横濱怪獣哀歌




桜木町デ会イマショウ




 声が聞こえる。
 いつの頃からか、物心付く前から、それが声であると認識する前から、ずっと耳にしていた。優しい囁きもあれば 厳しい叱責もあり、暖かな歌もあれば悲しい嘆きもあり、美しい詩もある。それは星の声であり、命を育む温もりの 言霊である。その声が自分以外には聞こえていないと知った時、狭間はざま真人まひとの人生は決まってしまった。
 怪獣の使いっ走りである。




 ――――照和しょうわ五十四年。四月某日。

 もう、後戻りは出来ない。
 電車の単調な揺れに身を任せながら、両足の間に置いてあるボストンバッグに目をやった。狭間真人は自分の 愚かさを大いに嘆き、数百回目の後悔に駆られた。電車が揺れるたびにボストンバッグの中身も揺れ、ごろりごろり と左右に動いて足にぶつかってくる。その重量に匹敵する痛みが届くので、この分では、両脛の内側には大きな痣 が付いていることだろう。それもまた、後悔している理由の一つだった。
 いつしか、車窓を流れる景色は見知らぬものに移り変わっていた。考えてみたら、電車に乗って県外に出るのは これが初めてかもしれない。それに気付くと、感慨深さと共に高揚が沸き上がってきた。だが、後悔を拭い去るほど の強さはなく、心中にはどっしりとした不安が横たわっていた。
 一ヶ谷駅で上りの電車に飛び乗った時は、進まなければならないという使命感にすら駆られていた。このまま では自分も、そしてこのボストンバッグの中身もダメになると思ったからだ。その判断が正しかったかどうかは、まだ 解らない。そもそも、どこに行き着くかも解らない。解っているのは、手持ちの現金が乏しく、東京までの電車賃を支払う と明日の食費すらも危ういという残酷な現実だけだ。

〈その子はもうすぐ産まれるぞ〉

 電車の揺れに混じって聞こえる音が、怪獣の鳴き声が狭間の耳に届く。

〈とっても可愛い女の子ね! 心臓の音で解るわ!〉

 最初の声の主は、一両目を牽引している動力怪獣バンジューのオスだ。そして、次の声の主は最後尾である 四両目を牽引する動力怪獣バンジューのメスだ。電車を牽引する怪獣は、基本的につがいだからだ。

〈そうさ、それでいいんだ。人の子よ〉

〈その子は生きなくちゃいけないのよ。産まれる前から死んでしまうなんて、可哀想だもの〉

「俺はこれからどうすればいい? 何をするべきなんだ?」

 終電間際なので、狭間以外の乗客は車内にいない。それをいいことに、狭間は問い返した。

〈それを決めるのは俺達じゃないさ〉

〈そうよ、私達は電車だもの。切符を買って、乗り換えるのは、あなたの役割よ〉

「いい加減だな」

〈俺達は俺達だ〉

〈人の子は人の子よ〉

「だったら、あんた達でこいつを助ければよかったんだ。俺が助ける理由なんて、一つもありゃしない」

〈いや、あるさ〉

〈そうよ、人の子。だって、あなたは……〉

 トンネルに入った途端、動力怪獣バンジューの声が轟音に掻き消された。そこから先は聞きたくもないし、そもそも 聞き取ろうとも思わなかった。狭間はパーカーのフードを被って腰をずり下げると、履き潰したスニーカーを履いた 足を投げ出した。その間も、ボストンバッグの中身は左右に動いていた。
 心身が疲れ切っているせいか、空腹すら覚えなかった。バンジュー達の声を耳にしないためにも眠ってしまうべき だと判断し、瞼を閉じた。程なくして狭間の意識は遠のいたが、今日一日の目まぐるしい出来事がフラッシュバックして きて眉根を寄せた。ボストンバッグの内側で何かが軋む音が聞こえたが、電車の走行音に紛れてしまった。
 遠からず、この怪獣の卵が還る。




