横濱怪獣哀歌




開ケ、地獄ノ釜



 八月も半ばを迎え、盆休みに入った。
 古代喫茶・ヲルドビスは盆休みの期間中は休業し、愛歌もそれとほぼ同じ日程で休暇を取れたということで、愛歌の 愛車であるオレンジ色のシビックに乗って狭間は里帰りすることになった。なんのことはない、狭間の実家がある 船島集落は温泉郷としても知られているので、温泉で日頃の疲れを洗い流そうという考えなのである。狭間の実家に 寄ることにはなっているが、込み入った話をするわけではなく、実家に置きっぱなしになっている私物を回収する ためだ。四月のあの日、狭間は身一つで上京してしまったからだ。
 大泉JCTから関越自動車道に入り、途中休憩を入れながら、運転を交代しながら走ること三時間弱。一ヶ谷ICを 下りてから国道を走り、県道に入り、曲がりくねった山道を通った末に船島集落に辿り着いた。シビックの運転席から のっそりと降りた狭間は背骨を伸ばし切ると、ばきぼきと鳴った。思わず変な声が漏れる。

「うっわー……」

 後部座席から降りた愛歌は、船島集落を取り囲む山並みを見上げ、感嘆した。

「山しかない! 山の他には田んぼしか見当たらない! 絵に描いたようなド田舎ね!」

「そりゃどうも」

 狭間はポケットを探ってゴールデンバットを出し、一本銜えて火を灯した。

「この道を下りて温泉街に行けば、もうちょっと開けていますよ。宿も多いし、人出もあるし」

「繁忙期でも、飛び込みで部屋が取れるかしらね」

「それは行ってみないとなんともいえませんね」

「ガールフレンドが温泉旅館で仲居さんをやっているんでしょ? その伝手でなんとかならない?」

「違います、千代はただの幼馴染ですって。ついでに、千代が働いている温泉旅館の八雲荘は中堅どころであって、 そこまでじゃないですよ。建物がやたらと古いんでガイドブックやパンフレットだと歴史があるように見えるかも しれませんけど、八雲荘が出来たのは十年前なんで大したことないです。温泉郷が出来たのも割と最近で」

「でも、温泉は温泉よ!」

 ああ楽しみっ、とはしゃぐ愛歌に、狭間は不思議がる。

「そんなに温泉が珍しいんですか? 神奈川なら箱根にだってあるじゃないですか、温泉」

「だって、私、温泉旅館に泊まったことないんだもの。出張に行っても、泊まるのはやっすい民宿だし」

「というか、御自分の実家に帰ったらどうなんですか。盆休みに旅行をするなとは言いませんけど」

「だって、私、実家がないんだもの」

「へ?」

 思いがけない言葉に、狭間はタバコを落としかけた。愛歌もアメリカンスピリッツを取り出し、吸う。

「家庭の事情ってやつ。光永って名字は私を引き取ってくれた人の名字だけど、ほとんど面識がないの。養子縁組の 手続きをする時に一度か二度会ったきりで、顔もそんなに覚えていないのよ。養子にしてもらう前のことは……まあ、 そのうち話すわ。その気になったらね」

「しれっと重たい話をしないで下さい。しかもこんな道端で、暑苦しい真昼間に」

「重たい話は深刻な顔をして薄暗い部屋でしなきゃいけないって決まりでもあるの?」

「いえ、そういうわけでは」

「でしょお?」

 愛歌はにんまりすると、吸い終えたタバコをダッシュボードの灰皿にねじ込んだ。

「それじゃ、もう一踏ん張りね。ツブラちゃん、いい子にしている?」

 後部座席を覗き込んだ愛歌は、シートにくっついている触手の繭を小突いた。赤い触手は柔らかく解け、その中から ツブラが顔を出した。長時間のドライブで疲れ切っているらしく、眠たそうだった。触手で赤い目を擦った後、怠慢な 動作で後部座席から這い出してくると、狭間に縋り付いてきた。しばらく離れていたから寂しかったのか、と狭間が ちょっとにやけそうになると、ツブラはおもむろに触手を喉の奥に突っ込んできた。

