DEAD STOCK







 瓦礫まみれの大地、濁った海、そして壁に隔てられた暗い空。
 また、いつもの夢だ。壁の圧迫感と暗闇の閉塞感と鼻の奥にこびり付いた汚臭は本物だ。錯覚にしては、やけに リアルすぎる。夢見が悪すぎるので、医者に掛かって診断してもらったこともあったが、精神的なストレスによるもの だとしか言われなかった。処方された薬は一度も飲まずにゴミ箱にぶちまけた。嗅覚が過敏すぎるから嫌な匂いを 感じてしまうのだ、とも診断されたが、そんな覚えはない。むしろ、感覚は鈍い方だ。そうでもなければ、こんな街 では一秒たりとも生きてはいけない。
 早朝から、近所の家から怒鳴り合いが聞こえる。どこかの路地裏から、酒臭い匂いがする。ゴミ捨て場にはいつも 見慣れた顔触れの浮浪者が溜まっていて、ドラッグの売人が涎を垂らして痙攣している。ぱぁん、との乾いた銃声 が目覚まし代わりになるのもまた、いつものことだった。人種もごちゃ混ぜで、人間と人外が鬩ぎ合っている。人数 だけなら人間の方が多いが、幅を利かせているのはヴィラン崩れの人外だ。
 狭くて古くて汚いアパートメントの一室にいるはずのもう一人の住人は、まだ帰ってきていない。今度こそ誰かに 殺されちまったかな、と娼婦の母親の行く末を案じたのはほんの数秒だけで、関心は冷蔵庫の中身に移っていた。 いつもろくなものは入っていないが、胃袋を膨らませられるだけの品物は揃っていた。チョコレートミルクとマカロニ チーズ、それだけである。どぎついカロリーの固まりで血糖値を上げてから、少年はいい加減に片付けをして、登校 する準備に取り掛かった。
 学校に行く意思があるだけ、まだ自分はまともだ。この街から抜け出す足掛かりを、着実に築いている。そうでも 思わなければ、腰を上げる気力もなくなるのもまた事実ではあるが。汚れた洗面台の鏡には、十六歳の誕生日 を迎えても身長が伸び悩んでいる子供の姿が映っていた。下校してからすぐ、生活費を稼ぐために工場に働きに 行くので、着替えを持ち歩く手間を省くためにTシャツを着てからオレンジ色の作業着を着込んだが、身長が低いので 両手足の袖が余ってしまっている。裾上げすればいいのだが、生憎、裁縫が不得手なので捲るだけだ。