 事の起こりは、一週間前に遡る。
 新潟県の中部に位置している一ヶ谷市の山奥にある集落で、土壌開発工事中に怪獣の卵が地中から現れた。 それ自体はなんら珍しいことではなく、日常茶飯事であるとも言える。怪獣は社会を支える貴重な資源であると同時 に、日常の一部だからだ。古くは産業革命時代からの話であり、今となっては誰も疑問にも思わないし、怪獣以外 のエネルギー資源を見つけようとも思っていない。だから、例の怪獣の卵も、きちんと孵化させれば新たな労働力 として社会貢献してくれるものだと誰もが思った。狭間も例外ではなかった。
 だが、怪獣の卵が発見されてから六日後。すなわち、電車に飛び乗る前日、狭間は頭が割れそうなほどの叫声 で目を覚まさせられた。脳を直接掴まれて揺さぶられているかのような圧力と重みに耐えかねて飛び起きたが、自室の 窓ガラスは微動だにしていなかった。古びた木造二階建ての実家も同様で、静かなものだった。飛び起きた拍子に 枕元の灰皿をひっくり返してしまい、タバコの灰と吸殻が散乱した。

「あーやだやだ、勘弁してくれよ」

 狭間は二日酔いのように痛む頭を押さえながら障子戸を開け、朝焼けに染まる山並みを見上げた。狭間の住む 家は、十六年前に温泉掘削事業が行われた船島集落から程近い集落の一角にある。まばらな民家の間にあるのは 田植えを待ち侘びている田んぼで、山間には溶けきっていない雪が残っている。
 窓を開けてみようとしたが、夜気で結露が凍り付いていて開かなかった。仕方ないので、狭間は二階から降りて 玄関から外に出た。布団の傍に転がしておいたコートを羽織って長靴に素足を突っ込み、外に出ると、再びあの声 が怒濤のように襲い掛かってきた。今度は外気にも音の震動が及んだのか、杉の木の枝葉が波打った。

〈何をしておる、人の子よ!〉

「うるせぇなぁ、もう」

 頭痛に辟易しながら言い返すと、相手は狭間の返答を聞き取ったらしく、やや声色を弱めた。

〈人の子よ、我の元へ至れり〉

「なんでこんな朝っぱらから。まだ用も足していないんだが」

〈迅速に至れり〉

「千代との仲は取り持たないぞ。通訳もしない」

〈詮索は無用、至れり〉

「せめて小一時間待ってくれ。でないと、行くに行けないだろうが」

 欠伸を噛み殺しながら、狭間は家の中に戻った。すると、玄関先で弟と鉢合わせした。

「何を一人でぶつくさ言ってんだよ。相変わらず気持ち悪いな」

 弟、狭間真琴は、一ヶ谷市立高校の制服の上に分厚いコートを羽織っていた。度の強いメガネの奥では気怠げに 目が伏せられていたので、また夜更かししていたのだろう。使い込んだ自転車に跨り、道路へ出た。

「この地鳴りって、ムラクモの爺様?」

 真琴はマフラーで口元を覆いながら、山間を揺さぶる低い音に耳をそばだてた。

「朝っぱらから元気だなぁ、ムラクモの爺様も。この分だと、今日も温泉がばんばん出そうだ」

「やけに早いが、部活か?」

「別に」

 真琴はぞんざいに言い返してから、ペダルを踏んで漕ぎ出していった。弟の背を見送ってから、狭間は今度こそ 家の中に戻った。両親は船島集落にある温泉施設に早朝から働きに出ているので、起こしてしまうかどうかを心配 する必要もない。台所でいい加減な朝食を取り、身支度を終えてから、狭間はバイクのキーを握り締めた。
 何もかも無視して、聞かなかったことにしてしまいたい。ヘルメットを被って750ccのバイクに跨ると、エンジンを 暖機させながら、狭間はヘルメットの上からこめかみを押さえた。バイクのエンジンタンクの中では、小型サイズの 動力怪獣バンジューが震えながら熱を放出している。機体の振動に混じり、バンジューの声も聞こえてくる。