「んぐほっ!」

 寝起きだからか、手加減していない。ぬるぬると蠢く異物が粘膜に吸い付く感覚と圧迫感で、狭間はよろめいて 車の陰に座り込んだ。そうだよそうなんだよこいつは本当に、と狭間は辟易しつつもツブラを受け止め、欲された分だけ 体力を与えてやった。小さな手は狭間の汗ばんだTシャツを握り締め、幼い体を腹部に押し付けてくる。
 喉の奥から触手を抜かれると、狭間は深呼吸した。ツブラの体液の匂いに、懐かしくもやるせない気持ちになる 故郷の空気がたっぷりと混じっている。愛歌が寄越してくれた生温い缶ジュースで貪られた粘膜を潤してから、狭間 は改めて船島集落を見渡した。水脈怪獣ムラクモに取り囲まれた盆地の中には、温泉宿がひしめいている。
 山からの吹き下ろしには、硫黄の刺激臭が含まれていた。




 手始めに向かったのは、狭間の実家だった。
 至って単純な話で、船島集落の温泉郷に至るまでの通り道にあるからだ。舗装の荒い農道を通っていき、葛の葉 が茂る坂道を上り、膨らんだ稲穂が頭を垂れる田んぼを横目に進むと、古びた一軒家が現れた。雪国特有の三階 建ての家屋で、一階のガレージにはトラクターとコンバインと田植え機と除雪機が収まっている。カマボコ型の 作業場の隣に車を留めてから降り、ガレージを覗いてみると、弟の自転車が置いてあった。となれば、弟は家に いるのだろう。何もかもが今一つの兄と違って弟の真琴は生まれ付き頭の出来がいいので、小中学校の頃と同じく夏休み の宿題も課題も早々に終わらせて暇を持て余しているだろう。狭間が階段を昇って玄関の引き戸を開けていると、 車から降りてきた愛歌が声を潰した。

「鍵、閉めてないの!?」

「ええ、まあ。弟が二階……いや三階かな、とにかく自分の部屋にいるみたいなんで平気ですよ」

「でも、二階でしょ? そんなの入り放題じゃない、泥棒し放題じゃないの」

「誰か来たらすぐに解りますよ。余所の人はめったに来ないし、家に来るまでの道は一本道なんで」

「だからって、それでいいの?」

「よくないですけど、田舎ってそんなもんですからね。横浜に来てからは、この状態で何事もなく暮らしていたこと に疑問を感じたことがないことがおかしいのだと気付きましたけど。愛歌さん、上がります?」

「そうねぇ。ツブラちゃんは当分起きないみたいだから、お言葉に甘えて」

「それじゃ、どうぞ」

「御邪魔しまーす」

 狭間が促すと、愛歌はサンダルのかかとを鳴らしながら階段を昇ってきた。愛歌がやってきてから、狭間は風防室 の先にある引き戸を開けると、薄暗く冷えた空気が漂ってきた。実家を離れてから半年にも満たないというのに、 得も言われぬ懐かしさが込み上がってくる。感慨に耽るのは一仕事してからだ、と思い直し、狭間は履き潰した スニーカーを脱いだ。すると、階段が軋み、Tシャツにジーンズ姿の弟が降りてきた。

「あれ、兄貴。帰ってきたのか」

「おう、ただいま」

「横浜で変な病気が流行ったそうだけど、大丈夫だった?」

「ばっちり掛かった」

「治った?」

「治った。だから、帰ってきたんじゃないか」

 恐ろしく気の抜けた声を発してから、狭間は弟を見上げた。どこをとっても人並みの外見の兄とは違い、真琴は 均整の取れた顔付きで、背も少し伸びたようだ。この分では、身長を追い越されているかもしれない。

