機動駐在コジロウ




鬼のメンタルにも涙



 伊織は成長し続けた。
 小学校、中学校と卒業し、高校に進学した。その頃になると、自分の存在意義について思い悩むようになり、その 延長で勉強が疎かになっていた。軍隊アリと同化して生体構造を変化させた影響からか、髪色がまだらに脱色した ような色合いになったが、気にも留めなかった。高校に通っている生徒達の大半は髪色をいじっていたから、伊織 程度では目立ちもしなかったからだ。生体安定剤の摂取量は増える一方で、人前でも飲むほどになっていた。
 怪人を処分する回数もまた、増えていた。それは、アソウギと人間の相性が悪い証拠でもあった。伊織以外での 成功例だと言えるのは、新卒採用された研究員の羽部鏡一だけだった。彼は自分のペットであったヘビと同化して 人間体と怪人体とヘビの三つの姿に自在に変身出来たが、戦闘能力は伊織よりも遙かに低かった。卑屈で狡猾な インテリであり、その上、死体を愛好する性癖にも目覚めていたので、伊織は羽部を好きになれなかった。怪物の 青年に出会った時のような歓喜はなく、嫌悪感が募る一方だった。それは今でも変わらない。
 なぜ、アソウギは人間を捕食しなければならないのか。その疑問が晴れることのないまま、いたずらに時間だけが 過ぎていった。転機が訪れたのは、高校二年生に進学した後のことだった。
 その日も、伊織は図書室に入り浸っていた。クラスの誰とも付き合わないので、伊織に近付こうとするクラスメイトは 一人もいなかったし、伊織も近付こうとは思わなかった。今でこそ生体安定剤で食欲を抑えられているが、それが 途切れてしまえばどうなることか。無差別に人間を殺戮し、捕食するほど理性が飛ぶとは思いたくないが、そうなる 可能性がないとは言い切れないからだ。だから、伊織は一人でいることを選んでいた。

「藤原君、だったよね?」

 女子生徒が伊織に声を掛けてきたが、伊織は意に介さずに活字を追っていた。再度、藤原君、と呼ばれて伊織は 渋々目を上げた。そこには、同じクラスの女子生徒が本を抱えて立っていた。黒髪をショートカットにしただけの古風な 髪型がよく似合う、地味な顔立ちで小柄な女子生徒だった。彼女は確か、メグ、と呼ばれていたはずだ。

「んだよ」

 伊織は彼女を直視した途端、腹の底に奇妙な疼きを感じた。

「いつも図書室にいるけど、読書、好きなの?」

 メグの控えめな問い掛けに、伊織はぞんざいに返した。動揺を悟られないように、敢えて語気を荒くした。

「別に。つか、何?」

「……なんでも、ない」

 メグは伊織に話し掛けただけで気力が尽きたのか、顔を背けて足早に去っていった。小さな背中が廊下に消える のを眺めていたが、伊織は再度違和感に襲われた。空腹とも腹痛とも異なるが、飢えを伴った衝動だった。図書室 の常連達は怪訝そうに伊織を窺ってきたので、伊織はそれまで読んでいた本を閉じて棚に戻すと、早々に図書室を 後にした。きゃあきゃあと女子生徒達がお喋りに花を咲かせている廊下を大股に歩き、呼吸を整えようと息を吸うが 喉が干涸らびる。違和感が徐々に腹部から全身に広がり、苛立ちすら起きてくる。
 このままでは無差別に人間を喰らってしまいかねない。危機感に煽られた伊織は男子トイレに入り、常備している 生体安定剤を制服のポケットから取り出した。カプセルをシートから出す手間すらも億劫だったが、歯を食い縛って 理性を保ち、生体安定剤を十数錠出して一息に飲み下した。それが胃の中で消化されていくと、次第にあの違和感 が薄らいでいった。呼吸も落ち着いてきたので、伊織は気分を直すために顔を洗い、男子トイレを後にした。
 その時は、これで終わりだと思っていた。




