横濱怪獣哀歌




開ケ、地獄ノ釜



 喉から触手を引き摺り出された後、気を失いかけた。
 狭間の決意の強さに応じた量だけ、体力を奪われたからである。ツブラは申し訳なさそうではあったが、狭間が 倒れてしまわないように触手で受け止めた後、地面にそっと横たえてくれた。背中に感じる生温い水の感触とその 下で緩んでいる土の生臭さを感じつつ、狭間は発光し始めたツブラを見やった。巨大化の前兆現象だ。そうなると、 ツブラに触れようとしても摺り抜けてしまう。どういう理屈なのかは未だによく解らないが、光の巨人に近しい存在 になるためなのだと狭間は勝手に結論付けている。
 名残惜しげに、ツブラは変装道具一式を脱ぎ捨てて赤い触手を解放した。小さな体の十倍近くはあろうかという 長さの赤い糸が放射状に広がり、幼い肢体を隠した。一歩踏み出すごとに、ツブラの手足が伸び、触手が太くなり、 子供から少女に、少女から大人になっていく。一抹の寂しさと不安と、その何倍もの悔しさで狭間は呻いた。
 船島集落上空に漂っていた雲が消し去られ、太陽とは似て非なる冷たい光が注いだ。最大限に巨大化したツブラ の三倍近い体躯の光の巨人は、三対の翼を生やし、頭上に輪を浮かばせていて、無数の眷属を率いていた。その数、 一〇〇や二〇〇ではない。船島集落を取り囲む山を埋め尽くすほどの、光が在る。そして、その光が増せば増すほど に気温が下がっていく。真冬の冷気といっても差支えのないほどだった。
 これでは、いかにツブラの触手の本数が多くとも、一体ずつ潰していては埒が明かない。となれば、歌だ。狭間 が倦怠感の中で思考した通り、巨大化したツブラは体格の成長に伴って膨らんだ胸を反らして口を開いた。怪獣の声 とは似て非なる歌声が大気を震わせ、山に反響すると、光の巨人の眷属達が一斉に消し飛んだ。だが、ツブラの歌が 影響を与えるのは光の巨人だけではないので、船島集落にある間欠泉が突如噴出し、先程ムラクモが作った 地割れが拡張して地下水が高々と噴き上がった。上空へと逃げたムラクモを追い、最も大きな有翼の光の巨人が上昇 していくが、その際に羽ばたいたために光の羽根が撒き散らされた。見た目は柔らかく美しいものだが、威力は 光の巨人本体と全く変わらない。幻想的に舞い降りた羽根が温泉旅館や田畑や山の斜面に触れると、今し方まで 存在していたものが綺麗に消え去った。その羽根に不用意に触れた人間が消えたのか、悲鳴が上がった。

「ツブラ」

 目眩でふらつきながらも起き上がり、狭間はツブラが戦う様子を見つめた。見届けるのがせめてもの務めだ。触手 を三つ編みのように束ねて地面に叩き付け、その力で上空へと飛び出したツブラは、掛け軸に描かれている昇り龍 さながらに天を目指すムラクモに追いついたが、勢いが強すぎたのか追い越してしまった。するとツブラは、触手を 交差させて網状にしてから広げ、風を掴んで落下速度を緩ませた。だが、ムラクモも抵抗する。丹波元の死体が付いた ままの牙を剥き、ツブラに喰らい付こうとするが、ツブラは触手を太く束ねてムラクモの口中にねじ込む。
 ムラクモが僅かに怯んだ隙を突いて長い龍の体を戒め、船島集落から離れた山の斜面に投げ飛ばそうと、ツブラは 空中で身を捻った。と、その時、有翼の光の巨人がツブラの目の前に現れた。顔の部品が一切ない顔面がツブラの顔 に迫り、太い両腕でツブラを押さえつけると、六枚の翼を翻して――――触手を、切断した。

「キェアッ」

 細切れにされた赤い肉片が飛び散り、切断面から体液を散らし、ツブラは落下する。

「嘘だろ!? そんなの、今まで一度だってなかったじゃないか!」

 過去の光の巨人は、ツブラに触れた途端に消え去っていたはずだ。触手を断ち切れるわけがない。だが、目の前で ツブラの触手が十数本も切られ、山の斜面に転げ落ちて木々をへし折っている。ツブラは船島集落を囲む山に 向かって落ちたが、激突する寸前で触手を曲げてクッション代わりにし、衝撃を受け流してから立ち上がった。
 ムラクモを守り、光の巨人を阻み、船島集落を守る。六枚の翼から再び無数の眷属を放出した、有翼の光の巨人と 対峙したツブラの顔には、並々ならぬ激情が宿っていた。巨大化した際はほとんど崩れることのない顔を怒りで 引きつらせ、歯を剥いている。ツブラの背後に落下したムラクモは、ツブラの意思を無視して光の巨人に挑もうと するが、ツブラは身を挺してムラクモを防ぐ。巨体と巨体の激突で衝撃波が発生し、暴風が木々を揺さぶり、夏場の 青葉が散った。ムラクモの頭を押さえつけようと取っ組み合った末、ツブラは光の巨人に背を向ける格好となった。 それを見逃すほど、敵も甘くはない。人間大サイズの光の眷属が雨霰と降り注ぎ、ツブラの背と後頭部側の触手が 光に切り刻まれる。またも触手を失うが、それでもツブラはムラクモを守ろうとする。

