機動駐在コジロウ




この親にしてこのコールあり



 手に触れた毛布を引き寄せ、抱き締めた。
 その柔らかな繊維に顔を埋めながら、つばめは乾いた涙が付着した睫毛を引き剥がしながら瞼を上げた。濁った 視界を拭い去るために何度か瞬きしてから、ゆっくりと思い出した。あれから、泣き疲れて寝入ってしまったようだ。 体の下には座布団が並べて敷かれていて、毛布が掛けてある。居間の石油ストーブは止められていて、つばめの 周囲以外はまた冷え込んでいた。暖かな毛布に再度くるまり、背中を丸める。
 不意に、聞き慣れない音を聞いた。包丁がまな板を叩く音、油を引いたフライパンの上で食材の水分が弾ける 音、卵を割る音、箸が器に擦れる音。誰だろう、コジロウじゃないよな、と寝起きの動きの鈍い頭でぼんやりと考え ながら、つばめは涙の筋が付いてしまった頬を拭った。寝返りを打つと、背後で正座していた警官ロボットがつばめの 肩からずり落ちた毛布を掛け直してくれた。

「なんか、ごめん」

「本官の職務に支障はない。つばめが休眠中に玄関先とガレージ前の雪掻きを行ったことを報告しておく」

「雪、止まない?」

「依然として低気圧は停滞している」

「だと思った」

 座布団と毛布の隙間から染み込んでくる冷気の重たさは、相変わらずだからだ。つばめは毛布にくるまったまま、 コジロウの前まで這い進み、彼の膝を借りて起き上がった。変な姿勢で眠っていたからだろう、背伸びをした拍子に 背骨が盛大に鳴った。ただでさえクセの強い髪は、ヘアゴムが外れかけているせいでひどいことになっていた。顔も 汚れてしまったので、洗ってきた方がいい。それから、夕食をどうするかを考えなければ。
 それを考えただけで、一眠りしたおかげで落ち着いた心中が波立った。また、一人で食べなければならないのか。 つばめが唇を噛んでいると、唐突に居間のふすまが開いた。思い掛けないことにぎくりとして振り返ると、そこには 作業着の上にエプロンを付けている長孝が立っていた。何が起きたのか解らず、つばめは目を丸めた。

「何、してんの?」

「夕飯だ」

 長孝が触手で壁掛け時計を示すと、午後七時を回っているので丁度良い頃合いではある。

「じゃあ、作らないと」

 つばめが腰を浮かせかけると、長孝は数本の触手を広げてつばめを制してきた。

「出来た」

「え、でも」

「支度が済むまで、もう少し掛かる。それまでに顔を洗ってくるといい」

 そう言い残し、長孝は身を翻して台所に戻っていった。ということは、先程耳にした料理をする音は長孝によるもの だったのか。何を作っているのかは定かではないし、味は大丈夫なんだろうかと一抹の不安にも駆られるが、夕食 を作る手間が省けたのはありがたかった。
 それはそれとして、父親のエプロン姿は恐ろしく奇妙だ。脳が徐々に動き始めたことで、つばめは違和感を感じた 後になんだか笑えてしまった。作業着姿の上にエプロン、というだけでもちぐはぐなのだが、そのエプロンがつばめ のものなので尚更だった。明るいオレンジ色の大きな水玉模様なので、赤黒い異形にはとてつもなく似合わない。 だが、笑い転げるのは父親に失礼なので、つばめは毛布に顔を突っ込んで声を殺して笑った。

「どうした、つばめ」

 コジロウに訝られたが、つばめはなんでもないと言う代わりに首を横に振った。コジロウは異常が発生していない と理解してくれたのか、それきり問い掛けてこなかった。ひとしきり笑ってから、つばめは気を取り直し、洗面所に顔を 洗いに行った。そのついでに髪も梳かして結び直してから、台所に向かった。
 四人掛けのテーブルには、湯気を漂わせる暖かな料理が並んでいた。薄焼き卵に包まれたオムライスとキャベツ とタマネギの味噌汁、マカロニサラダ、そして昨日の残り物である里芋とイカの煮物。つばめはコジロウを手招いて 台所に入れてやってから、エプロンを外している父親を窺った。

「仕事、いいの?」

「いいんだ」

 長孝は短く答えると、エプロンを折り畳んで空いている椅子の背もたれに掛けてから、席に着いた。

「量はそれで良かったか」

「あ、うん、大丈夫」

 つばめはオムライスの大きさを確かめ、了承した。食べる量は人並みよりも少し多めなので、通常の一人前なら 問題なく食べられる。つばめも椅子を引き、自分の朱塗りの箸と汁椀が並んでいる席に着いた。コジロウは台所の 隅に立ち、親子を見守ってくれていた。つばめは箸を取ろうとしたが、再度父親を窺った。