 しかし、それは伊織の思い上がりに過ぎなかった。
 メグと顔を合わせるたび、声を掛けられるたび、擦れ違うたびに、伊織は衝動に駆られた。破壊的で貪欲な渇望が 沸き上がり、その度に生体安定剤を大量に消費した。さすがに毎日のように何十錠も摂取されると費用が馬鹿に ならないらしく、いつもは伊織が何をしても肯定的な父親も難色を示した。だが、伊織はその理由を明言することが 出来なかった。メグのことを身内に話すのが猛烈に恥ずかしかったし、なんだか情けなかったからだ。
 同じクラスの生徒ではあったが、メグについては伊織はあまり深く知らない。知らないようにしていた、と言った方 が正しい。メグの本名は調べようと思えばすぐに調べられる環境にあったが、深入りしたら取り返しの付かないことに なると思うがあまりに、名前すらも目に入れないようにしていた。読書の趣味にしても、伊織と同じように図書室 に入り浸っているメグが手に取る本を極力気にしないようにしていた。それなのに、伊織は彼女が本を選んでいた棚 に引き寄せられ、いつのまにか彼女が既読した本を選ぶようになっていた。
 意識しないようにと意識しすぎて、伊織はメグを意識するようになっていた。丸顔で地味な顔付きではあるが表情 が明るく、クラスメイトと言葉を交わす時に浮かべる笑顔が印象的だった。化粧気がないからか、擦れ違った瞬間に 漂う匂いは自然な甘い匂いだった。ショートカットの襟足と制服の襟元の合間から覗く首筋の白さに鼓動が跳ねた のは、一度や二度ではなかった。その度に、伊織は生体安定剤で胃袋を満たしていた。
 だが、徐々に誤魔化しが効かなくなってきた。その頃になると、体も大きくなって戦闘能力も見違えるほど向上した 伊織が出来損ないの怪人を処分する回数も格段に増えていた。捕食する数も増えていて、多い時は一日で五人も 貪り食ったことがあったほどだった。それだけ、怪人増産計画が行き詰まっていた証拠でもあるのだが。
 それでも、伊織は人間の世界で生きようと踏ん張っていた。怪人達を捕食するたびに膨れ上がり、時に爆発さえ する感情をあしらいながら、化け物としての領分を弁えながらも、平凡で平和な日々への憧憬を振り切れずにいた からだった。メグへの淡すぎる思いを切り捨てられなかったのも、そのせいだろう。
 高校二年生の一学期の、ある日のことだった。テスト期間が近いので授業は早々に切り上げられ、多くの生徒達 は下校していった。弱い雨が降る中、傘を差して歩いていく生徒達の姿を見下ろしながら、伊織は読み終えた本を 返すべく図書室を訪れていた。図書委員はいなかったが、貸し出しカードの扱いは慣れているので、カウンター裏 のカードリーダーに生徒手帳を兼ねたカードを滑らせた。本の裏表紙に貼り付けられているICチップを読み取らせて 返却されたことを記録させてから、所定の位置に戻しに行った。

「ひゃいっ!?」

 すると、別の本棚の影から悲鳴が上がった。おずおずと顔を出したのは、メグだった。

「あー、びっくりしたぁ……。藤原君だったんだ」

「んだよ」

 伊織はメグを正視しないようにしながら本を戻すと、メグは壁掛け時計を見上げた。

「どれを借りていこうかなーって迷っていたんだけど、もうこんな時間になっちゃった。早く決めないとね」

「知るかよ」

「だよね」

 あ、そうだ、とメグは制服のポケットを探り、縦長の袋を取り出した。フジワラ製薬が製造している、栄養補助食品 でもあるドライフルーツ入りのクッキーだった。それを、伊織に差し出してくる。

「これ、食べる? お昼の時間だし、お腹に何か入れておかないと寂しいでしょ」

「そんなもん、喰えねぇよ」

 口にしたところで、どうせ消化出来ないのだから。

「そっか」

 メグは少し残念そうに微笑んでから、海外文学の棚に向かった。伊織はなるべくメグに近付かないようにしようと するが、メグは伊織を窺ってくる。その視線がむず痒く、腹の底の疼きが高ぶってくる。

「あのね、藤原君」

 丸っこい爪が生えた華奢な指が、がっしりとした装丁の本の背表紙をなぞっていく。

「私ね」

 そう言ってから、メグは一度深呼吸した。本の背表紙に添えた指が強張り、半袖のブラウスに包まれた小さな肩が 怒る。緊張しているのだ。伊織はあらぬ方向を睨み付け、歯を食い縛るが、力みすぎて外骨格が現れ始めた。

