機動駐在コジロウ




三人寄ればネゴシエーション



 怪物が咆える。
 人間の体など容易に貫ける太さの棘がずらりと連なったあぎとを開き、二本の触角を震わせ、自重と爪で床板に ひび割れを作りながら頭部を逸らす。背面には小山のような棘があり、分厚い外骨格が日差しを鈍く撥ねている。 艶やかな複眼に映るのは、無表情を保つりんねと、顔を引きつらせているつばめと美野里だった。伊織が変化した 軍隊アリの怪物は吹き抜けに収まりきらないほどの巨躯を持て余し、ぎちぎちぎちと顎を軋ませた。
 常識では到底考えられないことだった。そもそも、人間が姿を変えることからして信じがたいことであり、有り得ない ことだった。その上、体格が数十倍、いや、数百倍に膨張している。伊織の身長と体格からして、体重はせいぜい 七十キロ後半だろうが、この軍隊アリの怪物は床板をぶち抜きかねないほどに重量を増している。つばめは混乱に 支配されそうな頭を懸命に働かせるが、余計に訳が解らなくなりそうだった。
 モノを膨張させたところで、実際の重量に変化はないはずだ。ベーキングパウダーを混ぜた焼き菓子は膨張して 量が増えたように見えるが、どれほど膨らませようとも含まれるのは空気だけなので、材料の総重量と出来上がり の総重量は変わらない。風船にしても、薄いゴムの内側に空気を吹き込んでいるだけなのだから、空気そのものの 質量とゴムの重みだけしかない。だが、伊織はそうではないらしい。見かけと同じ、膨大な質量を得ている。それが どういう理屈なのか、さっぱり解らない。しかし、伊織の変化が見せかけだけではないということは身を持って知って いる。幻覚ではない証拠に、床が大きくひび割れた際に細かな木片が跳ね、つばめの足を掠めた。

「お教えいたしましょう」

 伊織のあぎとに軽く手を添え、りんねは滑らかに語る。

「伊織さんは、その体液の七割を遺産に置き換えております。フジワラ製薬による度重なる臨床実験の結果、遺産の 適合者となったのです。ですが、伊織さん御自身は遺産の管理者権限を有しておりません。御自身の意志である 程度の肉体強化と変身が可能ではありますが、能力の全てを引き出すことは出来ないのです。そこで、管理者権限 と同等の遺伝子情報を有している私が、伊織さんにお力添えして差し上げたのですよ。もっとも、管理者権限に酷似 しているというだけであって管理者権限そのものではありませんので、フルパワーとはまいりませんが」

「遺産が……体液?」

 まるで意味が解らない。つばめはコジロウの陰に隠れ、訝った。

「フジワラ製薬が有している遺産が液体であり、人間の身体機能に多大な変化を与える物質であるということです。 吉岡グループが有している遺産はまた異なりますが、遺産であることに変わりはありません」

「コジロウみたいなもの、ってこと?」

「大雑把な説明をいたしますと、そうなりますでしょうか。特定の遺伝子情報を保有する人間が接触することによって 起動し、機能を発揮する、人智を越えた物体の総称が、佐々木長光さんの遺産なのです」

 りんねがしなやかに手を挙げると、巨体の伊織は胸郭を震わせて笑いながら這い進んできた。

「っひゃひゃひゃひゃ……」

「お話しさせて頂いて、よく解りました。つばめさんは、その遺産を手にするに値する人物ではありません。あなたは 無知であると同時に無益です。あなたの使い方では、コジロウさんも、他の遺産も、手にした傍からゴミ以下の物体 に成り下がってしまいますでしょう。そもそも、私達に何度命を狙われても反撃に転じないどころか、こうして私達の 懐に飛び込んでくることからして、あなたの愚かさが痛感出来ます。素人、いえ、幼児未満の危機感です」

 巨体の伊織によって日が陰り、薄い逆光を帯びたりんねは敵意を込めた言葉を叩き付けた。

「あなたは私達を侮っています。屈辱を覚えるほどに」

「……かもね」

 つばめはりんねの穏やかな口調に込められた苛立ちを感じ、背筋が逆立った。

「能書きはここまでにしましょう、時間の無駄です」

 伊織さん、とりんねが促すと、巨体の伊織はぐっと床板に踏み込んで前進した。途端に、壊れかけていた床に大穴 が空き、身を乗り出した拍子に頭部が太い梁をへし折った。装甲車を思わせる怪物が突進してくる中、コジロウは 早々に回避行動を取った。つばめを脇に抱えて床を蹴り、跳躍する。空中で折れかけた梁を蹴って方向転換し、 二階の窓縁に着地する。が、すぐさま巨体の伊織は前足を伸ばし、壁ごと窓を破壊しに掛かってきた。

