横濱怪獣哀歌




深窓ノ真相



 ツブラの黄色いレインコートには、十円玉が付けられている。
 右ポケットの内側にテープで貼り付けてあり、襟の裏には愛歌のアパートの電話番号が書いてある。万一、ツブラ が迷子になったとしたら、その十円玉を使ってアパートに電話を掛けてくれるように大人に頼め、とツブラは狭間から 言い聞かせられている。着替えのレインコートは一つ残らず十円玉と電話番号が付いていて、十円玉がこれだけあれば タバコが一箱買えるんだがなぁ、と狭間はぶつくさ言っていたことをよく覚えている。
 十円玉が付いているポケットは少し重たくなり、触手でたまに触るとひんやりしていて心地良かった。酸化した銅 の匂いは怪獣が発する匂いにどことなく似ていたから、ツブラは十円玉が気に入っていた。朝、家を出る時に黒髪の カツラとサングラスを被せられるのは窮屈だが、その恰好をしないと外に連れて行ってくれないので仕方なくそれに 従っている。自由を得るには我慢の一つや二つ必要なのだ、と腹を括ったからでもある。
 その日も、ツブラは狭間と手を繋いで外に出た。狭間の手はツブラの手よりも一回りも二回りも大きく、ツブラの 手をすっぽりと包んでしまう。ツブラの視界からでは、狭間の腰までしか見えない。古代喫茶・ヲルドビスまでの道程 には狭い階段と緩く長い坂と車通りが多い道路があり、ツブラの弱い足腰に負担が掛かる場所に差し掛かるたびに 狭間は歩調を緩めてくれた。最近ではツブラも足腰がしっかりしてきたのだが、当初はツブラが事ある毎に転んで しまい、そのせいで始業時間に遅れかけたことがある。なので、狭間は始業時間よりも小一時間ほど早くアパートを 出るようになった。午前五時の早朝は街も人も怪獣も穏やかで、朝露を含んだ空気は滑らかだ。

〈おはよう、天の子〉

〈今日は何もなければいいな〉

〈光の巨人が地球の裏側に現れたそうよ。海の水と岩と、その海に住んでいた怪獣達が消されたわ〉

〈人間になんか懐きやがって、怪獣のプライドはないのか〉

〈今日もまた、怪獣義肢に加工された怪獣が運び入れられている〉

〈どうせ誰も彼も消えるんだ、そうなる前に俺を酷使した人間に俺の痛みを思い知らせてやる!〉

〈苦しい、辛い、外に出して! こんな狭い箱の中で終わるのだけは嫌だ!〉

 矢継ぎ早に降ってくる怪獣達の声は騒がしいが、ツブラは彼らの要望を受け入れることはない。天の子の役割は 人の子とは違うからだ。横断歩道の前で立ち止まった狭間は顔をしかめ、舌打ちする。

「やかましい」

 通り過ぎた車の音に掻き消されるほど小さな声でぼやいてから、狭間は頭を振った。そうすると、ほんの少し だけ怪獣の声が紛れるのだそうだ。四方八方から投げ付けられる暴言と要望は一方的で、狭間の日常や人生を考慮 している怪獣は稀だ。たまにいたとしても、その怪獣と関わったためにろくでもない目に遭う場合が極めて多いので、 狭間は慎重に怪獣達の声を聞き分けている。そこまで気を付けても、ろくな目に遭わないのだが。
 昨日もそうだった。自棄を起こして海に飛び込もうとする車の動力源の怪獣を宥めていたら、その車の持ち主が 現れ、狭間にあらぬ疑いを掛けてきた。傍から見たら、車にちょっかいを出しているようにしか見えなかったからで ある。その後、自棄を起こしていた車の動力源の怪獣は、狭間に話を聞いてもらったおかげで落ち着いたが、車の 持ち主の誤解は最後の最後まで解けなかった。人間同士の方が話が通じづらい、と狭間は後で愚痴っていた。
 古代喫茶・ヲルドビスに到着すると、コーヒーを焙煎する香りが漂っていた。裏口から店内に入った狭間は店主 の海老塚甲治に挨拶してから、私服から仕事着に着替えた。白いワイシャツに黒いベストに黒いスラックスに茶色の 革靴、そして黒いエプロン。個人経営の喫茶店なのにウェイターに制服を着せるのはヲルドビスぐらいね、と愛歌が 言っていたのをなんとなく覚えている。