「ずっと、藤原君のことが……」

 意を決したメグは、赤面しながら振り向いた。だが、伊織を目の当たりにした瞬間、その表情が一変した。中学生と 言っても差し支えのない幼い顔付きが引きつり、淡い恋慕で火照っていた頬が歪み、目尻に涙が滲んだ。伊織は その眼差しを受けたくなかったが逃げることすら出来なかった。衝動が、渇望が、欲動が、押さえきれなくなっていた からだった。生体安定剤を山ほど飲んだ。怪人を喰っているから、代わりに人肉を喰わないようにした。あの血肉の 味を忘れてしまえばいいのでは、という浅はかな考えに囚われていたからだ。だが、そんなものは無意味だった。

「俺は」

 下両足から生えた爪が上履きを破り、床板を叩く。

「てめぇをっ」

 振り翳した上両足の爪が本棚ごと本を切り刻み、木片と紙片が散らばった。

「喰っちまうんだよぉっ!」

 メグの頭蓋骨を叩き割る寸前で、伊織はその爪を壁にめり込ませた。壁紙と石膏ボードが破れて白い粉となり、 青ざめて座り込んでいるメグの髪と肩を白く汚した。そうだ、怯えてくれ、恐れてくれ。鬼なのだから。

「……いいよ?」

 小刻みに震えながら、嗚咽に声を引きつらせながらも、メグは健気な笑顔を見せてくれた。

「藤原君にだったら、食べられても平気だから。痛くても、我慢出来るから」

 渇望の正体を知った。と、同時に伊織は激しく混乱した。待って、とメグから引き留められたが、伊織はカーテンを 細切れにしながら窓ガラスを破って図書室を飛び出した。雨脚が強くなりつつある正門前に飛び降りると、生徒達が 悲鳴を上げた。怪人と化した伊織は触角と気門が濡れるのも構わずに、衝動から逃げるために駆けた。
 けれど、自分自身からは逃げられなかった。気が付くとフジワラ製薬の本社ビルに戻ってきていて、超高層ビルの 屋上の片隅で唸っていた。苦しくてたまらなかったが、複眼からは涙が一滴も出なかった。その代わりに、複眼の端 に溜まっていた雨水が膨らみ、顎を伝い落ちていった。胸が痛い、腹が痛い、心が痛い。
 鬼なのに、人間ではないはずなのに、化け物なのに。苦痛の海に心身を浸しながら、伊織は何時間もそうやって いた。いつしか雨が止み、鉛色の雲の切れ間から西日が差し込もうとも、立ち上がる気力すら起きなかった。メグを 喰いたい衝動と、メグを喰ってしまえば取り返しが付かなくなることへの恐怖が、伊織を乱していた。
 いつしか雨が止み、茜色に染まった水溜まりが煌めいていた。普段は施錠されている屋上の扉が開いたが、伊織 は触角を片方だけ上げただけだった。フジワラ製薬の重役と数人の大人を伴ってやってきたのは、少女だった。

「あなたが藤原伊織さんですね?」

 少女は、銀縁のメガネ越しに屋上の片隅でうずくまる巨大な虫を見据えてきた。艶の良いローファーを履いている つま先が水溜まりを軽く踏み、波紋が広がる。一陣のビル風が少女の長い黒髪を扇状に広げていき、ふわりと匂い を漂わせた。途端に、伊織の体液が震えた。今の今まで竦んでいた心が搾られ、何かが沸き立った。

「……てめぇは」

 関節の隙間から雨水を垂らしながら伊織が立ち上がると、有名な私立小学校の制服姿の少女はしなやかな仕草 で胸に手を添えた。目の覚めるほど、という表現が相応しい美貌の持ち主だった。

「お初にお目に掛かります。私は吉岡グループの社長である吉岡八五郎の一人娘、吉岡りんねと申します。以後、 お見知りおきを。伊織さんとの御面会の許可は、御父様から頂きましたので御安心下さい」

「何しに来やがった」

 訳の解らない高揚感によって、伊織は目の前の少女に殺意すら抱いていた。伊織がぎちぎちと顎を鳴らして威嚇 すると、りんねを囲む大人達は身構えたが、当のりんねは身動ぎもしなかった。

