機動駐在コジロウ




敵はホームセンターにあり



 何はなくとも、ほっとする。
 そこに、姉がいるからだ。ようやく見慣れてきた板張りの天井から目を外し、つばめは隣に敷いた布団で熟睡して いる美野里を見やった。ここしばらくの疲れが溜まっていたからだろう、泥のように寝入っている。トリートメントやら 何やらで艶々に仕上げている長い髪はぐちゃぐちゃに乱れ、起きたら寝ぐせが物凄いことになっているに違いない。 美野里の髪をヘアアイロンで真っ直ぐにする手伝いをさせられるかもしれないが、その時はその時だ。つばめの方 からも髪をツインテールに結んでくれ、と美野里に頼めばいいのだから。
 掛け布団を上げてそっと自分の布団から出たつばめは、美野里を起こさないように気を付けながら、ひんやりする 畳の上を歩いていった。無駄にだだっ広い部屋なので、石油ストーブまでの距離がまず遠い。着替えの中から靴下 を引っ張り出して履くと、足の裏から染みてくる寒さがまだマシになる。厚手の綿入れ半纏も羽織って背中を丸め、 部屋の隅にある石油ストーブに火を入れると、瓶の吸い口に息を吹き込んだような音の後に赤く火が灯った。

「あー寒い寒い」

 つばめは手を擦り合わせて石油ストーブに翳し、暖める。四月を迎えたら世間には自動的に春が来る、と物心付く 前から思っていたが、そうではないらしいと気付いたのは、船島集落に来てからだった。四月に入ってからも大雪が 降ったばかりか、桜が咲く気配もなく、地面は雪の下に覆い隠されている。三月末から四月初旬に掛けての二週間 程度がが桜の季節なのは関東一帯だけで、卒業と入学シーズンが桜の最盛期なのもまた関東だけであり、その他の 地域では桜が咲く時期自体が前後する。だから、船島集落を含めた地方で桜が咲くのは四月下旬から五月上旬だ そうである。緯度と気候を踏まえて考えれば至極当然のことなのだが、ついこの前までは関東の気候が日本全土 の気候であるかのように認識していた自分がちょっと恥ずかしくなる。
 コジロウの鋭いモーター音と金属の重たい摩擦音が混じった足音の後、雨戸が開いていく。こうやって、彼は毎朝 雨戸を開け閉めしてくれている。そのおかげで、目覚めて布団から出た頃合いには障子戸から朝日が差してくる。 午前六時きっかりに雨戸を開けてくれるのだが、それが前後したことは一度もなく、いかにもロボットらしい行動だ。 つばめはそっと障子戸を開け、白い息を吐きながら、残りの雨戸を開けて回っているコジロウの背中を見つめた。 大型バイクのタンクを縦にしたような形状の胸部に朝日が及び、鮮やかな輪郭を帯びる。各種センサー類の端末が 詰まっている背面部のバックパックには、黒字に白抜きの警視庁の文字と桜の御紋が眩しく、白バイ隊員の被って いるヘルメットを原型にしたであろう頭部が雪の残る庭先に向くと、滑らかなマスクフェイスが輝いた。
 ああイケメン。と、事も無げに思った己の心につばめは軽く戦慄を覚えた。これまではそんなチャラついた形容詞は 誰に対しても使ったことがなかったし、使うような趣味もなかったのだが、コジロウは別だ。彼が何をしていようと、 無条件に心酔してしまう。たとえコジロウが、人型ロボット用のゴム手袋を填めてぬかみそを手入れしていてもだ。 それは昨夜遅くに帰宅してからの出来事なのだが、さすがにその時は自分の感性を根底から疑った。

「いや、でもなぁ……」

 障子戸を閉めてから腕を組んだつばめは、大いに悩んだ。

「ありがたい、って気持ちだけにしときゃいいのになぁ」

 都心部と船島集落の往復で疲れ切っていたつばめは夕食を作る気力なんて欠片も残っていなかったので、朝の 残りである白飯と冷蔵庫に適当に入れておいた漬物で空腹を紛らわし、美野里も無言でそれを食べていた。だが、 食べ終えたら気が抜けてしまって片付ける気力もなくなったので、ダメ元でコジロウに命じてみたところ、コジロウは いつものように了解したと言って台所に立ち、二人の食器を片付けてくれたばかりか翌朝分の米も研いで炊飯器に 入れてタイマーをセットしてくれ、更には年代物であろうぬかみそを手入れしてくれた。家事の面でも万能である。
 そんな彼を横目に見ながら、つばめは息苦しくなるほどときめいた。疲れ切っていていつも以上に頭がどうかして いたからに違いないのだが、我ながら自分の恋心のツボが解らない。所帯染みた男が好きなのか。

