機動駐在コジロウ




前門のトラブル、後門のオラクル



 手のひらを返すにしても、まずは相手の手の内を知らなければ始まらない。
 そう判断した伊織は、世話係の者達の目を盗んで部屋から抜け出そうと決めた。これまでは伊織の体液とりんね の肉体が馴染みきっていなかったこともあって体力が続かず、失敗してしまったが、羽部の投薬と日々の穏やかな 食事のおかげで体も大分落ち着いてきた。伊織が伊織であった頃の能力も僅かに残っているので、超人的な戦闘 能力は発揮出来なくとも、それなりにジャンプ力はある。上手く隙を衝けば、部屋を囲んでいる屏を跳び越えられる はずだ。そんな企みを腹の底に宿しつつ、部屋に戻った伊織は、御鈴様として求められるがままに動いた。
 ダンスレッスン、ボイストレーニング、アイドルらしい表情作り、喋り方、立ち振る舞い、などなど、御鈴様をアイドル に仕立て上げるために必要な下拵えを施されていった。体力が続かないので休み休みではあったが、教えられた 分だけ出来るようになっていくのは純粋に楽しかった。水晶玉のペンダントを装っていた遺産、ラクシャの支配から 解放されたりんねは身も心も真っ新だったので、その清らかな分だけ伸びしろも大きかったのだろう。
 そして、練習した分だけ上手くなったダンスや歌をビデオカメラで撮影して編集した後に動画サイトに投稿すると、 その傍から視聴されていった。半日で十万回も再生され、滝のようにコメントが付き、反応も返ってきた。その大半 は弐天逸流の信者達によるものではあるが、もう半分は訳を知らない一般人なので、彼らが御鈴様を通じて弐天 逸流に入信してくれれば作戦は成功である。御鈴様が弐天逸流が作り出した新たな御神体であり偶像であるとは まだ知らしめていないが、シュユの放つ固有振動数を含んだ楽曲を長時間聞いた人間は刷り込みが成功している ので、彼らは何の疑問も持たずに弐天逸流の信者になることは決定している。疑問を持つ、という選択肢が脳から 失われるからである。いずれ、御鈴様がテレビで取り上げられるようになれば、更に効果は増すだろう。
 栄養補給を兼ねた間食を終えた後、伊織は少し横になるから一人にしてくれと命じると、世話係の者達はすぐに 部屋から退出してくれた。部屋の隅に出来上がったスタジオも電源が落とされ、煌びやかなホログラフィーも消え、 御鈴様が身に付けていた華やかな衣装もハンガーに掛かっている。

「んで、どうすっかな」

 帯を解いて浴衣を脱ぎ、襦袢だけになった伊織は、枕元に用意されている水差しから直接水を呷った。コップも 用意されているのだが、なんだかまどろっこしかったからだ。

「えー、と」

 ふすまを開けて廊下に顔を出し、狭い中庭を眺める。縁側の突き当たりにあるのがトイレで、その隣にあるのが 風呂場だ。伊織が寝起きしている部屋の続き部屋がスタジオになっていて、至るところから電源を引っ張ってきた ので太いケーブルが何本も廊下を這い回っている。中庭の植木は手入れが行き届いていて、咲き乱れている花も 色鮮やかだ。足音を殺しながら中庭に出た伊織は、両足に力を込めてみた。
 が、思うように筋力が高まらない。怪人だった頃は人間体でも無理が利いたのだが、りんねの肉体となるとそうも いかない。だが、ここで弱気になっては人払いをした意味がない。中庭を囲んでいる塀まで一直線に飛ぼうと思う から力が出せないのだ、と考え直した伊織は、ひとまず中庭に出ることにした。狭いながらも池もあり、ニシキゴイが 泳ぎ回っている。中庭の中で最も背が高いものは池の側にある庭石で、伊織の背丈よりも少し高い程度だった。 その上に乗ってから跳ねれば、塀の上に飛び移れるかもしれない。
 履き物で滑っては元も子もないので、伊織は雪駄を脱いで素足になってから、庭石の上によじ登った。その際に 襦袢の裾が邪魔だったので腰紐に挟んだため、太股と下着が丸出しになってしまったが、どうせ誰も見ていないの だから気にするものでもない。再度両足を曲げて力を込めた伊織は、息を詰めた。そして、渾身の力を込めて庭石を 踏み切って跳躍した。その際に力を入れすぎたのか、外骨格が迫り出して襦袢を突き破ったが、無視した。

