横濱怪獣哀歌




車輪ヨ、我ガ夢ヲ回セ



 工場の裏手で、狭間はタバコを燻らせた。
 水を張った一斗缶に灰皿に灰を落としつつ、ため息と共に紫煙を吐き出す。そうでもしないと、心中のざわつきが 拭い去れなかったからだ。努めて明るく振舞いながら、佐々本うららは話した。あの日、タカさんは造船所ごといなく なっちゃったのよ、と。整備を終えたトラックを納車しに行った時、折り悪く光の巨人が現れたのだそうだ。そして、 納車したばかりのトラックごと消失した。思い返してみれば、造船所の門に貼り出された名簿の中に、佐々本忍孝 の名前があった。雨水で滲んだ文字と萎れた花束と、職人達に捧げられた酒とタバコ。

〈人の子、決してお前を許しはしない。俺は穏健派でも強硬派でもないが、俺はお前が心底憎い〉

 どろぉぅおん、と鈍く唸ったのは、工場の裏手に停められている大型のロードバイクだった。カワサキ・Z650B1。 通称ザッパーと呼ばれているバイクだ。赤いボディカラーのザッパーは前輪を曲げ、ライトを狭間に据える。

〈お前はいつまで漫然としているんだ。自分の役割を理解したのならば、行動に出ろ〉

「そう言われてもな、俺にも生活ってものがある」

〈大義を担わされたのであれば、それ相応の覚悟を据えるべきだ。そんな些末なことに構っていたら、光の巨人の 被害を食い止められるわけがない。他の怪獣共がお前にどんな期待を抱いているのかは知らないが、期待された 分だけ応える必要がある。お前が俺達の声を聞き取れることに何らかの意味があろうがなかろうが、通じ合える 相手と解り合おうと試みもしないのか。そんなことだから、強硬派がのさばるんだ〉

「怪獣は怪獣で、人間は人間だ」

〈そうやって斜に構えているだけで物事が解決したら、誰も苦しみはしない〉

「じゃあ聞くが、俺に何が出来ると思うんだ? 資格もなければ学歴もないし、怪獣について知っていることもそんな に多くはないし、腰も軽い方じゃない。スーパーヒーローになんかなれはしないし、なるつもりもない。ツブラのこと は出来る限り守ってやるが、本当に出来る限りなんだ。だから、お前達も俺を買い被るなよ。期待するだけ損だ」

〈そうだ。だから、余計に腹が立つんだ。そうやっていつまでも問題から逃げているといい、逃げて逃げて逃げ切って、 怪獣からも人間からも天の子からも愛想をつかされるといい。そして、怪獣共は気付くといい。俺達の声が聞こえるだけ でしかない愚劣な男に星の行く末を担わせた、愚かさと馬鹿馬鹿しさにな〉

 どるぉん、とザッパーはまたも唸り、ヘッドライトを瞬かせる。

「そりゃどうも」

 敢えて否定はせず、狭間はやり過ごした。ザッパーの言葉は耳に痛かったが、そのどれもが狭間が胸の奥底で 密かに抱いている理想だった。怪獣使いを凌ぐ力で怪獣達を意のままに操り、ツブラと共に光の巨人を圧倒 し、この世を守れればどんなに素晴らしいだろうか、と夢想することが時たまある。だが、それは醜悪な現実逃避であり、 ただの妄想なのだとも理解している。
 ザッパーの言葉が心のあちこちに突き刺さったまま、狭間は佐々本モータースを後にした。ツブラが手を付けず 終いだったコーヒー牛乳の紙パックをポケットに入れて、ひとまず古代喫茶・ヲルドビスに顔を出してから帰宅しよう と元町商店街の外れに足を向けた。ツブラは自動車整備工場で見たものが余程面白かったらしく、少ない語彙を駆使 して興奮気味に喋っていたので、狭間はやる気なく相槌を打っていた。
 空き地に差し掛かると、あの紙芝居屋がいた。紙芝居はとっくに終わっていて、荷台に積んである舞台も駄菓子も 片付けられていたが、紙芝居屋は鳳凰仮面の扮装を身に着けていた。金色の覆面と衣装に鳳凰の尾羽をイメージ した七色の襟巻と腰巻、両手には白いグローブ、両足は脹脛の中程の丈の白いレスラーシューズ。前よりも付属物 が増えているので、改良したらしい。正義の味方は、空き地の隅にある角材の山の陰を覗き込んでいる。

「何やってんですか、紙芝居屋さん」

「デスカ?」

 狭間とツブラが近付くと、鳳凰仮面は振り返り、妙なポーズを決めた。

「また会ったな、青年とその娘さん! 元町商工会の面々から話を聞いたんだが、君はヲルドビスで働いているそう じゃないか! 俺もあの店にはたまに行くぞ、嫁さんの付き合いで! コーヒーの旨さがやっと解ってきたぞ!」