「そんなことない、とは言い切れないのが悔しい……」

 つばめは独り言を漏らしつつ、自分の布団を畳んで押し入れに上げると、寝間着代わりのジャージを脱いで制服 に着替えた。素足だと寒いのでタイツの一枚でも履いておきたいのだが、生憎、祖父もそこまでは手が回らなかった ようでタイツもストッキングも見当たらなかった。祖父は年頃の女性ではないので、当たり前ではあるのだが。
 物心付いた頃から、つばめは備前家での立ち位置を理解していた。だから、率先して母親の景子の手伝いをして は家事を覚えていった。子供の手には重たい鍋やフライパンを揺すり、踏み台に乗って背伸びをしてやっと手が届く 物干し竿にシーツやバスタオルを掛け、慣れるまではその熱さが怖かったアイロンを使い、スーパーのだだっ広い 売り場を彷徨い歩いて買い出しする品物を見つけたと思ったら棚の高い場所に陳列されていたり、と、そんなことを 何度も経験していた。背も伸びて体格もそれなりになった今であればそう難しいことではないが、小学生の頃は苦労 したものである。自分のためになることだと思っていたから出来たのだが、正直言って、子供らしく毎日遊び呆けて いるクラスメイト達が恨めしかった。母親連れで買い物に来ているクラスメイトと鉢合わせそうになったら逃げ出して 隠れたこともある。自分が惨めに思えたからだ。そうすることを選んだのは、他ならぬ自分なのに。
 だから、コジロウに惹かれるのかもしれない。あの鋼鉄の背中に身を委ねてしまえば気を抜いてもいいと、生きる ために必死にならなくてもいいと、絶対服従しているのだから嫌われないようにしていなくてもいいと、つばめの主観 が判断してしまう。ずっと、心のどこかで誰かに守ってほしいと願っていたからだ。

「ええい、止めだ止め」

 こんなことをいつまでも考え込んでいては、日常が前進しない。つばめは朝に似合わぬ淀んだ思考を振り払う ために首を振ってから、丸襟ブラウスの襟にボウタイを通して結び、四つボタンのブレザーを羽織った。

「お姉ちゃーん、朝だよ」

 期待を込めずにつばめが美野里を揺さぶってみるが、美野里は案の定起きなかった。ならば仕方ないと、つばめは 石油ストーブの火を落としてから、朝食の支度をするために台所に向かった。もしかすると、今朝はコジロウより 先回り出来るかもしれない。この家の雨戸の数は広さに比例した多さなので、一巡りしなければ戻ってこられない。 悪戯心のような期待で足取りを速めたつばめは、近道をするために部屋を通り抜け、居間のふすまを開いた。
 が、そこには早々にコジロウが戻ってきていた。囲炉裏の傍に片膝を付き、火箸を使って炭壷から取り出した炭を 並べている。彼はつばめに気付き、首と上半身を動かして向き直った。

「つばめの起床を確認」

「おはよう、コジロウ」

 ちょっと落胆しながら、つばめは後ろ手にふすまを閉めた。囲炉裏の炭の上に焚き付けとなる小枝を載せてから、 コジロウはマッチを一本擦って火を起こし、小枝の間に差し込んだ。程なくして火が燃え移り、広がっていく。その様を 眺めていたが、つばめはコジロウを窺った。赤々とした火に照らされたマスクフェイスも、やはり素敵だ。

「所用か、つばめ」

「なあっ、なんでもない」

 コジロウが振り向いて目が合いそうになったので、つばめは慌てて目を逸らした。何がそんなに恥ずかしいのかが 解らないほど、目を合わせるのが恥ずかしい。彼の目は人間の目とは構造自体が違っているのに、赤く光を帯びる アイセンサーカバーの奥に広角レンズが填っているだけなのに、無性に照れ臭くなる。目が合ったところで何がどう なるというものでもないのに、意識してしまう。囲炉裏で枯れた小枝がぱちりと弾け、火の粉が散る。

「俺の車返せよ」

 前触れもなく奥の間のふすまが開き、不機嫌極まりない言葉が投げ掛けられた。つばめが我に返ると、ふすまを 開け放った男が気怠げに突っ立っていた。着崩れた法衣と緩んだ包帯から漏れている触手は早朝に似付かわしく ないふしだらさで、生身の左手で禿頭を掻き毟っていた。

