機動駐在コジロウ




老いてはコマンドに従え



 どーすんだよこれ、と、寺坂が嘆いた。
 その通りである。船島集落への入り口でもあった道路まで雪上車で移動したつばめは、すっかり地形が様変わり してしまった船島集落を一望し、渋い顔をしていた。自衛隊名義のもう一台の雪上車はすぐ後ろに駐まっていて、 その運転手である長孝も、窓から顔を出して外を窺っていたが表情の出ない顔を歪ませていた。作業着の背中が 破れていて、光輪が伸びきって真円を形作っていた。何かしらの異変が彼の身に起きたのは明らかだったが、長孝 は何があったのかは話そうとはしなかった。人型重機が爆砕した際に上着の類が一つ残らず燃えてしまったので、 武蔵野の大きすぎる迷彩柄のジャケットを借りたつばめは、引き摺りかねないほど長い裾と袖を気にしつつ、異常 繁殖した赤黒い根に支配された船島集落を見下ろした。

「クテイさんの根を片付けるのに、いくら掛かるでしょうね?」

 つばめの背後で道子が苦笑いすると、一乗寺が両手を上向ける。

「てか、運び出したとしても、どこでどう処理するの。何千トンあるの。燃やすだけでも一苦労だよ?」

「ウゼェ」

 伊織の率直な感想に、武蔵野は同意した。

「ああ、全くだ」

「とりあえず、帰ろう」

 長孝が二台目の雪上車の運転席から身を乗り出すと、その後部に座っている武公が力なく手を振る。

「なんかよく解らないけど、俺、疲れたぁー。バッテリー厳しいから、スタンバってていいー?」

「俺達の方が何十倍も疲れたよ」

 寺坂は左手で禿頭を掻き毟っていたが、長孝に振り向いた。

「で、タカさん、なんで言わないわけ。タカさんが一番苦労しただろ、もう一つの異次元を作ったのってタカさん以外 に考えられないんだけど。てか、シュユがここにいないなら、あんたにしか出来ないだろうが。なのに、なんでそれを 真っ先に娘に報告しないんだよ。わーきゃーお父さんすっごぉーい、って黄色い声で褒められるのにさぁ」

「人んちの家庭の事情に、あんまり口出さないでくれる?」

 つばめがむくれると、寺坂は言い返す。

「だってよー、焦れってぇんだよ」

「いいんだよ、それがうちのお父さんなんだから。お母さんもそう言っていたし」

 つばめが少し笑うと、運転席に座り直しかけていた長孝が、また身を乗り出した。

「ひばりに会ったのか?」

「死にかけた時に、お婆ちゃんと一緒にね。お父さんは当分こっちに来なくていい、ってさ」

「そうか」

 つばめの言葉に、長孝はハンドルに額と思しき部分を当てた。その仕草で、長孝が感嘆を堪えているのだと解る ようになった。決して無愛想ではないのだ。ただ、感情を殺しながら生きてきたせいで、肝心な時での感情表現が 不器用なだけだ。母親と触れ合う機会がなければ、それを理解するまでに長い時間を要しただろう。
 ぶかぶかのジャケットの袖口から出した指先で、コジロウと手を繋いでいた。今となっては、コジロウの方が率先 して指に力を込めるようになっていた。雪上車の中に戻り、浄法寺に帰るための道なき道を進んでいると、運転席で ハンドルを握っていた武蔵野が前触れもなくブレーキを掛けた。十数メートル後方で後続していた、長孝の雪上車も 止まった。何事かとつばめが運転席に身を乗り出すと、進行方向に雪景色から浮いた黒い影が立ち尽くしていた。 傷だらけで壊れた外骨格の中に赤黒い異物を詰め込み、繋ぎ合わせた、継ぎ接ぎの美野里だった。
 皆の表情が一変し、空気が張り詰める。運転席の窓を開けて拳銃を突き出そうとした武蔵野を制すると、つばめ はコジロウを伴って雪上車の外に出た。コジロウの手を借りて屋根に昇り、美野里だったものと向き合う。コジロウ を向かわせようか否か、つばめが僅かに迷っていると、雪が積もった針葉樹林の影から銃声がした。それも一発や 二発ではなく、複数の人間が一斉に美野里だったものを狙撃した。ぎぃ、げぇ、と掠れた悲鳴を上げながら、美野里 だったものはのたうち回っていたが、白い戦闘服を着て火炎放射器を背負った戦闘員が駆け寄り、凄まじい炎を 浴びせかけた。濛々と黒煙を上げながら痙攣した美野里だったものは、雪を黒く汚しながら倒れ込んだ。