「うおっと」

 が、圧倒的に高さが足りず、伊織は塀の上に飛び乗るどころか瓦に捕まるだけで精一杯だった。しかし、掴んだ 瓦もまた滑りが良すぎるので、ずり落ちるのは時間の問題だった。こうなったら背に腹は代えられぬと両手に力を 込めて変形させ、太く曲がった爪を伸ばして瓦に引っ掛けた。それを使って懸垂し、登攀し、やっとのことで塀の上 によじ登った。たったそれだけなのに、息が上がるほどの疲労が襲い掛かってくる。
 だが、立ち止まっていては見つかって連れ戻されてしまう。伊織はぐっと疲労を堪え、塀の外に雪駄を放り投げて から飛び降りられる場所を探した。比較的柔らかそうな芝生を見咎めたので、その方向に身を躍らせる。着地した 途端に訪れた衝撃が予想以上にきつく、伊織はそれが抜けるまでは身動きが取れなかった。屈強な軍隊アリ怪人 だった時代は着地の際のダメージも自身の筋力で跳ね返せていたのだが、りんねの体はとにかく脆弱なので、それを やり過ごせるような筋力すらなかったようだ。運動して鍛えてやらなければ。
 てんでバラバラな場所に転がっていた雪駄を拾い集めてから履き、伊織は歩き出した。捲り上げたままだった裾 を下ろそうかと思ったが、着物の類は布地が長くて足捌きが悪くて歩きづらいので、そのままにしておいた。塀の外 の世界は薄い霧に包まれていて、視界が悪かった。標高が高いのだろうか、と思ったが空気は薄くもなんともなく、 夏らしく蒸し暑いので、海抜は低いのだろう。
 伊織が住んでいた部屋は離れになっているらしく、塀は伊織の部屋だけを取り囲んでいた。本堂に行くために通る 通路は渡り廊下になっていて、いくつもの渡り廊下がいくつもの建物を繋いでいた。御神体であるシュユが収まって いる本堂は坂の上にどっしりと構えていて、一際巨大な寺院だった。だが、その大きさの割に荘厳さが感じられない のは、凄みが欠けているからだろう。寺坂の蔵書を読み漁って寺院の写真も大量に見ている伊織の目には、華美 な装飾が却って安っぽくしているとしか思えなかった。瓦屋根の四方に付いた龍や鳳凰の飾りにしても、朱塗り の柱や階段にしても、いかんせん統一感がない。だから、圧倒されないのだ。
 所詮は新興宗教だよな、と諦観しつつ、伊織は足を進めていった。信者達が渡り廊下を通ってそれぞれの仕事に 向かう様を横目に、時折草木に身を隠しながら、出口を探ってみた。伊織が住んでいる離れと本堂が一番奥にある ものだと仮定して、渡り廊下を辿っていった。建物と建物を繋いでいる渡り廊下に添って歩いていったが、見覚えの ある景色の場所に戻ってきてしまった。首を傾げながら、別の渡り廊下を辿って進んでみるが、同じ結果だった。と いうことは、建物同士が円を描いて繋がっているのだろうか。それでも玄関や正門はあるだろうと期待を抱き、再度 進んでみるが、やはり同じ結果だった。さすがに疲れてきた伊織は、人気のない庭に潜り込んで一休みした。

「あぁ、どういうことだ?」

 伊織は髪を掻き乱し、考え直した。伊織の住まう離れとシュユの収まる本堂は対極に位置していて、本堂は坂の 上にあり、離れは坂の一番下にある。その両者を繋ぐのは瓦屋根の日本家屋と十数本の渡り廊下で、坂の傾斜に 添って建てられている。つまり、建物が点で渡り廊下が線なのだ。改めて視認してみると、それらは一直線になって 並んでいる。つまり、延々と昇っていけば、本堂の先にあるであろう山の斜面に辿り着くはずであって、逆に下って いけば離れの先にある麓に辿り着くはずなのだ。だが、そのどちらにも辿り着かなかった。
 一度深呼吸してから再び考え直してみるも、答えは出なかった。伊織が悶々としていると、がさりと庭木が揺れて 人影が現れた。また離れに連れ戻される、と伊織がびくついて逃げ腰になると、庭木の間から現れたのは剪定鋏を 手にした高守信和だった。別荘で暮らしていた頃のような作業着姿で、背負ったカゴには枝葉が入っていた。