「まだいたの?」

 つばめが臆しもせずに寺坂善太郎を見上げると、寺坂は触手の中から出したサングラスを掛けて目を隠した。

「いちゃ悪いかよ。檀家の坊主だぞ、ちったぁ敬意を払いやがれ。なんでナチュラルにタメ口なんだよ」

「寺坂さんに敬意を抱けるとは到底思えないんだもん」

「みのりんを助けてやったじゃねぇか。一晩ぐらい泊めるのが筋ってもんだろ?」

 寺坂はつばめに詰め寄ってきたので、つばめは言い返した。

「お姉ちゃんに言い寄るような生臭坊主に払う敬意なんて持ち合わせてないもん。で、なんでまだうちにいるの?」

「ああそうかい。まあ、リアルな理由としちゃ、夜中の二時過ぎに帰ってきた後に俺の車を運転して寺まで帰るのが 普通にヤバかっただけなんだけどな。街灯もねぇし、俺もグデグデだったし」

 寺坂は法衣の襟を直して解けかけていた袴の帯を結んでから、囲炉裏の傍に胡座を掻いた。

「で?」

「で、って?」

「寄越せよ、白飯と水と酒」

「朝御飯はまだ作ってないよ。ていうか、寝起きからお酒なんて飲むの?」

「違ぇーよ、爺さんに供えてやんだよ。で、経の一つでも上げてやらぁ。んでメシも喰わせろ、そして車を返せ」

「あの車のキーはお姉ちゃんが持ったままだから、私はどこにあるか知らない。だから、最後のは無理」

「みのりんが起きてくるまで待てるかよ。一応、朝の七時に鐘は突かなきゃならねぇ決まりなんだし」

「あれ、結構真面目なんだ」

「それしか仕事がねぇんだよ。後、やることっつったら、檀家巡りと朝晩の読経しかねぇんだよ。暇なんだよ」

「それなのに、あんなでっかいアメ車が買えるぐらいのお金が入ってくるわけ? うーわー……」

 そりゃボロい、とつばめが思わず零すと、寺坂は右手で頬杖を付き、骨張った頬を触手に埋めた。

「だぁーから、適当な趣味でも作ってねぇとやってらんねぇーんだよ」

「お爺ちゃんにお経を上げてくれるっていうんなら準備する。お姉ちゃんからも、車のキーも返してもらってくるね」

 つばめが立ち上がると、寺坂は生身の左手を挙げて軽く振った。

「おう、しっかりやりやがれ」

「でも、ここでタバコは吸わないでね」

 台所の土間に降りかけたつばめが注意すると、寺坂は懐からタバコの潰れた箱を出しかけていた。

「んだよ! どうせ煙いんだから、ヤニでも同じじゃねぇかよ!」

「御飯がヤニ臭いのは嫌なんだもん。それに、ここんちは今は私んちなんだからさぁ」

「あーもう、面倒臭ぇ……」

 寺坂は文句を零しながらも、居間の隅にある茶箪笥から灰皿を取り、背中を丸めて縁側に出ていった。つばめは 台所の食器棚を開け、仏壇に供えるのに丁度良さそうな大きさの器とコップと盃を取り出し、寺坂が指定したものを 入れてから再び自室に戻った。半分は起きていた美野里を目覚めさせ、ピックアップトラックのイグニッションキーを ハンドバッグの中から見つけ出してもらってからまた居間に戻った。縁側でタバコを蒸かしていた寺坂に、供え物を 載せた盆を渡してやると、寺坂は言い出しっぺのくせにやる気のない足取りで仏間に向かった。
 酒とタバコで掠れ気味ではあったが、張りと渋みのある声で紡がれる読経は様になっていた。つばめはコジロウを 手招いて自分の隣に座らせ、並んで寺坂の読経を見守った。仏壇の中央に据えられている祖父の骨箱は、線香に 取り巻かれながら鎮座していた。仏間に面した庭木の枝がたわみ、朝日で緩んだ雪が崩れ落ちた。
 今日こそは、まともな日常を送れそうな気がしてきた。




 朝食の味が、まだ舌にこびり付いている。
 水を飲み、コーヒーを飲み、歯と共に舌も洗ったのだが、脳があの味のインパクトを忘れられずにいるようだった。 吐き気を覚えるほどでもないが、風邪が治りきらない頃合いのように気分が今一つ優れない。なんであんなものを 出せるのだ、そんなセンスがどこから湧いてくるのだ、もしかするとあのサイボーグ女の中身は人間以外の異次元 の生命体ではないのか、などと考え込んでしまうほど、設楽道子の料理は不味かった。
 武蔵野巌雄はリクライニングさせた運転席に横たわると、額を押さえて呻いた。フロントガラスから差し込んでくる 日光は熱く、軽く汗を浮かせるほどだ。外気は相変わらず真冬並みの冷たさだが、太陽の高さだけは一足先に春を 迎えているようだった。今日の朝食のメニューは、思い出すだけで気分が悪くなる。
 洋食続きだったからだろう、今日の朝食は和食一辺倒だった。豚汁に鶏とゴボウの炊き込み御飯、ホウレン草を 巻いた卵焼きにひじきの煮物、と見た目だけはやはり完璧だった。だったらいっそ眺めるだけにして食べなければ いいのだが、食べなければ佐々木つばめ襲撃のローテーションが組めず、襲撃のローテーションに入れなければ 業績が上げられず、武蔵野のバックボーンである新免工業に対する申し訳が立たなくなり、引いては目的を遂げる ことが出来なくなってしまう。だから、覚悟を決めて食べた。すると、予想を上回る味の暴力を受けた。

