機動駐在コジロウ




シュールに説法



 夢を見る。
 あの、真夏の昼下がりを何度となく繰り返す。浄法寺で暮らすようになってから見違えるほど明るくなった道子 は、その日も浮かれていた。外を出歩くことだけでも嬉しいのか、終始笑顔だった。白く灼けたアスファルトに白線が 一定間隔で並んでいて、その先では歩行者用信号の赤が灯っている。息苦しささえ覚えるほどの暑さと、目の前の 少女の後ろ姿が今でも脳に焼き付いている。鮮やかな黄色のTシャツの襟元から垣間見える細い首筋と、寺坂を 窺ってくる仕草がいじらしい。信号が変わらないでくれ、と願うが、三十七秒後、信号は青に変わる。
 道路を挟んで向かい側にある書店に向けて、道子は駆け出していく。寺坂は数歩遅れ、道子の後に続いていく。 もう少し急いでくれ、とかつての自分を急かすが、寺坂の足取りは緩いままだった。道子はそんな寺坂を急かそう と振り返り、弾けるような笑顔を見せたが、次の瞬間には轟音を立てて鉄の怪物が突っ込んでくる。フロントガラスに べしゃりと生温い飛沫が広がり、ただの肉塊と化した道子が路面に散乱する。
 大型トラックの運転席に座っている、人工的な顔付きの男が寺坂を一瞥する。その表情の毒々しさは、何年経とう と忘れられるものではない。悪意という悪意を凝縮したかのような、正しく鬼の形相だったからだ。男は道路の路肩 に転がっていった道子の頭部を拾い上げると、黒いビニール袋に入れ、トラックの運転席に戻っていった。その間、 寺坂は何も出来なかった。立ち上がることも、触手を解き放つことも、男を叩きのめすことも、何一つ出来ずにただ ただその場に座り込んでいた。道子の血の臭いが鼻の奥にこびり付き、胃が裏返りそうになる。

「な、んでだよ」

 どうして、こんな目に遭わなければならない。道子が一体何をした。

「なんで、だよぉ」

 どうして、自分は何も出来ない。あれほど偉そうなことを言っておきながら、体が動かなかった。

「なんで、いつも、俺ってやつぁ」

 這いずりながら道子の残骸に近付き、寺坂は道子の頭部を失った肉体を起き上がらせた。それだけの動作で、 潰れた内臓や折れた骨が零れ出し、それでなくとも小柄だった道子の体が萎んでいった。法衣がじっとりと濡れて 肌に貼り付き、暑気とは異なる温もりが寺坂の胸元から太股を舐めていく。

「よっちゃんは、みっちゃんが好きだったの?」

 視界の隅に、スカートと思しき紺色が掠める。寺坂は道子の残骸を抱き締めながら、呻く。

「好きとか、嫌いとか、そういうんじゃねぇ」

 設楽道子は、寺坂にとって妹も同然だった。姉のようでもあった。時として母にもなった。寺坂善太郎という欲望 という欲望を滾らせている男を頼ってきたことだけでも奇特なのに、道子は寺坂を見限ろうとはしなかった。馬鹿な ことをすれば呆れるし、怒りもするが、愛想を尽かしたりはしなかった。それどころか、寺坂を思い遣ってくれていた。 なんて馬鹿な娘だろうか。こんな屑の中の屑に尽くしたところで、報われるわけがないのに。

「だから、触れなかったの?」

 スカートが翻り、白く眩しい素足が日差しを撥ねる。

「……ああ、そうだよ、悪いか。触ったら、俺、何するか解らねぇだろ」

 尊いものほど触れがたいものだと、思い知ったからだ。道子が来てからというもの、寺坂はそれなりに人間らしい 生活が出来るようになった。朝早く起きて一緒に食事を摂って、午前中は掃除に洗濯をして、昼にはテレビを横目 にどうでもいいことを語らって、午後には勉強や読書をして過ごし、夜もまた食卓を共にする。たったそれだけのこと ではあったが、真っ当に過ごしているだけで、寺坂の内に凝っていた淀みが洗い流されていくような気がした。
 だから、道子には何も出来なかった。水商売の女達と同じように扱ってしまえば、道子もまた彼女達と同じものに なってしまうし、下手に手を出しては全てが台無しになる。それを考えるだけで怖くなってしまったから、最後の最後 まで好意を示せなかった。親戚同士のような、友人同士のような、曖昧な関係で終わらせた。

