横濱怪獣哀歌




マッド・ワックス



 午前九時過ぎ、狭間は出勤した。
 休日ではあったが、古代喫茶・ヲルドビスの床をワックス掛けしてほしいと頼まれたからである。もちろん、給料は 休日出勤で割増になるし、翌日の金曜日を休みにしてもらった。新しくアルバイトが入ったからだ。そうでもなければ、 いかに狭間と言えども引き受けるわけがない。雨脚が朝より強くなっていたのは、梅雨の真っ只中だからというだけ ではなさそうだ。分厚い雲の合間から、低気圧の中心となる怪獣達の咆哮が聞こえてきたからだ。
 ヲルドビスの裏口でレインコートを脱ぎ、ツブラのレインコートも一度脱がせて乾いたものに着替えさせたが、触手 だけを巻き付けた幼い体を直視しずらかった。ツブラもなんだか恥ずかしがっていて、サングラスの下でしきりに目線を 彷徨わせている。妙な気まずさを抱えたまま、狭間はバックヤードに荷物を置いてから店内に入った。

「おはようございます、狭間さん」

 狭間とツブラを出迎えたのは、新入りのアルバイト、九頭竜麻里子だった。長い黒髪はばっさりとベリーショートに なっていて、首にはスカーフが巻き付けてある。その顔には傷一つなく、美しさも陰っていなかった。たとえ、色気の 欠片もない学校指定ジャージを着ていてもだ。短くなった髪の合間から潰れた目を覗かせたのは、カムロだ。

〈重役出勤とは良い身分だな、人の子〉

「ああ、おはよう」

 狭間は挨拶を返してから、ツブラを窺った。ツブラは麻里子とカムロに接するのがまだ不慣れなので、狭間の足の陰に 隠れてしまった。麻里子とカムロはツブラを一瞥したが、特に何も言わなかった。あの件のことを謝りもしないが、 邪険にも扱わない。せめて謝ってくれと言いたかったが、そういったものは強要するべきものではないし、そもそも 麻里子もカムロも他人に謝るようなタマではないからだ。

「マスターは?」

「コーヒー豆の仕入れに向かわれました。お帰りは昼過ぎになるそうですので、それまでに仕事を終わらせておくべき かと思います。それと、私と狭間さんとツブラさんの分の昼食が冷蔵庫に入っているとのことです」

「相変わらず気を回すなぁ、マスターは」

 狭間はその気遣いの細かさに感心しつつ、椅子をバックヤードに運び入れていった。ボックス席とカウンター席の椅子 を全て退かし、出入り口のマットも外に出してから、掃除機で砂埃を綺麗に掃除する。それから、薄めた洗剤を塗って ポリッシャーを掛け、古いワックスを剥がす。というのが、今日の作業工程だ。円形の研磨用マットが付いた直径8インチ の機械を倉庫から引っ張り出してきたが、狭間は臆した。