「ダメ、イケナイ、イケナイ」

 背中の苦痛からか、ツブラは涙を滲ませていた。ムラクモを抱き留めるも、龍型怪獣は青白く滑らかな肩に噛み付き、 体液の瀑布を作り出した。二度三度とツブラに噛み付きながら、ムラクモは吼える。

〈なぜ我を阻む! お前も人と通じた身であるならば、なぜ我を救おうとする! 天の子よ、お前がいかに人の子 と繋がり合えたとしても、その果てには地獄しかない! それを解らぬとは言わせぬぞ!〉

「ダメ、イケナイ」

〈天の子よ! お前が救うべきは我でもあの娘でも、この狭く古き土地でもない! あの赤き星だ! その幼き身に 刻まれた定めを、忘れるはずがあるまい! 我など捨て置け、そして去るがいい!〉 

「ダ、メ」

〈道理の解らぬ幼子めが!〉

 怒り狂ったムラクモが首を捻る。牙も捻られ、ツブラの腕の付け根にめり込んでいた牙が角度を変えたことで傷口 が一気に広がり、めりめりと肩関節の繋ぎ目が裂けていく。これでは、腕が千切られる。狭間は目眩も何もかもが 吹き飛んでしまい、立ち上がったが、立ち竦んだ。何も出来ない。見ていることしか出来ない。
 ムラクモの牙がツブラの肩関節の筋を押し広げ、神経と血管と筋肉を剥き出しにさせると共に、長い体でツブラの 腰を戒める。大木が砕けるかのような軋みが、ツブラの骨盤の辺りから起きていた。苦痛に次ぐ苦痛の中では触手 を操ることも難しいのか、ツブラは悲鳴を上げながら首をでたらめに振るだけだった。
 またも眷属を放出した有翼の光の巨人が近付いてきても、ツブラが逃れる術はなかった。狭間が助けられる術も なかった。しかし、ムラクモを救わなければツブラは救えるかもしれない。ツブラを救えば、ムラクモは救えなくなる だろう。ムラクモの体内では、もしかすると千代が生きているかもしれない。だが、千代を救うためにツブラを犠牲 に出来るのか。ツブラがここで敗れ、滅ぼされたら、光の巨人に抗える力が失われる。それに――――

「もういい、ツブラ。ムラクモを盾にして、光の巨人を倒せ」

 ムラクモを守り続けては、いたずらにツブラの傷を増やすだけだからだ。狭間が命じると、ツブラは息も絶え絶え ではあったが首を横に振って拒絶した。だが、狭間はそれを撥ね付ける。

「もういいんだ! ムラクモは話が通じない、おかしくなっている、望み通りに死なせてやれ!」

「ダケド!」

「お前に死なれたくないんだよ!」

 狭間はツブラに向かって喉が裂けんばかりに声を張り上げるが、その最中にも有翼の光の巨人はツブラに迫り、 抱き締めるかのように六枚の翼を展開している。ムラクモの影が、ツブラの影が、両者の足元にある船島集落 が消し去られていく。生まれ育った土地が失われていく様に狭間は心が折れかけたが、更に拳を握る。爪の隙間 に自分の皮膚と肉が入り込み、指の間をぬるりと血が伝う。

「頼むよツブラ、俺の話を聞いてくれ! お願いだから、俺を見てくれ! 俺の傍に戻ってきてくれ!」

 もっとツブラの話を聞いていたいから、ツブラを見ていたいから、ツブラが傍に戻ってきてほしいから。狭間は血に まみれた手を挙げ、差し伸べる。頭の中にはいやに冷静な自分がいて、なんて無様な告白だ、もうちょっとまともな 格好をしている時にまともな言葉で言えよ、と嘲笑ってきた。けれど、何もかもかなぐり捨てられる状況でなければ、 言えなかっただろう。狭間と目が合うと、ツブラは赤い目を見開き、唇を結んだ。

「――――ワカッタ」

 ひどく穏やかに述べて、ツブラは触手をうねらせた。ムラクモの首を戒めるや否やへし折り、牙を肩関節から一気 に引き抜いてしまう。外れかけた腕を数本の触手で縫い付けつつ、首を折ったために弛緩したムラクモの拘束から 脱し、そのままムラクモの巨体を有翼の光の巨人に投擲した。六枚の翼が龍型怪獣を抱き締めると、水泡が崩れる かのようにムラクモの巨体は綻び、輝き、光の粒子と化していった。
 ムラクモが望み通りに果ててから、ツブラは攻勢に転じた。赤い触手を全て解き放ったシャンブロウは、しなやかな 武器で船島集落一帯に注ぐ光の羽根を妨げながら、有翼の光の巨人に向かい合い、拳を固めた。六枚の翼が 分離してツブラを切り裂こうと飛び掛かってきたが、ツブラはそれを拳で砕き、破き、眷属を薙ぎ払い、本体に至る と、ツブラは翼を捨てた光の巨人を触手で包み込み、絞った。
 光の粒子が失せると、また、夏の暑さが戻ってきた。




