横濱怪獣哀歌




荒波ヲ乗リコナセ



 塩を掛けたスイカと麦茶を食べ終えると、枢の顔色は一段と良くなった。
 ウハウハザブーンが荒れ狂う波に果敢に挑んではひっくり返っている様を横目に見ながら、狭間は枢が弱々しく 述べる話を聞いていた。怪獣使いは怪獣を使うことだけに集中するために生まれてすぐに家族とは引き離されて、 綾繁家の別邸で暮らすことが決まっていた。なので、枢も両親の顔すら知らず、使用人と怪獣達に囲まれて育ち、 怪獣使いとしての能力を高めるために常日頃から鍛錬していた。その甲斐あって綾繁家当主であり枢の父親である、 綾繁さだめから、超大型怪獣に洗礼を与える仕事を任されるようになってきた。タテエボシの件もその一つ で、枢は順調に経験を重ねていき、本家に招かれる日も遠くないと思っていたのだが――――

「私には、双子の弟と妹が生まれていたそうです。御姉様もいらっしゃるそうですけど、御顔は知りません」

 この前まで顔も名前も知りませんでしたけど、と呟き、枢は日に焼けていない腕をさすった。

「私よりも三つ年下で、今年で七つになるそうです。男の子がみつぐ、女の子がささげといって、 どちらも怪獣使いとしての資質は私よりも上なのだそうです。どれもこれも伝聞ですが、御父様がそう仰るのであれば、そうなのでしょうね。 ですから、私は御父様にお役に立てるところをお見せしたくて……」

「夏の風物詩の怪獣達に洗礼を与えようとした、と」

 スイカの皮をゴミ袋に入れつつ、愛歌が言うと、枢はしょんぼりと肩を落とす。

「はい。ですが、あの方達は私が今まで接してきた怪獣達とは全く違っていて、洗礼を与えるどころか近付くことすら ままなりませんでした。けれど、おめおめと引き返してしまっては綾繁家の名を穢すと思い、何度も挑んだのですが、 こうなってしまいました。皆様には、大変な御迷惑をお掛けしてしまいました」

 深々と頭を下げる枢に尊大さはなく、挫折に打ちひしがれていた。

「あ、えと、あの怪獣達は神話時代の末裔というか、神話時代から現代に至るまで世代交代を繰り返しながら進化を 繰り返してきた怪獣達なんで、洗礼を与えるにしても祝詞に含まれている怪獣言語が神話時代のものじゃないと 通じないというか、たとえ通じたとしても制御不能というか、その、無理なんです、つまり」

 枢から離れた場所で正座している鮫淵は、かなり読み込まれた本を広げ、そのページを枢に見せた。

「えと、これがあの怪獣達の解剖図なんですけど、ほら、ここ。怪獣電波を受信する器官がないんです、見ての通り。 神話時代の怪獣達の意思の疎通を行う手段についてはまだまだ研究段階なんですけど、怪獣電波受信器官がなければ 何を言っても聞こえないんです。それが祝詞であっても。ですから、彼らを操れないのは枢さんの力が足りないから ではないんです。なので、その」

「カイボウズ? それは怪獣の名前ですの?」

 不思議な絵ですわね、と枢は物珍しげに本を覗き込んでいる。鮫淵は目を丸め、髪を乱す。

「え、あ、その、そこから説明しないといけないんですか? 理科で習いませんでした?」

「理科は御勉強の科目の名前ですわね、それなら存じております。世俗にまみれてしまうと力が落ちるから、御勉強 してはいけないと御父様が仰るんです。この御本、読めない字が一杯あって、なんだか面白いですわね」

 好奇心に任せて本を見つめる枢は、余程刺激に飢えているのか、身を乗り出してさえいた。

「可哀想に。黴臭い与太話に呪われて」

 枢が率いてきた怪獣達の鳴き声に紛れるほどの小さな声で、愛歌は吐き捨てた。遊び疲れてうとうとしているツブラ を抱えて調理台の影に隠れている狭間も、それには同意した。知識や経験で脳が膨れたからといって、怪獣の 声が聞こえる能力が衰えるわけではない。むしろ、ある程度の知識がなければ、怪獣達の話の意味は解らない。 世間から隔絶されている怪獣使いは、時代からも隔絶されているようだ。

