横濱怪獣哀歌




荒波ヲ乗リコナセ



 陸に上がったサーフボードは、ぴちぴちと跳ねていた。
 怪獣特有の赤い目は先端部分の側面にあり、さながら車のウィンカーのような形状だった。これは昆虫のような 複眼なのかもしれない、と鮫淵が身を乗り出しながら観察している。なんでも、ウハウハザブーンが出現するのは サーファー垂涎のビッグウェーブが訪れる時だけで、出現したからといって誰でも上に乗せるわけではなく、凄腕の サーファーでも乗りこなせるわけではないという、極めて希少な存在らしい。ハワイや沖縄などの離島で民間伝承 として語り継がれているウハウハザブーンに関する話や、ビッグウェーブに乗ったサーファーの体験談を語る鮫淵 はいやに熱っぽく、普段はのんびりしている口調が二倍速になっていた。

「この怪獣、どの辺がウハウハなんですか?」

 サーフィンには全く興味がない狭間が訝ると、やはりサーフィンに欠片も興味がない愛歌は首を傾げた。

「ウハウハだからウハウハなんじゃないの? 一昔前にやってたカレーのCMのやつと同じ意味じゃないの?」

「あ、え、その、ウハウハザブーンの語源には諸説あるんですけど、ハワイ語を日本人の感覚で聞いたらウハウハに 聞こえただとか、ウハウハザブーンに乗っているハワイ人の叫び声がウハウハに聞こえただとか、まあ、その、 ハワイが根源なのは間違いないです。ザブーンは擬音ですね、どう考えても。だけど、その、どの離島においても 名前の本質的な意味は変わらないんですよ、これが。名前の長さも大体同じで。その辺も調べたいんですけど、 なかなかその機会がなくて、でも、ウハウハザブーンに遭遇出来るとは限らないので、だから」

 鮫淵はノートの端を押さえながら、ウハウハザブーンのスケッチをしていた。絵は決して上手くはないが、個体の 特徴を強調して描いている。描いた当人が意味が解ればそれでいいのかもしれない。

「ウアウア?」

 ツブラはウハウハザブーンをじっと見つめていたが、触手の先端でちょんと小突いた。

〈俺は帰らなければならない! 今すぐ! ハワイに!〉

 すると、ウハウハザブーンは弓形に飛び跳ねて海に戻ろうとしたが、浅瀬に突き刺さった。

「ハワイだあ?」

 何やってんだよこいつは、と言いつつも狭間はウハウハザブーンを引っこ抜いてやると、サーフボード型怪獣は 浅瀬に横たわり、波に揺られた。フジツボが付いた底面が上になってしまったが、自力で上下を戻した。

「ハワイ、いいわねぇ。死ぬ前に一度は行ってみたいものね、外国って」

 愛歌は太平洋の水平線を見渡すが、そこでは超大型怪獣同士が再び取っ組み合いを始めていた。

「え、あ、はい、そうですね。ハワイとその近辺の海域から生まれる怪獣は日本の怪獣とは外見も能力も違っている ので、是非とも一度は直に観察してみたいもんです。あと、ハワイ王族に伝わる怪獣を使役する呪文とかも、その、 研究してみたいなぁ。きっと音は同じなんだろうなぁ、怪獣使いの祝詞と」

 呪文を録音させてもらいたいなぁ、出来ないだろうけど、と言いつつも鮫淵はざっくりとしたスケッチを終え、ノートを 閉じた。愛歌は胸元から出したサングラスを掛けると、ウハウハザブーンと向き合っている狭間を指した。

「とりあえず、狭間君。遊泳禁止のままだと鵠沼海岸の商工会から恨まれるから、ウハウハザブーンにハワイにでも なんでも帰ってもらうように言ってくれない?」

「というわけなんだが」

 と、狭間が愛歌を示しつつ話しかけると、ウハウハザブーンはいきり立って平たい体を反らした。

〈帰りたくても帰れないんだよ! こんな湿気た海にいるのはもうごめんだ!〉

「なんで帰れないんだ? 海流がおかしいからか?」

〈それもあるんだが、あいつらが邪魔なんだよ!〉

 ウハウハザブーンはびたぁんと海面を叩き、第二ラウンドを始めた二体の超大型怪獣を力一杯示す。

〈あいつらが海中に潜伏している時も、あいつらが発する熱で海流が変わっちゃって波の具合が変わっちゃうんだが、 それはまだいい、まだなんとかなる。だが、あいつらが海上に出てきて大暴れして光線技をずばすば出しまくると、 海水温度だけじゃなく大気中の温度も急激に上がってしまうんだ! その結果、どうなると思う!〉