「今気付いたけど、俺、この機械を使ったことはないぞ?」

「私はありますよ」

「真っ当な使用目的で、だよな。麻里子さん」

「真っ当ですよ。私にとっては」

 やけに愛想よく微笑んだ麻里子に、狭間は苦笑いした。きっと、九頭竜会で拷問か何かを行う時に利用したことが あるのだろう。この笑顔はそういう意味のものなのだと、解るようになってしまった。麻里子も狭間の扱い方を徐々に 把握してきているようで、狭間をいいようにあしらってはカムロと密やかに笑い合っている。ヤクザの女学生とその怪獣 義肢にからかわれるのはいい気分ではないが、この前のように暴れられるよりはマシだと思うしかない。
 麻里子が古代喫茶・ヲルドビスでアルバイトとして働き始めたのは、先週のことである。九頭竜総司郎とその腹心 の部下達を填めたつもりが填め返された麻里子とカムロは、読んで字の如く、半殺しの目に遭った。九頭竜が得た 刀、斬撃怪獣ヴィチロークによってこれでもかと攻撃された麻里子の生首と胴体は多大なダメージを負い、骨折した 個所は数十カ所に及び、内臓も半数近くが破裂してしまっていた。ボニー&クライドの狙撃で過熱した脳の前頭部と 眼球の片方は煮えてしまい、使い物にならなくなった。と、嬉々として報告してきたのは辰沼京滋である。
 普通であれば、確実に死んでいるはずだった。生きていたとしても、脳がダメになっていてはまともな日常生活を 送ることさえ危うい。しかし、麻里子は見た目も中身もほとんど元通りになって蘇ってきた。たった一週間で。それ というのも、カムロが生体器官でもあり遠隔操作のアンテナでもある己の髪の毛の大半を麻里子の回復に用いた からでもあるが、カムロなりに九頭竜総司郎に落とし前をつけたからでもある。
 その、世にも珍しい怪獣義肢とヤクザの親分の話し合いの席に、狭間が通訳として呼ばれたのは言うまでもなく、 九頭竜にカムロの言い分を伝えるだけだというのに恐ろしく緊張した。包帯と髪の毛まみれの生首と、冷徹にして 凶悪な斬撃怪獣を携えたヤクザの親分の両者の間に立ち、互いの意見を的確に伝えなければならないが、どちらも 怒らせてはならないので、狭間は死ぬ気で言葉を選んで通訳した。その甲斐あって、カムロは己の目を潰すことを 条件に麻里子の命を救うことと共存することは許されたが、九頭竜会の組長代理と九頭竜会の構成員への命令権 は剥奪され、九頭竜屋敷からも追い出された。あれだけの騒ぎを起こしたのにそれだけで済まされるのは猛烈に 甘い、と狭間でも呆れたのだから、同席していた須藤と寺崎と御名斗は狭間以上に辟易していただろう。
 そういった経緯を経て、カムロの力と辰沼の手で息を吹き返した九頭竜麻里子は、古代喫茶・ヲルドビスで下宿 して聖ジャクリーン学院に通うようになった。家賃を支払う代わりにアルバイトをするという取り決めになり、 給料はほとんど出ないそうだが、どうせ父親が小遣いをたんまり寄越してくれるので何の不都合もないだろう。

「そういえば、狭間さん」

 先述通りポリッシャーを上手く扱って古いワックスを剥いでいった麻里子は、スイッチを切って一旦止めた。コード が限界まで伸び切っているので、別のコンセントに刺さなければ先へと進めないからだ。

〈気付いているか? 俺とヴィチロークがあの灯台をぶっ壊したせいで、嵐が強くなっちまったことを〉

 目を潰されていても感覚は鋭いのか、カムロは短い毛先を上げて狭間を示す。バケツの水でモップを漱いでいた狭間 は、窓に打ち付ける雨粒の量と風音の重たさと、雷鳴に混じる怪獣の叫声を感じ取った。

「タテエボシの時と同じ理屈だろ? あの時はイナヅマがいなくて、横浜周辺の怪獣同士の縄張りが緩んでいたから。 夏場は特にそうじゃないか、怪獣供養に出される怪獣が多いから日本各地で縄張りのバランスが崩れちまうせいで、 超大型低気圧を伴う台風怪獣の接近を許しちまうんだから」

〈それもそうなんだが、なんで俺はあの灯台を目指したんだろうな?〉

「俺に聞くなよ、そんなの」

 狭間がむっとすると、カムロは眼球というには抉れた赤いモノを歪める。

〈事を起こす場所が、あの灯台である必要はない。いや……あんなに目立つ場所で大立ち回りをする理由もない。確かに あの時の俺は高揚しすぎていたが、そこまで冷静さを欠いていたつもりはない。かといって、この俺ともあろう怪獣が 怪獣使いなんぞに操られるわけがない。だとすると、誰だ? 俺とヴィチロークに灯台を壊させたのは〉

