機動駐在コジロウ




バグと鋏は使いよう



 物質宇宙より望む異次元宇宙は、儚い。
 薄膜越しに見える世界は薄っぺらく、奥行きもない。厚みもなければ重みもなく、温度も水気もない。溢れんばかり の情報が寄り集まって出来ているのだから、質量がないのは当たり前なのだが、物質宇宙の確かな手応えがある 世界に慣れてしまうと、その頼りなさが少々鼻に突いてくる。もっとも、鼻に当たる器官は備えていないのだが。
 カレーパンと缶コーヒーを片手、否、左手側の触手で携えつつ、シュユは正座していた。どういう風の吹き回しか、 政府が船島集落跡地の外に出ることを許可してくれたので、せっかくだからということで、浄法寺の本堂で行われる 映画の上映会に参加してみることにした。上映されたのは七十五年も前に制作された映画ではあったが、名作と 謳われるだけのことはある内容で、その情景描写の美しさと深みは年月を経ても色褪せていなかった。
 本尊の仏像を背にする恰好で、シュユは庭に面した障子戸に貼られたスクリーンを見つめていた。顔には眼球が 存在していないので、触手の尖端を向けて光の点滅と色彩の変化を探知し、収集した情報を、異次元宇宙の演算 能力を用いて再構成した映像を感知している。皆、映画の展開に魅入っていて、黙り込んでいた。
 人造人間と少女の触れ合いを描いた映画、シザーハンズは、佳境に入っていた。人間達の生臭さと醜さによって 迫害された人造人間の青年と、彼に恋心を抱いた少女の末路は、美しいほど切ないものだった。彼らに似た境遇に ある皆はおのずと自分達を重ねているらしく、皆、嗚咽を殺していた。
 エンドロールが終わって本堂に明かりが付き、プロジェクターが止められても、皆はすぐには立ち上がらなかった。 それもそうだろう、感情が高ぶりすぎると肉体にも影響が出てしまうのだから。生体アンテナのみならず、アバターの 全身で彼らの感情を生で感じ取ったからか、シュユは平坦な情緒が僅かに波立っていた。

「……なんでこの映画を選んだんだよ、なあ、みっちゃん」

 生理食塩水の擬似的な体液をぼろぼろと落としながら、寺坂が道子を睨むと、道子はにこにこした。

「この内容なら、皆さんのドツボに填るんじゃないかなーと思いまして」

「填りすぎてぇ、苦しいぃ……」

 コジロウに縋り付いて滂沱しながら、つばめが嘆くと、その背中をコジロウがさすった。

「つばめ。呼吸を整えるべきだ」

「伊織君、伊織君は大丈夫だよ、追い出したりしないからね、絶対だよ」

 伊織に力一杯抱き付きながら、りんねが泣きじゃくっていたので、伊織は触角を下げてりんねを撫でた。

「おう。解ってるっての」

「あれ、タカさんは?」

 武蔵野に手渡されたタオルで顔を拭いつつ、小夜子が本堂を見回すと、武蔵野は外を指し示した。

「途中でふらっと外に出ていったきり、戻ってきやしねぇ。気持ちは解るが」

 ほらよ、と小夜子からタオルを返されると、武蔵野は人目を憚らずに顔を拭った。来月で臨月を迎える小夜子の 下腹部は重たく張り詰めていて、彼女だけは座布団ではなく座椅子を与えられていた。二人の子供は無事産まれ、 健やかに育つのだと、異次元宇宙から打ち寄せる情報の波がシュユに伝えてくる。だが、それを明言するのは野暮 というものなので、シュユはその情報を黙殺しておいた。未来とは、見通せないからこそ素晴らしいものなのだ。

