横濱怪獣哀歌




砂上ノ牢獄



 その翌日、否、その次の七月五日。
 狭間は、やはり歯が痛かった。木曜日のままであり、歯医者が開いていないからだった。痛み止めの効き目など 大したことはないし、ここまで悪化すると気休めにもならない。狭間も痛みでかなり苛々していたが、愛歌はそれ 以上に苛々していた。それもそのはず、これまでとは違ったことが起きたのに事態が何も変わっていないからだ。
 愛歌の推測では、一〇二回目の七月五日で狭間がメビウスリングの如き一日に気付いたことで捻じれた時間に 変化が発生し、事態を解決する糸口が見つかるはずだったのが、見当違いだったからだ。狭間が気付いたところで どうにかなるようなものであれば、愛歌が自力でなんとか出来ているはずである。

「そもそも、この赤い砂って何?」

 自宅アパートの床に広げた新聞紙には、砂時計の中身がぶちまけられていた。その傍らには空のビール瓶と、 ビール瓶に叩き割られた砂時計の残骸が転がっている。愛歌が忌々しげに赤い砂を睨むが、微動だにしない。

「俺に聞かれても困るんですけど」

 狭間は虫歯の影響で腫れた頬を冷やすために、氷を入れた水枕に顔を横たえていた。分厚いゴムの内側では 氷がぶつかってからころと鳴り、冷えた水が柔らかく波打つ。

「スナ」

 ツブラは赤い瞳を瞬かせて赤い砂をじっと見つめていたが、首を捻った。

「スナ、カイジュウ、チガウ?」

「違わないかもしれないけど、違うかもしれないけど、違っていないことを願うしかないわね」

「声がしないから違うでしょう、たぶん。で、なんで赤い砂が怪獣であるという前提で話が進むんですか」

「そりゃだって、世の中の訳の解らないことのほとんどが怪獣の仕業なんだもの」

「ナンダモノ」

「愛歌さん、それでも怪獣Gメンなんですか。そんなに大雑把な考えでいいんですか。人間にとって都合の悪い ことや理解しにくいものを何もかも怪獣のせいにちゃうのは、乱暴にも程がありますよ」

「でも、これまでのことは全部怪獣の仕業だったじゃない。ワックス事件にしてもそうよ」

「ソウヨー」

「だからって、何から何まで怪獣の仕業とは限らないじゃないですか。濡れ衣を着せられてしまった怪獣が人間 に反感を抱いて強硬派になったらどうするんですか、また面倒臭いことが増えるじゃないですか」

「その時はその時よ、なんとかなるって」

「ナルッテ」

「なりません。余計にこんがらがるだけです」

「いやに食い下がるわね、狭間君。そんなに歯が痛いの?」

「イタイノ?」

「痛いですよ痛すぎて頭がおかしくなりそうなほど痛いんですよ抜かせて下さいよいい加減に!」

 痛みの山場に差し掛かったこともあり、狭間は半泣きでまくし立てる。

「ねえ、狭間君」

「なんですか愛歌さんあんまり話し掛けないでほしいんですよせめて不貞寝させて下さいよ!」

「今、氷川丸はどうしているの?」

「そんなの、どうだっていいじゃないですか」

 愛歌に憎しみすら抱きながら、狭間は耳を澄ませた。だが、しかし。

「あれ?」

 聞こえてこない。氷川丸の汽笛らしき音色は遠くから漂ってきているが、氷川丸そのものの言葉は一つも混じって いない。それどころか、怪獣達のざわめきも一つも感じ取れない。行き交う車やバイク、電車、各家庭に設置された 給湯器のボイラー、電柱の変圧器、とありとあらゆる場所にいるはずの怪獣達が黙り込んでいる。いや、違う。