「なんでオムライスなの?」

「嫌いなのか。カステラが好きだとコジロウから聞いていたから、卵料理は好きだと思ったんだが」

「いや、そうじゃなくて! 卵料理は好きだけどさ、なんで作ったのかってこと!」

「俺が料理をしてはダメだったのか」

「いや、別にそうでもなくて! 冷蔵庫の中身は余りがちだから、率先して使ってもらえば無駄にならなくて済むし、 火を通してから冷凍する手間が省けていいんだけど!」

「だったら、何が問題だったんだ。言ってくれ。改善する」

 相変わらずの無表情ではあったが、長孝の眉間と思しき部分に少しシワが寄っていた。顔の部品があったなら、 きっと悲しげな顔をしていたことだろう。つばめは父親に言いたいことを整理しようとしたが、せっかくの暖かな夕食 が冷めると勿体ないので、手を合わせて頂きますと言ってから食べ始めた。父親もそれに倣い、一本の触手の尖端 を枝分かれさせて黒塗りの箸を挟み、器用に使った。
 先に味噌汁に口を付けてから、スプーンに持ち替えてオムライスを食べてみた。焼き加減が少し強めの薄焼き卵 を破ってから中身を取り出し、薄焼き卵と共に口に運んだ。具材は順当で、ミックスベジタブルと四角く切ったハム がオレンジ色のケチャップライスに混ぜられていた。タマネギの微塵切りは良く火が通っていて、柔らかい。バター を多めに使っているからだろう、口当たりがまろやかで良い香りがする。鶏肉は冷凍してあったはずなんだけどな、 と思いつつも、つばめはオムライスを食べ続けた。

「旨いか」

「うん、おいしいよ」

 オムライスを半分ほど片付けたつばめが率直な感想を述べると、長孝は余程安堵したのか脱力した。

「そうか……」

「ああ、なるほど。だから、オムライスの中身が鶏肉じゃなかったんだ」

 マカロニサラダの具材とオムライスの具材が一緒だと気付いて、つばめは納得した。一度に別々の材料を使うと 手間が掛かるので、流用したのだろう。つばめもよくやる手段だ。味噌汁の具がキャベツとタマネギになったのも、 オムライスでは使い切れなかった分を処理するためだったのだろう。キャベツも使いかけのものが冷蔵庫の野菜室 に残っていたから、それを見つけて使ったようだ。それらを踏まえて顧みると、長孝は料理は得意なようだ。冷蔵庫の 残り物だけで、これだけの品数を作れてしまうのだから。

「鶏肉の方がいいのか」

 長孝に問われ、つばめはマカロニサラダを食べてから答えた。程良くカラシの効いた味付けだった。

「んーん、別になんでも。ハムでもベーコンでも、なんだったら豚肉でもいいよ。おいしかったらそれでいいの」

「そうか」

「で、お父さんはどんなのが好きなの?」

「食べるものに関しては執着はない。出されたものは何であろうと食べる」

「でさ、この里芋とイカの煮物なんだけどね。新しいガスコンロの火加減がまだ覚え切れていなくて、ちょっと長めに 煮付けちゃったから、里芋が柔らかくなりすぎちゃったんだけど」

「構わない」

「あ、そう?」

 つばめはその返事の意味に引っ掛かりを感じたが、父親の手料理を平らげていった。どちらも綺麗に食べ終え、 食器を片付けてから居間に移った。つばめは熱々の焙じ茶を入れた自分のマグカップと、父親の湯飲みを持って 掘りゴタツに向かった。一足先にコタツに下半身を入れて暖まっていた父親は、コタツの天板に焙じ茶を置いてから 向かい側に座ったつばめとその背後のコジロウを窺ってきた。

「それで、その」

 つばめはパンダの顔がプリントされたマグカップを両手で包み、焙じ茶の熱で指を温めながら俯いた。あれほど 父親と話したいと思っていたのに、いざ面と向かって話そうとすると、何から話せばいいのか解らない。子供のよう に泣き喚いてコジロウに甘えて、おまけに泣き疲れて眠ってしまったという事実を思い出すと、この場から全速力で 逃げ出したくなるほど恥ずかしくなった。一連の荒事が収束して気持ちが緩んでいたせいかもしれないが、だとしても あんな醜態を曝したのは情けなさすぎる。つばめは少し赤面し、唇を歪めた。

「数日前に備前夫妻と会ってきた」

 東京からとんぼ返りだったが、と付け加えてから、長孝は作業着のポケットから一通の封書を取り出した。

「十四年間、つばめを育ててくれた礼を述べてきた。それ相応の謝礼を払うと言ったが、受け取ってもらえなかった。 美野里さんの異変を見逃していたのは両親である自分達の責任だから、と。美野里さんの歪みがいずれつばめに 向くと解っていながらも、手を打たなかったことも。俺との連絡手段がありながらも、俺とつばめを一度も会わせようと しなかった理由は、つばめを育てることで美野里さんを育て直すつもりでいたからということも。会えたのは短い時間 だったが、色々と話してくれたよ」

