横濱怪獣哀歌




二ツノ川ノ間



 二三日時間をくれ、と言い渡すだけで精一杯だった。
 愛歌は仕事があると言って怪獣生態研究所に残ったので、狭間はツブラを連れて帰路を辿った。私鉄をいくつも 乗り継いで帰宅すると、昼過ぎになっていた。腹が減ってはやる気も起きないので、桜木町駅前にある立ち食いの ソバ屋で胃を膨らませた。真っ直ぐ帰ってしまおうか、と思ったが、なんとなくその気が起きなかったので山下公園 に向かった。意気消沈しているツブラは、狭間と繋いでいる手の力も心なしか弱くなっていた。
 昼下がりだけあって、昼休み中の勤め人達があちらこちらで休息を取っていた。狭間は彼らから距離を置くために 公園の片隅に行き、一服したが、タバコを買い忘れていたので一本だけで済ます羽目になってしまった。なので、 いつも以上にじっくりと煙を吸い込んだ。ツブラは狭間の膝にもたれ、目を伏せていた。昨夜は変装せずに外に出た ためにツブラは変装道具一式を身に着けていなかったし、財布の中身が乏しかったので道中でカツラやサングラス を調達出来なかったので、鮫淵のサイズの大きい上着を借りて頭から被せていた。その格好は、狭間の故郷では 馴染み深い、擬態怪獣ユキンコにどこか似ていた。

「狭間さん。よろしければ、どうぞ」

 声を掛けられると同時に、封を切っていないゴールデンバットが差し出された。振り返ると、余所行きの小洒落た 洋服に身を包んだ麻里子が微笑んでいた。淡い黄色の襟付きのワンピースで、腰には大きめのリボンが巻かれて いて、足元はかかとの高い革靴だった。首筋には柔らかな白いスカーフを結び、鍔の広い帽子を被っていて、淡く 化粧もしていた。革製の台形のハンドバッグは良く使い込まれていて、艶がある。

「これ、もらうわけにはいきませんよ。というか、今日は平日ですよね? 学校はどうしたんですか」

 狭間がタバコを押し返すと、麻里子は口元に手を添える。

「臨時休校です。吸血鬼が実在したとなれば、混乱と不安で授業に身が入りませんしね」

「麻里子さん以外の生徒はそうでしょうね。どこかに出掛けるんですか」

「出掛けてきた後です」

 お隣を失礼いたします、と麻里子は狭間とツブラが座るベンチに腰を下ろすと、カムロが潰れた目を出した。

〈何が起きたのかは大体把握しちゃいるが……エレシュキガルが出てくるとはな。そろそろ来る頃だとは思って いたが、まさか端から天の子を狙うとは、奴さんは血の気が多いな〉

「人のことを言えた義理か」

 狭間がカムロに言い返すと、麻里子は狭間が受け取らなかったゴールデンバットを開け、一本銜えた。

「敵の縄張りを出歩くのは、さすがに気疲れしてしまいますね。足を踏み入れた途端に銃を向けられなかっただけ でも、良しとすべきなのでしょうが。けれど、身動きが取れなかったので調べるどころではありませんでしたね。 カムロが万全であれば、渾沌の末端の構成員を十数人ほど遠隔操作し、遊ばせ、アレの出所を探るのですが」

「まさか、麻里子さん一人で渾沌にケンカを売ってきたんですか?」

「いいえ、中華街を散歩してきただけですよ。お父さんに御土産でもと思ったのですが、調達出来ませんでした」

〈渾沌の屑共はシャンブロウの触手をヤクとして捌いているが、それをどうにかしねぇことには九頭竜会との軍資金 が大幅に変わってきちまう。元手はロハなんだから、儲からないわけがねぇんだよ。軍資金の大きさは武装の多さに 直結するからな、手を打てるところで打っておかないと全面抗争に持ち込まれたら勝ち目がなくなっちまう〉

「狭間さん。よろしければ、お茶でもいかがですか? じっくりとお話しさせて頂きたいので」

 笑顔を保ちながら、麻里子は顔を寄せる。カムロは短い髪を変形させて薄い剃刀を成し、狭間の首筋に添える。

〈人の子、ありがたく思えよ。この俺と麻里子が、お前の利用価値を見出したんだからな?〉

 麻里子は狭間の腕に華奢な腕を絡め、肩に頭をもたせかけてくる。傍から見れば仲睦まじい恋人同士に見えるかも しれないが、カムロの刃は確実に狭間の頸動脈を切り裂ける位置に添えられていた。やることが毎回同じなんだよ、 とは思いつつも言えるはずもなく、ツブラに助けを求めようとしたが、ツブラは人目を気にしているのか、触手を 使おうともしなかった。ツブラに無理強いするわけにもいかないので、狭間は了承した。
 それから、麻里子からタバコを一本もらった。