「それはどうも。で、何をしていたんですか。野良ネコでもいましたか」

「それがなぁ……」

 勢いを失った鳳凰仮面は、青いビニールシートが掛けられている角材と板塀の間を覗き込んだ。狭間とツブラも それに倣うと、薄暗く狭い空間に佐々本つぐみが座り込んでいた。特徴的な二つ結びの髪を垂らして俯き、しゃくり 上げている。涙に濡れたハンカチを握り締めているつぐみは、狭間とツブラを一瞥するが、背を向けた。

「どうしたんです、あの子。いじめられたんですか」

「つぐみちゃんはそういうタマじゃない。やられたら倍にして返す女性だ。だから、こうなってしまうのさ」

 鳳凰仮面は角材と板塀の間に入り込んだが、狭いので苦労しつつ奥へと進み、つぐみの傍に腰を下ろす。

「この鳳凰仮面には君の涙を止める術はないが、受け止めることは出来るぞ。それがヒーローってものだからな」

「いらない」

「まあそう言わずに」

 つぐみに一蹴されるも鳳凰仮面は食い下がり、サングラス越しに少女を見守った。つぐみは鳳凰仮面を窺うが、 またすぐに俯き、泣きじゃくった。必死に声を殺していて、小さな肩を縮めていて、あの気の強そうな目元は痛々しく 赤らんでいた。きつく結んだ唇の端からは嗚咽が漏れているが、それも懸命に堪えている。
 光の巨人の襲撃により、イナヅマと造船所ごと佐々本忍孝が消えてからは、まだ二ヶ月も経っていない。つぐみも うららもそれまで通りの日常を送っているが、それまで通りであるかのように見せかけているだけだ。つぐみが 一人で泣いているように、うららもきっと一人で泣いているに違いない。そして、小次郎は大黒柱を失った母娘 を遠巻きに見守っている。近付き過ぎては深入りしてしまうからだろう。つぐみに冷淡な態度を取っていたのが、 その証拠だ。誰も彼もしっかりしていて、意地っ張りだから、そうなってしまったのだ。
 つぐみが泣き止んだ頃、狭間はすっかり温くなってしまったコーヒー牛乳を渡してやった。つぐみは躊躇いながらも コーヒー牛乳を受け取り、一気に啜り上げた。散々泣いて腹が減っていたからである。涙と鼻水でべたべたになった 顔を拭いたつぐみは、ようやく落ち着きを取り戻し、話し始めた。

「――――お父さんがいなくなったのは寂しいよ」

 空になったコーヒー牛乳のパックを握り締め、つぐみは声を詰まらせる。

「光の巨人を恨んでもどうにもならないし、何をどうしたって帰ってこないし、お父さんがいないことには私もお母さん も一生慣れないだろうけど、でも、どうしようもないんだ。だけど、どうしようもないんだって思おうとしても、この野郎 って思っちゃうんだ。光の巨人もそうだけど、自分に。お父さんがいなくなったことを認めちゃう自分が嫌なんだ。どう しようもないけど、どうしようもなくなくて、どうすりゃいいのか訳解らなくなって……こうなっちゃうんだ」

「たったの二ヶ月足らずで折り合いを付けろというのが無理な相談だ。鳳凰仮面もそうだ、タカさんの他にも造船所で 働く職人の中に古い友人がいたからな。だから、強引に感情を押し込めたりすると、つぐみちゃんもうららちゃんも 折れてしまう。今はそうしているがいいさ。鳳凰仮面もそうだからだ」

「うん。でもね、もっと訳解らないのがね、小次郎なんだ」

 つぐみは洟を啜り上げ、また滲んできた涙を拭う。

「小次郎はバイク乗りなんだよ。レーサーなんだよ。それなのにバイクを降りるっていうんだ。バイクで走るのが好き で仕方ないくせに、お父さんの御下がりのザッパーを暇さえあればいじり回していたくせに、二度とレースには出ない って言い出したんだよ。うちの工場を維持しなきゃいけないから、仕事しなきゃいけないからって」

「小次郎君、去年のロードレースで良い線引いたもんなぁ」

「そうなんだよぉ。もう一息で優勝出来そうだったんだけど、最終ラップののホームストレートで失速しちゃったから 十七位。ペース配分は上手なの、お父さんが言うにはね。でも、路面温度とタイヤの消耗の計算をちょっと間違えた らしくって、その結果がアレだったんだ。もう一度挑戦すれば、今度は絶対優勝出来るはずなんだよ」

