横濱怪獣哀歌




百万分ノ一、ソノ一千万倍



 狭間真人は顔を引きつらせ、壁に背を当てていた。
 無理もないだろう、と愛歌は自嘲する。歩いている途中で気が急いてきて駆け出してしまい、その結果、旭橋から 古代喫茶・ヲルドビスまで走ってきたので、息も上がっているし髪も化粧も乱れ放題だ。途中で電話すればよかった のではと気付いたが、その時は既にヲルドビスが目と鼻の先だった。なので、そのままヲルドビスに入り、海老塚に 許しを得てから狭間をバックヤードに引きずり込んで今に至る、というわけだ。

「で、どうなの!」

 愛歌が詰め寄ると、狭間は店内の様子を気にしながらも、両手を広げて愛歌を制す。

「どうって何がですか。そもそも何の話なんですか、それを言ってくれないことにはなんにも」

「赤木君、ちょっと店にいて。すぐに終わるから」

 愛歌が店内を示すと、赤木は生返事をした。

「はあ」
 
 仕事中に男に構いに行くような人だったのだなぁ、という軽蔑の色が赤木の顔には浮かんでいたが、それを訂正して いるだけ時間が勿体ない。愛歌は更に安全を期すために狭間を倉庫へと引きずっていき、狭間にくっついてきたツブラも 倉庫の中に入れてからドアを閉めて明かりを付けた。焙煎前のコーヒー豆や缶詰が入った段ボール箱が詰まった狭い 空間の一番奥、棚の間に狭間を押し込めると、青年は不安と期待が入り混じった顔になる。

「あの、愛歌さん?」

「率直に聞くけど、ガチョーラは強硬派なのね?」

「ガチョーラ?」

「チョ?」

 狭間がきょとんとすると、その足元で黒髪のカツラにサングラス姿のツブラも首をかしげる。

「だから、珊瑚怪獣ガチョーラよ! シーモンキーの卵に混じって輸入された怪獣の卵で、濃い塩水に浸けると体積が 百万倍に膨張する怪獣で、それを九頭竜会と関係のある闇医者の辰沼京滋が探しているのよ! ホームレスのウジムシを 利用して、製造元に返送する前のシーモンキーの卵を倉庫から盗み出して子供達に売り捌いて!」

 捜査上の機密情報を一息にまくしたてた愛歌に、狭間は渋面を作った。

「服務規程違反を堂々としないで下さい。あと、情報量が多すぎて混乱するんですけど」

「スルゥ」

 ツブラは黄色のレインコートのフードを被り、頭を振る。

「とにかく、ガチョーラが強硬派かどうかを教えてもらえればそれでいいのよ!」

 愛歌が狭間に詰め寄ると、狭間は腰を引きつつも答えた。また、どこぞの怪獣の声を聞いたらしい。

「……強硬派なのは間違いないそうですよ。但し、強硬派は強硬派でも、思想がカムロ――麻里子御嬢様の髪の毛 怪獣とは全然違うタイプで、光の巨人を故意に呼び出して汚染された海を洗浄してしまおうって考えを持っているん だそうで。光の巨人が出てくる理屈は知っていても、光の巨人が与える影響については無知な怪獣だそうで。あー、 ああ、うん、解ったから黙ってくれちょっとうるさい、うるさいうるさいうるさい」

 狭間は眉根を寄せてぼやいていたが、側頭部を押さえる。

「ガチョーラの混入を許す原因である怪獣検知器の故障、あれも強硬派の仕業だそうで。怪獣検知器のキモである 熱探知器官の本来の持ち主、赤外線怪獣インファレドは経年劣化なんてしていなかった、経年劣化したかのように 見せかけるために徐々に代謝を落として機能停止させて、世界各地の怪獣検知器を使用不能に陥らせ、怪獣の卵や 組織片を人間社会に紛れ込ませた、と。無論、その怪獣達も強硬派だそうで」

「ということは、ガチョーラだけの問題じゃなかったのね?」

「ガチョーラはあくまでも実動部隊の中の一体であって、指揮を取っているのはインファレド。で、そのインファレド の本体は――――おい嘘だろ、そんなの無茶苦茶だ!」

「今度は何なの」

「ナノ?」

「ツブラ行くぞ、マスターに適当な言い訳してから外に行く、でないと取り返しのつかないことになる。ああもう、 なんだってそんな大事になる前に誰も説明してくれなかったんだ……あ、聞かれなかったからだと? そんなベタな 言い訳しやがって、こっちにも事情ってものがある……その事情を考慮した? あーもう、畜生めが!」