「状況終了」

 雪原迷彩の戦闘員達に続いて現れた男が手を挙げると、戦闘員達は硝煙の昇る自動小銃を下げ、足早に後退 していった。雪上行軍用のスキーを履いている、同じく雪原迷彩に身を固めた周防国彦だった。武蔵野が運転席 から出ると、周防はノルディックスキーで滑りながら、雪上車までやってきた。

「銃は下げろ、武蔵野。俺達は、こいつをどうにかしに来ただけだ」

 そう言って、周防はストックで美野里だったものの焼死体を示してから、雪上車の上のつばめを見上げた。

「事後処理は政府に任せてくれ。佐々木長光の資産は凍結させるが、当面の生活は保障する」

「お咎めなし、ってこと?」

 てっきり、美野里と一緒に殺されるのかと思ってしまった。つばめが拍子抜けすると、周防は船島集落を指す。

「無罪放免ってわけにはいかんだろうが、佐々木つばめを暗殺しろという命令は撤回されたんだ。コジロウというか、 ムリョウの破壊力が途方もないからな。それを制御出来る唯一の人間を殺しちまったら、国が物理的に丸ごと 吹っ飛んでもおかしくない。腫れ物扱いなのは変わらんが、生き延びられただけでも良しとしておけ」

「そっかぁ……」

 一気に緊張が抜け、つばめは肩を落とした。

「でも、すーちゃん、落としどころはどうするの?」

 きゃっほー、と雪上車から顔を出した一乗寺が手を振ると、周防は手を振り返してから答えた。

「その辺はこれから摺り合わせていくさ。年内には終わらんだろうがな」

 これから大忙しだよ、とぼやきながら、周防は戦闘員達に美野里だったものの遺体を回収する準備を進めさせ、 つばめ達に先に帰るようにと促してきた。武蔵野は訝しげだったが運転席に戻ったので、つばめもコジロウの手を 借りて車内に戻り、後部座席に収まった。はいこれ、と道子が渡してきてくれたパンダのコジロウを抱き締めると、 隣に座ったコジロウに寄り掛かって目を閉じた。気が抜けたからだろう、どっと疲れが襲ってきた。
 胸の傷は痛かったが、心は痛くなかった。




 それから、一ヶ月が過ぎた。
 窓越しにまた降り始めた雪を眺めながら、つばめは胸元を押さえた。船島集落での争いの後、念のために病院 に行き、検査をした。美野里の爪で切り取られた心臓は代替品が収まっているので問題はなかったのだが、心臓を 切断された際に肋骨と肺にも傷が及んでいた。左最下の肋骨が欠けていて、破片が心臓付近に散らばっており、 肺も左側の下部が潰れていた。なので、結局手術をする羽目になり、肋骨の破片の切除と修復と肺を切除する ために長期間入院することになった。手術は都内の病院で受けたが、術後の療養のために一ヶ谷市へと移送された ので、今は一ヶ谷市立病院に入院している。今までつばめは健康体で生きてきたので、新鮮な体験だった。
 けれど、それも最初だけだ。今となっては退屈極まりない。薄いピンク色の入院着の上にカーディガンを羽織って 窓辺に頬杖を付き、ぼんやりと雪を眺めながら、見舞客が来ないかと期待を抱いていた。周防が言っていた通り、 政府がつばめや関係者達の生活を保障するように手を回してくれたらしく、医療費は一切請求されなかった。病室 もやたらとだだっ広い個室で不自由はないのだが、広すぎて落ち着かなかった。

