機動駐在コジロウ




寸鉄、ハートを刺す



 目が合った。
 彼の右目の義眼が最初にこちらを捉え、続いて生身の左目が向いた。最近の義肢はレスポンスが早ぇなぁ、と、 技術面に感心したことをなんとなく覚えている。その時はただそれだけで、目礼して彼の前を通り過ぎた。その日、 柳田小夜子は忙しかったからである。政府の保管庫からアマラを持ち出したばかりだけなく、佐々木つばめに譲渡 したせいで立件されたため、裁判所に行かなければならなかったからだ。公の場に出るために仕方なく着たスーツ は着心地が悪く、ローヒールのパンプスでつま先が痛かったことの方が余程強烈に記憶している。
 切っ掛けがあるとすれば、それぐらいしか思い当たらない。目が合っただけで、言葉を交わしたわけでもなければ 触れ合ったわけでもない。けれど、その日以来、小夜子の心中に妙な疼きが宿るようになった。それが何なのかを 考えるのは億劫で、持て余す一方だった。いっそのこと、その棘を抜いて捨ててしまいたいと願ったが、物理的には 不可能なのでどうしようもなかった。そのうち、自分自身も煩わしいと思ってしまうようにすらなった。
 認めるのは嫌だ。だが、どれだけ憂さ晴らしをしても気が紛れない。小夜子は年季の入ったアパートの天井を仰ぎ 見ながら、火の消えたタバコを銜えていた。枕元には、昨夜飲んだ安酒の缶が転がっている。敷きっぱなしの布団 にはタバコの空き箱と脱ぎ捨てた下着が散らばり、だらしないことこの上ない。部屋の四隅には、引っ越してきた際 に運び入れたまま手付かずになっている段ボール箱が積み重なっている。

「面倒臭ぇー……」

 湿ったフィルターを噛み締めながら、小夜子は一人ごちた。

「いい歳こいて何やってんだよ、あたしは」

 頭を反らして潰れた枕に後頭部を埋めて、上下逆さになった部屋を捉える。空しい、寂しい、物足りない。そう思う ようになってしまったから、心を埋めるものを求めようとしてしまうのだ。そうでもなければ、恋なんて薄っぺらな感情 を抱いたりしない。一生無縁だと思っていたのに、誰も好きになるわけがないと諦めていたのに。

「どうしようもねぇなぁ、あたしは」

 ごろりと寝返りを打ち、湿ったタバコを唇から外して灰皿に投げ込んだが、既に山盛りになっていたので吸い殻は 入らずに弾き出された。毛羽立った畳の上に転がった吸い殻が、今の自分自身のようで余計に胸中が荒んでくる。 天井に溜まっている煙の筋を見つめていると、在りし日の父親の姿が過ぎる。
 切っ掛けの切っ掛け自体は既に解っている。佐々木長孝が念願叶って一人娘と暮らし始めたからだ。長孝は目に 見えてそわそわしていて、何かにつけて娘のことを気にしていた。小倉重機一ヶ谷支社として開業するための準備 を小夜子は手伝っているのだが、長孝は以前に比べると格段に口数が増えていた。感情表現が顔と一緒で平坦で あることに代わりはなかったし、語彙もそれほど変わらなかったが、小夜子に話し掛ける頻度が多くなった。小夜子 でつばめに接する練習をしているのだと気付くまでに、あまり時間は掛からなかった。
 長孝がつばめの父親になれたのは喜ばしいが、一方でどうしようもなく悔しかった。薄々感づいていたが、小夜子 はファザコンの気がある。肉親が父親だけだったことも大きいが、仕事以外は不器用極まりなかった父親に上手く 甘えられなかった未練がいつまでも燻っていた。だから、長孝を内心で父親の身代わりにして接していた節がある。 しかし、長孝はつばめの父親であり、小夜子とは仕事の上での付き合いでしかない。数々の苦難を経てやっと家族 になれた佐々木親子に割り入れるはずもないし、つばめを差し置いて長孝に甘えられるわけがない。
 だから、長孝に甘えたい気持ちは切り捨てたのだが、切り捨てた分、胸に穴が空いた。そこを埋めるためだろう、 小夜子は生まれて初めて恋と呼べる感情を覚えた。それも、長孝と同じ年齢の武蔵野巌雄にだ。自分の愚かさに 涙すら出てきそうになったが、小夜子は布団を被って誤魔化した。
 小さくも鋭い異物が、胸に刺さっていた。