「だけど、みのりんには言い寄ったよね?」

 長い髪が垂れ下がり、声の主の面差しは翳った。

「欲しかったんだ、あの女が。どうしても俺のものにならないと解っていたから、余計にな」

 おかげで、随分と遠回りをしてしまった。寺坂は道子の皮膚が剥けて骨が露出した両手を持ち上げて、腹の上で そっと組ませてやったが、根本から折れている指が外れそうになった。

「馬鹿だよね、よっちゃんは。切りの良いところで諦めればよかったのに」

「ああ、馬鹿なんだよ。本当に」

 寺坂は道子の体を抱きかかえてアスファルトに座り込むと、華奢な肩に腕を回した。

「だから、俺はみっちゃんに何もしちゃいけないし、出来ないんだ。だってそうだろう、ここまでずっと不幸続きだった んだ。まともに生きようとした傍から殺されて、オモチャにされて、挙げ句の果てに人間じゃないものになったんだ。 そうなっちまうと、どんなにありがたい経を上げたって無駄なんだ。俺なんかじゃ、どうすることも出来ねぇ」

「どうしてそう思うの?」

「俺と関わって、幸せになった奴なんていないだろ。それが何よりの証拠だ」

「それを決めるのはよっちゃんじゃないよ」

「だとしても、みっちゃんは俺なんかに縛られるべきじゃないんだ。やっと自由になったんだ、もっと広い世界を知る べきなんだ。せっかくの上玉だ、俺の懐なんかで腐らせるのは勿体なさ過ぎるだろ」

「でも、食べられもせずに腐り落ちちゃう方が、余程勿体ないと思うけどな」

 ローファーの硬い足音が移動し、寺坂の目の前に立った。視界が翳り、小柄な人影が逆光を帯びる。

「ねえ、よっちゃん?」

 そう言って人影が首を傾げると、生前の設楽道子に酷似した顔が日差しを受けた。一瞬、寺坂はぎくりとしたが、 すぐにそれが道子ではないと悟る。記憶が確かならば、これは、もしや。

「……桑原れんげ、なのか」

「たぶん、そういうことになるね。よっちゃんがそう思うのなら」

「その割には、口調が変だな。シュユみてぇだ」

「アマラが異次元宇宙に持ち去られたから、必然的に演算装置の高いものに情報処理を頼らざるを得なくなったん だよ。だから、シュユの演算能力を少し借りて桑原れんげを再構築したんだけど、変かな?」

「凶悪にな」

「そう、だったら改善に努めるよ。次があれば、だけど」

 アマラの作り上げた疑似人格であり、道子の分身であり亡霊でもあった桑原れんげは、寺坂を見据える。

「よっちゃん。君が望もうと望むまいと、君という個体が生存活動を行っていた証拠は物質宇宙の時間軸に刻まれて いくものなんだよ。時間とは連続し、連鎖し、連結していくものだから、たとえ過去の遺物を全部燃やそうとも、君の 存在自体を否定することは事実上不可能なんだ。概念でも改変すれば別だけど、そういう力任せな裏技を使うのは お勧めしないね。二度も三度も同じことをしちゃうと、物質宇宙の物理的法則が崩れちゃうし」

「てぇことはなんだ、一度は概念改変したってことか?」

「それを明言する理由もなければ、証拠もないよ。あくまでも仮定の話だよ」

 桑原れんげは寺坂に一歩近付き、顔を寄せてくる。思わず、寺坂は腰を引く。

「なんだよ、近ぇな」

「君達の感情変動によって生じたエネルギーは波となり、摩擦となり、異次元宇宙に広がっていく。その際に生じる エネルギーのお零れに与って、みっちゃんは物質宇宙の存在でありながらも異次元宇宙に依存している生命体、 電脳体となった。だけど、それは前ほど強固じゃない。それもそのはず、アマラというアンテナでありルーターである 演算装置が、物質宇宙に存在していないんだからね。だから、みっちゃん自身から生じた感情変動の波が異次元 宇宙に僅かばかり働きかけるだけで精一杯なんだ。といっても、それでも電脳体の生命維持には充分すぎるほど のエネルギーが生み出せるんだけどね。だけど、みっちゃんが心を殺せば、その波も消える。波が失せれば分子 同士の摩擦も失われてエネルギーも生じなくなり、みっちゃんが個を保つことが難しくなる。有り体に言えば、死を 迎えてしまうんだよ。電脳体は肉体を持たないだけで、れっきとした生き物だからね」