「あー、暇だよう」

 テレビも飽きた、ゲームも飽きた、売店に置いてある漫画雑誌は一通り買って全部読み終えた。自前の携帯電話 でネットサーフィンをしようにも、政府側から使用を制限されている。政府の人間が事情聴取に来ることもあるが、 同じ話を何度も何度もしなければならないのが面倒なので、あまり好きではない。病院の中を歩き回って暇潰しを してみたこともあったが、一ヶ谷市の非常事態宣言が解除されて間もないので、閑散としていることもあって人間の 数が恐ろしく少なかった。だから、退屈さは紛れなかった。
 付けっぱなしにしているテレビからは、毎日同じニュースが流れてくる。それは、三百万人を越えるサイボーグ達 の突然死と二万人もの人間が突如として溶解した事件についてだった。彼らが死亡した原因は、サイボーグの生体 部品に使用されている医療器具に特殊なバクテリアが付着してた、とのことだった。そのバクテリアは、五十年前に 船島集落に墜落した隕石に付着していたものであり、それがサイボーグの生体部品を製造している工場の配管に 混入して繁殖した結果、生体部品の表面で繁殖した。異星のバクテリアはアルコールも塩素も紫外線も効かない ので、消毒されても生き延びてしまい、人工体液を通じてサイボーグ達に感染した。その結果、サイボーグ達は未知 の病原体によって脳が溶解し、死亡してしまった。それ以外の二万人もの人々の死因は、新興宗教団体・弐天逸流 がバクテリアを御神体の妙薬だという名目で信者達に与えたため、信者が感染症を起こした、ということになった。
 それが、政府の作り上げた落としどころなのだろう。テレビの中では、アナウンサーが政府の開示した情報だけ を並べ立てている。異星のバクテリアによる恐ろしく致死性の高い感染症、通称、N型溶解症の治療法は何一つない ため、患者や死体を見つけても接触しないこと、とにかく罹患しないようにと忠告していた。
 N型溶解症が爆発的に感染する切っ掛けを作った、ということで、遺産を巡る争いに関わった企業は全て槍玉に 上げられていた。特に大きな責任を被せられたのは吉岡グループで、重役らしき肥えた中年の男がひたすら頭を 下げていた。フジワラ製薬、ハルノネット、新免工業は遠からず倒産することになるそうだ。唯一、企業ではなかった 弐天逸流もただでは済まず、人間もどきではなかったので生き残っていた幹部達が様々な罪状で逮捕されていた。 これで全てが解決するとは思いがたいが、ひとまず遺産を巡る争いは収束するだろう。
 政府の人間の手で焼却された美野里の遺骨ならぬ遺灰は、一通り調査された後に小さな骨壺に詰められて備前 夫妻の元へと届けられたそうだ。無事に受け取ったとの報告はあったが、美野里の最後を教えてくれ、とは尋ねて は来なかった。それが備前夫妻の出した答えだと察し、今後は備前夫妻に接触するまいと誓った。双方にとって、 これが最善の結末だ。触れ合って救われることもあれば、触れ合わなければ報われることもある。
 陰気な内容なので、つばめはチャンネルを変えるべく、リモコンを取った。すると、前触れもなくスライド式のドアが ノックされたのでリモコンを取り落としかけた。慌てつつもテレビを消してから応じると、ドアが開いた。

「こんにちは!」

 明るい笑顔と共に入ってきたのは、美月だった。つばめは歓喜し、美月に駆け寄る。

「わぁミッキー、いらっしゃーい! どうしたの、来週もまた興行があるんでしょ?」

「そうなんだけど、お父さんにちょっと無理を言って移動ルートを変えてもらったの」

 余程急いできたのか、美月は軽く息を弾ませている。ダッフルコートの肩には薄く雪が積もっていて、頬は外気の 冷たさで真っ赤になっている。つばめはその頬を両手で挟み、ちょっと笑う。

「外、寒いんだねぇ。氷みたいに冷たいよ」

「うん、さむーい」

 美月はつばめの手に自分の手を重ね、笑い返した。一通り笑い合ってから、つばめは美月に椅子を勧めると、 美月はダッフルコートを脱いで椅子の背もたれに掛けた。肩に掛けていたトートバッグを探り、中身を出す。

「でね、これ、ちょっと早いけどクリスマスプレゼントにって思って」

 と、美月は可愛らしくラッピングしたものをつばめに差し出そうとしたが、躊躇った。その視線を辿ったつばめは、 ベッドサイドの棚にぎっしりと詰め込まれたパンダグッズに気付いた。そして、美月のプレゼントもまた、例によって パンダだと気付いた。半透明のフィルムの中には、丸っこいパンダの貯金箱が包まれていたからだ。

「皆、考えること、同じなんだね」

 美月が気まずげに苦笑したので、つばめは美月に笑顔を向ける。

「うん。でも、全部嬉しい。だってさ、私が確実に喜ぶだろうって考えて、持ってきてくれたんだもん。だから、ミッキー のも嬉しい。お見舞いに来てくれるってだけで嬉しいのにさ、喜ばせようって思ってくれているからもっと嬉しい」