「んじゃ、良い子にしてんだぞ」

 狭間はツブラを椅子に座らせると、休憩スペースの一角に積んである絵本の山からかぐや姫を取り、渡してきた。 読み込みすぎてへたってきた本を受け取り、ツブラが頷くと、狭間は厨房に入っていった。包丁とまな板がぶつかる 音、鍋の中で煮え立つ湯の熱気、ガスオーブンから立ち上る甘い匂い、焙煎されたコーヒー豆の独特の香りなどの 刺激がツブラの五感に届く。レインコートの下に収めている触手がそれらを受け止め、波打つ。
 狭間が傍にいる。それだけで、ツブラは満足していた。




 そう、思っていたはずなのだが。
 喫茶店の外にも世界が広がっていて、そこにはツブラが見知らぬものが山ほどあって、中でも紙芝居というものは とてつもなく面白かった。絵本に書いてある字は少しずつ読めるようになったが、まだまだ理解しきれていないので、 絵を頼りに内容を把握するだけで精一杯だった。それでもツブラなりに楽しんでいたのだが、紙芝居は絵に合わせて セリフを読み上げるので、絵だけ見ているよりも深く内容が理解出来た。そればかりか、初めて見る物語ばかりだった ので展開が全く読めず、はらはらしながら見守っていると、いいところで終わってしまった。
 怪しい科学者のアジトに乗り込んだ鳳凰仮面は、一体どうなったのか。遠縁の親戚に引き取られていじめられて いた不幸な姉弟は、旅芸人一座と共に旅立てるのか。それが気になってどうしようもなくなったが、狭間は仕事柄 昼間は外に出られないので、ツブラはバックヤードで悶々とするだけだった。
 絵と音が同時に出てくるテレビは目がちかちかするので長時間見ていられないし、紙芝居のようにはらはらする 内容の番組は夜遅くにしかやっていない。漫画は狭間から読み方を教えてもらったが、絵が細かいので何が起きて いるのかが解りづらい。だから、紙芝居が一番だった。
 紙芝居の続きが気になって気になって気になって、ツブラはかぐや姫の絵本を開いてもすぐに閉じ、テーブルに 突っ伏していた。触手をずっと動かさずにいるのは辛いので、レインコートの裾から触手を出して蠢かせていると、 テーブルの隅に置いてある朝刊が目に入った。見出しには、凶悪殺人犯、白昼の逃亡、とある。

「ム」

 退屈凌ぎに、ツブラはその文字が何を意味しているのかを考えた。漢字は形である程度意味が解るようになって きたからでもある。殺は解らないが、人は人間のこと。白は白い色、昼はお日様が高い位置にあるときのこと、逃は 怖いところからいなくなること。亡はまだ教えてもらっていない。つまり、どこかの人間が明るいうちに怖いところ からいなくなった、ということになる。らしい。

「キュウ」

 壁掛け時計の短い針が指している数字を読み上げ、ツブラは考えた。現在時刻は午前九時十二分。ヲルドビスが 最も忙しい時間帯であり、午前十時の休憩まで狭間は忙しなく動き回っている。その間、狭間は余程のことがない 限りはツブラのいるバックヤードは戻ってこないし、戻ってきたとしてもすぐさま出ていく。
 明るいうちにいなくなっても、明るいうちに戻ってきたら狭間は気付かないのではないのだろうか。ツブラの脳裏に そんな考えが過ぎったが、迂闊に外に出てトラブルに巻き込まれたら狭間を困らせてしまう。だが、一人で外に出たら、 好き勝手に動き回れたら、どんなに楽しいだろうか。それを考え出すと居てもたってもいられなくなり、ツブラは 椅子から降りて裏口に向かった。裏口のドアは背が高く、背伸びをしてもドアノブには手が届かないので、ツブラは 触手を数本伸ばしてドアノブに絡め、ゆっくりと捻った。