「緊急退避!」

 そう叫ぶや否やコジロウはつばめを抱えて窓に背を向け、膝下の前後を逆にしてスラスターを噴射した。つばめ の足の真下で高熱の暴風が吹き荒れた直後、コジロウは窓を突き破った。鋭利なガラスと窓枠の破片が飛び散る が、コジロウはつばめの頭部をしっかりと抱えてくれていたおかげで、掠り傷一つ負わなかった。膝下を回転させて スラスターを元の位置に戻したコジロウは、逆噴射を行いながら庭に着地した。
 スリッパを履いた足を地面に付けると、頭上に木片の雨が降ってきた。つばめが振り返ると、巨体の伊織の猛攻 は続いていた。洒落た別荘の壁を難なく破壊しながら外界に現れた怪物は一声咆え、コンクリート製の地下階の壁 を力強く殴り付け、その勢いで下半身を引っこ抜いた。束の間、日が陰る。緩やかな弧を描きながらつばめの頭上を 通り過ぎた怪物が着地すると、ロータリーの車が一台残らず飛び跳ね、地面すらも波打った。

「だぁらあああああああっ!」」

 伊織は薄氷を割るようにアスファルトを踏み砕きながら、一直線に突っ込んでくる。コジロウは脚部のタイヤを出して 地面に噛ませ、急発進するが、雪解け水で土がぬかるんでいるせいで初速が遅れた。その隙を見逃さずに伊織は コジロウの足を掴み、薙ぎ払うようにアスファルトに擦り付ける。

「ぎゃっ!?」

 コジロウに抱かれたままだったつばめもまた、同じ目に遭った。だが、コジロウが必死に体を丸めてつばめの体を 守ってくれているので、コジロウの白と黒の装甲がアスファルトと鬩ぎ合って火花が飛び散ろうとも、つばめの肌には 擦り傷すらも出来なかった。アスファルトが途切れると摩擦も途切れ、コジロウを押さえ付けていた伊織の前右足が 外れて宙に放り出された。一秒にも満たない時間で態勢を戻したコジロウは、杉の幹が抉れるほど強く蹴り付けて 己の体を発射させた。まだ伊織が及んでいない専用道路に退避しようとするも、軌道を読んでいたのだろう、伊織は コジロウに勝るとも劣らぬ反応速度で専用道路に立ちはだかってきた。

「行かせるわけねぇだろ、クソが!」

「緊急回避!」

 行く手を塞がれ、コジロウはスラスターを噴射してスピードを殺そうとするも手遅れだった。伊織の振るった漆黒の 爪が白い塗装を盛大に刮げ落とし、アイセンサーカバーが砕け、右のアンテナが根本から外れる。咄嗟にコジロウ がつばめを突き飛ばしていなければ、つばめの体ごと真っ二つにされていただろう。整ったマスクフェイスは無惨に 割られ、バイクのタンクに似た形状の胸部が裂けて内部構造が露出し、オイルが血飛沫のように舞う。
 手を伸ばすが、届かなかった。コジロウの腕力で突き飛ばされたつばめは、破損したコジロウが転げ落ちる様を 凝視しながら、巨体の伊織の頭上を過ぎっていった。見開いた目に涙が滲んだのか、衝撃に次ぐ衝撃で脳がきちん と働いていないからか、視界がぼやけていた。別荘が、伊織が、空が遠のいていくと、背中から柔らかくも冷たい ものに突っ込んだ。泥水を跳ね上げながら滑ったつばめは、背中を堪えながら上体を起こし、コジロウが残雪の中に 着地出来る角度に突き飛ばしてくれたのだ、と察した。おかげで手も足も折れていないが、心は折れかけていた。

「……コジロウ!」

「俺達は道具なんだよ、なあ?」

 伊織は無造作に前右足を上げ、その爪の間に挟んだコジロウを掲げてみせた。白バイ警官のヘルメットに似た 頭部は割れ、粉々に割れたアイセンサーカバーの下から漏れたオイルが一筋流れていた。

