横濱怪獣哀歌




マッド・ワックス



 そぼ降る雨の中、瓦礫が撤去されていた。
 本牧埠頭突端にある灯台で起きた、女学生集団自殺未遂事件と怪獣暴走事件と私闘事件と狙撃事件と、その他 諸々の現場検証を終えたからである。というより、無理矢理終わらせたといった方が正しい。警察だけでなく、政府 も怪獣監督省もこれ以上深入りするなと釘を刺されたからだ。怪獣使いの一族、綾繁家にである。
 その理由についても言及すべきではない、と上司から特に太い釘を刺されたので、愛歌は歯痒い思いをしながら 灯台の残骸を睨み付けている、かのような顔をしていた。綾繁家の行動の意味は解らないが、それ以外の事情は 騒動に巻き込まれた狭間真人から教えてもらっていたからだ。要するに九頭竜会の御家騒動とカムロの悪巧みが くっついた末に聖ジャクリーン学院を巻き込み、こうなってしまったらしい。傍迷惑である。

「これからどうしましょ」

 愛歌は肩に差し掛けた傘をくるくると回し、水滴を飛ばした。

「どうもこうもありませんよ。深入りするなって四方八方から言われているんですから」

 愛歌の隣で苦笑したのは、同僚の赤木進太郎である。

「聞き込みにでも行きますか?」

「何を?」

「目撃者でも」

「何の」

「えーと……一度に起きた事件が多すぎて、どれにすればいいやら」

「聖ジャクリーン学院の生徒達と教職員の事情聴取は全員終わったし、集団ヒステリーに陥った彼女達を目撃した 人々の聞き込みも終わって必要な情報は引き出したし、聖ジャクリーンは元の聖堂に戻ってからは石像の如く大人 しくなっているし、あの日以降は微動だにしていないそうじゃない」

「女学生の生首が空を飛んだ、という噂がありますけど」

「それも集団ヒステリーの一部だって断定されたじゃない。幻覚を見るのはよくある話よ」

「俺もそうは思うんですけど、なんか妙に引っ掛かるんです」

「何が?」

「どうして、どの事件もここで起きたんですか?」

 赤木は傘を上げ、人型多脚重機によって解体されていく灯台を見上げた。否、灯台が立っていた丘を。

「集団ヒステリーにしても何にしても、同じ場所で発生する理由はないように思えるんです。事が起きた順番は、 聖ジャクリーンの暴走、女学生達の集団自殺未遂、ヤクザの構成員による私闘と狙撃、だと思うんですけど、最初 の二つはともかくとして最後の二つまで同じ場所で起きるのは、いくらなんでも都合が良すぎるというか。俺の主観 でしかないと言えばそれまでなんですけど、なんだか……」

「釈然としないのね」

「はい。まるで、ここで起きなきゃいけないって誰かが仕向けたみたいじゃないですか」

「それじゃ、赤木君は誰が仕向けたと思う?」

「それが解れば苦労しませんよ」

「そうよねぇ」

 愛歌はタバコを一本取り出し、銜えた。瓦礫を抱えて廃棄物運搬用のトラックに詰め込んでいる人型多脚重機は、 さながら餌を巣に持ち帰ろうとする昆虫のようだった。上半身は人間じみた腕が二本備わっているが、下半身 は六本足という異形の重機は戦後復興の際に急速に普及した土木作業機械である。ショベルカーよりも器用で、 キャタピラよりも迅速に悪路を歩けるので、どんな現場でも使えるからだ。問題があるとすれば、多脚故に歩行中 は運転席が上下左右に激しく揺さぶられるので、常人では五分も持たないのだ。

「あの人型多脚重機の中身って……」

 赤木が声を潜めたので、愛歌は肩を竦める。

「傷痍軍人の傷付いていない部分よ」

「戦中戦後は怪獣義肢に関する規制が緩かったとはいえ、法整備した後もそのままでいいんですかね」

「いいのよ。利害が一致しているし。彼らは働きたい、私達は彼らに働いてもらいたい。それで充分じゃない」

「そうですかねえ」

 解せないのか、赤木は渋面を作った。全長五メートルの黄色と黒の鋼鉄の昆虫達は、てきぱきと瓦礫を片付けて 地均しをしていくが、その操縦席は空っぽだ。それもそのはず、彼らを操縦している人間は戦争で肉体のほとんど を失っているので、脳と脳を維持するために必要な生体器官を人型多脚重機に結合させている。怪獣の生体組織や 体液を利用して、有機と無機を強引に繋ぎ合わせ、それを操縦席のダッシュボードに収めている。人間としての 尊厳を失うか、労働力としての価値を捨てるか、その両者を鬩ぎ合わせて後者を選んだ者達の姿だ。
 人型多脚重機達の司令塔である現場監督は、何かを発見したのか、作業を中断させた。作業着に安全靴に黄色の ヘルメットを被っている若い女性、古松美以子は二人の元に駆け寄ってきた。