「よおし、お前は今日も最高にイケてるぜ!」

 ユニットバスに常設してある防水ラジオを付け、そこから流れ出したハードロックにノリながら自分に言う。

「お前はいつだって誰よりもキマッてる、ナチュラルにハイってやつだ!」

 なけなしの金で買ったヘアワックスで半端に切ったブロンドの髪を撫で付け、逆立てる。

「ああそうさ。お前ってやつはいつだって一番に決まっていやがる、なあベイビー?」

 通学カバンにしているリュックサックからガスマスクを引っ張り出し、鏡の前に置いて自分と向き合わせる。

「ケチな工場長をぶっ飛ばせる能力に目覚めるのは今日か、明日か? いや、今この時だ!」

 どこかのゴミ捨て場で拾ったガスマスクの薄汚れたゴーグルに映る自分に向けて、笑ってみせる。

「あの淫売女を立派なマダムに仕立て上げられるほどの金が拾えるのは今日か、明日か? 永遠に無理!」

 自分の言葉でげらげらと笑い転げてから、少年は唯一の親友であるガスマスクを小突く。

「なあおい兄弟、あのラジオ、最高だよな?」

 マジ最高だよ、と自分で相槌を打ってから、少年は笑いを収めた。この世には、ヒーローとヴィランとそうではない 人種が存在している。いつ、どうして、なぜそうなったのかは誰も知らないし、突き止められたこともないが、世の中は ヒーローとヴィランによって回っていると言っても過言ではない。彼らの凄まじい能力は大衆娯楽として楽しまれて いるだけでなく、産業や開発や発明にまで貢献している。ヴィランもまた、国家の遺恨を背負ってヒーローと代理 戦争を行うことで世界平和に貢献している。もちろん、そのどちらにもならないヴィジランテも多く存在しているが、 反社会的な行動さえ取らなければヒーローやヴィランとの戦闘が法的にも許可されている。何の能力も持たないが 外見だけは人間離れしている者達もいるが、ヒーロー達の行いによって差別から免れるようになり、能力も外見も 特異ではない普通の人間達とも均衡を保っている。表向きは、ではあるが。
 つまり、この世界は能力主義の極みなのだ。だから、成功するか否かはどんな能力を生まれ持つかという時点で 決まっている。後天的な能力に目覚める可能性は極めて低く、人工的な能力は開発出来た試しはなく、能力とは 近親者が能力者である場合に発現する例が大多数だ。故に、親が能力者であるか否かで人生設計が出来上がる ようなものだ。少年の母親はどこにでもいる娼婦で、愚かではないが学がない。父親が誰かは知らないが、どうせ 行きずりの客だろう。だから、少年が能力に目覚める可能性は皆無だが、あのラジオを聞くことが出来た。
 エアウェーブという名のヒーローが発信しているラジオ放送、クリミナル・リポート。この番組を聞くために必要な のは高性能なラジオでもパソコンでもなく、能力を持っている肉体なのだ。だから、ヒーローかヴィランであれば無条件 で聞けるが、そうではない者は存在を知ることすら出来ない。少年は、汚い街の片隅で飲んだくれていたヴィラン 崩れからその話を聞いたので存在を知っているが、知っているだけだった。聞けなかったからだ。
 だが、昨日の夜、突然ラジオから流れてきた。否、体が受信した放送電波をラジオのスピーカーが音声に変換して くれたものを、耳にした。夢だと思ったが、現実だった。そして、そのラジオの中で伝えられていた謎の男に関する 話が脳にこびり付いていた。ヒーローもヴィランも正体を知らない輩が、遠い過去から長らえていて、現生人類に 仇を成す者を人知れず倒しているだなんて、痺れるほど格好良い。最高の十乗の最高だ。
 遠からず、何らかの能力に目覚めるかもしれない。そう思うだけでぞくぞくしてきて、じっとしていられなくなるが、 能力者だったと気付いたことは誰にも言わずにいよう。下手に喋ったりしたら、ハイスクールの上位階級の連中に 嬲り者にされてしまうからだ。彼らはヒーローでもヴィランでもないが、少なからず能力を持っている。だから、能力を 持たない者達を簡単にいたぶるし、蔑むし、見下せる。
 だが、それもあまり長くは続かない。続かせない。アパートメントを飛び出した少年は、嬉しすぎてひどく緩んだ顔 を隠すためにガスマスクを被り、オンボロのスケートボードに乗ってスクールバスの停留所を目指した。
 あの汚臭は、まだ鼻の奥に残っていた。




 鉄の鳥は死んだが、彼女は生きている。
 だから、この星の上であれば、瞬時にどこへでも行ける。どういう理屈なのか、と尋ねてみると、偽物の羽に保存 されている情報の中には、アッパーがイミグレーターとの小競り合いの際に開発したはいいが、諸々の事情で地中 深くに埋めた空間転移装置を動かせるパスワードが入っていたのだそうだ。その空間転移装置のエネルギーは、 地球のマントルから得ているので、当分はエネルギー切れを起こさないのだそうだ。彼らの廃棄物も、あまり捨てた ものではない。死蔵品であろうとも、いつか役に立つ日が来るのだ。
 かつて、彼女とその姉妹達はアッパーの消耗品であると同時にアッパー同士が情報を共有するために使っていた 情報記録媒体でもあった。彼女とその姉妹達は、そうして得た情報にアクセスすることも出来なければ使用すること など以ての外であり、並列化された意識の狭間に溜め込んでいくばかりだった。アッパーが堕落していくに伴って、 その情報の整理が行われなくなり、パスワードや認証コードといった重要な情報すらも預けるようになった。彼らは 快楽に耽溺しすぎたが故に、危機意識すら持たなくなったからだ。だが、そうなっていなければ、今はないのだとも 痛感する。少年の娘が鉄の鳥の動力源を使えたのも、そのエネルギーを使い切った後も作用が残るように設定 することが出来たのも、データベースにあった情報を元に空間転移装置の存在を知れたのも、アッパーのだらしなさ のおかげである。過去の歴史もそんな感じだった、と彼女は笑っていた。
 リザレクションの能力を不本意ながら受け継いでしまう、不死能力の持ち主は、突然変異体だらけの能力者の中 においても突然変異体だ。彼らを見つけるための手段は至って簡単だ、この世界に発達した情報のネットワークで ある。そして、エアウェーブなるヒーローが発信している、能力者限定のラジオ放送も貴重な情報源だ。彼は全世界 のどこへでも電波を発信出来るのと同時に、ありとあらゆる言語を一瞬で解読するばかりか、ラジオを聞いている 相手の母国語に自動的に変換されるように電波を操作出来るという、かなり便利な能力の持ち主だ。
 エアウェーブが毎週のように世界中の新聞に載っているヒーロー絡みの記事を読み上げてくれるから、いちいち 現地まで行って調べる手間が省ける。彼女は毎日のように大量の新聞を読んではインターネット上のウェブサイト にアクセスして調べているが、その方が却って効率が悪い。だが、退屈凌ぎにはなるのだろう。