「そんなに大事なのか?」

 寺坂が面食らうと、シュユは数本の触手で長い黒髪を払った。

「あくまでも仮定の話ではあるけど、可能性がある限り、そうならないとも言い切れないね」

「みっちゃんは、いずれ消えるのか?」

「命あるものは、いつか必ず消える運命にあるよ。桑原れんげは概念だから消えようがないけど、いずれ、異次元 宇宙とニルヴァーニアンを含めた知的生命体の意識から桑原れんげが失われたら、死と呼べる状態を迎えるのは 確実だね。これもまた、仮定の話に過ぎないけど」

「俺はいつ死ぬ」

「んー……。よっちゃんの脳細胞の新陳代謝の頻度から、生命活動限界を迎える期日を算出出来ないこともない けど、それを教えるつもりはないよ。知ったところで、何もどうすることも出来ない。生き物は常に移り変わる。何かを 残せる方が珍しいんだ。ありとあらゆる種族は劣った遺伝子の個体が淘汰されていった末に、今の姿を得ているん だからね。だから、生きていいんだよ。よっちゃんも、みっちゃんも、もちろん他の皆もだけど、生き残った時点でその 権利を得ているのだから」

「人の恋愛事情を焚き付けるにしては、随分回りくどい言い方だな。恋愛なんてものは自然の摂理であって、外野が ごちゃごちゃ説教するようなもんじゃねぇだろ」

「見るに見かねたんだよ。今も昔も、桑原れんげを支えているのはみっちゃんだから、元気でいてほしいんだ」

「こんなこと、他の連中にやるんじゃねぇぞ。物理的にぶっ殺されるから」

「ああ、それは大丈夫だよ。桑原れんげがよっちゃんの深層意識に入れたのは、みっちゃんがよっちゃんに対して 心を開ききっているからさ。他の皆にはそうもいかないよ。なんだったら、桑原れんげがみっちゃんの深層意識に 侵入して、よっちゃんの気持ちをインプットしてあげてもいいんだけど」

「全力で断る」

「あ、そう? じゃ、またね」

 桑原れんげは身を引くと、手をひらひらと振りながら遠ざかっていった。寺坂は情報の亡霊を睨み付けていた が、嘆息した。つまり、不毛な恋も行き場のない愛も自然の摂理の一部だと言いたかったのだろう。開き直れるか どうかはまだ解らないが、そう言われると、少しだけ気持ちの整理が付いた。
 腕の中の少女は依然として肉塊のままで、大型トラックの赤黒いタイヤ痕が鮮烈な日差しに焦がされ、蛋白質の 傷んだ生臭みが熱気に入り混じっていた。道子を守れなかったことの後悔は、これからもずっと引き摺るのだろう。 助けられなかった悔しさや、守れなかった情けなさや、最後の最後まで好きだというのを躊躇ってしまった弱さなども 含めて、寺坂の脆弱な魂を戒めてくる。だが、それでいいのだろう。
 その痛みを認めてこそ、始まるのだから。




 何の予定もない日に、ツーリングに出掛けた。
 サイボーグとアンドロイドの体重は見た目よりも遙かに重いため、さすがのドゥカティと言えども後輪が押し潰れて しまった。タイヤの溝が擦り切れてしまわないか、パンクしないだろうかと冷や冷やしつつ、寺坂はハンドルを握って バイザー越しに前を見据えていた。山間の道を抜けて海岸沿いの道路に入ると、目の前に日本海が現れた。その 瞬間、寺坂の腰に腕を回している道子が歓声を上げた。初秋の柔らかな日差しを受け、波が輝いていた。
 海水浴シーズンからは外れたので、砂浜沿いの駐車場に駐まっている車の数はまばらだった。寺坂は駐車場の 片隅にバイクを止めてスタンドを立てると、道子は後部から降り、フルフェイスのヘルメットを外した。

「わざわざバイクにしなくてもいいじゃないですか。タイヤがダメになっちゃいますよ」

「バイクじゃねぇと意味がねぇんだよ。にしても、200馬力は伊達じゃねぇなー。俺達ぐらいのウェイトがなかったら、 カーブを曲がった拍子にガードレールの向こう側に吹っ飛んでいたかもな」