 思わず、その言葉を聞き返した。
 小夜子は動揺して火を付けかけたタバコを落とし、雪解け水で緩んだ地面に吸わせてしまった。武蔵野はかなり 気まずげに右目の義眼を揺らし、小夜子が落としたタバコを見て平謝りしてきた。小夜子は新しいタバコを箱から 抜こうとしたが、上手くいかず、仕方ないので作業着のポケットにねじ込んだ。

「だから、その、なんだ」

 武蔵野は短く刈り込んだ髪を掻き毟り、分厚い筋肉が付いた背中を曲げた。

「付き合ってくれないか?」

「な」

 何に、どこに、誰と。小夜子は思うように返事が出来ず、口の中でもごもごと言葉を濁した。意志に反して血流が 良くなってきた顔を見せないために武蔵野に背を向けて、一度深呼吸してから改めてタバコを取り出した。

「なんだよそれ、てか、なんであたしなんだよ?」

 自分でも笑えてくるほど声が上擦っていて、情けないことこの上ない。銜えたタバコに火を付けようとするが、親指 が滑ってライターの着火ボタンを押し込めなかった。これもまた仕方ないので、ライターをポケットに戻した。武蔵野 をそっと窺うと、ひどく狼狽えていた。雪解けの後に耕し始めた畑には畝が並んでいて、ビニールハウスの中では 稲の苗が育ちつつあった。遅まきながら雪国にも春が訪れたが、吹き付ける風は未だに冷たい。

「仕方ないだろう。他の連中は誘うに誘えないんだ」

 武蔵野は古傷の残る横顔を小夜子に向け、口角を歪ませた。

「つばめは遠出させるためには手間取るし、タカさんは仕事を始めたばかりだし、伊織とりんねはこの集落からは 出られない。かといって、寺坂と道子を誘えばひどい目に遭うだろうし、一乗寺に粉を掛けたと思われたら、周防に ドタマをぶち抜かれる。だから、柳田、すまん。ニンジャファイター・ムラクモのヒーローショーに行くのに、付き合って くれないか? 一人で行く勇気がなくてな」

「はああああ!?」 

 小夜子が声を裏返すと、武蔵野は身動いだが言い返す。

「どうしても見に行きたいんだよ! サイボーグアクターが全員死んじまったからシナリオが大幅に変わったせいで、 テレビ放映された本編じゃ補完しきれなかった伏線やら何やらがヒーローショーで回収されるんだ! DVD化する とは思いがたいし、ヒーローショーの期間も短い! だから、行かなければ一生後悔するんだよ!」

「そんなん一人で行けよ!」

「それが出来るほど、俺は開き直っちゃいない!」

「あー、そうかい」

 心底呆れてしまい、小夜子は仰け反った。なんて面倒臭いおっさんだろう。武蔵野は大きな肩を上下させて呼吸 を落ち着けてから、表情を強張らせた。笑うべきか否かを迷った末に、押し込めたようだった。武蔵野が特撮番組 を愛して止まないということは周知の事実であり、今更恥じらう必要もないように思えるが、本人からすれば重大な 問題らしい。数々の死線を潜り抜けてきたくせに、妙なところが弱々しいのが可笑しい。

「しっかたねぇなぁー」

 小夜子は中途半端に伸びた髪を掻き上げ、武蔵野を一瞥した。

「んで、いつだよ」

「来週の土曜日なんだが」

「解った。どうせあたしには予定なんかねぇし、暇潰しに行ってやるよ」

「なんか、すまんな」

「言い出したのはむっさんだろうが。んで、どこまで行くんだよ」

「県内ではあるが、縦断することになる」

「じゃ、時間掛かるな。まー、その、あれだよあれ、弁当でも作ってやるよ。でねぇと割に合わねぇからな」

 小夜子は泥に沈んだタバコを拾ってから武蔵野に背を向けて、畑を後にした。武蔵野から言葉が返ってきたが、 小夜子はそれを聞き取れるほどの余裕はなかった。なんであんなことを言っちまったんだよ、弁当なんて女々しい モンで靡くような男かよ、つうかあたしはあいつを落とそうとしてんのかよ、と自問自答を繰り返しながら、集落の隅 に駐めておいた自家用車に乗り込んだ。
 実用一点張りのワゴン車の運転席に座り込んだ小夜子は、タバコのフィルターを思い切り噛み締め、胸の奥から 迫り上がってくる痛みをやり過ごそうとした。ハンドルを抱えて突っ伏して声を殺し、今まで感じたことがないほどの 凄まじい羞恥心と戦った。自分の存在自体が恥ずかしくなってフロントガラスにヘッドバッドを喰らわせてしまいたく なったが、さすがにそれは我慢した。声にならない声を漏らしながら、小夜子は項垂れた。