「だったら良かった。んじゃ、改めてどうぞ」

「わーい、ありがとう!」

 つばめは美月からパンダの貯金箱を受け取り、リボンを外して包装を開け、早速棚に並べた。パンダのコジロウ だったぬいぐるみを始め、武蔵野が贈ってくれたパンダの置物、一乗寺が贈ってくれたパンダの写真立て、寺坂が 贈ってくれたパンダのポーチ、道子が贈ってくれたパンダの湯たんぽ、長孝が贈ってくれたパンダのリュックサック。 つばめは皆の思い遣りに感じ入りながら、ベッドに戻って腰掛ける。

「で、ミッキーの方はどう? レイガンドーと岩龍、元気にしている?」

「どっちも絶好調だよ。連戦連勝だし、二人とも、前となんにも変わらない。ありがとう、ムジンを渡してくれて」

「レイガンドーと岩龍の意思だからね、尊重してあげないと」

 つばめは美月の翳りのない笑顔に笑顔を返した。祖父との壮絶な戦いの後、船島集落から浄法寺に引き上げた 際に、長孝と小夜子が破損の激しいコジロウを分解しておくために一旦ムリョウとムジンを外した。その時、ムジン は再び三等分になり、コジロウ、レイガンドー、岩龍の人格も綺麗に分かれたのだ。レイガンドーと岩龍が、無事に コジロウとの戦いを乗り越えた証拠だった。その後、二人のムジンはレイガンドーと岩龍のボディに戻され、二人は RECのリングに復帰して大暴れしている。インターネットで配信されている動画も好評で、つばめも配信されてすぐ に見ている。大技連発のラフファイトだけでなく、派手な演出とストーリーが面白い。

「りんねと伊織は、こっちに転院してくる予定が延びちゃったんだってさ。この前、周防さんが教えてくれたよ」

 つばめが言うと、美月はトートバッグの中を探ってもう一つのプレゼントを取り出した。

「そっかぁ、残念。もしかしたら、つっぴーと同じ病院にいるかなって思って持ってきたんだけど……」

「そんなもん、どこで見つけてきたの」

 つばめは美月が取り出したものを見、面食らった。ちくわのぬいぐるみだったからである。

「ゲーセンのプライズだったの。うちの社員にね、クレーンゲームが得意な人がいて取ってくれたんだ」

 じゃ、また今度だね、と美月は少々残念がりながら、ちくわのぬいぐるみをトートバッグに戻した。

「りんちゃん、言葉が増えてきたんだってね」

「たまに電話するんだけどさ、その度にお喋りになっているよ。毎日毎日、色んな本を読んでは伊織と感想を言って いるからだと思うけど。あの二人、趣味が合うから気が合うんだろうね、きっと」

「だろうね。そういうのってさ、大事だよね」

 美月はちょっと羨ましげに、目を伏せた。誰のことを考えているのか、つばめは触れないことにした。

「シュユさんって、今、どうしているのかな。それ、ちょっとだけ気になっちゃった」

 美月に問われ、つばめはそれに応じた。

「シュユさんはああいう生き物だから、政府も扱いに困っているみたいで、船島集落に近い空き地に建てたプレハブ の倉庫に閉じ込められているよ。でも、本人は結構元気で、毎日毎日メール寄越すんだよ。で、今日は何を食べた のかを逐一報告してくるの。文面もふにゃっとしているせいで、なんか、若い女の人のブログみたい」