「だから、俺に聞かれても困るんだよ」

「ダヨー」

 麻里子の前では最早正体を隠す必要がないので、ツブラは触手の先に付けた雑巾で窓ガラスを磨いていた。

「大事の前の小事、ということでしょうか」

 不本意そうに眉根を寄せ、麻里子は言った。再びポリッシャーのハンドルを持つが、スイッチは入れない。

「何らかの意思がカムロを誘導し、それによって私も誘導されていたとしたら、この上なく不愉快ですね」

「だからといって、俺とツブラを巻き込まないでくれよ。他の怪獣達もだ」

「モダー」

「あなた方を利用するかしないかは、事と次第によります」

 真顔で言い切った麻里子に、カムロが同調する。

〈御嬢様の言うとおりだ。相手がなんであれ、この俺を愚弄したからにはそれ相応の罰を受けてもらわないとな〉

 あ、ダメだ。こいつら、一ミリも反省していない。それを痛感した狭間は、これ以上麻里子に関わるべきではないと 本能で察知したが、掃除を途中で放り出すわけにはいかないので作業を続行した。そういう自分の真面目さが嫌に なったが、それもまた自分なのだと諦めた。その間にも雨脚は強くなる一方で、いつしか怪獣注意報が怪獣警報に 変わった。麻里子のおかげで床の研磨は午前中で終わり、昼食後にワックス塗りをしようということになった。床が 乾き切らなければ、ワックスを塗っても馴染まないからである。
 海老塚が用意してくれていた昼食は、オムライスだった。



 昼食と休憩を終え、仕事を再開した。
 木製の床用ワックスをモップで塗り付けていき、薄い部分には特に丁寧に塗り込んだ。店内の中心にはボックス 席があり、縦長のロの字型になっているので、狭間は出入り口側を塗り、麻里子は奥側を塗っていった。ワックスに 混ぜ込まれている揮発性の溶剤の匂いが立ち込めたが、窓を開けると雨が吹き込んできてしまうので、塗り終わるまで の辛抱だとやり過ごした。隅から隅まで塗っていくと、床は均等な光沢を纏った。

「後は乾くまで待つしかないな」

「ナイ?」

 カウンターの内側にいるツブラは、ワックス塗りを終えた狭間を見上げてきた。カウンターの下と厨房は床の素材 が違うのでワックスを塗らなくてもいい、と海老塚が言っていたので、手付かずなのだ。

「で、何の電話だったんだ?」

 狭間はバックヤードを見やり、受話器を置いた麻里子に声を掛けた。

「マスターの帰りが遅くなるのだそうです。怪獣警報のせいで電車が止まってしまったとのことで」

〈この天気じゃ仕方ないだろうさ。それに、バンリュウの電圧が不安定だから、もうじき――――〉

 と、カムロが言いかけたところで、前触れもなく停電した。

「おわっ」

 不意に訪れた暗闇に、狭間は変な声が出た。足元にするりと絡み付いてきたのは、ツブラの触手だ。店内の照明が 消え、鉛色の空から僅かに届いている日光だけが光源となる。それから数分のうちに電力が回復し、照明が瞬いて、 ワックス塗り立ての床を照らし出した。

「麻里子さん、乾くまでの間」

 ちょっと休んでおこうか、と狭間は言いかけて硬直した。麻里子もツブラも、カムロでさえも。短い闇の中で、缶に 入っていたはずのワックスが一滴残らず床に広がっていた。誰かが蹴り倒したのかと思ったが、ワックスの缶は皆 から離れた場所に置いてあったし、ツブラの触手も大人しくしているし、カムロは髪の毛のリーチを失っているので 犯人であるとは考えづらい。そして何よりも、缶が倒れる音が聞こえなかった。