〈おおい人の子、俺を見ろ、俺を見てくれ! どうだ、この見事なカットバック!〉

 サーファーも載せずに波に乗っているウハウハザブーンは己の腕前を自慢してくるが、狭間は物陰にいるので、 そう言われても見られるわけがない。

〈怪獣使いと怪獣使いに屈した連中なんか放っておいて、俺の華麗なテクニックを拝むがいいさ! ほうらどうだ、 この隙のないレールワーク! どうだどうだ、ほらほらほらほらっ!〉

 そう言われても、サーフィンに詳しくないので何が凄いのかは解らない。ウハウハザブーンがハワイに戻りたがって いる理由もそこにあるのだろう。凄腕のサーファーに乗られ、ビッグウェーブに挑めば、そのサーファーのファン に騒がれるし、注目されて人々の話題になる。それを繰り返した末、ウハウハザブーンは自己顕示欲が満ちる 快感を知ってしまったため、快感を求めずにはいられなくなったのだろう。要するに、ウハウハザブーンはサーフィン がしたいのではなく、目立ちたいのだ。だったらハワイにでもなんでもとっとと帰れよ、と狭間は内心でぼやいた。

「マヒト……」

 まどろんでいたツブラが目を覚まし、狭間の腕の中でツブラがもぞもぞと動いた。

「もうちょっと寝ていろ、見つかると厄介だ」

 狭間はツブラの頭を押さえると、ツブラはとろんとした目を瞬かせ、触手を緩く絡み付けてきた。

「ムゥ」

 ツブラはむくれたが、眠気には勝てず、再び狭間の胸に頭を摺り寄せてきた。

「あの、先程から波の上を滑っている怪獣は一体何なのですか?」

 ウハウハザブーンの存在に気付いた枢は、波の内側を滑っていく楕円状の板を見つめた。

「ああ、あれ。ウハウハザブーンっていうのよ。サーフボード怪獣で、あれがいつまでもここに居座るから遊泳禁止に なっちゃったのよ。あいつは元々ハワイにいたらしいんだけど、相模湾沖で超大型怪獣同士がプロレスをしているから、 海流が変わって帰るに帰れなくなっちゃったんですって」

 愛歌が説明すると、枢はウハウハザブーンを凝視する。

「あの怪獣、なんだかとても楽しそう……」

「あ、いや、でも、あれを乗りこなせるのは余程の腕前じゃないと、その」

 鮫淵は制止するが、枢は頬を上気させて立ち上がる。

「そうですわ! あの怪獣を相模湾から遠ざければ、遊泳禁止も解除されますし、私は御仕事を成し遂げたことに なりますわ! では早速海に参りましょう!」

 仕事を口実に海で遊びたくてたまらなかったのだろう、枢は海の家を飛び出していった。

「ああっ、ちょっと待って、せめて水着を着て! 私のワンピースを返して、高かったんだから!」

 ワンピースの長すぎる裾を翻して駆けていく少女を追いかけ、愛歌は声を上げた。一旦立ち止まって振り返ると、 どっちでもいいから女の子の水着買ってきてよ、と命じてきた。厨房から顔を出した狭間は鮫淵と目が合い、互い にしばし沈黙した。すると、鮫淵は荷物を探り、狭間にそっと財布を差し出してきた。代金は立て替えてあげるから 使い走りになってくれ、という意味なのは明白だった。逆らう理由も特にないので、狭間は鮫淵の財布から水着の 千円札を三枚抜いてから返し、鵠沼海岸駅前の商店街に向かった。
 もちろん、変装させたツブラも連れていった。浮き輪やビーチボールを売っている雑貨店を覗いたが水着までは 扱っていなかったので、洋品店を訪ねた。幼い子供連れなのに小学校中学年が着るサイズのスクール水着を買いに 来た若い男という、我ながら怪しさ満点の客ではあったが、怪しまれることもなく売ってもらえた。新品のスクール 水着を入れた紙袋を下げて海岸に戻りながら、狭間はなんだかほっとした。