「部下は道具、遺産も道具、こいつも道具」

 伊織はつばめの目の前に顔を突き出すと、身動きしないコジロウをがちゃがちゃと揺さぶった。

「俺達が生きるも死ぬも上司次第、ってぇことだよ。いい加減解れよ、あぁ?」

「だからって……こんなの……」

 つばめは懸命に手を伸ばすが、伊織は前右足を挙げてコジロウを遠ざける。

「てめぇ自身には一円の価値もねぇよ、クソガキ。このガラクタロボットを動かせるから、てめぇに十円ぐらいの価値が 生まれるってぇだけだ。だが、てめぇがお嬢に這い蹲って許しを請えば、その十円を何千億倍にも出来る。道具を 使うことすらろくに出来ねぇクソガキのくせに、お嬢をどうにか出来ると思ったか? 俺達に勝てると思ったのか?」

 ぎぢぢぢぢぢっ、と伊織の爪が狭まり、コジロウの首の根本が歪んでいく。シャフトが、ケーブルが、露わになる。

「バアッカじゃねーの?」

 表情こそ見えないが、伊織の口調は弾んでいた。笑ってすらいた。つばめが意地で涙と嗚咽を堪えながら別荘を 窺うと、大穴が開いた壁の奥からりんねが戦況を窺っていて、武蔵野が美野里の後頭部にアサルトライフルの銃口 を据えていた。今度こそ終わりだ。勝ち目なんてない。コジロウは動けないし、助けようがない。目の前にはコジロウを 一撃で叩き落とした伊織がいて、美野里は今にも殺されそうだ。目眩がするほどの動揺と心臓が張り裂けそうなほどの 苦痛を怒濤のように味わっていたが、不意につばめの頭の中で何かが切れた。そして、冷静になった。

「待てよ……?」

 佐々木長光の孫であるりんねにも遺産は操れる、伊織はその遺産で体液を賄っている、ということは。つばめは 唐突に勝利を確信すると、込み上がる笑いを全力で押さえ込みながら立ち上がった。背中からは雪混じりの緩い泥 がぼたぼたと垂れ落ち、髪もべたべたで、スカートから出ている両足も冷たさが肌に突き刺さってくるが、そんなことは 最早気にならなかった。つばめは大股に歩いて伊織に向かっていくと、伊織は触角を片方曲げた。

「んだよ」

「えい」

 つばめが伊織のあぎとを掴むと、伊織は脱力し、その場にへたり込んだ。

「う、へぁっ!?」

「どうやれば何がどうなるか、までは解らないけど」

 つばめは全身全霊を込め、願った。伊織が動かなくなるように、コジロウが解放されるように。

「んだよ、なんだよ、どうしてこうなるぅっ!?」

 伊織は必死に抵抗しているのか、首や足を奇妙な方向に捻りながら力を込めようとするも、立ち上がれなかった。 前右足の爪が何者かの手によって引き剥がされるように開いていき、コジロウが転げ落ちた。

「コジロウ、大丈夫ーっ!?」

 つばめがコジロウに駆け寄ると、コジロウは外れそうな頭部を押さえながら、ぎこちなく立ち上がった。

「センサーの六割を損傷。稼働率、四割低下。だが、護衛行動に支障は来さない」

「よかったぁ」

 つばめは安堵すると、少し照れ臭かったがコジロウに触った。破損部分までは修復されなかったが、無意味では なかったらしく、白い塗装が削り取られた胸部装甲の内側で動力機関が唸りを上げた。

「じゃ、早速で悪いんだけどさ、あいつをどうにかしてくれる?」

 つばめが腹這いになっている伊織を指し示すと、コジロウは両手の動作を確かめてから歩み出した。

「了解した」

「どぅわぁっ!?」

 コジロウは無造作に伊織を持ち上げると、ひっくり返した。上下逆さになった伊織は六本足を荒々しく蠢かせるも、 昆虫そのものの体と化した弊害で地面を掴むことすらも出来なかった。泥を帯びた爪は空を切るばかりで、伊織の 罵声も情けなさを強調するだけだった。つばめは顔に付いた泥を拭ってから、にんまりしながら別荘を仰ぎ見ると、 美野里の背後で武蔵野が肩を竦めてりんねに一言言った。こりゃダメだな、と。

「いいことを教えてくれて、どうもありがとう」

 つばめは伊織の胸部の上によじ登ると、意味もなく仁王立ちして胸を張った。

「コジロウも遺産、伊織って人の体液も遺産。それがあなたに操れるってことは、私に操れないわけがないもんね。 おかげで助かっちゃった。意外と親切なんだねぇ、りんねちゃん?」