「なんだよ、もう……」

 武蔵野に女として意識されたいのか。それ以前に、小夜子は武蔵野に女として認識されているのだろうかどうかも 疑わしいというのに。それに関しては、小夜子自身にも大いに問題がある。二次性徴を迎えても女としての面が全く 育たなかったらしく、体形に凹凸はなく骨張っている。趣味嗜好も男臭いし言動にも柔らかさはなく、ピンク色なんて 腹の底から大嫌いだ。肉が付かなかった分、縦に伸びてしまったせいで百七十センチ近い上背があるが、それも 女らしさを遠ざける一因になっている。性格もとにかくだらしなく、料理はそれなりに出来るものの家事は不得手で、 掃除は特に苦手だ。そんな女とも男とも呼べない人間に好かれたところで、どこの誰が喜びはしない。少なくとも、 自分ならば絶対に嫌だ。小夜子は喉の奥に鉛の固まりが詰まったような圧迫感に苛まれ、呻いた。
 とりあえず、弁当の中身を考えなければ。




 そして、約束の日がやってきた。
 小夜子は薄く曇った洗面台の鏡に写る自分を見、手元にあったスパナを放り投げようとしたが堪えた。恥ずかしさ のあまりに逃げ出したくなったが、この服を選んで買ったのは他でもない自分自身なのだ。ネット通販で入手したの でサイズが合うかどうかは不安だったが、どれもこれも丁度良い。それがまた、無性に苛立たしい。

「つうか、あたし、何やってんだよぉおおおおおっ!」

 古びた洗面台に両手を突き、小夜子は悶絶した。そこに写っている小夜子は、二十代後半の女性としては無難で あろうファッションを身に付けていた。オリーブグリーンの薄手のセーターに薄紫のダウンベスト、そして膝丈よりも 少しだけ短めなデニムスカートに黒のレギンス。スカートを履いたのは自衛隊の入隊式以来であり、私服で着るの はこれが生まれて初めてかもしれない。伸び放題だった髪も、一ヶ谷市外にある美容室に行ってカットしてもらった のでそれなりに整っている。さすがに化粧までは手が及ばなかったが、時間と度胸があれば、誰かに教わっていた かもしれない。ただ、ヒーローショーを見に行くだけなのに、色気付きすぎだ。普段は一週間に一度入れば良い方の 風呂にもきちんと入って髪も体も徹底的に洗ったので、髪からは甘ったるいリンスの香りが漂ってきた。人工的な 匂いが鼻に突いたが、真新しい服を汚したくないと判断して風呂に入ったのは自分自身なのだ。

「死にてぇ、猛烈に死にてぇよぉー……」

 小夜子は上擦った声を絞り出しながら、よろよろと身を反転させて洗面台から離れた。この二週間の間に弁当箱を 調達して食材を買い込んで練習したため、台所はいつになく荒れている。独り暮らしが長かったので料理をする のはなんら苦ではないし、レパートリーもそれなりにあるが、他人に食べさせることを前提として作ったのは父親が 亡くなった後では初めてだった。しかも、それが武蔵野が相手とあっては練習せずにはいられなかった。おかげで この二週間、同じメニューを何度も食べる羽目になってしまった。

「あー、くそぉ、誰かあたしを殺せよぉ」

 小夜子はぼやきながらも手を動かし、大振りな弁当箱をトートバッグに入れた。二人分の箸と取り皿も入れたこと を確かめると、また羞恥心が沸き上がってきて、綺麗に盛り付けた弁当を全力で壁に叩き付けたくなったが意地で 堪えた。そんなことをしては、昨夜から仕込んで作った料理が台無しになってしまう。武蔵野がアパートまで迎えに 来るまではもう少し時間があるので、髪を整えた。それでも時間が余ったので、父親と向き合うことにした。
 ロボット関連の書籍と図面の束が溢れんばかりに詰め込んである棚の上には、一抱えほどしかない黒塗りの仏壇 が載っていた。その中には父親の位牌が収まり、傍らには生前の写真が入った写真立てを立ててある。毎朝コップ 入れた水を供えているのだが、今朝は弁当作りで忙しなかったのでつい忘れてしまった。小夜子はコップの中の水 を新しくしてから、歯を剥いた豪快な笑顔を浮かべている父親の写真を見たが、思わず目を逸らした。