「んだよ」

 反射的に伊織が凄むと、高守は作業着のポケットから携帯電話を出し、文章を打ち込んだ。

『どこに行こうとしたのさ』

「外だよ。つか、ここ、どこなんだよ」

『どこでもないよ。外には行けないよ。出られなくもないけど、シュユが許してくれなければ無理だね』

「は? 意味解んねぇんだけど」

『この空間は閉じているんだよ。コンガラによって複製された空間をシュユが維持、管理しているんだ』

「コンガラ、ってお嬢んとこのだろ。なんでそれをお前らが使えるんだ? つか、空間なんか複製出来んのかよ?」 

『まあ、使ったのは大分前の話だよ。シュユがまだ管理者権限を持っていた頃のことだから。他にも知りたいことが あるんだろう、伊織君。僕が許可するから、教えてあげようじゃないか』

「なんか上から目線だな。ウゼェ」

 とは言いつつも、伊織は好奇心を抑えられなかった。

「じゃあ聞くけどよ、なんで弐天逸流は人間を生き返らせられるんだよ? コンガラじゃ出来ねぇし、アソウギだって そこまで万能じゃねぇし。つか、肉体とかってどこから調達してんだ? 新興宗教如きが、人間を丸々クローニング 出来るような設備も材料もあるとは思えねぇしな」

『そりゃ、まあね。でも、似たようなことは出来るようになっているんだ』

「それもシュユのおかげってか?」

『その通り。付いてきて』

 高守が手招いたので、伊織は腰を上げて彼を追った。綺麗に整えられている庭木の間を擦り抜けていき、格子に 囲まれている畑に行き着いた。高く土を盛り上げた畝からは、野菜のような葉が生い茂っている。だが、その葉には 見覚えはない。伊織は野菜に関して詳しくはないのだが、畝で育てられている作物の葉は人間が食べるようなもの ではないように思えてならなかった。シダに似た葉は細く尖っていたがサボテンのように肉厚で、それでいて生臭い 芳香を放っていた。葉の根本には花が付いていて、赤い肉を丸めたような不格好な花弁だった。

「なんだよ、これ」

 伊織が訝ると、高守は無言で畝に屈み、土を掘り返した。堆肥と水の混じり合った独特の匂いが零れ出し、土の 下で育ちつつあった作物の根が露わになった。一見すると、それは芋のように見えた。白くぶよぶよとした円筒形の 根が縮まっていて、曲がりくねった茎が葉の根本に付いていた。更に高守は土を掘り、大人の腕でも一抱えはある 大きさの根を掘り出した。不格好なジャガイモに似た丸い根に付いた土が払われると、伊織は間を置いてからそれが 何の形をしているのかを理解した。人間の赤子だ。

「人間じゃねぇか、それ」

 伊織が身動ぐと、高守は赤子を再度土に埋め戻してから、文字を打ち込んだ。

『シュユはこうやって人間を生み出すんだ。といっても、生物学的には人間じゃないから、人間に酷似した植物とでも 言った方が正しいね。生まれ変わった人間達は成熟して収穫されると驚異的な速度で成長し、一週間で死んだ時と 全く同じ外見になり、シュユとゴウガシャによって生前の記憶と共に信仰心を与えられるんだ。彼らは生前の個体差 はちゃんと残っているし、個性もあるし、自分自身が何なのかも理解している。そして、従順だ。思想も統一すること が出来るから、票数を稼がなければ政党と派閥を維持出来ない政治家達には重宝されているんだ。だから、政治家 達の思考を誘導して弐天逸流にとって都合の良い条令を制定出来るし、寺坂善太郎に関する不可侵条令や、遺産 所持者と遺産関連の事象については一切の罪を問わないという条令も敷けたんだ』

「つか、そんなもん、どうやって育ててんだよ? なんで人間が植物から産まれんだよ? 訳解らねぇ」

『割と簡単だよ。シュユから切り取った肉片を水耕栽培の要領で培養して枝葉を伸ばさせ、その枝葉を株分けして 栄養を豊富に混ぜ込んだ土壌に埋めるんだ。その際に、苗の根本に死んだ人間の生体組織を一緒に埋めると、 死んだ人間と全く同じ人間が産まれてくるんだよ』

「てか、虫じゃねぇのか? 虫の方が効率良くねぇか? でけぇメスを作って卵をぼこぼこ産ませて、その中に人間 の切れ端をねじ込んで培養しちまえばいいんじゃねーの?」

 伊織が投げやりに意見を述べると、高守は更に筆談した。

『そうだね、その方法も考えた。だけど、生物学的には植物の方が遙かに古く、生態系もゲノム配列も安定している。 虫も歴史は古いけど、植物には敵わないからね。環境への適応能力も、擬態能力も、何もかもがね。だから、 シュユはこの方法を選んだんだ。君が飲んでいる薬も、この植物から作り出したものだしね』