 狭間は怪獣と会話しているのだろうが、傍から見れば妙な独り言にしか見えない。狭間はエプロンを外して盛大 にため息を吐いてから、愛歌を見返してきた。

「愛歌さん。適当な言い訳の口実になってくれませんか」

「それは別に構わないけど、具体的には何なの?」

「ノ?」

「俺とさっきのあの人に二股掛けていたとかなんとかでとか」

「趣味が悪いにもほどがあるわね。言い訳は私が考えるから、さっさと支度してきなさいよ。それと、赤木君は同僚 であってそういう関係にはならないから。狭間君ともね!」

 さっさと行ってきなさい、と愛歌は狭間を倉庫から追い出し、嘆息した。緊張と疲労を紛らわすためにタバコを吸い そうになったが、ここで吸ってはコーヒー豆などに匂いが付いてしまうので堪えた。ツブラの手を引いて倉庫の外に 出ると、狭間は早々に話を付けてきたのか駆け足で戻ってきた。海老塚に狭間を借りることを詫びてから、赤木と 合流した後、愛歌はまた駆け出した。赤木は狭間とツブラの存在を怪しみつつも、愛歌に続いた。
 これからが本番だ。




 愛歌が足を止めると、背後で二人の男が崩れ落ちた。
 なんだ、だらしない。そう言いそうになったが、半死半生で喘ぐ狭間と赤木を見ているとそうも言えなくなり、愛歌は 額に浮かんだ汗を拭った。汗で溶けたファンデーションがハンカチにべったり付いたので、頃合いを見計らって化粧 を直さなければ。愛歌と同じペースで走っていたが、ツブラだけは平然としていて汗一つ浮いていない。そこはやはり、 怪獣だからだろう。ローヒールのパンプスでアスファルトを踏み躙り、愛歌は胸を張る。

「で、狭間君。ここでいいのよね?」

「……ぇあ、あ、う、はい。俺が聞いた話が、正し、ければ、ぁ」

 アスファルトに座り込んで肩で息をしている狭間は、途切れ途切れに答えた。赤木はネクタイを緩めてジャケットも 脱いでいて、汗を吸ったワイシャツが肌に張り付いている。こちらは答える気力すらないらしく、酸素を少しでも多く 取り入れようと荒い呼吸を繰り返している。

「だ、だから、途中でタクシーでも拾った方がいいと言ったんですけど、ぉう……」

 弱々しく発言した赤木に、愛歌は苦笑した。

「走った方が早く行けるのよ、私の場合」

 そりゃあんただけだろ、と狭間が小声で言ったのが聞こえてきた。愛歌もそれを自覚してはいるのだが、ついつい 自分のペースで行動してしまう。古代喫茶・ヲルドビスのある元町商店街から、目的地である本牧埠頭D突堤まで を勢い余って一息で走り抜けてしまった。夕暮れなので行き交う船の数は減り、灯台である横浜港シンボルタワー から光が放たれている。夜気を含んだ潮風が汗を乾かし、熱した体を冷まさせる。
 D突堤の一角にある倉庫を捉え、愛歌は呼吸を詰めた。狭間の言葉を、いや、狭間が聞き取った怪獣達の言葉を 信じるならば、その倉庫の中には赤外線怪獣インファレドが隠されている。そして、あの男達もいるはずだ。愛歌 はホルスターから拳銃を抜き、赤木に合図を送ってから駆け出した。倉庫の裏口に回ると、中の様子を確かめつつ ドアノブに手を掛けると、すんなりと動いた。鍵が掛かっていなかった。

「どういうこと?」

 愛歌が訝ると、少し遅れてやってきた赤木も拳銃を携えた。

「気付かれたことに気付かれたのかもしれませんよ。ウジムシと接触した時点で」

「それを確かめるには、中に入るしかないわね」

 狭間君達はそこで待っていて、と愛歌は別の倉庫の物陰に隠れている狭間とツブラを制してから、ドアを開けて 突入した。が、拍子抜けして愛歌は拳銃を下ろした。赤木も似たような反応だった。それもそのはず、倉庫の中は もぬけの殻だったからだ。錆び付いたコンテナが一つあるものの、それ以外は何もない。がらんとした四角い箱の 中には、かすかに消毒薬じみた匂いが漂っていたが、それもすぐに消えてしまうだろう。
 倉庫の事務所にも他の部屋にも誰もいないことを確かめてから、愛歌は狭間とツブラを招き入れた。念のため、 コンテナの中も検めたが、そこにも何も入っていなかった。歩くたびに埃の粒子が舞い上がり、靴底で砂が擦れ、 分厚いコンクリートの壁越しに船の汽笛やトラックの走行音が聞こえてきた。