「こら」

 が、ドアノブを回し切る前に、狭間の手が伸びてきた。ドアノブに絡んだ触手を解いてから、狭間はツブラを抱えて バックヤードに連れ戻した。

「ヤーン」

 椅子に座らされたツブラは文句を言うが、狭間はツブラの頭を軽く叩いた。

「良い子にしてろ。休憩時間になったら、構ってやるから」

「ムー」

 足早に店に戻っていく狭間に、ツブラは頬を丸める。なんでばれてしまったのだろう、とツブラは一生懸命考えて みたが、納得のいく答えは出なかった。実のところは店内からバックヤードを見通せるからなのだが、ツブラの視点 からでは店内が見通せないので、その逆もあるのだという発想に至らなかった。
 休憩時間になった狭間にかまってもらっているうちは、外に出たいという欲望は収まっていたが、狭間がまた仕事 に戻ってしまうと退屈が蘇ってきた。絵本を次から次へと読み漁ったが、ちっとも気分が紛れなかった。昼休み、 午後の休憩のときにも狭間はツブラを構い倒したが、狭間が離れると苛立つほど退屈になる。それに比例して好奇心 がむらむらと湧いてきて、ツブラは再び裏口へと忍び寄った。狭間も海老塚もバックヤードに入ってきていないのを 何度も何度も確かめてから、触手を使ってそっとドアノブを回し、細く開けた。

「マ!」

 店の裏口には、大きなゴミバケツが二つ並んでいた。海老塚の手入れが行き届いていて、雑草はほとんど生えて おらず、花の鉢植えとプランターが佇んでいた。ツブラはレインコートの裾を挟まないように気を付けながら、 そっとドアを閉めると、口を両手で押さえてくすくす笑った。狭間を出し抜けたのだ。

「オソト!」

 一歩また一歩と裏口から離れ、ツブラはもっと笑った。いつもは少しでも離れるとすぐさま手を掴まれてしまうが、 今は違う。どれだけ離れても、狭間はツブラを掴まえに来ない。

「オソト」

 店の正面に出ては見つかってしまうので、ツブラは裏口伝いに隣家の敷地を通り抜け、狭い道路に出た。左右を 見てから道路に入り、板塀に沿って歩いていく。元町商店街は道路がアスファルトで舗装されているが、商店街から 一本外れた通りでは土が剥き出しになっている道ばかりだ。砂利が敷き詰めてある場合もあるが、いずれにせよ、 ツブラに取って歩きにくい道であることは確かだ。
 轍や石に蹴躓かないように気を付けながら歩いていくと、例の空き地に出た。紙芝居屋は今し方来たばかりのよう で、まだ子供達は集まっていない。それをいいことにツブラは紙芝居屋に近寄ると、鳥打帽を被った中年の男は腰を 曲げてツブラと目線を合わせ、笑いかけてきた。