「今日はどこだ」

「にしかいがん」

「その、どこだ」

「ええと……とにかく、にしかいがんのまち。こうつうじこがおきたのに、ひかれたのに、ふつうにすごしているひとが いるっていう、うわさがネットにある。だから、たぶん、アレがいる」

「解った」

 不死能力者が出現したと思しき地点に行って、不死能力者を殺すのは、男の最大の娯楽にして最高の快楽だ。 何せ、簡単に死なないからだ。あの女を殺す機会を最後の最後で奪われてしまったので、その穴埋めに不死能力 者を殺していると言ってもいい。この快楽を味わえるだけでも、生きている甲斐があるというものだ。

「ん」

 彼女が手を差し伸べてきたので、男は渋々ながらも左手の手袋を外し、差し出した。

「なぜ触れる必要がある?」

「せいたいせっしょくをおこなうことで、くうかんてんいそうちのてんそうせいどがあがるから」

「それは言い訳だろう」

「なぜわかった」

「俺の良心を未だに疑うのか」

「む」

「違うのか? だったら、なんだ」

 少し笑いながら、男は彼女の右手を掴む。昔は触れた瞬間に互いの手が引きつっていたが、今では躊躇いもなく 握ることが出来ている。自分の意思で能力を抑えられるようになったのは、少年の娘が世界の理をほんの少しだけ 変えてくれたからであり、男が己の内心に芽生えたものに気付けたからでもある。
 それに気付けただけでも、右腕を失った価値があるというものだ。左手で彼女の成長しなければ衰えもしない手を 握り締めると、柔らかな手応えと暖かな体温が返ってきた。成長出来ないのは母親から譲り受けた遺伝子のせいで あり、衰えないのは彼女とその姉妹を作ったアッパーのせいなのだと、過去に彼女は語った。男が衰えもしなければ 老いもしないのは、全てを腐らせる能力の弊害であるとも言った。細胞が老化する際に発生する分子の揺らぎを エネルギーに変換して微生物を活性化させて腐敗を促しているから、という理屈なのだそうだが、それが苦だと思った ことはない。連れ合いがいるといないのとでは、終わりの見えない時間を過ごす心構えが変わるからだ。
 今にして、あの女が男に殺されたがっていた気持ちが理解出来る。単なる自殺願望でもなければ、退屈凌ぎでも なかった。同じ時間を共有し、感情を共有し、触れ合える相手が欲しかっただけなのだ。それを恋というのはあまり にも安易で、愛と呼ぶには醜悪だ。かつては女神とすら呼ばれたあの女の感情に、当て嵌まる言葉は。
 堕落だ。