「どう、狭間君」

「これは、ひ……人からの受け売りなんですけど、インファレドは赤外線怪獣って呼ばれてはいますが、得意なのは それだけじゃないんです。地球上の可視光線の屈折率を変えることが出来るんです。だから」

 氷川丸から、と言いかけたが訂正した狭間は、鉄骨が剥き出しになっている天井の隅を指した。ツブラが触手を 放とうとレインコートの下を波打たせたが、愛歌はそれを制して狭間が指した場所に発砲した。硝煙が迸り、つんと した火薬の匂いが立ち込める。弾丸は跳ね返ったかと思いきや、天井の一角に埋まっていた。まるで粘土の固まり に突き立てたかのように。すると、天井の隅が盛り上がり――否、隅に張り付いていたモノが姿を現した。
 音を立てて落ちてきたのは、粘土細工のトカゲと称すべき外見の中型怪獣だった。ぎょろついた赤い瞳が頭頂部 に現れた直後、粘土のような皮膚に無数の裂け目が生まれて無数の赤い目が現れた。その目こそが怪獣検知器 に使用されている部品だ。インファレドはのっそりと起き上がり、咆哮を放とうと顎を開いた。愛歌と赤木は すかさず銃口を上げるが、発砲する前に赤外線怪獣は仰け反って倒れ伏した。呆気に取られていると、視界の 片隅で赤い触手が翻り、愛歌が振り返った瞬間にはツブラはレインコートの裾を整えていた。

「それと、これも忘れちゃいけませんよね」

 狭間はコンテナの中に入ると、内壁に貼り付けられたガムテープを剥がした。そこには、ピンクの小さな卵が一粒 くっついていた。珊瑚怪獣ガチョーラの卵とみて、まず間違いない。狭間はガムテープごとガチョーラの卵を愛歌に 渡してから、コンテナをぐるりと見回した。

「愛歌さん、あの人をちょっと遠ざけておいてくれませんか」

 狭間に手招きされたので、愛歌は赤木に外を見回ってくるように命じてから、狭間とツブラと共にコンテナの中に 入った。狭間は声を潜めつつ、怪獣から聞いたであろう話を聞かせてくれた。

「辰沼ってのは、俺がゴウモンに会った時に襲ってきた人のことですよね? 緑色の髪に赤い目の」

「ええ、そうよ」

「氷川丸とその周りにいる穏健派の怪獣によれば、その辰沼って人がインファレドの目を摘出して人間に移植しようと していたんだそうです。そのために必要な輸液を作るためにガチョーラが必要だった、とも。ガチョーラは塩分と 水分を吸収して膨張しますが、ガチョーラが排出する真水は純粋な水ではなくてガチョーラの体液が混じっている から、迂闊に体内に入れると中毒を起こすんだそうです。だから、ガチョーラから採取した真水は生活用水に使う だけで飲食用には絶対に使わないんだそうです、真水が出てこない離島であっても。だけど、怪獣中毒を起こした 状態になると、怪獣に対する拒絶反応が軽減されて怪獣義肢との結合手術の成功率が上がるから、と」

 それが、ウジムシが言っていた景品の正体か。愛歌は胸が悪くなり、口角を曲げる。

「えげつないにも程があるわね」

「それと、このインファレドは数百体存在するインファレドの上位個体だそうで、世界各地にばらまいた怪獣の卵 や組織片には赤外線と怪獣電波を使って命令を下す司令塔だったんだそうですけど、その上位個体が昏倒したので 指揮系統が崩れちゃったみたいです。そのせいなんでしょうけど、やけに遠くが騒がしいんですよね」

「頭を潰したから手足が動かなくなったってことね。だとしても、随分と都合がいいわね」

「インファレドの立てた作戦がザルだったからですよ。用意周到な怪獣だったら、こうはいきませんよ」

「全くだわ」

「それと、氷川丸と他の怪獣はこうも言っています。愛歌さんは……」

「それ以上言わなくてもいいわ、狭間君。解っているから」

 強い口調で狭間を制してから、愛歌は彼と少女怪獣に背を向けた。倉庫の周りを一巡りして戻ってきた赤木は、 怪獣監督省横浜分署に連絡してくると明かりが付いている倉庫に駆けていった。電話を借りるためである。現場に 残された愛歌は、ツブラの触手に体力を吸収されて動かなくなった赤外線怪獣インファレドを一瞥してから、タバコ を吸うために外に出た。マッチ箱を開け、その中に入れてある錠剤を一粒出し、タバコを吸うタイミングに合わせて 飲み下した。まだ大丈夫、まだいける。アメリカンスピリッツの煙は渋く、喉を焼いた。
 その痛みは鮮やかだった。