「あー、そうかよ。だからって、俺が感謝するとでも思ったのか、クソが。気色悪いったらねーな。つか、前々から疑問 だったが、てめぇらは寺坂をどうしたいんだ。掴まえるなら掴まえる、殺すなら殺すでやっちまえばいいじゃねぇか。 野放しにしておくだけなのかよ」

『それもまた、シュユの意思だよ。僕達の理解の及ばない話だ』

「寺坂の奴は、てめぇらの本部と本尊を探し回って信者を手当たり次第に触手責めしてるじゃねぇか。それなのに、 何もしねぇのか? つか、それでいいのかよ」

『いいんだよ。シュユがそう決めたのだから』

「なんでもかんでもシュユかよ。つか、信じすぎだろ、てめぇらは」

 少々気分が悪くなった伊織が毒突くと、高守は土に汚れた手を払った。

『シュユを信じることは肉体を乗り換えることであって、厳密に言えば生と死の境界を越えるわけじゃない。だけど、 信者達は、というか、人間はそれを履き違えていてね。そのおかげで、弐天逸流はここまで大きくなったけど』

「てめぇも一度死んだのか?」

『いや、僕は違うよ。シュユに身を委ねているだけだ。支配されてもいないけど、蔑んでもいない』

「んで、俺があの電波ソングを歌えば歌うほど、人間共は馬鹿になって、てめぇらのところに来て肉体を乗り換えるっ つー寸法かよ。人間と植物を入れ替えてどうすんだよ。つか、意味あんのか、それ」

『まあ、僕もそれについては疑問だけど、シュユの言う通りにしないと』

「つか、あの触手の化け物の言う通りにしてどうなるんだよ。俺が歌わされている歌みたいに、箱船だの選ばれた民 だの運命だのユートピアだの、っつーイカレた世界に連れてってくれんのか? 馬鹿じゃね?」

『そうだよ。君の歌とダンスは終末思想を煽り、終末思想に染まった者に選民意識を与え、付け入りやすくするための 歌なんだ。そして、君はその迷える人々を導く女神なんだ』

 至って真顔で文章を見せてきた高守に、伊織は頬を引きつらせる。

「あぁ?」

『体力が尽きる前に離れに戻った方が良いよ、御鈴様』

 高守はその文面を見せた後、畑の奥へと向かっていった。人間もどきの剪定を始め、剪定鋏を使って伸びすぎた 葉を切り落としてはカゴに投げ入れていった。なんとも陳腐な終末思想だ。生きることに疲れた人間がいい加減な 宗教に浸った挙げ句に終末思想に染められ、俗世から逃れようと自殺を図るのは珍しくもなんともない。新興宗教 であれば、終末思想を利用して信者を掻き集めたはいいが引っ込みが付かなくなり、信者達を大量殺人するという 結末も珍しくない。そうでなければ、信者達を利用して無差別殺人を行い、預言を現実にしてしまうのだ。
 結局、弐天逸流もその程度か。伊織はなんだか拍子抜けしたが、そんなものだとも思った。いかなる神にせよ、 偶像にせよ、大風呂敷を広げた分だけ引っ込みが付かなくなって在り来たりな結末を迎えてしまうものだからだ。 そうと解れば、弐天逸流を裏切ったところでなんら気は咎めない。むしろ、やる気が湧いてくる。
 行く行くは、りんねのためになるのだから。




 二学期が始まったのに、こんな生活をしていていいのだろうか。
 ふと頭に過ぎった疑問を振り払いながら、美月は動画編集作業に没頭していた。トレーラーの外では、父親である 小倉貞利がレイガンドーの修理に専念している。船島集落の手前にあるドライブインと大差のない、年季の入った ドライブインの駐車場が今夜のキャンプ地だった。今ではすっかりトレーラーで生活するのにも慣れてしまったし、 機械油の匂いに包まれて部品に囲まれながら眠ることも好きになっていた。風呂はネットカフェや銭湯を見つけて 入ればいいし、洗濯もコインランドリーで済む。この半月はずっとそんな調子で、ちゃんとしたホテルで寝起きした のは数えるほどしかなかった。父親とここまで密接に生活するのは初めてだったので、最初の頃は言葉の行き違いも 多かったが、今ではどちらも距離の置き方を弁えてきたので、諍いも起きなくなっていた。
 父親が新たに興したロボットファイトの興行会社の営業を兼ねた全国ツアーは、当初の予定よりも若干の遅れは 出ていたが順調に進んでいた。地方のアンダーグラウンドで燻っていた格闘ロボットとそのオーナー達は、ロボット 賭博で最強を誇っていたレイガンドーとの対戦に狂喜し、コアなファン達も高揚した。美月はファンの期待に応える べく、父親の指導を受けながら精一杯戦い抜いた。何度か手痛い敗戦も経験したものの、勝ち星の方が圧倒的に 多く、美月とレイガンドーは確実に強くなっていた。