「ちょっといいですか、か、かっ」

「何かありましたか?」

「はい。ですが、が、私では判断が付けかねるので、で、で」

 すらりと引き締まった肢体と日に焼けた健康的な面差しの若き現場監督、古松美以子には吃音があった。だが、 それほど聞き取りづらいわけではないので特に問題はない。

「こちらです、す、す」

 美以子に案内されて向かった先では、人型多脚重機がブルーシートを広げて覆っていた。愛歌と赤木はその中に 入り、砕けたコンクリートに埋もれている怪獣の組織片を見つけた。それは灯台に不可欠な発光体だったが、形状 がほんの少し違っていた。通常、灯台に使われている怪獣由来の発光体は完全な球体で、一定間隔で電流を流す と化学変化が起きて発光量が変化し、一回転する。大きさは灯台の規模によって異なるが、この灯台に使われていた 発光体のサイズは直径三〇センチ程度だ。だが、この発光体はでこぼこに膨張していた。

「プラスチック製品を過熱するとこうなりますよね。子供の頃、電気ストーブの傍に怪獣の人形を置いてしまった ことがあるんですけど、こんな感じになっていました」

「それ、あながち間違いじゃないかもよ?」

 いやに真面目に語る赤木に愛歌は返し、発光体に触れた。沸騰した湯面のように膨れた部分は温度が高く、透き通った 分厚いガラスに似た外殻の中に溜まっている体液は泡立っていた。あまり長く接していると火傷してしまいかねない ので手を離し、愛歌は赤木に怪生研と連絡を取るようにと命じた。途端に赤木は張り切り、駆けていった。
 では私も仕事に戻ります、す、す、と美以子は再び人型多脚重機達の監督に戻った。人間でも怪獣でも機械でも ない彼らは仕事熱心だが、心を開く相手が限られている。戦地に行く前に別れた恋人、死に別れた妻、生まれて すぐに生き別れた娘、若い頃に焦がれていた同級生、といった記憶を突き動かしてやらなければ、機体も動かない。 だから、人型多脚重機を監督するのは若い女性ばかりだ。美以子のように土木作業と人型多脚重機を愛している のであればいいが、そうでなければ苦労するだろう。現場監督も、人型多脚重機も。
 ふと、彼とあの娘の姿が過ぎる。




 枕元の腕時計を引き寄せ、時刻を確かめる。
 午前八時過ぎ。狭間は寝起きのぼんやりした頭を動かし、寝過ごしたと慌てかけたが、すぐに今日が休日である ことを思い出した。薄手の布団は寝ている間に蹴り飛ばしてしまったらしく、壁に寄り掛かっている。そして、 狭間の全身には赤い触手が絡み付いている。それを引き剥がしても、すぐに巻き付いてくる。

「全く……」

 休日ではあるが、仕事がないわけではないのに。狭間は内心でぼやきつつも寝返りを打ち、無防備に熟睡するツブラ に顔を寄せた。触手が弛緩しているので、狭間の布団どころか部屋全体に広がっている。愛歌は既に出勤した後では あったが、クモの巣のように張り巡らされている触手を避けて通るのは大変だっただろう。

「いい気なもんだよ」

 ツブラの寝顔を見、狭間は失笑する。赤い瞳を閉じている瞼は薄く、睫毛も眉毛も生えていない。体毛らしきもの は一本もなく、どこを触ってもすべすべだ。丸い頬も、幼児らしい形の顎も、首筋も、細すぎる鎖骨が浮いた胸も、 筋肉はないが柔らかな脂肪が付いた体も。人間と同じように肋骨はあるらしく、胸の脇に触れると手応えがある。 柔らかな尻の奥にある腰骨はまだまだ小さく、背中を支える背骨は薄い貝殻を一列に並べたかのように儚い。

「あ?」

 なんで俺はツブラにべたべた触ってんだ、と狭間は我に返って起き上がった。

「ミュー……」

 狭間が起き上がった拍子に触手を引っ掛けたせいだろう、ツブラが子ネコのような声を漏らして身を捩る。

「まだ起きなくていい、もうちょっと寝ておけ」

 俺が落ち着くまでは、と言いかけて飲み込んでから、狭間は行く手を阻む触手を捌いてタンスに辿り着き、寝間着 を脱いで着替えた。中途半端に伸びた髪を切りに行くタイミングを逃し続けているせいで、今となっては肩に届くほど の長さになってしまった。愛歌から借りっぱなしで返せる気配がないヘアゴムでいい加減に縛ってから、水を呷り、朝食 になりそうなものがないかと冷蔵庫を開けた。