 寺坂もフルフェイスのヘルメットを外すと、シートの下のトランクに入れた。道子はヘルメットをバイクのハンドルに 引っ掛けてから、ヘルメットの下で潰れてしまったウィッグを解し、髪型を整えた。形状記憶繊維なので、人間の髪 ほど手間が掛からないのだ。道子は寺坂と揃いのレーシングスーツを見回し、渋面を作る。

「しかもなんですか、レーシングスーツまで買っちゃって。まーた無駄な出費を。外に連れ出してくれたことには感謝 しますけどね、大いに。機械の体になろうとも、遠くに出掛けるのは気分がいいですからね」

「ドゥカティに乗るんだ、適当な服だと様にならねぇだろ」

「そりゃまあ、そうですけど」

「ほれ」

 寺坂がおもむろに手を差し出すと、道子は訝ってきた。

「なんですか、この手。ガソリン代なら、後で払いますけど」

「色気のねぇことを言うなよ」

 寺坂はグローブを外してからポケットにねじ込むと、道子の手を取った。途端に道子は身動ぎ、目一杯腰を引いて 後退ろうとしたが、寺坂の腕力には勝てずにその場に踏み止まった。人工眼球の焦点が泳ぎ、綺麗に切り揃え られた前髪の下で瞼が瞬いた。どちらも本物の手ではないが、意識が宿っているのだから、偽物ではない。

「なあ、みっちゃん」

 道子の手を引いて引き寄せたが、腕を回す勇気が出ず、寺坂は彼女の肩口に額を置いた。

「悪い、上手く言えねぇや」

 己の情けなさに、寺坂は半笑いになる。こうやって二人きりになったはいいが、いざ改まると思うように言葉が出て こなくなる。軽口ならいくらでも言えるのだが、面と向かって本音をぶつけるのは少し怖い。単純明快な恋心とはまた 別物の優しい感情を示すのは、なんだか気恥ずかしかったからだ。

「この前は、変なことを言ってすいませんでした。余所は余所で、うちはうちではあるんですけど、たまーに隣の芝が 真っ青どころか百花繚乱に見えちゃうんですよ。だから、困らせちゃいましたよね。でも、もういいんです。寺坂さん の過去がろくでもないってことは、犯罪歴なり何なりで知っていますし、大体の想像も付きますから。というわけで、 考え方を変えることにしたんです」

 道子は寺坂を励ますように、丸まった背をぽんぽんと叩いてきた。

「幽霊なら幽霊らしく、寺坂さんに取り憑いて祟ってやりますよ」

「坊主と幽霊か、そりゃいいな」

 寺坂が思わず笑うと、道子は寺坂を押し返してから胸を張る。

「なので、これからは夜遊びなんてさせませんからね! 万が一、事に励んでいる最中に故障でも起こしちゃったら 一大事ですし、回収して修理するとまた余計な出費が嵩んじゃうからです!」

「この前から気になってんだけど、なんでみっちゃんは家計に厳しいんだよ」

「家計の範囲でお小遣いを捻出したいんです」

「そりゃまたどうして」

「どうしてって、そんなの」

 道子は口籠もったが、寺坂の視線に耐えかねて白状した。

「こんな体ではありますけど、ちょっとはお洒落したいんです。そうしていれば、その、まあ、なんと言いますか、少し は意識してくれるんじゃないかなぁという希望的観測に基づいた行動でありまして」

「何を今更」

「あっ、馬鹿にしましたね!? 私のファッションセンスが壊滅的なのは自覚していますけど!」

「そんなもん、とっくの昔に」

 意識してるさ、と声を潜めて付け加えて、寺坂は道子の頬から顎に掛けて手を滑らせた。道子は唇を噛み締めて 目を伏せ、両手を握り締めた。生身であれば、赤面していただろう。が、場の雰囲気に流されるのは道子の意地が 許さなかったらしく、寺坂を再度押し戻してから大股に砂浜に向かっていった。この分では、道子を籠絡するまでには もう一手間掛かりそうだ。だが、それならそれで今後の楽しみが増えるというものだ。
 漂流物が打ち上げられている砂浜を、ライダースブーツを履いた足で道子は駆けていく。遠目に見ているだけでは、 生身の人間と遜色がないほど体重移動も滑らかで動作は自然だった。アンドロイドの機体性能が高いことは もちろんだが、道子が動作プログラムを細々と微調整しているからだ。波打ち際で足を止めた道子は、強い潮風に 乱された前髪を掻き上げる。少女の青臭さが抜けた、成熟しきった女の甘みが含まれた手付きだった。