「威厳のない神様だなぁ」

「でしょー? で、一番好きなのがカレーパンと缶コーヒーだってさ。普通すぎて逆に意外性がない」

「あ、そういえば、前にもそうだって言っていたなぁ。確か、それを食べたのが切っ掛けでニルヴァーニアンが好奇心 を取り戻したとかなんとか、まあ、小難しいことを」

 一ヶ月前のシュユとのやり取りを思い出しながら美月が言うと、つばめはふと引っ掛かりを覚えた。カレーパンと 缶コーヒーといえば、忘れもしない祖父の通夜の晩に、線香番をしていたであろう伊織に差し入れとして置いてきた ものである。だが、あの時点の伊織は人間体ではあったが完全な怪人だったので、L型アミノ酸で構成されている 普通の食品は受け付けないはずだ。しかし、明け方には、どちらも空になっていた。となれば、伊織が誰かにカレー パンと缶コーヒーを渡したのだろうが、その相手がシュユだったということになる。だが、あの頃はシュユの影も形 もなかったはずでは。と、つばめは脳内で疑問を渦巻かせた。
 概念さえ改変されていなければ、伊織は様子見にやってきた高守信和にカレーパンと缶コーヒーを譲渡した事実 を思い出していたはずであり、つばめも高守信和の名が思い当たったはずではあるが、桑原れんげの全力と高守 信和の情念で概念が改変されているので、誰もその名を思い出せなかった。だから、子株に相当する高守信和の 肉体と味覚を通じて、シュユがチープな食べ物の味を感じ取ったという事実は存在してはいるのだが、誰一人として 認識することは敵わなかった。今となっては、高守信和と同化したシュユ本人も、それを思い出せない。
 なので、つばめは心の端に引っ掛かった違和感を取り払えなかったが、いつまでも些細なことで悩んでいたくない ので気持ちを切り替えた。美月も同様だった。二人が女子中学生らしい語彙で近況報告を行っていると、再びドアが ノックされた。新たな来客は、柳田小夜子と佐々木長孝だった。

「お父さん!」

 つばめは、特徴のない顔立ちの人工外皮を被っていてもそれが父親だとすぐに解った。くたびれた作業着一枚で 雪の中を歩いてきたから、というも判断基準の一つではあるが。半分ニルヴァーニアンである父親はあらゆる環境 に対して耐性が強いのか、寒さにも強いようだが、見ている方が寒々しいのでせめて上着は羽織ってもらいたい。 小夜子は直前までタバコを吸っていたのか、あの渋い匂いが鼻を突いた。つばめは歓喜し、父親に駆け寄る。

「来るなら来るって連絡してくれればいいのに!」

「邪魔をしたか?」

 長孝が美月を窺うと、美月はにっこりした。

「いいえ、全然。気にしないで下さい」

「その分だと、今日中にでも退院出来そうだけどなぁ。そうもいかねぇのが大人の事情ってやつだ」

 小夜子はファスナーを下げてダウンジャケットを脱いだが、その下の服装は相変わらず女っ気がなかった。

「タカさんの方も色々とややこしい事情があるからな。あたしも公務員でいられる間に、やることをやっておかねぇと 気が済まないし。でねぇと、いつまでも一緒に暮らせないからな。あんまり焦らすと、ひばりさんが化けて出る」

「ね、お父さん、パンダちゃんがまた増えたんだよ。これ、ミッキーが持ってきてくれたの」

 つばめがパンダグッズの詰まった棚を指すと、長孝は人工外皮の表面を少し曲げた。笑顔に近いものだった。

「ああ。随分と多いな」

「今日は何時までいられるの? すぐに帰ったりしないよね?」

 つばめが長孝の作業着の袖を掴むと、長孝は小夜子に振り向く。

「ああ。出来る限りは」

「今日は届け物をしに来ただけだからな。そんなに長居は出来ないが、その代わり、プレゼントは最高だぞ」

 そう言いつつ、小夜子はスライド式のドアを全開にした。乾いた暖房の空気に廊下の床付近に溜まっていた冷気 が混じり、ほんの少し気温が下がった。つばめ以外の入院患者がいない病棟の廊下に、聞き覚えのある駆動音が 跳ね返った。重量のある足音が近付いてくるに連れて、つばめは息を詰めた。
 足音がドアの前で止まり、赤いゴーグルがつばめを捉えた。警官ロボット、コジロウだった。あの日の戦いで著しく 破損したボディは新品に交換されているが、胸部装甲には黒い片翼のステッカーが貼り付いていた。小夜子は彼の ステッカーの部分を、拳で軽く小突いた。

「これ、苦労したんだぞ? なんせ、外装の金型からいじったんだからな。ステッカーじゃなくて、タトゥーみたいにして やったんだよ。この部分だけ凹ませて塗料を流し込んで、綺麗にコーティングしたんだよ。だから、ちょっとやそっと じゃ傷も付かない。おかげで、今の今まで時間が掛かっちまったんだよ」