「あ、そうそう。こちら、光永愛歌さん。横浜で俺と一緒に暮らしている人だ。公務員だよ」

 狭間が愛歌を示すと、愛歌は深々と一礼した。

「初めまして、お兄さんにはいつもお世話になっております」

「全くですよ」

 狭間はちょっと笑ってから、真琴を見やった。度の強いメガネ越しに愛歌を捉えた真琴は、その奇抜な髪の色に ぎょっとしたようだったが徐々に目を見開いていき、色白で血の気の薄い顔の血色が急に良くなった。身を起こした 愛歌が髪を耳元に掛けると、反応は更に顕著になり、階段を踏み外しかけた。

「どうした、真琴」

「あ、えと、どうぞ、ごゆっくり」

 真琴は異様にぎこちない動作で顔を逸らしてから、二階に戻った。弟らしからぬ態度に、狭間は訝った。真琴は 何事にも一線引いて接するタイプの人間で、頭も体も出来がいいからか、大抵のことはそつなくこなす。部活動で 扱っているコンピューターには顧問の教師よりも詳しいし、部屋にあるのは専門書ばかりだ。そんな弟が、女性に 対して狼狽えるのは初めて見た。赤面した様を見たのも、子供の時以来だ。

「まこちゃん、可愛いわね」

 くすくす笑う愛歌に、狭間は釣られて笑いそうになった。

「ああいう奴じゃないんですけどね、いつもは」

 愛歌を居間に通し、冷蔵庫にあった麦茶を出してやってから、狭間は二階の自室に行った。六畳間のふすまを 開けようとすると、隣室の六畳間のふすまが勢いよく開いて弟が飛び出してきた。何事かと戸惑っている最中に 弟の部屋に引き摺り込まれ、この世の終わりを見たかのような顔の真琴に迫られた。

「兄貴、なんだよあの人は!」

「だから、愛歌さんだよ。父さんと母さんに話した通りだよ、俺が横浜に行った経緯は。なんというか……その、 急に行きたくなっちゃって行ったら、光の巨人に襲われかけてぶっ倒れたところを愛歌さんが拾ってくれて、 それから同居しているってのは」

「それは知っているけど、そうじゃなくて、一緒に住んでいるってことはそういうことなんだろ!?」

「そういうことって?」

 弟が言いたいことは解るが敢えてはぐらかすと、真琴は一歩身を引き、あらぬ方向を睨んだ。

「だから……恋人なんだろ?」

「いや、違うけど」

「違わないわけがないだろ、兄貴だって曲がりなりにも男なんだから、何かあるべきだろ!」

「何も」

「それじゃ、愛歌さんは他所に恋人がいるってことか?」

「いないぞ。休日に出かける時は一人だし、外で友達と会ったりしているみたいだけど、男絡みの話は一切聞いた ことないな。あの分だと、恋人がいたこともないみたいだな。俺の勘だけど」

「嘘だろ」

「そんな嘘を吐いて俺に何の得がある?」

「それは……まあ……」

「愛歌さんってなぁ、あれで結構酒飲みなんだぞ。調子が良いと一晩でビールを二瓶は空けるし、銭湯帰りに呑みに 行くと俺よりも飲むし、食うし。タバコの本数も、俺より少し多いかもしれないな。あと、料理は一切出来ないし、掃除は 今一つだし、アイロン掛けも下手くそなんだ。仕事は出来るんだけどな。要するに男みたいな人なんだ」