 佐々木つばめ様。そう宛名書きされた封筒が、つばめの目の前に差し出された。

「気持ちの整理が付いたら、読むといい。先に詫びておくが、何が書かれているのか知るために一度封を開けて、 目を通した。つばめが辛い思いをしたら、ひばりに合わせる顔がないからな。俺の主観に過ぎないが、その手紙 の内容はつばめをみだりに傷付けようとするものではなかった。だから、いずれ読むといい」

「小父さんと小母さんは、私に会いたいって言ってなかったの?」

「言葉の端々からまた会いたいと匂わせていたが、二度と会うべきではないと言い切っていた。俺もそれがいいと 返した。俺達を取り巻いている状況は、今も尚、複雑だからな」

「……うん、そうだね」

 つばめは封筒を見つめ、頷いた。裏返してみると、封筒を閉じているセロテープが一度剥がされた痕があった。 本来であれば、手紙の中身を勝手に開けて読むことは重大なマナー違反ではあるのだが、父親の気遣いにつばめ はほっとした。備前夫妻を信用していないわけではないが、美野里が怪人と化して凶行に及んだ切っ掛けは他でも ないつばめだ。だから、骨の髄まで恨まれても文句は言えない立場なのに、備前夫妻はつばめを恨もうとはせずに 許そうとしている。どこまでも誠実で真っ当な、優しい人達なのだ。それ故に、苦しくなる。

「すまなかった」

 長孝は凹凸のない顔の下部に隙間を開き、そこに湯飲みを添えて焙じ茶を少し流し込んだ。

「仕事を始めるために必要な機材を掻き集めていたんだが、思うように進まなかった。それと並行して、新免工業 に残っていたひばりの遺品の回収をしてくれるように政府に掛け合っていたんだが、こちらも芳しくない。ひばりの 遺品の在処は解ったんだが、捜査資料として一旦警察に押収されることになった。検分された後に俺の手元に来る そうだが、それがいつになるかは解らない。周防にも話を通してもらって、手は尽くしたんだが」

「そっか」

 つばめは早々に温くなってきた焙じ茶を傾け、頬を緩めた。留守がちだった理由を知ると、尚、安堵する。

「つばめが寝ている間に、コジロウから話を聞いた」

 長孝がつばめの肩越しに正座しているコジロウを見やったので、つばめはぎくりとした。

「へあっ!?」

「泣くほど寂しがらせて、すまなかった」

「あ、あー、うー……。いいよ、もう」

 頬を火照らせたつばめが口籠もると、長孝は口角と思しき部分にぐいとシワを寄せた。

「それで、俺と何を話したい。俺も、つばめに話したいことが山ほどある」

「えーと、ねぇ」

 つばめは両手の間でマグカップを転がしながら、長孝を見やる。差し当たって思い付いたのはこれだった。

「お父さん、お母さんにもああやって御飯を作ってあげたりしたの?」

「ああ。俺の手が空いている時には」

「で、お母さん、何が好きだったの?」

「ひばりも俺と同じで、出されたものには文句を言わずに食べてくれた。オムライスはひばりの作り方で作ってみた んだが、どうも味が違う気がしてならない。俺とひばりでは加減が違うからだろう」

「あ、そうなんだぁ」

「他には」

「結婚の記念写真を撮った時、どんな感じだった?」

「ひばりは嬉しそうだったが、俺はそうでもなかった。ひばりが現れなければ結婚するつもりもなかったし、女性とも 縁がなかったからだ。だが、ひばりがずっと上機嫌だから、俺も悪い気がしなくてな。あのドレスを選ぶまでには、 やたらと時間が掛かってしまった。裾が長いもの、シンプルなもの、リボンとレースが大量に付いた華美なもの、と 何度も何度も試着しては俺に意見を求めてきた。だが、俺にはドレスの善し悪しなど解らないから、ひばりの好きに してくれとしか答えられなかった。ドレスをどれにするかは撮影日の三日前までに決めてくれ、と写真屋に言われて いたんだが、ひばりは散々悩み抜いて、撮影日の三日前に写真屋に行く道中でも決めかねていた。だったら最初 のものにすればいいじゃないか、と俺が投げやりに進言すると、ひばりはそれで手を打った。そして、あのドレスに 決めたんだ。もっとも、ドレスに合わせるブーケやらヴェールやらでまた散々悩むことになるんだが」