「マァ」

 すると、背中に重みが伸し掛かってきた。と、同時に触手が体に巻き付いてくる。

「おいこら、ちょっと待て。まだ何も喰ってないんだから」

 狭間はツブラを剥がそうとするが、ツブラは喉の奥で切なげに唸った。くるる、きゅるる、と動物でも人間でも ない音を発する。怪獣だからだ。狭間は一旦冷蔵庫を閉めてから、背中に貼り付いたツブラを剥がした。赤い触手 が簾のように顔を覆っていたが、その隙間からは潤んだ瞳が覗いている。

「喰ってないから、俺を喰っても意味はない」

 狭間はツブラを押し返そうとすると、伸ばした手の指に喰らい付いてきた。湿った口内で蠢く細く儚い触手の渦 に人差し指が飲み込まれ、にゅるにゅると皮膚を舐め回してくる。寝ぼけているだけだ、甘えているだけだ、と狭間は 気を逸らそうとするが、そうすればするほど逆に気になってどうしようもなくなる。引き抜こうとしても、ツブラは 熱心に狭間の指を吸ってくる。背筋が逆立つが、不快感や嫌悪感によるものではない。むしろ、これは。

「ちょ、っと待て!」

 力任せに指を引っこ抜き、狭間は深呼吸する。指にねっとりと絡むツブラの唾液と、物欲しげに小さな唇を動かす ツブラが、寝起きに相応しくない感情を煽り立ててくる。なんだこれなんだよどうしてだよ、俺はそういうアレだった というのか、と戦慄と恐怖とそれを上回る期待に見舞われ、狭間は悶々とした。

「マ、ヒト」

 辿々しく、それでいて熱っぽく、下の名前で呼んできた。

「なんなんだよ、ツブラ」

 ツブラと一定の距離を保ちながら、狭間は努めて冷静さを保った。ツブラは四つん這いで狭間に近付くと、触手を 使って体を浮かせ、目線を合わせてきた。我慢する必要なんてない、そもそも相手は人間でもなんでもない、いや 人間じゃないからこそ我慢すべきであって、そんなこと言えた立場で状況か、それ以前に今までに何度もしてきた ことだろ、という自問自答を繰り返した末、狭間はツブラの頬を両手で挟んだ。冷たいが柔らかい。

「――――ゥ、ニュ」

 塞がれるのではなく、塞いでみると、ツブラの唇は薄っぺらかった。あの時感じたものが錯覚であることを願い、 錯覚であると証明しようと頭のどこかで考えていたが、それは全部吹っ飛んでしまった。ツブラの頬を両手で包み、 こちらから体重を掛けてやり、触手の渦に舌を滑り込ませると、ツブラはびくんとした。が、それ以上動こうとは せず、されるがままになっていた。
 自分から事に及んでみて、初めて知ったことがある。ツブラは責め慣れているが、責め返されるのにはとても弱い ということだ。触手を吸い上げてやると、喉の奥に突っ込んでこないのだから。そして、弛緩している触手の感触は 驚くほど滑らかで心地よいということも体が覚えてしまった。ツブラがぐったりしたので舌を抜いて解放してやって から、狭間は口元を拭い、後悔の念に襲われた。同時に、それを遥かに上回る妙な達成感にも。
 全力疾走したかのように心臓が暴れ、呼吸が早まる。こんな感覚に陥ったのは初めてではないはずだ、高校時代 の昼休みにクラスメイトが持ち込んだ雑誌に載っていたグラビアアイドルを見たかのような、そのグラビアアイドル のあられもない姿の写真を見た時のような、体育の授業の後に教室に残る女子生徒の化粧品混じりの汗の匂いを 嗅いだ時のような。いや、違う。その時の淡い感情とは比べ物にならない。

「マヒト?」

 とろんとした目で見上げてきたツブラは、数本の触手で口元を押さえている。緩んだ口角から垂れ落ちるのは、 どちらの唾液なのか。心臓どころか内臓を全て握られたかのような衝撃に襲われ、狭間はツブラに背を向けた。

「なんで、下の名前で呼ぶんだよ」

「ダッテ、マヒト、ナマエ」

「そりゃそうだけど、そりゃそうかもしれないけど!」

「イヤ?」

「そうじゃないが、でも」

 でも、何なのだ。何がいけないのか解っているくせに、何をしてはいけないのかも知っていたはずなのに、どうして あんなことをしてしまったのか。とりあえず朝食を食べて、頭をはっきりさせてから、仕事に向かおう。今一度冷蔵庫 を開けてみたが、ろくなものが入っていなかった。近頃、愛歌の帰りが遅かったこともあって夕食を作らずに近所の 食堂で済ませていたから、食材を買い込んでいなかったのだ。昨日はあった食パンが綺麗さっぱり消えているのは、 愛歌が朝食にしたからだろう。仕方ないので、残り少ない米を研いで鍋で炊き、卵を入れて雑炊もどきを作り、 胃を膨らませた。ツブラに体力を与える際に先程の衝動が蘇りそうになったが、必死に堪えた。
 堪えなければいけないという使命感すら感じていた。






 


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