 後日。
 珊瑚怪獣ガチョーラと赤外線怪獣インファレドに関する事件の事後処理がなかなか終わらず、愛歌がヲルドビス に顔を出せたのは、事を終えてから一週間以上過ぎた後だった。闇医者の辰沼京滋とその連れ合いである怪獣 人間達の捜査も行ったが、結果は芳しくなかった。御門岳から横浜に来た時点で、九頭竜会が手を回していたから だろう。あれから何度か旭橋を訪れたがウジムシには会えず終いで、情報も引き出せなかった。
 ガチョーラとインファレドを悪用した怪獣人間の施術は阻止出来たが、それだけに過ぎない。九頭竜会の目論見 と辰沼の腹積もりが一致しているとは思い難いが、利害は合っているようだ。この分だと、まだ何かが起きるかも しれない。起きてからでは手遅れだが、起きるまでは動きが取れないのが歯痒い。

「あの怪獣達はどうなりました?」

 愛歌が注文したナポリタンとコーヒーフロートを運んできた狭間が、抑え気味に問うてきた。

「どっちも印部島に送り届けたけど、安全とは限らないわね。怪獣が穏健派か強硬派か、外から見ただけじゃ全然 解らないんだもの。マークか何か付いていたら、解りやすくて仕事が楽なんだけどね」

 ぼやきつつも、愛歌はナポリタンに粉チーズを掛けた。

「ところで、マスターの方は大丈夫だった? この前、苦し紛れにとんでもないこと言っちゃったから」

「ああ……あれですか」

 狭間は苦笑し、カウンターを窺った。すると、コップを拭いていた海老塚は愛歌と目を合わせて、笑みを浮かべて 会釈した。愛歌はそれに返しつつも、言及されないのもまたやりづらいものだと痛感した。あの日、愛歌は狭間を 連れ出す口実として、狭間に言い寄ってきた女が愛歌にまとわりついていて面倒なので話を付けに行く、と口から 出任せを言った。浮いた話の一つもない狭間に限ってそんなことはないので、海老塚は嘘だと解っているだろう。 だが、海老塚は狭間にも愛歌にも何も言わない。相手の女性がどういう人間なのかも問わないし、どんな話をした のかとも尋ねてこない。その気遣いはありがたいのだが、気まずいことこの上ない。

「ああよかった、ブラインシュリンプがまた手に入るようになって」

 店の中程にあるボックス席から、少女達のお喋りが聞こえてきた。聖ジャクリーン学院高等部二年B組の生徒、 兜谷かぶとや繭香まゆかである。あの後、愛歌は三人の少女達の素性も調べ上げたのだ。

「ちょっと待っていればよかっただけの話だったのね。人騒がせだわ」

 安堵を交えて応じたのは、高等部二年A組の生徒である桑形くわがた桐代きりよだ。

「んでも、繭香、甲殻類を育てるのは下手くそだな。孵化率低すぎだろ」

 三段重ねのパンケーキを切り分けて頬張っているのは、高等部二年C組の生徒である蜂矢はちや音々ねねだ。

「う……うん……。手を掛け過ぎるのがいけなかったのかなぁ……。これまで手に入れたブラインシュリンプの卵、 ほとんどダメにしちゃって……」

 しょぼくれる繭香に、桐代は指折り数える。

「ざっと数えてみたけど、繭香は一千個以上の卵をダメにしている計算になるわね。虫はともかく、甲殻類の飼育 には向いていないんじゃないかしら」

「ぶへはははは、すっげー笑えるんだけど」

「ううう……音々ちゃんひどい」

「事実じゃんか」

「やっぱり虫が一番だわ、そうは思わない?」

「桐代ちゃんも遠回しにひどい」

 それから、三人の少女達の話題は海洋生物の育てづらさになり、それから三人と親しい少年達の話になり、最後 には惚気のような愚痴になった。少女達が幸福な日々を謳歌しているのは、傍から聞いているだけでもよく解る。 だが、その日常も簡単に崩れてしまう。ガチョーラの卵が孵化していたら、巨大化したガチョーラが子供とその 家族を潰してしまったら、インファレドの企みが成功していたら。
 たとえ、シーモンキーの卵一粒程度でしかない懸念であろうとも、取りこぼしてしまえば超大型怪獣並みの規模の 被害を引き起こしかねない。怪獣Gメンが担う責任の大きさを忘れていたわけではないのに、気を緩めていたわけ ではないのに。怪獣の思想と人間の悪意が絡み合わないように、防げるものは防いでいかなければ。
 二度と後悔はしたくない。





 


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