〈ほらほら早く行こうぜ、でないとムラクモがお冠だ!〉

「うるさい」

 エンジンタンクを小突いて黙らせてから、狭間は気を取り直してハンドルを握った。

「うるさい」

 すると、今度は自宅の給湯器として設置されている熱源怪獣ボイマーが騒ぎ出した。

〈おなか、すいた! さむ、ひえ、やだ!〉

「うるさい」

〈俺のエンジンは暖まったんだから、さっさと出ないと!〉

〈至れり〉

〈さむ、いや、みず、こおる、いや!〉

「うるさい!」

 溜まりかねた狭間が一喝するが、それでも怪獣達の声は止まらない。それどころか、狭間に相手をしてもらえる のが嬉しいのか、ぎちぎちがちがちぐちぐちと騒ぎ出した。だが、一つ一つ相手をしていたら、いつまでたっても出発 出来ないので、全て無視した。バイクの中身からは文句を言われたが、それも無視した。
 これだから、怪獣は嫌いだ。だが、怪獣なくして現代社会は成り立たない。狭間自身も怪獣の恩恵を受けている 身ではあるが、それとこれとは話が別だ。人間の道具として日々働いている怪獣達は、皆が皆、誰かに話を聞いて もらいたくて仕方ないから、言葉を聞き分けられる相手に矢継ぎ早に話し掛けてくる。その内容は貧困で、家電怪獣 は同じ場所に止まっているから話題も同じなので、それを何度も何度も聞かされる方には、たまったものじゃない。 だから、相手をしないように務めてきたし、怪獣から話し掛けられても無視するようになっていた。
 怪獣の鳴き声は不明瞭で人間の耳にはかなり聞き取りづらいし、言語として成立していない。だが、狭間は怪獣の 言葉を聞き取れる。鳴き声ではなく、思念が感じ取れると表現した方が的確だ。あまりにも厄介な代物なので、能力 とは言いたくないし、こんなものが人生の役に立つとは思えないからだ。耳を塞いだこともあるし、閉じこもったことも あるし、怪獣のいない場所を目指して逃げ出したこともあったが、全て無駄だった。科学技術の発達と共に世界中に 蔓延した大小様々な怪獣達はどこにでもいたし、怪獣達の放つ超低周波の声は狭間の骨を震わせてきたからだ。 だから、逃れようがなかった。かといって、誰にも相談出来なかったし、この体質について公言すれば狂人扱い されるのは目に見えている。地球ではない世界に行きたいと願うほど、苦しめられていた。
 それなのに、水脈怪獣ムラクモが横たわっている船島集落へ向かっているのは、無視すると怪獣以上に煩わしい ものが船島集落温泉街にいるからだ。それは他でもない両親である。高校を卒業してから三年が経とうとも定職に 就く気配すらない長男を案じていて、温泉街の宿に頼み込んで強引に働き口を作ってしまった。その気持ちは嬉しい とは思うのだが、狭間としては出来る限り怪獣から離れた業界で働きたかった。しかし、この御時世では怪獣を抜きに して成立している職業はほとんどないので、今の今まで就職先すら見つけられていない。
 この世の理不尽と己の体質の厄介さをいつも以上に恨みながら、曲がりくねった峠道を走り抜けて、寂れた寺と 観光地化された集落を通り過ぎていくと、船底のような楕円形に窪んでいる土地と、その土地を囲んでいる巨大な 龍が見えてきた。その龍こそが、狭間を早朝から呼び付けた張本人、水脈怪獣ムラクモである。

「あっ、おはよー! 今日は早いんだね、まーくん」

 ムラクモに近付くルートに入ろうとしたところで、脇道の手前に建っている旅館の玄関先から挨拶された。狭間は ブレーキを掛けたつもりはなかったが、勝手にバイクの動力怪獣がブレーキを掛けたので、旅館の前で止まった。 サンダルを突っ掛けて出てきたのは若い女性で、仕事着である芥子色の着物を着てたすき掛けしていた。