「おお、君か! 確か名前はツブラちゃんと言ったか!」

「ツブラ!」

 ツブラが挙手して答えると、紙芝居屋はにいっと口を広げて歯を見せる。

「君の兄さんというか父さんというか、保護者の狭間君はどうしたんだ、ん?」

「マー、オシゴト、ヲルドビス。ツブラ、イナ、イヌ、ヌ?」

「いなくなってきたって言いたいわけか。ダメじゃないか、ちゃんと留守番してなきゃあ」

「タイクツ」

「後でお店まで連れて行ってやるから、それまで俺の近くにいてくれるな? 迷子になられたら困るしな」

「オハナシ、ツヅキ!」

「紙芝居が見たいから来てくれたのかぁ、そおかぁ、そりゃあ嬉しいなあ!」

「ツヅキ!」

 にこにこしながらツブラが舞台を指すと、紙芝居屋はそれ以上の笑顔を浮かべる。

「よおし、それじゃ張り切って演じないとなあっ! ふははははははははははは!」

 鳳凰仮面の格好をしている時と全く同じ身振りで高笑いしてから、紙芝居屋は舞台に紙芝居を差し込む。ツブラが 見たくて仕方なかった、鳳凰仮面である。紙芝居屋が荷台に積んでいた駄菓子を広げて値札も掲げると、ちらほら と子供達が集まり始めた。透き通った水飴や黒糖の香りがする麩菓子やキラキラしたフィルムに包まれたラムネ もツブラの好奇心を引くが、そのどれも食べられないので、ツブラは子供達の輪から離れようとした。

「ほら、狭間君に持ってってやりな」

 すると、紙芝居屋がおもむろにツブラの手を取り、棒付き水飴をねじ込んできた。モノをもらったからには、お金を 払わなければ。お金を払わずに品物を持っていってはいけない、と狭間と愛歌にこれでもかと教え込まれたため、 ツブラは慌てふためきながらポケットに手を突っ込み、テープを剥がして十円玉を出し、紙芝居屋に渡した。
 それから、ツブラはいつも通りに少し離れた位置から紙芝居を楽しんだ。紙芝居屋はもっと前に来てもいいと言って くれたが、気持ちだけ受け取っておいた。ツブラは怪獣で、人間の子供達とは違うのだから。空き地の出入り口 に積んである角材に腰掛けたツブラは、危機に次ぐ危機に見舞われる鳳凰仮面の行く末を案じ、旅芸人一座と 一緒に旅立ったが、一座の中でもまたいじめられる姉弟の身の上に胸を痛め、食い入るように見入った。
 楽しい時間はあっという間に過ぎ、紙芝居は終わってしまった。子供達は散らばっていき、紙芝居屋も商売道具を 荷台に積み直し、片付ける。鳥打帽を被り直してから、紙芝居屋は手を差し伸べる。

「ヲルドビスまで連れて行ってやると言っただろ? ほれ、自転車に乗りな」

「オシマイ?」

「御終いだ。また今度来てくれや、今度は狭間君と一緒にな」

 そうら乗った、と紙芝居屋はツブラを抱えて自転車のサドルに座らせ、フレームに掴まらせた。視界が高くなると、 今まで見えなかったものまで見えた。板塀の奥にある民家、電柱に付いている錆の浮いた看板、人々の顔、窓辺。 好奇心に任せて辺りを見回していると、少女と目が合った。空き地の斜向かいに建っている洋風の洒落た家の、 二階の窓にもたれていて、ツブラに親しげに手を振ってきた。

「ん、どうした?」

 無意識に手を振り返したツブラを、紙芝居屋は不思議がったが、自転車を押した。薄い茶色の長い髪を背中に 垂らし、空色よりも少し濃い青い瞳を備え、淡いピンクのワンピースが白い肌に似合っていた。少女はもう一度 手を振ってくれたので、ツブラも手を振り返そうとしたが、折り悪く自転車が角を曲がった。
 それから、ヲルドビスに連れ戻されたツブラは、狭間にこってりと叱られた。棒付き水飴は狭間の口に入るかと 思われたが、狭間は文句を言いながらもぬるま湯に溶かして薄味の飴湯を作ってくれた。飴湯なら摂取出来ない こともないので、ツブラは口から出した触手をマグカップに入れ、ゆっくりと吸い上げた。
 生温い飴湯は狭間の粘膜よりも柔らかく、甘かった。





 


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