「お母さん、可愛いねぇ」

「そうだろう」

 心なしか自慢げな長孝に、つばめは笑う。

「それで、あの記念写真を撮った時、お母さんはいくつだったの? 考えてみれば、私、お父さんとお母さんの歳を よく知らないんだもん」

「俺は二十八で、ひばりは十八だった。見合いをしてから、三ヶ月過ぎたか過ぎないかの頃だったか」

「ふおっ!?」

「なんだ、その声は」

 心外そうに長孝が触手を捻ったので、つばめは前のめりになった。

「だって、そんなに歳が離れているだなんて思ってなかったんだもん! てか、犯罪っぽい!」

「そう言うな。俺も常々そう思っていたんだ」

「で、お母さんが私を妊娠したのって、それからどのぐらい後なの?」

「大体一年後だ」

「じゃ、その時はお母さんは十九歳か。問題はないのかもしれないけど、でもやっぱり、なんかこう」

「あまり責め立てるな」

 若干気まずげに顔を背けた長孝に、つばめは指折り数える。

「てぇことはつまり、お母さんが私を妊娠してから十ヶ月後に産まれたから、その時のお父さんは三十で、それに私の 歳を足すと四十四五ってことか。それだと武蔵野さんと同い年ってことになるのかな?」

「そうだったのか? 武蔵野とは大して歳は離れていないと思っていたが」

「そうだよ。お父さん、武蔵野さんがいくつかは知らなかったの?」

「ああ。聞きそびれていたからでもあるが」

「まー、お父さんは年齢不詳だし、武蔵野さんは修羅場を潜り抜けすぎたせいで年の割には……って感じだもんね。 無理もないよ、うん。んで、武蔵野さんとは仲良くなれそう?」

「まだ解らない。だが、対等に付き合えるようにはすべきだと考えている」

「だよね。御近所さんになるんだもんね」

 つばめは座り直してから、コジロウを指し示した。

「んで、なんでムリョウとムジンを入れたのがパンダのぬいぐるみだったの? 初デートが上野動物園だったの?」

「良く解るな」

「そりゃまあ、一応東京に住んでいたわけだから。で、どんな感じのデートしたの?」

「デートというほど大袈裟なものじゃない。祝日に連れ立って出掛けただけだ。ああいった場所では食事が高いから と言って、ひばりが張り切って弁当を作った。それを携えて上野動物園まで行ったんだが、祝日というだけあって、 ひどく混んでいた。はぐれたら困るからと言って、ひばりは俺の腕を掴んで離さなかった。丸一日掛けて動物を見て 回ったんだが、どの動物を見てもひばりは喜んでいた。通り掛かるたびに立ち止まってパンダの檻を凝視していた から、そんなに気に入ったのなら、と売店でパンダのぬいぐるみを買ってやった。それが、コジロウだ」

「デートじゃん! どこからどう見てもデートだよ!」

「そうなのか」

 訝しげな長孝に、つばめは嘆いた。

「お母さんも苦労しただろうなぁ、お父さんが万事この調子じゃ」

「どういう意味でだ」

「それを娘の口から教えるのは憚られるかなぁ、さすがに」

 ねえお母さん、とつばめは振り返って仏壇の記念写真に声を掛けた。

「コジロウ。お前はどう思う」

 心なしか不安を滲ませた長孝に問われ、コジロウは平坦に返した。

「本官はつばめの主観が正しいと認識する」

「そうなのか、ひばり」

 長孝はやや腰を浮かせ、仏壇に問い掛けた。当然ながら答えは返ってこなかったが、そうすることで母親もこの場 で談笑しているのだと思えた。僅かな沈黙の後、コジロウが親子を見下ろした。つばめはコジロウと目を合わせた 後に長孝に向くと、長孝は気まずさを紛らわすためなのか、座り直してから焙じ茶を啜った。

「お父さん」

「なんだ」

「なんでもなーい」

 つばめは訳もなく照れ、天板に突っ伏した。視界の端で長孝の触手が不規則に動いているのが見えたが、それを 不気味だとは一切思わなかった。あの戦いの前日、雪の降りしきる一ヶ谷駅で出迎えた時もそうだった。つばめを 取り巻く血縁関係を事前に把握していたからでもあるのだが、一目見て父親だと悟った。だから、怖いと思うよりも 先に嬉しさが込み上がってきた。けれど、厄介事が山積していたせいで面と向かって話すに話せなかった。
 お父さん、お母さん、と呼び掛けたかった。血の繋がっている相手に、心の底から甘えたかった。この人達の子供 なのだと思い知りたかった。もう一人きりでもなければ、宙ぶらりんでもなければ、ルーツの見えない孤児でもない。 佐々木長孝と佐々木ひばりが愛し合い、通じ合い、思い合った末に産まれたのが自分でありコジロウだ。つばめは その幸福を噛み締めながら、もう一度、父親と兄弟を呼んだ。
 もう、寂しくない。







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