 なータカさん、と小夜子に笑いかけられ、長孝はやや顔を逸らした。

「ああ。機体の組み上げと調整は半月前に終わっていたんだが、金型がなかなか上がってこなかったんだ」

「じゃ、後は若い二人でごゆっくりぃー。ふふふ」

 美月は上着と荷物を持つと、足早に病室を後にした。小夜子は長孝の腕を取り、急かす。

「ほらほら、タカさんも」

「そうだな」

 長孝は抗いもせずに、小夜子に引っ張られて病室から出ていった。ぱたん、とスライド式のドアが独りで閉じると、 コジロウとつばめだけが残された。つばめは入院着の胸元を握り締め、コジロウに近付いた。どこもかしこも真っ新 で艶々していて、戦い抜いた後の痛々しさはなくなっていた。彼はつばめの前で片膝を付き、目線を下げる。

「つばめ。術後の経過は良好か」

「大丈夫だよ。抜糸も大分前に済んだし、体力も戻ってきたし。外に出られないのが退屈だけど。コジロウは?」

「本官の動作に支障はない」

「それだけ?」

 つばめが小首を傾げると、コジロウは若干首を曲げた。長孝と全く同じ角度で、目線を逸らす。

「強いて挙げるならば、つばめが本官に命令を下せる状態ではなかったため、遂行すべき職務が滞っていた」

「そっか、寂しかったんだ」

 つばめはコジロウのマスクに手を添えて引き戻し、目を合わせると、入院着の胸元を握っていた右手を緩めた。

「コジロウ。これ、見て」

 羞恥心を堪えながら、つばめは入院着の襟元を広げて肌を曝した。コジロウは少し迷ったようだったが、つばめの 言葉に従って赤いゴーグルを下に向けた。心臓の真上に刻まれた傷跡は、傷が深すぎた影響でその部分だけ皮膚が 変色していた。美野里の爪の形に削られた皮膚は、コジロウの片翼と対になる、翼に似た形になっていた。

「お揃い」

 つばめが恥じらいつつも微笑むと、コジロウは銀色の角張った指先を伸ばしてきた。

「これは……」

「いいよ、触って。もう痛くないし、それにコジロウには触ってもらいたいから」

 つばめはコジロウの大きすぎる手を導くと、発展途上の肉の薄い乳房の間に当てた。真冬の寒さが染みている 外装が肌を僅かに粟立たせ、代替品の心臓が跳ねる。コジロウは指を曲げかけたが、力を抜いた。

「あのね」

 少し身を乗り出し、コジロウのマスクフェイスに顔を寄せながら、つばめは言葉を探った。彼と会えない間に、何度 文面を考えては訂正したことだろう。だが、回りくどいのは似合わないし、得意ではない。相手がコジロウのような 性格なら、尚更ではないか。つばめは胸の傷跡に触れているコジロウの手を、両手で握る。

「私、コジロウが好き。パンダだった頃から好きだったけど、今はもっと好き。男の人として、好きなんだ」

 この手に何度守られ、何度救われ、何度支えられただろう。つばめは、合金製の手を慈しむ。

「他の誰にも渡さない。全部が全部、私のもの」

「本官は」

 コジロウはつばめの傷跡に触れながら、もう一方の手でつばめの背中を支え、軽く引き寄せる。

「引き続き、現状の職務を続行する。それは本官の判断によるものであり、つばめの命令によるものではない」

 もうちょっと色気のある語彙はないのか、とつばめは内心で零したが、これが今のコジロウの精一杯なのだと思う と微笑ましくなった。つばめはコジロウの手を胸から外させ、彼の滑らかなマスクに頬を寄せた。

「五十年後には愛しているって言わせてあげる。私がどれだけコジロウが好きか、思い知らせてやる。コジロウが 地球に来てからは五十年経っているわけだから、もう五十年、一緒に過ごせば百年になる。そうしたら、九十九神 になれるじゃん。そうなったら、コジロウはもう道具じゃない。ただのロボットでもない。私の」

 その次の言葉は、白いマスクに塞がれた。五十年も掛からないかもね、と頭の片隅で考えながら、つばめは彼の 太い首に両腕を回した。ずっとずっと傍にいた。だから、これからもずっとずっと一緒にいよう。つばめはコジロウの 胸部装甲に刻まれた黒い片翼に触れ、そっと撫でた。冷たくも心地良い感触の奥に、確かな熱が宿っていた。
 その熱に、鼓動を重ね合わせた。





 


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