「どうなるって……どうなるんだろうな?」

「ローナ?」

 狭間が聞き返すと、ツブラもそれを真似した。

〈決まっているだろうが! 海面温度が上昇すると台風が発生しやすくなるんだ! 台風が発生するためには大気 怪獣の存在が不可欠だが、そいつらが熱に惹かれてやってくると大嵐になり、ますますハワイに帰りづらくなって、 俺は相模湾の住人になってしまう! せめてフィリピンに行きたかったのに! 俺はハワイにいいんだ! ハワイ 大好き! それ以外はただの水溜りだ!〉

「だったら、ハワイまで空輸してもらえばどうだ?」

 狭間が上空を飛んでいった旅客機を指すが、ウハウハザブーンはノーズを背ける。

〈空を飛ぶのは嫌いだ。邪道だ〉

「じゃ、船ならどうだ」

〈船だと足が遅くてつまらん。かったるい〉

「注文の多い野郎だな」

 伝説のサーフボード怪獣は、プライドが高い上に我が侭だった。正直言って相手をするのは面倒臭かったが、狭間 は思案した。ウハウハザブーンを上手いこと言いくるめ、相模湾で大人しくしてもらうべきか。もしくは沖合いで 戦い続けている超大型怪獣達に引っ込んでもらうには、どうしたらいいか。だが、どちらもいい考えであるとは言えない。 そもそも、狭間はそこまで弁が立たない。ツブラはウハウハザブーンに近付こうとしていたが、波に足を取られては べしゃりと転び、起き上がってはまた転び、を延々と繰り返していた。
 すると、有翼の怪獣が砂浜に舞い降りてきた。狭間達が間借りしていた海の家の手前に着地すると、太い両足を 砂に埋もれさせ、翼を閉じた。中型怪獣で、外見は猛禽類に似ている。それを皮切りに、次々に怪獣が湘南海岸へと やってくる。整然と列を成して降下してきた怪獣達はきちんと並び、しんがりの四枚翼の中型怪獣とその傍らで飛ぶ 人型怪獣を待ち受けていた。四枚の翼を生やした中型怪獣は、装飾の付いた箱を抱えていた。

「まさか……これは」

 狭間が後退ると、愛歌はサングラスを外して舌打ちする。

「庶民のリゾートでお過ごしあそばされる御身分じゃないでしょうに」

「え、あ、あれ? だけど、えと、事前に連絡はされていなかったような……」

 鮫淵も戸惑い、ノートを抱えて背中を丸めた。縦長の箱を担いでいる人型怪獣が煌びやかな箱を開くと、その中 から白と赤の着物を纏った少女が現れた。怪獣使い、綾繁枢だ。人型怪獣は少女の前に跪いて足掛かりになった が、枢はその足掛かりを思い切り踏み外し、砂浜に転げ落ちてしまった。人型怪獣が庇ったおかげで頭から熱い 砂に突っ込む事態は回避されたが、枢は顔がひどく紅潮していて息も荒かった。

「今日、暑いからねぇ。のぼせたのね、あの子」

 愛歌が苦笑したので、狭間は枢の入っていた箱の大きさを目測してみた。

「しかもあの箱、背丈が二メートル程度しかないですよ。横幅はもっとあるかもしれませんけど、そんなに狭い箱の 中にずっと入っていたんじゃ、空気が薄くなって酸欠にもなりますよ」