「うおっしゃああああああああっ!」

 怪獣の声が一切聞こえてこないという事実を認識した途端、狭間は両の拳を握って起き上がった。

「なんでそこで喜ぶの! 普通は困るところでしょ!」

 愛歌に詰め寄られるが、狭間はにやけた。だが、右頬が腫れているので表情筋が上手く動かなかった。

「これで怪獣連中に顎で使われずに済むようになったかと思うと、喜ばすにはいられないんですよ! うるさくないし、 楽だし、何より気分が軽いです!」

「狭間君が怪獣の声が聞こえなくなったら、狭間君を同居させておく意味がないじゃない!」

「俺はあります! 怪獣に振り回されずに済む人生にシフト出来たのなら、進学か就職のためにバイトを増やして 金貯めて自立したいって思っているんです! でも、すぐに自立出来るほど簡単じゃないんで、下準備が整うまでは 愛歌さんちで御世話になりつつ愛歌さんの御世話をするんです!」

「さっ……最後のは余計、事実だけど余計! とにかく、狭間君はもっと事態を深刻に捉えるべきよ!」

「愛歌さんこそ、俺みたいな半端者といつまでも一緒にいるわけにいかないでしょうが!」

「けど、同じ一日から脱しないとダメよ! いつまでもこのままじゃダメ、絶対に!」

「それはどうでしょうか」

 勢いを収めた狭間は再び氷枕に頭を横たえ、にんまりした。

「何よ、その気色悪い笑顔は」

 愛歌がやや身を引くと、狭間はなぜか勝ち誇った。

「七月五日が終わらないのであれば、愛歌さんは永遠に若いままじゃないですか。次の誕生日が永遠に来ないって ことは、つまりはそういうことなんですよ。俺は歯の痛みさえ我慢すれば進路を自由に選べる、愛歌さんは若さを 保てる、いいことだらけですよ」

「歯の痛みを我慢出来るような人間はそういないわよ。八十二回目だったかしら、狭間君が痛みに耐えかねて夜中 に変な行動を取ったのよ。あの時は怖かったわ、まさか狭間君が自ら電車に……」

 この先は言った方がいいかしら、と遠い目をした愛歌に、狭間は顔を背けた。

「いえ、いいです。すいませんでした、俺の戯言も忘れて下さい」

「繰り返す回数が少なかった頃は、狭間君みたいな考えになったこともあったけど、それがどれだけ馬鹿馬鹿しい のか説明するのも嫌になるわ。でも、怪獣の声が聞こえなくなったのが楽だっていうのは本当なのね」

「そりゃあもう」

「そんなに辛いの、怪獣の声がひっきりなしに聞こえてくるのって」

「そりゃ辛いですよ。このことを誰かに相談したくても出来ないし、聞こえてくる言葉がどんなに苦しそうでも自力では 何もしてやれないし、暴言を吐かれても言い返せないし、頼られてもどうしようもないし、何よりうるさいんです。皆、 話し相手が欲しくて欲しくてたまらないみたいなんですよ。怪獣同士だと話題が限定されてしまうし、堂々巡りになって しまうから、刺激が欲しいみたいで。だから、俺に色んなことを聞いてきますよ。流行りものはあるか、面白い映画 や漫画はあるのか、どんな人間がいるのか、人間はいつも何をしているのか、とかまあ色々です。それがまた、 うるっさくてうるっさくて。だから、今、歯は痛いですけど気は楽なんですよ」

 痛みによる苛立ちに任せて吐き出すだけ吐き出すと、狭間は少し落ち着いた。

「マヒト、カイジュウ、キライ?」

 狭間の攻撃的な物言いに臆したのか、ツブラはしょんぼりと触手を垂らして俯く。

「好きとか嫌いとか、そういうんじゃない。ただ――――」

 放っておいてほしいだけだ。狭間はそう言いかけたが、口には出さずに飲み下した。ツブラは口元をへの字にして むくれたが、狭間から離れるのは嫌らしく、腕の間に無理矢理入り込んできた。愛歌は気分直しだと言って冷えた ビールを冷蔵庫から取り出し、今晩もまた食卓に湯豆腐として並ぶはずだった豆腐をあてにして飲み始めた。
 重い枷が外れたような気分の中、狭間は寝入った。