「伊織さんを雇用するために参りました。この度、私共吉岡グループは、佐々木長光氏が所有権を持っている遺産を 一括して管理、使用するための部署を設立するための人材を確保することとなりました」

「御嬢様にはそんなもん関係ねぇだろ。てか、俺も関係ねぇだろ? 殺すぞ?」

 伊織が攻撃的に吐き捨てるが、りんねは表情を保っていた。

「いいえ、無関係ではございません。伊織さんを形成している液体、アソウギもまた遺産の一つなのですから。吉岡 グループも遺産を所持しておりますし、それ以外の企業や団体も遺産を所持しております。諸事情によってそれらの 遺産は現時点での所有者の管理下に置かれておりますが、本来の所有者である佐々木氏が権利を主張すれば、 遺産によって生じた利益も含めた一切合切が佐々木氏のものとなってしまいます。アソウギを大量に得ている 伊織さん御自身もまた、例外ではありません。それはお嫌でしょう?」

 りんねは僅かばかり目を細めた。どこの誰かも知らない男の道具になるよりはいいだろう、と脅しているのだ。

「俺が誰かに使われる?」

 そんなこと、考えたこともなかった。伊織が訝ると、りんねは頷く。

「ええ、そうです。佐々木氏は管理者権限を有しておりますので、理屈の上ではそうなります」

「その佐々木って奴は何なんだ?」

「私の祖父です。あまり先が長くないようですが」

「身内なら、なんでそんなに回りくどいことをしやがる。正面切って遺産を寄越せって言えばいいだろ」

「遺産の相続権を有しているのは私ではありませんので、私が祖父に申し上げても何の効力もありません。それに、 私と両親は祖父からあまりよく思われておりませんので」

「だから、実力行使っつーわけか」

「ええ、そうです。それも、お嫌ですか?」

 りんねは軽く頬を持ち上げてみせたが、笑みには見えなかった。威嚇だ。

「嫌いじゃねーよ。だがな、クソ御嬢様。俺がてめぇを喰わねぇっつー保証はねぇぞ?」

 伊織も顎を広げ、威嚇し返す。それでも、りんねは動じない。

「御心配なさらずとも結構です。私は四分の一ですが、祖父の管理者権限を相続しておりますので、伊織さんを 抑制する程度の支配力を行使出来ます。管理者権限とは、ゲノム配列に刻まれている情報ですので」

「それがいつまで通じるか、試してみるか?」

「伊織さんさえ、よろしければ」

「明日にでも喰ってやるよ、クソ御嬢様」

 それが、伊織の了承の言葉だった。りんねは再度頷くと、では、また後日お会いいたしましょう、と一礼してから、 りんねは大人達を伴って屋上から去っていった。一人、取り残された伊織は、しばらく考え込んだ。アソウギの正体 が何なのかはまた解らなくなったが、一つだけ解ったことがある。
 伊織は道具なのだ。自分が何者なのかが解らないから、父親でさえも良く解っていないのだから、誰かに使われて いなければ剥き身の刃となる。収めるべき鞘もなく、切り付けるべき敵もない。だから、伊織を握り締めて操る手が 必要なのだと。それがあの美少女であると理解する一方で、反発心も芽生えていた。メグに対する思いが完全に 振り切れていないからでもあった。だが、もう彼女のことは忘れよう。人間らしく生きようと藻掻いていたことも、共に 切り捨ててしまおう。悩むことを忘れ、肉を喰らい、人を殺す、武器となろう。
 道具は、愚かであるべきだ。




 溶けた氷が申し訳程度に浮かぶ、麦茶のコップを爪で小突く。
 結露の輪が付いた座卓に映り込む自分の姿は、あの日から変わっていない。あの日から変わろうとしなかった、 と言うべきだ。メグを喰らおうとした自分に抗えなかった伊織は、全てを享受した。それはアソウギの意志であって、 伊織自身の意志でもある。人喰いには人喰いなりの、矜持があるからだ。