「あー、だからか……」

 あのザッパーが不機嫌だった理由を察し、狭間は苦い気持ちになった。ザッパーは以前から狭間を疎んでいたの だろうが、光の巨人の襲撃の余波で腕の良いライダーが降りてしまうかもしれないという懸念に駆られていたから、 ああも攻撃的な態度を取ったのだ。袖が引っ張られたので振り返ると、ツブラが物陰を指した。

「ッパー」

「あ」

 ツブラの短い指が示した電柱の陰には、誰も乗っていないザッパーが止まっていた。こちらに後輪を向けている ので、ナンバープレートが読み取れた。佐々本モータースにいたものと同じナンバーだった。頭隠して尻隠さずだ。 つぐみのことは鳳凰仮面に任せてから、狭間はザッパーに近付くと、ザッパーは僅かに排気筒を震わす。

〈つぐみは〉

「散々泣いたから、今は落ち着いている。心配なのは解らんでもないが、自分ちで大人しくしておけ」

 カモフラージュのために狭間はザッパーのシートに腰を下ろそうとするが、ザッパーはするりと避けた。

〈俺のシートは社長と小次郎のものだ!〉

「だったら来るなよ」

〈つぐみが妙なやつに絡まれてはいないかと思うと気が気じゃないんだ、あいつはしっかりしているようでいて意外と 危なっかしいんだ。見ろ、今だってキンキラキンの変態に〉

「あれは紙芝居屋の旦那だ」

〈えっ、あっ、言われてみれば確かに……。だったらまあいい、あいつは変だが無害だ〉

「で、何しに来た。早いところ、工場に帰れ。でないと、俺が盗人扱いされてまたややこしいことにだな」

〈小次郎と戦ってくれ〉

「戦えって、バイクレースで?」

〈それ以外にあるか! 今度こそ俺はあいつを優勝させてやる、表彰台に立たせてやるんだ! もう一度走る快感 を味わわせてやれば、あいつはバイクを降りるなんて言わないはずだ! いや、俺が言わせない! 俺はお前が心底 好かないが、お前を利用しなければ小次郎はダメになっちまうんだ!〉

「だが、俺のバイクは当分動かせないぞ」

〈あの女のシビックでもいいぞ〉

「無茶苦茶言うなよ」

 いいから帰れよ、と狭間が強く言い聞かせると、ザッパーは渋々後退し、エンジン音をほとんど出さずに路地裏を 走って帰っていった。ザッパーが第二のお化けバイクになりませんように、と内心で祈りつつ、狭間も帰路を辿った。 当初の予定通り古代喫茶・ヲルドビスに顔を出すと、仕事上がりの愛歌が夕食を摂っていたので、それが終わって から一緒に帰ることにした。その道中で佐々本モータースとザッパーの件を話すと、愛歌は切なげな顔をした。
 シビックを貸してくれと言ったら、はねつけられたが。




 それから狭間は、佐々本モータースを訪ねるついでにザッパーと話し込んだ。
 小次郎とも話し込んだ。彼は口下手ではあるが人間嫌いではないらしく、狭間が来ると少しだけ表情を変えて応対 してくれた。つぐみは狭間と会うのは気まずいのか、学校から帰ってきてもすぐに工場裏手にある自宅に引っ込んで しまった。そんな時、小次郎がつぐみを見つめる眼差しは、兄のそれとは違っていた。つぐみが小次郎を見返した 際の眼差しも同様だった。狭間のように男女の機微に疎い人間でも察しが付くのだから、母親であるうららは当の 昔に知っているだろう。あの時、小次郎がつぐみは妹であると強調した理由もそこにある。異性ではなく肉親として 扱うことで、小次郎は自制心を保つ努力をしているのだ。
 ザッパーと小次郎の話を聞き込んだおかげで、両者の言い分が掴めた。ザッパーは小次郎に立ち直ってもらいたい からこそ乗ってもらいたい、と言った。小次郎はいずれ自動車整備士の資格を取るつもりでいるのでケガをする 危険から少しでも遠ざかりたいのと、ケガでもしたらつぐみとうららの食い扶持もなくなってしまうし、何よりも つぐみに心配を掛けてしまうから、とも。

「まあ、僕も身勝手と言えば身勝手なんですけどね」

 就業時間を終えた小次郎は、工場裏手に停めたままのザッパーのシートを撫でた。

「僕がバイクに乗るようになったのは、社長のおかげなんです。社長とうちの父さんは昔馴染みで、物心つく前から 付き合いがあったんです。小学生の時、佐々本モータースに遊びに来たらポケバイがあって、それに乗ってみない かって社長に誘われたんですよ。言われるがままにポケバイに乗ったら物凄く速くて、怖いけど楽しくて、それ以来 バイクに乗るようになったんです。うちの父さんに代わってレースに連れて行ってくれたのも社長で、バイクの整備 のやり方を教えてくれたのも、走り方を教えてくれたのも、社長で」