「おはよう」

 狭間が面倒に思いながらも挨拶を返すと、若い女性、氷室千代は微笑みかけてきた。左目に眼帯を着けているのは、 子供の頃に遭った事故で左目を欠損しているからだ。

「お前さぁ。いつまで俺をそう呼ぶんだよ。真琴もいつまでもまこちゃんだしさぁ」

「えー、いいじゃない。害はないんだし」

「害はないけど益もない。恥ずかしいだけだ」

「私はそうは思わないんだけどなぁ。ねー、ムラクモ様?」

 と、千代がムラクモに同意を求めると、山間から地鳴りのような呻きが返ってきた。同意だった。

「今日もムラクモ様は御元気で何より!」

「あーそうだな」

 こっちは最悪なんだがな、と狭間は毒突きかけたが飲み込んだ。千代は船島集落を守るようにとぐろを巻いて いるムラクモを見上げると、眩しげに目を細める。ムラクモが抱いている集落の内側からは、源泉から沸き上がる 湯気が立ち上っていて、硫黄の香りも山の吹き下ろしに混じって流れてくる。

「なんて仰っているのか、解ればいいのになぁ」

 切なげに漏らした千代の面差しは、清々しい朝日とは裏腹に翳っていた。どうでもいいことばかりを喋る爺さん だぞ、と狭間は言いかけたが我慢した。氷室千代は狭間と同い年で同じ集落の生まれで、小中高と同じ学校に 通っていた、いわゆる幼馴染みだ。だが、付き合いの長い友人同士であって、それ以上でもそれ以下でもない。
 千代は実家である旅館の跡継ぎになるべく、日々仕事に勤しんでいる。その傍らで、古くから船島集落に 根付いている怪獣であり、温泉の源泉を掘り返してくれているムラクモに尽くしている。といっても、せいぜいムラクモを 土着の神として祭っている神社を頻繁に掃除したり、供え物をしたり、という程度なのだが、ムラクモもまた千代を やたらと目に掛けている。そのせいでムラクモに千代との通訳をさせられそうになることも多いが、適当な言い訳を してあしらっている。一度でも引き受けてしまうと、何度でも扱き使われてしまうからだ。

〈人の子よ〉

 また、ムラクモが語り出す。船島集落の奥で鎌首をもたげ、細長いヒゲを波打たせながら、眼球を動かして狭間と その隣にいる千代を捉えてきた。その眼差しが一瞬険しくなったのは、見間違いではないだろう。

〈我らが兄弟を救ってくれ〉

〈われらがきょうだいを〉

〈いもうとを〉

〈むすめを〉

〈あのこを!〉

 ムラクモに呼応して、温泉街の至る所にいる動力怪獣や電信怪獣が騒ぎ出した。そのざわめきは狭間でなくとも 聞き取れるらしく、千代が不思議そうに辺りを見回した。だが、兄弟とは一体誰だ。地球上の全ての怪獣はマグマ の中から生まれた生き物なので、全てが兄弟なのだから、名指ししてくれないと解らない。狭間の困惑を察したのか、 ムラクモは口を開く。全長数十メートルはあろうかという牙を剥き出しにし、吼える。

〈赤き卵を遠き地へと誘え!〉

 山が震え、残雪が波打ち、木々が脈打った。ムラクモの咆哮に伴って生じた衝撃波が突風を生み出し、千代の 髪を乱し、狭間の体を舐め、源泉から昇る湯気を掻き消した。赤い卵と言えば、先週採掘されたばかりの怪獣の卵 を指しているのだろうか。だとしても、なぜだ。怪獣の卵は原則的に個人所有出来るものではないし、家電に加工 されて流通している怪獣も実質的には国家から借り受けているだけなのだ。それを盗み出したりすれば、逮捕される どころでは済まない。おいおい勘弁してくれよ、と狭間は及び腰になったが、ムラクモは再度吼えた。
 痛切な懇願だった。







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