「他に、聞きてぇことはあるか?」

 爪先に付いた水滴の膨らみは、あの日の雨粒にも似ていた。

「いや、特に。大体のことは解ったよ、いおりん」

 胡座を掻いて頬杖を付いていた一乗寺は、真顔だった。

「いおりんの欠落した情緒が急激に発展した末に苦悩を与えたのは、いおりんが出来損ないの怪人を喰ったからと みて、まず間違いないだろうね。遺産同士にも互換性があるけど、その産物同士にも互換性があるから。いおりん はアソウギが作ったダメ人間処理機だってことは、これまでの殺人遍歴を顧みれば解ることだけど、怪人までもが 捕食対象になる意味が良く解らなかったんだ。だけど、これではっきりしたよ。アソウギは、広い意味で佐々木家に 害を加える人間を処理するように、いおりん達を促してきたけど、怪人もその中に含まれるんだよ。アソウギが血に 汚れれば汚れるほど、それを扱う佐々木家の人間の手も汚れるって理屈になるからね。いおりんがりんねちゃんに 嫌々だけど従っていたのも、その延長だよ。つばめちゃんに万が一のことがあったら、そのスペアになるのがりんね ちゃんだからね」

「だが、その御嬢様はつばめを目の敵にしているぞ? その理屈はどう付ける」

 寺坂の意見に、一乗寺は弛緩した。

「そこなんだよねー。普通に考えたらさぁ、りんねちゃんがつばめちゃんを手に入れようとする理屈が解らないんだ。 効果は半減しているとはいえ、りんねちゃんには管理者権限の予備みたいな生体情報が備わっているわけだしさ、 今まではそれを使って吉岡グループを発展させてきた。てぇことはつまり、無理矢理につばめちゃんを手に入れて、 遺産を作動させて云々するっていう意味がないわけ。だって、予備でも充分利益は出せていたわけだし。わざわざ オリジナルにこだわる理由がない、っていうか、利益以外のものを追求するためにつばめちゃんを追い立てている、 と考えるべきかなーこれは。だとしてもなぁ」

「だが、つばめの力がなかったら、アマラとみっちゃんは」

「そう、それもあるの。確かにアマラを放置するのは良くないことだったし、桑原れんげが増長していたら、それこそ 人間はろくでもない方向に突き進んじゃっただろうしね。りんねちゃんが桑原れんげ退治に手を貸してくれたのは、 今後の吉岡グループの利益のためでもあるんだろうけど、それだけなのかなぁって。桑原れんげを本気でどうにか したいって考えているんだったら、みっちゃんを手元に置いていた時にでも手を下しておけば良かったじゃない。 それなのに、わっざわざみっちゃんを殺させて、桑原れんげを乖離させて増長させた。変じゃない?」

「まあ、な」

 寺坂は法衣の袖に両腕を突っ込み、背を丸める。

「御嬢様にも仏心があって、みっちゃんを桑原れんげから解放する手伝いをしてくれた。それでいいじゃねぇか」

「えぇー、そんな甘ったれたことがあるわけないじゃーん。だって、あのド外道で鬼畜な御嬢様だよー?」

「どんな奴だって、最初から鬼として生まれてくるわけじゃないんだよ」

 寺坂は不意に真剣になったが、気恥ずかしくなったのか一乗寺を突き飛ばした。いたぁいん、と一乗寺は媚びた 態度で畳に寝そべるが、寺坂は相手にもしなかった。空っぽになった麦茶のボトルをはみ出た触手で掴むと、足早 に仏間から去っていった。その足音が遠ざかってから、一乗寺は座り直して伊織に向いた。

「で、いおりんが喰った出来損ないの怪人ってどんな奴だったの?」

「知るか、んなこと。知りたくもねぇし」

「あ、そう。教えてくれたっていいじゃない」

 一乗寺はそっぽを向いたが、伊織もまた顔を背けた。今まで喰ってきた人間も、怪人も、思い入れを作らないように 極力情報を遠ざけているからだ。あの時、メグを喰ってしまえなかったのは、メグに甘ったれた思い入れが出来て しまったからだろう。そうでもなければ、今頃、メグは伊織の血肉と化して心身に馴染んでいたはずだ。そうしていた 方が、余程幸せだったかもしれない。伊織は、あの絵本に出てくる人喰い鬼のようにはなれないからだ。
 それでも、道具なりに出来ることがある。密かな決意を腹の底に宿した伊織は、氷が一つ残らず溶けて薄くなった 麦茶を呷った。障子戸の外では、アブラゼミが己の遺伝子を連ねるために短い命を削って鳴いていた。
 淡い思いが凝り、体液が泡立った。





 


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