「マヒト、アノコ、カマウ?」

 スクール水着の入った紙袋を掴み、ツブラはむくれた。

「そういうんじゃない。いつも通り、使い走りにされただけだ」

「ツブラ、ナニカ、デキル?」

「今日は光の巨人も出てきそうにないし、柄の悪い連中にも会っていないから、遊んでいるだけでいいさ」

「デモ、ソンナノ」

「毎度毎度体を張っていたら、身が持たないぞ。文字通り」

「ダケド」

「出来ることがある時に出来ることをやる。それでいいじゃないか」

 あの時間の牢獄の中で、狭間は理解した。どう足掻いても覆せない、己の無力さと弱さを。何かが出来るような 気がして、何かを成し遂げるために突き動かされているような気がしていたが、それは狭間の愚かしい思い込みに 過ぎなかったのだ。ツブラのこともそうだ。人の子、天の子と呼ばれているから、自分達が世界の行く末を担った 特別な存在なのだと勘違いしていた。けれど、そんなことはなかった。ツブラが倒せる光の巨人の数も限られている し、狭間が一度に聞き取れる怪獣の声もほんの少しだし、その両方を合わせて出来ることは矮小だ。
 だから、ウハウハザブーンにすらも手を焼いている。それでいいのだと、自分達はそんなものなのだと、開き直る までに随分と時間が掛かってしまった。怪獣達のいざこざと光の巨人の出現を同列に考えていた節すらあったが、 それとこれとは別なのだ。怪獣達の内輪揉めは当獣達で片付けてもらって、狭間は怪獣と人間の軋轢を、ツブラは 目の前の光の巨人に対処することに集中すべきだ。どれだけ優れたサーファーであろうと、その瞬間に乗りこなせる 波は一つだけであるように。それに気付けただけでもよかった。
 手を繋いで、白く輝く水平線を目指した。




 綾繁枢は繊細な外見とは裏腹に、運動神経が抜群だった。
 そして、意外なことに鮫淵はサーフィン経験者だった。なんで言わなかったのかと愛歌に問われると、特に重要な ことでもないし聞かれなかったからだ、と答えた。狭間が買ってきた紺色のスクール水着を着た枢は、愛歌のヘアゴム を借りて長い髪をひとまとめにして海に入り、鮫淵にサーフィンを教わってウハウハザブーンに乗った。誰かに乗られる となるとウハウハザブーンも心持ちが変わるらしく、ぶるりと身震いしてフジツボやら海藻を剥がした。
 鮫淵に乗り方を教えられてから小一時間もしないうちに、枢はウハウハザブーンの上に立てるようになった。いかに サーフボードがバランスを取ってくれているといっても、波の上を滑る板に立つのは容易ではない。だが、枢は いとも簡単に乗りこなしていて、波に挑むようになっていた。バランスを崩して海に落ちることもあったが、すぐさま ウハウハザブーンが拾い上げてくれた。波を一つ乗り越えるたびに、枢の表情もどんどん明るくなる。

「意外なところに意外な才能が転がっていたもんだなぁ」

 数十回目の波乗りを楽しんでいる枢を眺めつつ、狭間が呟くと、思わぬところから声を掛けられた。

〈枢様があんなに楽しそうにしておられるのは、何年振りだろうか……〉

 狭間に歩み寄ってきたのは、細長い箱を背負った人型怪獣だった。分厚いウロコと爬虫類染みた顔と尻尾と翼は 人間とは似ても似つかぬ外見だが、大きさが人間大なので人型怪獣として分類されている。だが、最も特徴的なのは、 背中に担いだ縦長の箱だった。それはまるで、死者を収める棺のようだった。

〈私の名はヒツギ。この箱は枢様の身の回りのものを収めている箱だ〉

 狭間に質問されるよりも先に答えたヒツギは、膝を折り、狭間と目線を合わせてきた。赤い目は顔の両脇に二つ あったが、額の中央にも小さな目が一つあった。その三つ目の一つは、枢に据えられていた。

「その箱の中には、あの子の水着は入っていないのか?」

〈真っ先に聞くことがそれか? だが、それは否だ。そのようなものを持つことは、定様が禁じている〉

「だろうと思ったよ。だが、怪獣使いの怪獣に話しかけられるなんて思ってもみなかったよ」

 俺のことは怪獣使いに口外するなよ、と狭間は怪獣電波で返すと、そのつもりだ、とヒツギは応じてくれた。

〈人の子。お前が綾繁家に加わってくれれば、我らはともかくとして、枢様や他の血族達に課せられた任が少しは 和らぐのだが……。まあ、聞き入れられはしないだろう。そもそも、定様が良しとしない〉

「それってつまり、あの子と結婚しろってことか?」

〈人間同士を結び付けるためには婚姻関係を結ぶのが最も確実なのは確かだが、その辺も含めて、定様は首を縦には 振らないだろう。それに、枢様は御嫁になるにはまだ早すぎる〉

「そりゃそうだ。戦国時代じゃあるまいし」

〈人の子。天の子を守るという責務だけでなく、近頃は強硬派と穏健派の間にも挟まれているようだが、私は人の子 に助力出来る立場ではない。私は枢様をお守りし、来たるべき時を待たねばならないからだ。だが、怪獣使いが人の 子と天の子に仇を成さないように立ち回ろう。私達の意思はそれほど尊重されているわけではないが、怪獣使いに 従わなければ、凌げる局面もあるはずだからだ〉