「うげぇ……」

 武蔵野は声を潰し、腹を押さえた。思い出したくもないし一刻も早く忘れたいのだが、コーヒーとショウガの効いた 豚汁の味は忘れられない。炊き込み御飯にはカモミールのハーブティーを使ってあり、鶏肉とゴボウの味が全力で 反発し合っていた。ホウレン草の卵焼きの照りが妙にいいと思ったら、垂れ落ちるほどのハチミツが混ざっていた。 最後の砦であったひじきの煮物は水煮の大豆が甘納豆だったが、他のものに比べればまだ食べられた。そして、 武蔵野の茶碗の底には、ちくわが一本丸ごとねじ込まれていたのである。意地と根性でそれらを全て食べ切った はいいが、そのせいで肝心要の戦意を使い果たしてしまったらしく、なかなか行動に移れなかった。

「畜生……」

 武蔵野は車の天井目掛けて毒突き、ハンドルの両脇に投げ出していたジャングルブーツを履いた両足を下げた。 餞別代わりに新免工業から支給されたジープは、車高もシートの長さも武蔵野の体格に合っていてハンドルの動き も良く、足回りも丈夫で、いかにも実戦向きで使い心地は抜群だが、それを味わっている余裕はどこにもなかった。 それもこれも、設楽道子のせいだ。組んで戦う時があったならば、背中から狙撃してやる。脳天に対戦車砲の一発 でもぶち込んでやらなければ気が済まない。
 いい加減に移動しなければ、やる気がないと評価されてしまう。武蔵野はリクライニングと同時に上体を起こすと、 イグニッションキーを回して冷え切ったエンジンに火を入れた。充分に暖機させてからハンドルを握り締め、ジープを 発進させようとすると、そのタイミングを見計らったように外部からの遠隔操作で無線機の電源が入った。

「お嬢か?」

 武蔵野は暗号回線であることを確かめてから無線を受信すると、あの声が響いた。

『はいはぁーいんっ、私でぇーすぅん! 道子ちゃんでぇーすん!』

「一体何の用だ」

『私は別に武蔵野さんを有利にする情報なんて与えたくなんてなかったんですけど御嬢様がどうしてもってぇーん』

「御託はいい、情報ってのは何なんだ」

『つばめちゃん側に動きがありましたぁーん。吉岡グループが所有している監視衛星に寄ればぁーん、武蔵野さんが うだうだしていた道路とは別ルートで市街地に出ていきましたぁーん。目的地は買い出しだと思われますぅーん』

「了解。追尾して行動に出る」

『んでぇーん、こっちも買い出しの頼みがあるんですけどぉーん、よろしいですかぁーん?』

「だったら簡潔に言え」

『御嬢様がぁーん、とっても大事なアレを御所望なんですけどぉーん』

「悪いが後にしてもらおうか!」

 道子を相手にしているだけで、あの凄絶な朝食の味が喉の奥から迫り上がる。即座に無線を切断した武蔵野は、 道子に対する愚痴を無尽蔵に連ねながらアクセルを踏み込んだ。間もなくジープは黒い排気ガスを吹き出し、獣の 如く唸るエンジンの律動を感じながら、無意識に頬を緩めていた。やはり車はこうでなければ。
 近頃の車はどうにもダメだ。電気自動車や水素エンジンが主流になり、昔ながらの害悪まみれの排気ガスを出す 車は、ほとんどが駆逐されてしまった。敢えてガソリンエンジンの車を買い集めている輩もいないわけではないが、 世間一般からは疎まれている。懐古趣味、ロートル、時代遅れ、などといくら言われようが構わない。それが武蔵野 に合うのだ。だから、流行りの光学兵器もレーザーカッターも使いはしない。鉛玉と火薬の固まりとナイフがあれば 充分だ。相手がどれほどオーバースペックのロボットだろうと、それを操る者が幼ければかかしにすら劣る。佐々木 つばめが己の分を弁える前に、再起動したコジロウが経験を積む前に、追い詰めてやる。
 市街戦に持ち込めば、勝機はある。





 


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