 小次郎はザッパーのハンドルを握り、スロットルを回すが、イグニッションキーが抜けているのでエンジンは 震えもしなかった。怪獣タンクの中に潜んでいる怪獣は、得も言われぬ呻きを漏らしていたが。

「だから、バイクに乗り続けるべきなんだって思いはするんですけど、でも」

「何かあったらあの子が路頭に迷うと思うと、気が気じゃないんだな」

 ゴールデンバットを嗜みつつ狭間が言うと、長い長い沈黙後、小次郎は頷いた。

「――――はい」

「真面目だなあ、コジは」

「それだけなんですか?」

「なんだよ、俺にあの子とのことを責めてもらいたかったのか?」

「違いますけど。でも、まーさんからそういう反応が返ってくるとは思ってもみなかったんで」

 気恥ずかしさで目を逸らした小次郎に、狭間は苦笑する。 

「コジはまだ手も握ってないんだろ。見りゃ解る」

「つぐみが本当に小さい頃は繋ぎましたけど、でも、それはそれでこれはこれですから!」

 必死になって取り繕う小次郎に、狭間はにやけた。羞恥心が高ぶってしまったのか、小次郎は狭間に背を向けて 俯いたが、作業帽から出ている耳まで赤くなっていた。世の中には子供にえげつない性欲をぶつける男がいるが、 小次郎に限ってはその辺りの心配をしなくてもいいだろう。呆れるほど純情な青年だ。しかも潔癖だ。この年頃の 青年は未成年ではありながらも酒とタバコの味を知っている場合が多いのだが、小次郎は狭間がゴールデンバットを 勧めても手を出しもしなかった。

「で、結局、コジとザッパーはどうしたいんだ」

「僕はバイクを降ります。ザッパーは手元に置いておきますし、移動する時には使うかもしれませんけど、レース には出ません。ザッパーは社長の形見ですから」

〈人の子、乗れと言え! 俺のガワがどうなったとしても、直せばいいだけだ! 工場の奥に片付けられたくはない、 俺はもっと小次郎と走りたいんだ! 走れと言え! 立ち止まるなと!〉

 小次郎の決意は固かったが、ザッパーの熱意も強かった。死蔵品にされるのは、機械の動力源である怪獣として は不本意極まりないだろう。己の存在意義を否定されるのだから。だが、小次郎が悩み抜いて決断したことなのだ から、横から口出しするべきではない。ザッパーを二台目のお化けバイクにしてしまわないためには小次郎の決意 の理由について言い聞かせてやるべきだろう、と狭間が考えていると、工場の裏口が開いた。

「話は大体解った」

 現れたのは、佐々本つぐみだった。脇にヘルメットを抱えていて、険しい面持ちで小次郎を見据えた。

「小次郎は私をなんだと思ってやがる。私もお母さんもそこまで落ちぶれちゃいない、お父さんがいなくてもどうにで もなる。いざとなったら、工場を売ればいい。だけど、それを小次郎が全部背負う必要もなければ意味もない!」

 きっぱりと言い切ったつぐみは、小次郎を指した。

「どうしてもバイクを降りたいっていうのなら、私と勝負しろ! ポケバイでだけど!」

 つぐみは気が強いとは思っていたが、ここまで強烈だとは。鳳凰仮面の言う通り、いや、それ以上かもしれない。 狭間が呆気に取られていると、小次郎は戸惑いもせずにつぐみを見返した。両者の睨み合いは妙な迫力があり、 狭間の足にしがみついていたツブラは顔を引っ込めてしまった。

「解った。但し、手加減はなしだ。お互いに」

 作業帽を外した小次郎は短髪を掻き上げた後、戦士の眼差しで愛する少女を射竦めた。

「僕が勝ったら僕はバイクを降りる、つぐみが勝ったらバイクを僕は降りない。それでいいね?」

「上等!」

 つぐみは好戦的に笑み、ヘルメットを小次郎に投げ渡してきた。すぐさま工場内に戻り、おかーさーん、と母親 を呼んだ。レースをするからには、準備を始めなければならないからだ。小次郎はフルフェイスのヘルメットを抱えて いたが、狭間に一礼してから工場に戻っていった。当人達が納得しているのであればそれでいいか、と狭間は思い つつ、ザッパーの文句を聞かなかったことにして佐々本モータースを後にした。
 小次郎と一戦交えずに済み、心底安堵した。





 


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