 一〇七回目の七月五日。
 狭間は、隣人の闇医者に事の次第を説明した上で怪獣の声が聞こえなくなったことを相談してみた。辰沼京滋は 半信半疑ではあったが、狭間の親知らずと腫れの位置を確かめると真顔になった。そして、人間レントゲンとでも 言うべき能力を備えている田室秋奈に透視させ、患部の奥を確かめさせた。一通りの診察が終わると、辰沼は妙に 上機嫌になった。闇医者への診察代が払えるとは思えないが、どうせこの一日もなかったことになるので払わずに 済むはずだ。そんなことを考えながら、狭間はキャスター付きの丸椅子に腰掛けていた。

「親不知の虫歯が腫れたせいで、顎の神経を圧迫しているのは確かだね。で、それが脳にも影響していると」

 秋奈が描いた狭間の透視図を見つつ、辰沼はうきうきしていた。

「怪獣が体内に備えている怪獣電波受信器官の位置はまちまちで、個体によっては受信器官が肉体そのものである こともあるんだけど、狭間君の場合はそうじゃないんだなぁ。そう、骨。骨だよ。脳にも内臓にもそれらしいものが 見当たらないとなると、骨格がそっくりそのままアンテナになっている可能性が高い。となると……ふふふ」

 椅子を回して狭間と向き直った辰沼は、嬉々として狭間の手を取った。

「骨、分けてよ! 指が一本ぐらいなくなっても大したことないって!」

「大したことありますよ!」

 辰沼の冷たい手をすぐさま振り払った狭間は、椅子を転がして距離を置く。

「そう? 勿体ないなぁ、君の骨があれば最高に出来がいい怪獣人間が作れるのになぁ」

 ああ勿体ない勿体ない、と繰り返しながら、辰沼はカルテ代わりのノートを広げる。

「それと、君が持ち込んだ赤い砂だけどね。僕の専門外ではあるけど、まるっきり知らないわけじゃないよ」

「あの砂の正体もやっぱり怪獣なんですか?」

「怪獣というには語弊があるかもしれないけど、怪獣としか表現のしようがないのもまた事実なんだよなぁ」

 なんて表現しようかなぁ、と辰沼は背もたれに寄り掛かって仰け反っていたが、勢いを付けて態勢を戻した。

「あの砂はね、マガタマの欠片だよ」

「マガタマっていうと……」

 狭間が記憶を辿る前に、助手として働いていた秋奈が説明してくれた。

「怪獣使いが怪獣と交信するために用いる、怪獣の脳神経細胞の一部」

「そう、そのマガタマだよ。怪獣の体から排出されるものだから、昔は胆石みたいなものじゃないかって認識されて 扱われていたんだけど、科学の進歩と怪獣使いの台頭によってその正体と用途が判明したんだ。といっても、全ての 怪獣が排出するものではないし、手に入れられるわけでもないし、見つかってもほんの僅かだ。けど、地球怪獣は 根源が同じだから、全ての怪獣が全てのマガタマとの互換性がある。つまり、爪の先程度の小さな欠片一つでも 手に入れられたら、かなりの利益になるってこと。まあ、僕はそんなに興味はないけどね。脳神経細胞よりも大事 なのは内臓だよ、新鮮な内臓。骨も好きだけど」

 これは返すね、と辰沼は赤い砂を入れた小瓶を投げ渡してきたので、狭間は受け止めた。貴重なものだと解って いるのに扱いが悪い。その小瓶をポケットに入れ、非合法に処方された痛み止めと抗生物質をもらい、代金は明日に 払うと言って狭間は部屋を後にした。隣室の我が家に戻ってから、今一度赤い砂を眺めた。
 やはり、声は聞こえてこなかった。





 


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