「嘘だろ」

「俺が嘘を吐いてどうなる」

 狭間があきれると、真琴は恐ろしく深いため息を吐き、メガネを外して顔を覆った。

「何もかもが理想だ……」

「嘘だろぉ!?」

 今度は、狭間が弟の言葉を口にする番だった。真琴は歓喜に打ち震えながら、勉強机に縋る。

「どうしよう、ああ、もう本当にどうしよう」

「それは俺が言いたかった」

 思い出してみれば、弟がどんな女性を好むのかは聞いたことはなかった。真琴は見るからに潔癖な性分の少年なので、 堅実で誠実で家庭的な女性を好むのだろうと漠然と感じていたが、逆だったらしい。派手な外見でありながらも 心持ち童顔で体付きは肉感的で、それでいて男勝りの職業婦人であり、酒もタバコも嗜み、家事の一切が不得手な 愛歌が好みのど真ん中だったとは。確かに真琴は封建的な田舎の風土が肌に合わないということを言っていたような 気がするし、男女は平等であるべきだと考えている節があった。だが、しかし。

「なんだったら、今から愛歌さんと話でもしていくか?」

 兄として弟の初恋を応援してやらねばと使命感に駆られ、狭間が進言するが、真琴は身を引いた。

「それはよくない。それはダメだ、人として。あと、初対面でいきなり話すのは、さすがに馴れ馴れしい」

「そうか。だったら、愛歌さんと会えるのはまた来年の御盆だなぁ。正月は来られないかもしれないし」

「今行く!」

 そう言うや否や、真琴は急ぎ足で出ていった。程なくして、居間から愛歌と真琴の話し声が聞こえてきたが、真琴は 緊張しきっていた。普段は淀みなく整然と喋っているのに、何度もつっかえ、言葉を慎重に選び、少しでも愛歌に 好かれようとしているようだった。そんな真琴が微笑ましいのか、愛歌の相槌は最低限で、狭間を相手にしている 時に比べれば軽口も少なかった。思いもよらないことの連続に、狭間は立ち尽くしていたが、我に返った。

「ああ、そうだ。俺はやることをやらねば」

 真琴の部屋を後にした狭間は、自室に入った。ふすまを開けると、四月に家を飛び出した日とほとんど変わってい ない自室が現れた。散らかっていたものやゴミ箱の中身は母親が片付けたようだったが、それ以外は手付かずで、 ありがたかった。押入れを掘り返して修学旅行で使ったボストンバッグを引っ張り出してから、勉強机に無造作に 積み上げていた高校時代の教科書や参考書、数少ない私服、何度となく聞き込んだ洋楽のレコード、読み古して はいるが思い入れのある漫画の単行本、などなど手当たり次第にボストンバッグに詰め込んでいった。
 階下から聞こえる話し声が落ち着いてきたので、腰を上げようとすると、窓が外側から叩かれた。障子を開ける と、赤い触手が遠慮がちに窓をノックしていたので、狭間は慌てて窓を開けると、ツブラがするりと滑り込んできた。 すぐさまツブラを抱き留めてから、誰にも見られていないかと辺りを見回したが、人の気配もなければ車通りもない 土地なのだと思い出して安堵した。

「なんで車から出てきたんだよ」

 狭間はツブラを撫でてやりながら問うと、ツブラは狭間の胸に頬を摺り寄せる。

「ヒトリ、サビシイ」

「すぐに戻るつもりだったんだがなぁ」

「マヒト、サビシクナイ? ツブラ、ハナレル、イヤ」

 薄い唇を尖らせて拗ねたツブラは、ぬるぬると波打つ触手を巻き付けてきたので、狭間は自室のふすまと壁の 間にバットを立て掛けてつっかい棒にしてからツブラを抱き寄せた。ついでに障子も閉めたので暑苦しく、荷物を 掘り返したので埃っぽくなったが、誰かに見られては取り返しが付かないのだ。それが愛歌であっても。

「みなまで言わせるな」

 ツブラの顔を上げさせて、狭間は身を屈める。こちらから唇を重ねると、ツブラは触手を喉に突っ込んでこない。 狭間の意図を理解しているからだ。視界の隅で小さな手がひくりと引きつったが、その手を握ってやると、おずおずと 狭間の手を握り返してくる。何もかもが間違っていて、何もかもが誤っているが、押さえられない。
 恋とは愚かだ。





 


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