「私も、寺坂さんに言いたいことが数え切れないほどあったんですけどね」

 生身の頃と変わらない笑顔を浮かべ、道子は水平線を背にする。

「でも、いざとなったら言えなくなっちゃいました。言うだけ野暮だ、ってことなのかもしれません」

「ああ、そうだなぁ」

 寺坂は道子の足跡を辿りながら、波打ち際へと向かっていった。寄せては返す波は一時も途切れることはなく、 砂を濡らしては後退し、白く泡立ちながら再び迫ってくる。それは、時間にも似ている。どれほど否定しようとも過去 が消え去らないように、逃れようとしても、消そうとしても、積み重ねた時間は変えられない。
 道子を死なせた事実は消えない。美野里を追い込み、狂わせる一因を担った事実も消えない。寺坂が若い頃に 繰り返した蛮行も、一乗寺が両親を殺す現場を見逃したことも、何もかもが寺坂を構成している要素だ。それらを 全て知った上で、道子は寺坂に好意を抱いてくれている。寺坂もまた、死して尚も好かずにはいられなかった道子 を愛している。どちらも正気の沙汰とは言い難いが、真っ当に生きられなかった者同士の末路なのだから、これで いいのだろう。二度と、他人に迷惑を掛けなければいいのだから。

「だから、交換日記でも始めましょうか。文章だと、言いたいことがまとまりそうなので」

 道子の唐突な提案に、寺坂は心底驚いて声を裏返した。

「へあっ!?」

「メールだと味気ないですし、いくらでも捏造出来ちゃいますけど、肉筆ならそうもいかないですからね! それに、 上手くすれば、シュユさん絡みの公文書として未来永劫保存されちゃいます。そうなれば、寺坂さんに燃やされず に済みます! どうです、いい考えでしょう!」

「毎日顔合わせてんのに、何書くんだよ! つか、なんでそういう発想が出てくるんだよ!」

「書くことは色々ありますよー。同じ空間に暮らしているからといって、二十四時間一緒ってわけじゃないですし。で、 昔から交換日記にちょっと憧れていたんですよ。少女漫画も好きなので。付き合ってくれますよねーん?」

「あー、そうかい……」

 目を輝かせている道子に、寺坂は気圧されてしまった。肉筆での交換日記なんて、前時代的どころか旧石器時代 の交流方法ではないか。しかも、それを公文書にされてしまうなんて、考えただけで寒気がする。作文どころか手紙 を書くのも苦手なので、まともな文章が書けるはずがないからだ。

「色んなこと、話しましょう。あの日の続き、始めましょうよ」

 ね、と道子に笑いかけられ、寺坂は腕を伸ばした。あの日、あの時、あの瞬間、そうすべきだったことを無意識に 行動に移していた。頭一つ背の低い体を抱き寄せ、背を曲げ、腕の中に収める。出血に伴って体温が著しく低下 した道子の残骸よりも暖かく、柔らかかった。それは紛い物ではあったが、それこそが今の道子なのだ。
 ああ、と短く返すだけで精一杯だった。寺坂は道子を抱き締めたまま膝を折り、声を出さず、涙も出さずに嗚咽を 繰り返した。道子の手が寺坂の背に回され、抱き返してくれた。愛と呼ぶには生易しく、憎悪と呼ぶには柔らかいが、 恋と呼ぶには汚すぎる感情の嵐が心中を掻き乱した。
 なんで俺なんかを、と途切れ途切れに問うと、なんで私にしたんですか、と問い返された。けれど、どちらも明確な 答えを返せずに笑い合っただけだった。かつては触手が生えていた右手で彼女に触れ、ぎこちなく手を繋いで砂浜 を延々と歩いた。二人分の足跡が残ったが、遠からず潮風に掻き消されるだろう。それは自分達の生き様なのだと 改めて感じ入ったが、振り返りはせずに、バッテリーの続く限り歩き続けた。
 あの日の続きは、今、始まった。







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