「ああ、そうしてくれ。綾繁家の御家騒動には巻き込まないでくれよ」

〈私としても、巻き込まれてほしくはない。だが〉

 そう言って、ヒツギは三つの目の一つを動かし、どこかに据えた。その先を辿ると、ウハウハザブーンに乗る枢に 声援を送っている愛歌がいた。枢は褒められるのが嬉しくて仕方ないか、満面の笑みで手を振っている。鮫淵はと いえば、枢に乗られているウハウハザブーンをスケッチしていた。それもまた、鮫淵の研究の役には立つのだろう。 それから、枢とウハウハザブーンは日が暮れるまで波に乗り、海と戯れ、遊び呆けた。
 日没後、海から上がった枢は、潮と汗にまみれた体をシャワーで洗い流した。海水で濡れた髪は愛歌が綺麗に 洗ってやったが、ドライヤーを使うまでもなく熱気で乾いていた。ヒツギが担いでいた箱の中から乾いた襦袢を 出し、愛歌が着物を着つけ直してやると、枢は元通りの姿になった。違いがあるとすれば、体全体が日に焼けて いることだ。人型怪獣に担ぎ上げらているウハウハザブーンは弛緩していて、体がしなっている。

〈楽しかった、楽しかったぞ……。この感覚を久しく忘れていた。俺はトップクラスのプロサーファーを乗せている と思い込んでいたが、俺が乗せるサーファーを選り好みしていただけだったんだな。ただひたすらに、真っ当に、 波に乗ることだけを追い求めていればそれでよかったものを、余計な欲が生まれてしまったんだ。俺もまだまだ 修行が足りんな。だが、怪獣使いの娘のおかげで初心に返ることが出来た。これからは、ハワイ以外の海にも出て みるさ。そうすれば、色んな奴に出会えるだろうしな〉

 無心で遊び呆けたおかげで毒気が抜けたウハウハザブーンは、片目を閉じてみせた。

「今日は本当にありがとうございました。とても楽しかったですわ。私、一生忘れません」

 枢は愛歌と鮫淵に一礼し、海の家にいる狭間にも一礼した。

「ウハウハザブーンは、私の怪獣達に手伝ってもらって沖へと連れ出してやることにしました。そうすれば、ウハウハ ザブーンも広い海へ出られますし、遊泳禁止も解除されますし。それでは、皆様、ごきげんよう」

 派手な振袖を翻した枢は箱に入ろうとしたが、躊躇い、ヒツギを跪かせてその腕に抱かれた。倒れるほど暑苦しい 箱の中に戻るのは、さすがに嫌だったらしい。怪獣達が一斉に羽ばたき、浮き上がる。枢は上品に手を振っていた が、見送りのために海の家から出てきた狭間を目に留めると、照れ臭そうに微笑んだ。
 なんだ、ただの子供じゃないか。そう悟ると枢への警戒心が失せ、狭間は枢に手を振り返した。狭間の陰から様子 を窺っていたツブラも、小さく手を振っていた。枢とその一行が引き上げたのと時を同じくして超大型怪獣達の戦いも 終わり、両者は海に消えていった。愛歌は手を下ろし、麦藁帽子を被り直す。

「狭間君。枢の連れてきた怪獣と話したの?」

「箱を担いでいるヒツギってやつと。少しだけですけどね」

「何を言われても、無視しちゃっていいわよ。綾繁家と関わると、ろくなことにならないんだから」

「あの子は悪い子じゃなさそうでしたけどね」

「枢はいい子でも、親がろくでもないのよ」

 さあ帰りましょ、と愛歌は海の家に戻ってきて荷物を片付け始めた。確かに、それはそうなのだが。枢への態度は 辛辣ではあったが優しかったので、愛歌は綾繁家そのものは疎んでいても子供は嫌いではないらしい。根深いものが ありそうだと感じたが、突っ込んだことを聞けるはずもなく、狭間も帰り支度をした。鮫淵は海を眺め、僕もまた サーフィンやろうかなあ、でも仕事があるしなぁ、と言いつつも帰り支度をした。それから鵠沼海岸駅から江ノ電 に乗って藤沢駅に行き、そこで国鉄に乗り換えて桜木町駅を目指した。
 巻貝の貝殻は、ツブラの宝物になった。





 


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