「不覚でしたね」

 りんねは眉根をかすかに曲げ、不快感を示したが、つばめに背を向けた。

「巌雄さん、備前さんを解放して差し上げて下さい。道子さん、伊織さんの鎮静剤を御用意して下さい」

「あのさあ、交渉はまだ終わっていないんじゃない? コジロウが勝って、私を守り切ったんだから、約束はきっちり 守ってくれなきゃ困っちゃう。社会人なんでしょ?」

 つばめがにやりとすると、りんねは横顔だけ向けてきた。

「承知いたしました。違約するわけには参りませんので」

「最初からそう言ってくれれば、こんなことにはならなかったのにねぇ」

 つばめはしたり顔になり、スニーカーのつま先で伊織の胸郭を小突いた。相手の正体さえ解ってしまえば、どうと いうことはなかったのだ。りんねは足早に別荘の中に戻ると、それと入れ替わる形で美野里が玄関から出てきた。 美野里はもどかしげに駆け下りてきてくると、つばめに抱き付こうとしたので制した。美野里の仕事着であるスーツ に泥汚れが付いてしまったら、クリーニングするのが大変だからだ。

「じゃ、また遊びに来るからねー!」 

 専用道路を出てからつばめが手を振ると、ひっくり返ったままの伊織が叫び返してきた。

「二度と来るんじゃねぇええええええっ!」

 悔しさと腹立たしさがはち切れんばかりに詰まった怒鳴り声を背に受けると、この上なく清々しかった。これまでは やり込められてばかりだったが、今後はやられた分だけやり返してやる。つばめは軽トラックの車内を汚さないため に荷台に載ると、コジロウも荷台に載ってきた。程なくして美野里が発進させたので、まだ冷え込みの厳しい春風が 吹き付けてきた。泥水のせいで一気に体温が奪われたつばめは身を縮めると、隣で座っているコジロウの様子を 窺った。アイセンサーカバーは縁だけを残して全て砕けていたが、赤い瞳の輝きは健在だった。全身の傷と汚れが 痛々しく、今更ながら胸が締め付けられた。その傷が少しでも早く治れば、とつばめが触れようとすると、コジロウは つばめの手を掴んできた。硬く厳つい金属の指が少女の手を握り、制してくる。

「現状の本官に接触しては、負傷してしまう」

 コジロウはつばめの手を下ろさせてから、その手を離した。機械熱が籠もった金属の指が外れ、遠のいていった。 つばめはその手を引き留めたかったが、結局出来なかった。所在のなくなった手を組んで膝を抱え、美野里による 落ち着いた運転に身を任せた。高揚感が収まってくると、なぜか伊織とりんねのキスシーンが思い出されてしまい、 つばめは無性に恥ずかしくなって頭を抱えた。他人事なのに、やけに意識してしまう。テレビドラマや少女漫画では お馴染みではあるが、現実に目の当たりにするとドキドキする。火照った頬を両手で押さえ、唇を噛んだ。
 つばめは、コジロウとキスをする日は来るのだろうか。
 



 大方の予想通り、ではある。
 吉岡りんねが同じ血統であり立場である佐々木つばめに執着する理由としては、一乗寺や政府側の人間が捻り 出したものと相違はなかった。遺産の正体についても探りを入れていたが、それがどんな形状の物体で、いかなる 作用を持っているのかまでは判明してはいなかった。大きく前進したというわけではなかったが、これである程度は 手掛かりを掴めそうだ。残念なのは、戦闘中にコジロウの聴覚センサーが破損したことだ。
 イヤホンを外した一乗寺は一息吐くと、PDAに保存した音声データを分校のノートパソコンに転送させた。帰って から文書に起こして報告書にまとめるのは面倒だが、それが本来の仕事なのだ。億劫でたまらないが、そういった 細々とした仕事を積み重ねていかなければ、実戦配備されなくなってしまう。そうなれば、合法的に拳銃を発砲して 派手な戦闘を行えなくなってしまう。あの快楽を味わえなければ、諜報員をしている意味がない。

「で?」

 暇を持て余した寺坂がPDAを覗き込んできたので、一乗寺はPDAの電源を切り、ポケットにねじ込んだ。

「こればっかりは、よっちゃんに喋っちゃダメなんだってば。ゲームしよ、さっきの続き」

「てめぇにとっちゃ、世の中全部がゲームだろ」

 寺坂の軽口に、一乗寺は思い切り笑い出したくなった。その通りだからだ。命を削り合うスリルの中に身を投じ、 硝煙と銃声にまみれて生きていなければ、生きているという実感すら湧かない。何もかもが薄っぺらく中途半端で、 退屈極まりない。だから、危険の方から目の前に転がり込んでくるような仕事を選んだのではないか。
 快楽は危険の中にしかない。





 


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