「ぶはー……」

 日中の試合の余韻が抜けきらない頭では、動画編集に集中出来ない。試合のダイジェスト版の動画を動画サイト にアップした後も、小倉重機のウェブサイトにリンクを貼る作業も残っている。美月は仰け反り、息を吐いた。

「お父さあーん、動画をアップするの、明日でもいいー?」

「んー、どこまで編集した?」

 レイガンドーの股関節のダンパーの具合を確かめながら、小倉が聞き返すと、美月は凝った首を回した。

「えーと、第三ラウンドでレイが3カウントを取り損ねたところまでー。てかさ、ルールがごっちゃごちゃじゃないのー。 なんでラウンド制にしちゃったのー? だったらボクシング寄りで10カウントでいいじゃなーい。なんでー?」

「その方が面白くなると思ったんだ。総合格闘技だって、色んなところからルールを引っ張ってきているじゃないか」

「会社の人とさー、もうちょっと会議してから決めた方がよくなーい? ちょっと解りづらいところもあるよ」

「だなぁ。細かいところはまだまだ煮詰めないと」

 機械油に汚れた手袋を外してから、小倉は首に掛けていたタオルで額の汗を拭い取った。美月は開け放ってある トレーラーのハッチから車がまばらな駐車場と夜空に変わりつつある空を見やったが、パソコンに目を戻した。朝から 晩まで働き詰めなのだから、少しぐらいは遊んでもいいはずだ。そう思いながら、レイガンドーの試合動画を投稿 するつもりでウィンドウに表示していた動画サイトを眺めた。次から次へと投稿される新着動画のサムネイルの中 に、ふと気になるものがあった。歌い手と呼ばれる素人歌手の動画なのだが、やたらと凝っていた。
 その名も御鈴おりん。サムネイルで笑顔を振りまいている美少女の顔立ちに見覚えがあったが、まさか、いやそんな、 との疑念が美月の脳裏を過ぎった。きっと、このアイドル紛いの少女は吉岡りんねに似ているだけだ。だって彼女は こんなに媚びた笑顔は作らないし、こんなにド派手な衣装は着ないし、退廃的な歌詞とサイケデリックなPVの電波 ソングなんて歌わない。そして、こんな動画を投稿するはずもない。だが、気になる。どうしようもなく気になる。
 見るだけなら問題はないはずだ。ただの動画なのだから。美月はなぜか鼓動を速めながらカーソルを動かして、 御鈴の動画のサムネイルをクリックした。一秒もせずにロードが完了し、シンセサイザーの効いた曲が流れた。

「うぐおっ!?」

 すると、レイガンドーが突然身悶えた。大技連発の格闘戦で破損した外装の隙間から火花が散り、甲高い警告音が 鳴り響いた。ゴーグルの光を点滅させながら崩れ落ちたレイガンドーに、美月は慌てた。

「どっ、どうしたのレイ!? そこまでダメージは大きくなかったよね、ね、お父さん!」

「内部のフレームまで損傷したのか、でなけりゃ配線が……」

 小倉はレイガンドーに詰め寄るが、レイガンドーは小倉を制し、目眩を堪えるように頭部を押さえた。

「いや、ボディの損傷は軽微です、社長。その変な音を聞いたら、急に電圧がおかしくなって、それで」

「音って、この動画?」

 美月がパソコンのモニターの中で踊る少女を指すと、レイガンドーは頷いた。

「そうだ。理由は解らんが、その音を受信した途端にエラーが発生して……」

 すぐさま美月はウィンドウを閉じて動画を消すと、レイガンドーは関節から蒸気を噴出して弛緩した。電圧の異常が 止まったのか、警告音も止まってゴーグルの光も落ち着いた。レイガンドーが突然不調に陥った原因は不明だが、 先程の動画は、インターネット上で見かけても二度と再生しない方が良いだろう。レイガンドーの不調が深刻に なれば興行も滞ってしまうし、それはイコールで会社の業績にも関わってくるからだ。吉岡りんねによく似た少女 のことは、忘れてしまおう。今、集中すべきは、滑り出したばかりのロボットファイトなのだから。
 母親や学校のことを考えたくないからでもある。





 


12 10/23