「ああもう、どうしてくれる。どうしてくれんだよ、このやるせない気持ちは」

 全力で抱き付いてくる一乗寺を宥めながら、周防が零すと、一乗寺は自分の両手を開いて見つめる。

「なんかもう、困っちゃうね。今が本当に幸せなんだなぁって解るから。丸腰でいられるんだもん」

「ええ、全くね」

 映画の上映中、大人しく寝ていた息子の様子を確かめながら、小倉直子は目元を拭った。

「ああいう人間には二度となっちゃダメよね」

 娘とその思い人の様子を見、文香は苦笑いする。

「で、シュユはどうだった」

 生理食塩水の涙を拭い去った寺坂に問われ、シュユは少し首を曲げる。

「見ている側の感情に働きかける演出と描写が絶妙だったね」

「じゃ、面白かったんだな」

「そういうことになるね」

「なら、いいけどよ」

 次回はもっと派手なやつにしようぜ、と寺坂は道子に迫るが、道子はすぐさま否定していた。ベッタベタに甘いラブ ロマンスにしましょうよ、と道子は力説するが、寺坂は大味なハリウッド映画がいいと食い下がっている。浄法寺で 映画の上映会を始めようと言い出したのはどちらであったか、どちらでもなかったのか、それ自体があやふやでは あるのだが、娯楽があるのはいいことである。映画だけであれば、衛星放送などで延々と放映しているが、自宅の テレビとスクリーンで見るのとでは迫力が段違いだ。寺坂が若い頃に買ったはいいが、押し入れで埃を被っていた 音響装置も本堂の四方に配置してあるし、何より住民が少ないので、近所迷惑を気にせずに音量を上げられるの が最大の利点だ。その甲斐あって、浄法寺での月に一度の上映会には、余程のことがない限りは集落の住民全員 がやってきてくれる。退屈凌ぎには丁度良いからだ。
 上映会の後のお茶会が終わり、皆が帰ると、本堂はがらんとした。シュユはスクリーンの撤収を手伝ってやると、 道子からやたらと感謝された。寺坂は用意は手伝ってくれるものの、片付けは手伝ってくれないから、感激したのだ そうだ。寺坂は渋い顔をすると、シュユの触手から丸めたスクリーンを奪って納戸に向かっていった。

「ニルヴァーニアンにも、こういう娯楽ってあったんですか?」

 人数分の茶碗を盆に載せた後、座卓を濡れ布巾で拭きながら、道子が問うてきた。

「あったんじゃないかな。宗教という概念があるんだから、宗教を流布するために用いる手段として、物語を作って いた可能性は高いね。映画にしろ、演劇にしろ、文字が読めなくてもストーリーさえ追うことが出来れば、作り手側 の伝えたい概念や価値観といったものは教えられるからね」

 茶菓子の残りである酒饅頭をもそもそと食しながら、シュユが答えると、道子は納得した。

「確かにそうですねー。演劇は元々宗教的な祭事が発展したものですから、宗教と演劇は切っても切れない関係 にありますからね。ニルヴァーニアンは宗教ありきの種族だったみたいですから、尚更ですね」

「だが、ニルヴァーニアンは元々何を信じていたんだよ」

 納戸から戻ってきた寺坂は、プロジェクターの配線を外していった。

「ああ、それもそうですねー。最終的に神様っぽい立ち位置に進化はしましたけど、神様の概念があるってことは、 ニルヴァーニアンにも神様がいたってことですもんね。まあ、神様って言ってもピンキリですし、唯一神とか絶対神 とかもありますけど、土着の神様とか、道具の神様とかも神様の部類に入りますからね」

 で、どんな神様だったんですか、と道子からも問われ、シュユは答えに窮した。

「神様?」

「でなきゃ仏か、閻魔様か、なんでもいい。敬意と畏怖を同時に抱く存在か、事象か、概念か、とにかくそういうのが 神様ってもんだからな。知ったところで何がどうなるってわけじゃないが、知って無駄でもないだろうしな」

 プロジェクターを箱に収めてから、寺坂が振り返った。シュユは触手を垂らし、俯く。

「神様……」

「まさか、いないのか?」

「でなきゃ、ニルヴァーニアンは俺が神だーって勢いの種族だったんですか?」

 寺坂と道子に問い詰められ、シュユは腰を捻って更に俯く。

「う、うーん」

 思い出せそうで思い出せない。もうちょっと考えさせてほしいな、と二人を押し返してから、シュユは下半身の触手 を波打たせて本堂を後にした。浄法寺と隣り合った墓地の片隅に立ち尽くし、夕焼けに染められた集落を一望し、 シュユは懸命に異次元宇宙に宿る情報を引き寄せようとした。情報の波が増えるように煽り、荒立たせるも、思う ような情報が見つけ出せない。普段であれば、目当ての情報は息をするようにダウンロード出来るのだが。
 不意に空しさに襲われ、シュユは墓地の端で下半身の触手を抱えて座り込んだ。背中から生えた青く透き通った 光輪、生体アンテナも感度を上げてみるが、結果は同じだった。うねうねと不規則に蠢く触手の束に顎を載せて、 茜色と藍色のグラデーションが掛かった空を仰ぎ見ながら、シュユは情報の海に意識を委ねた。
 ニルヴァーニアンに神様はいたのだろうか。




 遠い過去か、遙かな未来か。
 そのどちらかであり、どちらでもある時間軸に、ニルヴァーニアンの原型たる種族は存在していた。時間とは平坦 に直進するものではないからだ。空間と次元が捻れていれば、同一の時間軸であろうと、過去であると同時に未来 となる場合も珍しくはない。だから、ニルヴァーニアンの存在していた惑星と物質宇宙も、時間の残滓が降り積もる 底に位置していると共に、時間の砂粒を一つ一つ零す匙の上に位置している。
 当初は地球人類とも大差のない種族であり、肉体を伴い、重力に縛られ、価値観にも個体差があった。それが なぜ、平坦な思想と価値観を良しとするようになったのか。切っ掛けがなければ、ニルヴァーニアンは精神波で意思 の疎通が行えるだけの炭素生物の範疇に留まっていたはずだからだ。記憶を引き出すために波間を探っていくが、 手応えがない。異物で塞がれているかのように、断線しているかのように、情報の連鎖が途切れていた。