 黄色いレインコートを丸めたものを抱え、狭間は歩いた。
 粉々に砕かれた道路には、半分だけ消失したバスが転がっている。温泉旅館が真っ二つに割れていて、地面に 開いた大穴には露天風呂の端が残っていて、温泉を供給していた配管が割れたために熱湯が垂れ流されていた。 ムラクモが巨体で塞いでいた地脈と水脈が剥き出しになっているせいで、真っ白い蒸気が立ち込め、硫黄の匂い が強くなっている。時間が経つにつれて濃くなっているので、長時間留まるべきではないだろう。
 荒れ果てた道を歩き、ふなしま食堂に辿り着いた。だが、食堂は跡形もなく消え失せていて、光の巨人の羽根が 触れたであろう形状の穴が開いていた。食堂の建物だけでなく、ふなしま食堂に併設しているあかねの実家もなく、 鬼塚の姿もない。他の従業員たちもいない。訳もなく叫び出したくなったが、声が出なかった。
 長居しても、どうせ誰も見つからない。ツブラを見つけなくては、ツブラを探さなくては。狭間はだくだくと 溢れる涙を力任せに拭い、意地で足を進めた。両親が従業員として働いていた温泉旅館に行ってみるが、こちらも 状況は似たようなものだった。瓦礫の山に成り果てた旅館の前で呆然として座り込んでいる客と従業員達を見つけたの で、両親がいないかと尋ねてみたが、見当たらないと言われた。とにかく船島集落から出るべきだ、と狭間は元来た 道を示すと、彼らは瓦礫の中から掻き集めたであろう荷物を抱えて歩き出した。
 それから、生存者を見つけては船島集落の外に出られる道へと誘導しながら、狭間は奥へと進んだ。巨大化した ツブラが消えた地点を目指し、喉の渇きも足の疲れも忘れて歩いた。ツブラが元に戻ると同時に断ち切られた触手 も本来の大きさに戻ったのだろう、触手が落ちた部分には一筆書きのような抉れが残っているだけだった。

「狭間君」

 怪獣同士の戦いによって土砂崩れを起こした山の斜面の手前に、泥まみれの愛歌がいた。その手には、本来の 大きさに戻ったツブラが抱かれていた。狭間は余力を振り絞って駆け出したが、躓き、愛歌の前で転んだ。愛歌は 狭間を立たせてから、どこぞの旅館から拝借してきた浴衣で包んだツブラを渡してきた。

「ツブラちゃんにムラクモに引導を渡すように指示したのね」

「……はい」

「良い判断よ。怪獣一匹のために、光の巨人に対抗出来る戦力を失うわけにいかないもの」

「ツブラは」

「生きているわ。傷だらけだけど、もう傷口は塞がり始めている。触手も生え変わり始めている」

「だったら、よかったです。そう言うべきじゃないのかもしれませんけど」

「いいえ、そう言うべきよ。生き残ったことを恥じるものじゃないわ。戦い抜いて勝ち残ったことも、誇るべきで あって悔いるべきではないのよ。よく頑張ったわ、ツブラちゃんも、狭間君も」

「愛歌さんも、よく御無事で」

「私は……慣れているから」

「俺はまだ、慣れません。たぶん、慣れちゃいけないんだと思います」

 掠れた声で応じた狭間に、愛歌は顔を覆う。

「これでも被害は少ない方よ。ツブラちゃんが戦ってくれなかったら、船島集落どころか一ヶ谷市の全域が消失して いたかもしれないんだからね。一〇〇メートル級の光の巨人が出現したのに、死傷者数が一〇〇〇人を割るのは極めて 珍しいことよ。千代さんのことは、仕方ないとしか言いようがないわ。過去にも、そういう事例はあったもの。誰も あなたを罪に問わないし、問えないのよ。光の巨人が出現した場合は、特例措置が取られるから」

「だけど、もっと上手くやれたんじゃないかって、俺がちゃんとしていれば、こんなことには」

「こうすればよかった、どうすればよかった、なんてことは後からなんとでも言えるの。今は、しっかり立って家に 帰ることだけを考えて。まずは狭間君の御実家と真琴君の無事を確かめて、何が起きたのか、これから何をすべきか を話し合うの。私は、出来るだけのことをするわ。これから行政と連絡を取って、被害状況を報告しなくちゃならない から、狭間君とまた会えるのは何日も後になるでしょうね。頑張りましょう、お互いに」

 ツブラちゃんを守ってね、と愛歌は狭間の肩を叩いてから、歩き出した。その背は砂埃と泥水と汗に汚れていた が、力強かった。狭間はツブラの重みと低めの体温を確かめ、歯を食い縛った。愛歌の言う通り、まずは家に帰り、 弟の無事を確かめなければ。立ち止まっていては押し潰されてしまうから、歩き続けなければ。
 地獄の釜の底に引き摺り込まれないために。





 


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