「あのさぁ」

 武蔵野のことを話すにしても、どこから話せばいいものか。

「まあ、いいや。何かあったら、その時話すよ。今は頭ん中がぐちゃぐちゃで話しようがねぇんだ」

 小夜子は父親の遺影に背を向け、乱雑なテーブルに置いた弁当箱入りのトートバッグを見やった。

「他人のために弁当作ったのなんて、父さんの時以来だよ。で、中身はあれでいいんだよな? おにぎりと竜田揚げ とハンバーグと茹で卵の切ったのとアスパラのピーナッツ和え。父さんが好きだったものしか思い付かなかったから、 それしか入れようがなかったってのも事実なんだけどさ」

 雑然とした部屋の中で浮いている、小綺麗な格好をした自分に小夜子はまたも恥じ入る。

「嫁に行くわけじゃないから、そんなに期待しすぎないでくれよな。どうせ、一回こっきりなんだしさ」

 期待しているのは自分の方だ。弁当を作っただけでドミノ倒しのように想像の幅が広がっていき、あわよくば、と いうとてつもなく都合の良い結末が思い浮かんでしまう。そんな手前勝手なことでいいはずがない。大体、武蔵野は 結婚して家庭を持つようなタイプの男ではない。長年最前線で戦ってきたやり手の兵士なのであって、妻子と団欒を するよりも体を鍛え上げている方が似合っている。孤独と翳りを糧にした強さと、険しい横顔と、使い込まれた拳銃で 造作もなく敵を殺す姿こそよく似合う。女の影がちらつくべき男ではない。それなのに。
 散らかった部屋に一人でいては悶々とするばかりなので、小夜子はやたらと重たい弁当を入れたトートバッグの 他に私物を入れたショルダーバッグを提げて自室を後にした。錆び付いたドアノブに鍵を差し込んで錠を掛けると、 エンジン音が聞こえた。ぎこちなく振り返ると、ミリタリーグリーンの武骨な車体が迫ってきていた。武蔵野の愛車で あるジープだ。だが、約束の時間よりも三十分近く早い。小夜子は慌てながら、アパートの敷地から出た。
 アパートの前でジープが駐まると、運転席から武蔵野が現れた。私服と呼ぶには若干語弊がある格好で、フライト ジャケットに迷彩柄のパンツを履いていて、足元は言うまでもなくジャングルブーツだ。小夜子が余程げんなりした 顔になっていたのだろう、武蔵野はばつが悪そうに言葉を濁した。

「ろくな私服がないんだよ。買いに行くのも手間だし、似合うような代物を見つけられないってのもあるが」

「あたしがうっかり後ろに立っても、目ん玉抉るなよ」

「安心しろ。丸腰だ」

「余計に安心出来ねぇよ。あんたみたいな人間は、体が一番の武器じゃねぇか」

 こんな男を相手に、なんであんなに悩んでしまったのだろう。小夜子はなんだか気が抜けてきた。

「いいから早く乗れ。他の連中に見つかったら面倒だ」

 武蔵野が促すと、小夜子はジープに近付いたが、少し迷った。助手席か後部座席のどちらにするかを考えている と、武蔵野は迷わず助手席のドアを開けてきた。こうなったら助手席に乗るしかないので、小夜子はスカートの裾を 気にしながら助手席に乗り込んで、弁当の入っているトートバッグを後部座席に置いた。シートベルトを締めながら、 服にはノーリアクションなんだなぁ、と少し残念がっていると、運転席に乗り込んだ武蔵野は言った。

「随分可愛い格好をしているじゃないか」

「えっ、あー、そうでもねぇよ」

 思いがけず褒められ、戸惑った小夜子が口籠もると、武蔵野は運転席上のサングラスホルダーからサングラスを 取り出して掛けた。両目が義眼なら採光量を自動調節出来るんだが、片方だけが生身だとそうもいかないんだよ、と 言いつつ、ハンドルを回した。それを横目に窺いながら、小夜子はスカートの裾を押さえ付けた。
 この男にとって、自分はどういう位置付けに立っているのだろう。慣れた手付きでジープのハンドルを捌く武蔵野 を気にしながら、小夜子は車窓を流れていく景色に目線を投げた。人の手が入っていないせいで荒れている田園 風景が遠ざかっていき、空っぽの集落をいくつも通り過ぎ、車通りがまばらな高速道路に入った。二人の間に共通 の話題が少ないからだろう、車中での会話は弾まず、必要最低限のことしか言い合わなかった。おかげで、空気は 重苦しく、気を紛らわすために付けたカーラジオも大して意味を成さなかった。こんなものはデートとは言わないし、 武蔵野もそうだと明言していない。だから、結局、小夜子は武蔵野からすれば知り合いの範疇から脱していないの だろうと結論付けた。それが順当で楽ではあるのに、やけに物足りなかった。
 好かれたい、と思ってしまったからだ。







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