「ふむ」

 異次元宇宙に精神体を浮かばせながら、シュユは星々の散らばる闇色の海を見渡した。どうやら、何らかの理由 でニルヴァーニアン全体に情報の取得制限を行っているらしい。シュユがニルヴァーニアンの神様に関する情報を 検索しても一向にそれらしい情報が算出されなかったのも、それが原因と見ていいだろう。

「でも、どうしてだろう」

 過去を知らなければ、己の種族について理解出来ない。理解出来なければ納得出来ず、納得出来なければ了承 出来ず、了承出来なければ嚥下出来ない。ただの炭素生物だった時代はニルヴァーニアンにとっての汚点という 扱いなのかもしれないが、だとしても、あまりにも安直だ。仮にも、物質宇宙の神として君臨しようとしていた種族の やることではない。かといって、ニルヴァーニアンが全く別の知的生命体に接触されて過去と歴史を封殺されたとも 考えにくい。異次元宇宙を構成している情報は、一切合切がニルヴァーニアンに由来するものだからだ。

「いかがなさいましたか」

 太陽風に似た粒子とエネルギーを含んだ微風が吹き寄せ、シュユを包んでは過ぎ去り、声を残していった。

「やあ、クテイ。意外と元気そうだね」

 精神体としての形をも成していないが、かつて、物質宇宙に憧憬を抱いたがあまりに地球に降りた彼女に間違い なかった。白色矮星の色味に近い青白い光の粒子が集うと、曲線の多い輪郭を作り、クテイの立体映像がほのか に浮かび上がった。シュユは触手を伸ばすが、クテイには触れられず、光の粒子がほろりと崩れた。

「彼を葬るために、そこまで消耗しちゃったのかい」

「ええ」

 異次元宇宙の波間に漂いながら、クテイは凹凸のない顔を反らし、頭上に横たわる銀河の渦を仰いだ。

「長光さんの業はあまりにも深く、重く、暗いものでしたから。シュユが感知している私も、本物の私ではありません。 異次元宇宙に残った私の情報の残滓にシュユが概念を与えてくれたからこそ、一時的に情報が凝固し、かつての 私と大差のない人格と情緒と思考パターンを備えたのです。本物の私は、輪廻の環にすらも至れないほどの深淵 にて、長光さんを抱いております。それしか、出来ることがありませんから」

「そう。彼の人格とそれに関連する情報は不純物が多すぎるからね、処理に時間が掛かるのは当たり前だよ」

 シュユが労うと、クテイは卵形の頭部をシュユに向けた。

「つばめちゃんとコジロウ君、長孝は御元気ですか?」

「そりゃもう。だから、きっちり寿命を全うするさ」

「でしたら、よろしいのです」

 微笑むように、クテイの目元が柔らかく歪む。

「せっかくだから聞いておきたいんだけど、ニルヴァーニアンの神様って何だろうね」

 シュユが尋ねると、クテイは仮初めの肉体を構成している光の粒子を瞬かせる。

「我らにとっての神ですか」

「そう、神様。僕達は神様になろうとしたけど、なり損ねた。でも、神様になろうと思ったってことは、僕達にも神様が いたはずなんだよ。でも、それがどうしても思い出せない。思い出そうとしたけど情報が分断されていて、物質宇宙 からだと接触も出来なかったんだ。だから、わざわざ異次元宇宙に来てみたんだけど、手詰まりでね」

「それは不思議ですね。シュユはニルヴァーニアンの中でも旧いものでありますのに」

「うん、そうなんだよ。だから、アクセス権限は幅広いはずなんだけど」

「長光さんに、少しずつ刺激を与えて新陳代謝を促さなければならないのですが、圧倒的に情報が足りないのです。 それを得るために、私はこうして異次元宇宙に至ったのです。ですが、シュユから概念を与えられていなければ、 私は私という形を作ることすらも危ういほど弱り切っております。ですので、シュユ」

「ああ、うん。そうだね。話し相手がいるのといないとじゃ、気概が変わるしね」

 要するに、クテイは連れて行けと言っている。シュユが了承すると、クテイは安堵したのか、光の粒子から零れる 光が柔らかくなった。では、まずはどの時代の情報から掘り返そうか。幻影にも満たないほど脆弱な存在でしか なくなったクテイを伴って、シュユは波間に精神体を滑り込ませた。
 冷たくもなければ重くもなく、息が詰まるはずもないのに、精神体の芯が絞られるように痛んだ。それはシュユが 感じている畏怖なのか、クテイが感じている寂寥なのか、或いは他のニルヴァーニアン達が感じている敬意なのか は定かではなかったが、原初の感情を突き動かすものであることは確かだった。
 時間の砂と共に、緩く、静かに、沈んでいった。







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