 スクールバスには乗り遅れた。
 当然ながら遅刻し、事務室に行かされて遅刻届を書かされた。これで、今学期は何度目になるだろうか。数えて みようとしたが、考えただけでうんざりしたのですぐ止めた。スクールバスに乗り遅れるのは自分のせいではなくて、 上位階級の生徒が運転手が賄賂を渡して早く発進させているからだ、と教師に言ったこともあるが、教師達もまた 上位階級の生徒の味方なので何の意味もなかった。それどころか、他の生徒を貶める嘘を吐いたとして、余計な 懲罰を喰らった。それでも授業には出ているが、苛々しすぎて内容はほとんど頭に入ってこなかった。
 昼休みになったが、カフェテリアの中にはどうせ入れないので、校内の隅で昼食を摂ることにした。リンゴ一個で 腹が膨れるとは思えないが、ないよりはマシなので黙々と囓った。リンゴのついでに持ってきたガスマスクを足の間 に置いて時折話し掛けてやりながら、時間を潰していると、前触れもなく悲鳴が聞こえた。
 どうせまたケンカだろう、と少年がやり過ごしていると、悲鳴が絶叫に変わった。思わず音源の校舎に目をやると、 最上階の窓から身を乗り出していた女子生徒が真っ逆さまに落下した。ぎゃあああきゃあああ、との悲鳴に混じり、 ぱきゃっ、との硬い破砕音が響いた。頭蓋骨が割れたからだ。鮮やかな血飛沫と脳漿をぶちまけながら、女子生徒 は倒れ込む。手足がでたらめに痙攣し、膝丈のスカートが捲れ、ブラウスに脳漿が染み、血がレンガ敷きの通路の 目に沿って広がっていく。その光景に、少年は喉の奥に今し方食べたものが戻ってきそうになった。

「あ……あいつって」

 あの古臭いブラウスとスカートには、見覚えがある。ぐちゃぐちゃに潰れた顔は見えないが、服だけで充分解る。 少年と同じくスクールカーストの底辺にいる人間の女子生徒、ハンナ・バークリーだ。両親が禁欲主義の宗教狂いで、 本人もその思想に染められていたが、最近では彼女なりに同年代の少女達に追い付こうとしていた。しかし、 そのささやかな変身願望が上位階級の生徒達に目を付けられないわけがなく、校内で見かけるたびに誰かしらに 虐げられていた。だから、いずれこうなるだろうと、少年も心のどこかで思っていた。
 警察と救急車が来るまでは、もうしばらく時間がある。校内全体が大騒ぎになっていて、不謹慎な生徒は彼女の 死に様を携帯電話で撮影しては騒いでいる。俺は何も見なかったことにしよう、と少年は内心で決心し、その場から こっそりと離れようとした。ガスマスクを作業着の腹に入れて抱きかかえ、胃液を堪え、立ち上がる。

「けけけけけけけけけけ」

 怪鳥のような哄笑が、校内のざわめきを切り裂いた。

「そお! そうなんだぁ!」

 ぎくしゃくと両手足を曲げ、突っ張り、脳漿の零れた頭蓋骨を左右に振りながら、血で固まった髪を揺らす。

「わたしはぁ、かみのこなんだぁ!」

 黒縁でレンズの大きいメガネが割れていて、片目に破片が突き刺さっていたが、ハンナ・バークリーはそれを 厭わずに立ち上がった。割れたばかりの頭蓋骨が塞がり始め、片目の破片も自然と抜けて穴が塞がり、裂けた 瞼も同様だった。嘘だろ、おいまさか、との声が次々に上がる。その様に、少年は戦慄した。
 これではまるで、エアウェーブがラジオ放送で言っていたブラックリストと同じではないか。不死能力者だ。たまに 現れる、能力者の中でもイレギュラーな能力者にして異端者。能力自体もさることながら、不死能力を持った弊害で 人格が著しく歪んでしまう。その症状の原因は不明だが、不死能力者の遺伝子には似通ったパターンがあるので、 それが何らかの作用をもたらしている、と、どこかの御立派な医者がテレビで言っていた。ハンナ・バークリーも、 その例から漏れていない。
 砕けたレンズが抜け落ちたメガネの奥で、潰れていない目がぎょろつき、少年を捉えた。少年がぎくりとして慌てて 立ち去ろうとすると、ハンナ・バークリーは血塗れで前歯が何本も折れた口を広げ、けけけけけけけ、とまた笑った。 あんたはわたしをたすけなかったね、みのがしたね、おぼえているよ、と彼女は言う。少年は足が竦み、言い訳すらも 口から出てこない。一人でいる時は、あんなにも舌が回るのに今は上顎に貼り付いている。ハンナ・バークリーは 折れた足を引き摺って歩いていたが、粗雑に骨の位置を戻し、裂けた口で笑みを浮かべた。
 不意に。あの、汚臭が鼻を突いた。





 


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