「あれ、もしかしてとは思うんですけど」

 麻里子がワックスの浅い池を指したので、狭間は肩を竦める。

「俺もそうは思いたくないが、そう思うしかなさそうだ」

〈麻里子と人の子の思った通りさ〉

 カムロは数本の髪を上げ、空気を絡め取るように捻る。

「カイジュウ!」

 警戒したツブラが触手を扇状に広げると、ワックスの固まりがずるりと持ち上がり、ナメクジを思わせる形状へと 変化した。せっかく綺麗に塗ったのに、塗った部分も持ち上がって吸収されてしまったので台無しだ。狭間が苛立ち を覚えると、麻里子はあからさまに舌打ちした。礼儀正しいが、行儀は悪いようだ。

〈無法者め〉

 ぬるりぬめりと這い寄ってきたワックスの固まりは、狭間でもツブラでも麻里子でもなく、カムロを捉えた。怪獣 である証ともいえる赤い瞳が現れ、その焦点が怪獣義肢に定まる。

〈強硬派であろうとも、最低限の礼儀は弁えておくべきだ。お前がしたことは、蛮行という言葉を当てはめることすら おこがましい、あまりにも愚かな所業だ。罰する、律する、処する!〉

 ワックス怪獣はごぼごぼと泡立ちながら、大波のようにカムロへと迫ってきた。

「ちょっと待て、なんでここでやる」

 狭間がワックス怪獣とカムロの間にモップを差し込むと、ワックス怪獣は身じろぐ。

〈人の子、なぜ邪魔をする。お前もこの馬鹿者のせいで被害を被ったではないか〉

「それはそれ、これはこれだ。せっかく綺麗に塗れたってのに、なんで剥げちゃうんだよ! 俺達の労働を無駄に しやがって! それこそおこがましいだろ!」

 狭間はモップを伸ばしてワックス怪獣を牽制しつつ、麻里子とカムロの間に入って遠ざける。

「礼儀だなんだと言うからには、こっちの都合も考えてくれ! どうしてこう怪獣ってのは!」

〈おい、カムロ。人の子ってこういう性格だったか? 俺達の共通の認識とは少し違うような〉

 もっとこう臆病で流されやすい男じゃなかったっけか、とワックス怪獣がカムロに問うと、カムロはにやりとする。

〈色々あってな〉

「大体お前のせいだろうが、カムロ」

 狭間はむっとしつつも、ワックス怪獣と向き直った。

「話が通じるなら、さっさと帰ってくれ。帰ってくれないと、こっちも仕事が終わらないんだよ!」

〈帰らせない。帰らせないために、俺はここに来たんだからな〉

 ワックス怪獣は床に這いつくばると、弾けた。狭間は思わず顔を覆うと、腕に拳大のワックスの滴が命中して凝固 した。幸い肘には至らなかったが、このシャツは二度と着られない。苦々しく思いながら顔を上げると、ワックス怪獣 は姿を消していた。いや、違う。ワックス怪獣の体液というか生体組織が店中に散乱し、窓とドアの隙間に入り込んで 凝固していた。海老塚が愛して止まない化石にもいくらか付着している。

「な……」

「なんてことをしてくれたんですか、あなたは」

 狭間が絶叫するよりも先に、麻里子が目を据わらせた。ベリーショートになっても艶やかさを失わない黒髪には、 一際大量のワックスがくっついていた。カムロの潰れた眼球を覆い尽くしているばかりか、麻里子の髪を七割ほど 固めている。麻里子はおもむろにスカーフを緩めて生首を外し、大きく振りかぶって投擲した。
 短いながらも髪の毛の威力を失っていないカムロは、宙に躍り出た瞬間に黒い刃を無数に成してワックスを全て 切り裂き、撒き散らした。だが、ワックス怪獣は細切れにされても勢いを失わないどころか、粘着力を増して再び 襲い掛かってきた。それらが命中する前に狭間は麻里子の胴体とツブラを引っ張ってバックヤードに逃げ込み、生首 を回収してからドアを閉めた。その場凌ぎにすらならないと解っていたが、他に手段はなかったからだ。
 一縷の望みを託して裏口を窺うが、そちらも見事にワックスに固められていた。





 


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