社長の使い道も若干変わってくるな。承諾してくれるかは解らんが」

「でも、あの社長は口先で誤魔化せばどうにでもなりそうですから、よろしくお願いしますー」

「使い勝手の悪い戦闘員をあしらうのは俺の仕事じゃない」

 武蔵野が身を引くと、鬼無はノートパソコンを棚に戻し、キーボードを叩いて画面をリアルタイムの映像に戻した。

「でー、気付いたんですけどねー」

「何をだ。しょうもないことだったら聞かんぞ」

 暑苦しい場所から一刻も早く退散しようと、武蔵野がドアに手を掛けると、鬼無はにやけた。

「武蔵野さんも大概にアレな感じの特オタですよねー? 規則正しい生活を送っちゃいない、とか言ったくせに日曜 朝七時半前にはテレビの前に来てこっそりと録画予約をして、岩龍にも見せてあげたりしてー。んふうん」

「馬鹿言え、あれは岩龍が」

「っていうのは嘘なのは知ってますからねー? だって岩龍が来る前から、武蔵野さんがニチアサタイムに間に合う ように起きてきているってことは見ていましたしぃ、武蔵野さんの携帯の着メロはニンジャファイター・ムラクモの変身 BGMの中でもマジカッケーと評判の一つ目入道のタンガンのでぇー」

「じゃかあしいっ!」

 反射的に武蔵野は拳銃を抜くが、鬼無は両手を上げるが悪びれもしなかった。

「ツンデレヒロインでおねショタ要員で最強サイボーグの鬼蜘蛛のヤクモはいいっすよねー。薄い本が厚くなる展開 ばっかりでー。あー、武蔵野さんはそういうのダメな感じですかー?」

「俺はお前とは違う。ただ、純粋にだな」

 武蔵野は凄みながら鬼無の頭部に銃口を押し付けるも、内心は戦々恐々としていた。

「あー、そうですかー? じゃ、エロ同人に免疫なんかもない感じですかー? 人生の八割を損してますよー」

 鬼無は銃口を突き付けられながらもマイペースで、上機嫌さを保っていた。神経の図太い男だ。武蔵野は未知の 世界に対する好奇心と羞恥心とその他諸々の感情が燻っていたが、これ以上深入りするとろくでもないことになると 察して銃口を下げた。あららん、と鬼無はなぜか残念がりながら、パソコンデスクの椅子に座り直した。そこで残念 がる意味が全く解らないので、武蔵野は顔を引きつらせながらブレン・テンを左脇のホルスターに戻した。

「とにかく、お嬢には感付かれないように仕事をしろ。余計なことは気にしなくていい」

「はぁーい」

 秘蔵のエロ同人フォルダを解放してあげようと思ったのにぃー、とぼやきながら、鬼無はキャスター付きの椅子を 回転させて一際大きなデスクトップ型のパソコンに向き直った。盗撮趣味だけに飽き足らず、二次元の美少女達の ポルノにも手を出しているらしい。性的な欲求を持つのは男としては健全かもしれないが、そのベクトルがいずれも 不健全すぎる。だが、若くなければそこまでぎらぎらした欲望は持てないのも確かだ。呆れると共になんとなく敗北感 を感じてしまうのは、年齢を重ねているからだろう。
 木造の物置小屋に偽装したプレハブ小屋を出た途端、清々しい解放感が訪れた。べとつく汗が乾いていき、少し 冷たい山風が肌を舐めていく。陽炎が昇りそうなほど熱しているプレハブ小屋から漏れ聞こえる鬼無の変な笑い声 に、なんともいえないむず痒いものが込み上がってくる。だが、あまり長居をすれば感付かれかねないので、獣道を 掻き分けてアスファルトに舗装された山道に出た。ジャングルブーツに付いた泥と枯れ葉を叩き落としてから、顔を 上げて駆け出した。自身が発する熱で体に籠もった機械熱が晴れていき、汗が流れるに連れて鬱屈とした感情も また溶けていくような気がする。体を動かすことは好きだ、そうでもなければここまで鍛え上げたりはしない。
 いくつものカーブを曲がり、昇り、下り、梅雨の終わりを感じさせる熱を帯びた日差しはサングラス越しであろうとも 眩しかった。あの日、彼女はどんな心境でこの道を通ってきたのだろう。それを思うと、年甲斐もなく胸の奥に鋭い 痛みが生じる。振り切ろうとしても、忘れようとしても、目を逸らそうとしても、罪悪感を伴う恋慕がそれを許さない。 二度と会えない相手だから、いつまでも胸の底に焼け付いている。
 船島集落からも別荘に向かう道からも逸れた脇道に入って、車が通った痕跡が少しばかり残る雑草を掻き分けて 進んでいく。呼吸を荒げ、汗を散らしながら、ただひたすらに求める。その瞬間だけは、自分の馬鹿げた思いを肯定 してもいいような錯覚に陥る。こんなにも必死なのだから、こんなにも強いのだから、認めてもいいだろうと。
 一際長く伸びた雑草を押しやると、広場に出た。その空間だけは雑草が一本も生えておらず、ほのかに湿り気を 帯びた地面が外気に曝されていた。測量して切り取ったかのような、綺麗な円形だ。その中心には、小さな石碑が ひっそりと佇んでいた。苔生すこともなく、枯れ葉に包まれることもなく、立てた時と全く同じ姿を保っていた。

「久し振りだな」

 こんな時でさえも気の利いた言葉を掛けられない、自分の無粋さに腹が立ってくる。石碑に近付き、汗と草の汁に 濡れた手をズボンで拭ってから、慎重に触れた。冷たく硬い、死の温度がした。

「ひばり」

 名前を口にするだけで心臓が跳ねる。笑顔を思い出すだけで息が詰まる。手触りを思い起こすだけで体の奥底が 熱する。温もりを、匂いを、表情を、声色を、態度を、瞳の色を、髪の艶を、記憶から掘り起こすだけで、恋を知った ばかりの少年のように身動きが取れなくなってしまう。思いを遂げられなかったから、伝えることすら臆してしまった から、未だに忘れられない。それがどんなに愚かなことか、身に染みているくせに。
 増して、相手はあの娘の母親だ。解っているくせに、解っているからこそ、どうしようもなく惹かれる。触れられない からこそ、欲してしまう。届かないからこそ、求めてしまう。サングラスを外して目元を押さえ、武蔵野は呻いた。
 あの時、手を離すべきではなかった。





 


12 8/19