「えと、その、介抱した方がいいっていうか、さすがに」

 鮫淵が臆しながらも提案したので、愛歌と狭間は顔を見合わせた。お互いに、出来ることなら怪獣使いには接触 したくないという表情が浮かんでいたが、具合の悪い人間を放っておいて死なれでもしたら夢見が悪くなる。けれど、 ツブラを怪獣使いに近付けるとややこしいことになりかねないので、枢の介抱は愛歌と鮫淵の仕事になった。
 枢が率いてきた怪獣達は枢を連れ去られるまいと抵抗したが、人型怪獣は彼らを制し、枢が入っていた箱から 分厚い帳面を出してきた。それを広げると簡単な単語が書いてあったので、それを指して意思の疎通をしよう、という 意図が読み取れた。ということは、人型怪獣は日本語をある程度理解出来るのだろう。その甲斐あって、愛歌と鮫淵 が枢を攫おうとしているわけではないこと、むしろ助けに来たのだと解ってもらうことが出来た。
 倒れてから十数分後。ようやく、枢は海の家に運び込まれた。




 服を緩めて氷嚢を当ててやると、枢の顔色は穏やかになった。
 呼吸も荒く顔も真っ赤で、全身に大量の汗を掻いていたので、愛歌は重たく暑苦しい着物を脱がせてやってから、 着替えとして持ってきたワンピースを貸してやった。小柄な枢が着るには大きすぎたが、ないよりはマシだ。ゴザを 敷いただけの座敷席にそのまま横たわらせるのは忍びないので、鮫淵が持ってきた敷物を広げ、その上にバスタオル を敷いたところに寝かせてやった。もう一枚のバスタオルは腹部に掛けてやってある。
 ビニール袋に氷を入れた即席の氷嚢を首筋と脇の下に当てられていた枢は、氷がすっかり溶けきると、顔全体の 紅潮が頬の赤味程度に収まった。睫毛の長い瞼を瞬かせ、潤んだ瞳を彷徨わせていたが、目を見開いた。直後、 体を折り曲げて盛大に吐き戻し始めた。愛歌は枢の背中をさすってやり、鮫淵は空っぽのバケツを差し出して くれたおかげで、床の被害は最小限に留まった。

「……う、うぇええ」

 今にも死にそうな声を出した枢に、愛歌は濡れたタオルで汚れた顔を拭いてやった。

「暑気中りに加えて怪獣酔いもありそうね、これは」

「飲めるようなら、少しは水を飲んだ方がいいっていうかで」

 鮫淵が水の入ったコップを渡すと、枢はべとつく手で受け取り、一口飲もうとしたがすぐに吐き出した。口の中に ある胃液の味が混じってしまったからだ。口内を漱いでから改めて口を付け、喉を鳴らして飲み干した。コップが 空になると、枢は深く息を吸い、吐いた。涙の滲んだ目元を手の甲で拭い、洟を啜る。

「わたくし、どうしたのかしら」

「こんなに暑い日に、あんなに重たい服を着て狭い箱に入っていたんじゃ、誰だってああなるわよ」

 もうちょっと横になっていなさい、と愛歌は枢を再度寝かせると、濡れタオルを額に載せてやった。

「わたくし、おしごと、しなければなりませんの。でないと」

 たどたどしく喋る枢に、愛歌は問う。

「でないと、どうなるわけ?」

「でないと……おとうさまが、おしかりになるの」

「あのねぇ、子供がぶっ倒れるまで働かせる方が悪いのよ。負い目を感じることなんてないわ」

「ああ……こんなことでは、わたしは、わたしは」

「いいから、休んでいなさい。寝ていなさい。あんたのことは、怪獣達が守ってくれるから」

「ほんとうに? わたくし、ねていていいの? やすんでいていいの?」

「そうよ、思い切り休みなさいよ。公務員にだってちゃんと夏休みがあるんだから、怪獣使いに休みがないわけが ないじゃない。休んじゃいけないってことはないし、大抵の人間は休みの日の遊ぶために働いているのよ」

 いい子ね。そう言って、愛歌は枢の汗で湿った黒髪を撫でてやった。その手付きで安心したのか、枢の顔付きから ふっと力が抜け、瞼が閉じた。程なくして細い寝息が紡がれ、少女の薄い胸が規則正しく上下した。だが、それとは 対照的に愛歌の横顔は険しかった。無意識に縋ろうとしてきた枢の手を解き、バスタオルを握らせてやってから、愛歌 はサングラスを掛けた。黒いレンズ越しに何かを睨み付けていたが、視線の先には空しかなかった。
 雲一つない、濃い青空だった。





 


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