 麻里子に連れられて向かった先は、九頭竜屋敷ではなかった。
 元町の一角にある雑居ビルの四階、マリアンヌ貿易会社だった。その会社は九頭竜会の企業舎弟だと以前聞いた ことがあるので、驚きはしなかった。麻里子がビルに入る前から、がっしりとした男達が麻里子の様子を遠巻きに 見守っていたばかりか、ビルに入ると全てのドアが開いて男達が頭を下げたので、雑居ビルとは言いつつも実質的 には九頭竜会の縄張りなのだろう。構成員達は廊下に一列に並ぶと、タバコと酒に焼けた声を張り上げて、御嬢様、 御嬢様、御嬢様、と出迎えてくれた。
 エレベーターに乗って四階に上がると、マリアンヌ貿易会社の奥にある社長室に通された。オフィスはそれなり にまともだったが、社長室はヤクザ丸出しだった。神棚、金庫、派手な敷物、代紋が入った額縁、極め付けは壁に 飾られている日本刀だった。

「来たな、麻里子」

 社長の椅子に腰掛けているのは、九頭竜総司郎だった。その手元には、斬撃怪獣ヴィチローク。

〈相変わらず間の抜けた面構えだな、人の子〉

「おう、バイト坊主。御嬢様との同伴出勤、御苦労様」

 社長のデスクの手前にあるソファーに座り、にやついているのは寺崎善行だった。

「なーんか元気ないねえー、バイト君。溜まってるぅ? んへひひひひ」

 ソファーで胡坐を掻いている一条御名斗は、怪銃ボニー&クライドを無造作に振り回している。

〈人の子の分際で神話怪獣同士の争いに一枚噛もうだなんて、おこがましいにもほどがあるわねぇ、クライド〉

〈ああ全くだぜ、ボニー。だが、神話怪獣の戦いってのは一度見てみたいもんだな。ラグナロク、ハルマゲドン、まあ どっちでもいいが、考えただけで暴発しちまいそうだ!〉

「状況は、解るな?」

 須藤邦彦は怪獣義肢の左腕を使い、ソファーの影から何かを引き摺り出してきた。目と口を布に塞がれ、手足を縄で きつく縛られている若い男――弟だった。狭間は声も出せないほど驚き、後退るが、麻里子がドアを閉めた。

「では、お話しいたしましょう。真琴さんも同席していることですしね」

 麻里子は悠長にソファーに座ると、狭間とツブラを向かい側に座らせた。須藤は軽々と真琴を持ち上げ、テーブルに 転がした。音が聞こえているから状況が掴めているのだろう、怯え切って呻いている。麻里子は真琴の体越しに狭間を 見据えてきたが、狭間は目を逸らさなかった。以前の自分であれば、逃げ出すことしか考えなかっただろうが、真琴が いるとなれば話は別だ。ツブラを離さぬように手を掴み、握り締める。

「先程お話ししましたように、私は渾沌に顔が割れております。十年の時間が経っておりますが、渾沌の頭領である ジンフーは私のことをよく覚えていることでしょう。構成員達も同様です。ここ最近渾沌との抗争が激化している ため、殺し殺されの繰り返しになっておりまして、その甲斐あって九頭竜会は渾沌の構成員の人相を把握しましたが、 それは相手も同じこと。ですが、その辺のチンピラを引っ掛けて構成員にしたところで土台役に立ちませんし、迂闊に 殺されたら、ゴウモンに処理してもらう手間が増えてしまいますからね。ですので、狭間さん」

 麻里子が目線を父親に向けると、九頭竜総司郎はぱちんとヴィチロークの鍔を切る。

「俺達の手先になるか、弟の首を持って帰るか。そのどちらかを選んでもらおうか」

「……具体的に言って下さい」

 狭間は恐怖でのたうち回る真琴の手を握ってやりながら、血に飢えた親子に尋ねた。

「そもそも、俺は渾沌に近付いて何をするべきなんです? 九頭竜会と渾沌の抗争の原因を知りませんから、渾沌 の誰から、どんな情報を、どこまで引き出すべきなのか、それがまず解らないんですけど。闇雲に放り出されても、 火に油を注ぐばかりか、九頭竜会の品格まで落としてしまいかねませんよ。極道になった方々はそれ相応の覚悟 を据えているし、その業界での立ち回り方を知っていますが、俺はなんにも知りませんから、的外れな言動を 取るので目立ってしまいますし、すぐに正体が露見してしまいかねません。銃も博打も打てませんし。ツブラを 貸してくれと言うつもりで俺に粉を掛けているのでしたら、それは却下します。ツブラは怪獣です、人間同士の 小競り合いに駆り出されるようなタマじゃありません。もちろん、堅気で子供の弟も」

 狭間がツブラを一瞥すると、ツブラは急に目を上げた。

「マヒト」

「言うようになったじゃねぇか、バイト坊主のくせしてよぉ」

 寺崎が笑い転げると、御名斗は狭間の側頭部に熱を帯びた銃口をがつがつとぶつけてきた。

「親分に言い返しちゃうだなんて、やーるぅ。かっこいーい。御褒美に一発ぶち込んじゃおうかなー?」

「止せ、御名斗。気持ちは解るがな。ちょっと見ないうちに生意気になりやがって」

 九頭竜が諌めると、御名斗は素直に引き下がってくれた。狭間は側頭部を擦り、銃口の感触を拭う。

「こう何度も死に目に遭っちまうと、腹も据わってくるんですよ」

「お前が言うことにも一理あるが、金を積まれて渾沌に裏返る可能性も無きにしも非ずだ。大陸の野良犬共が俺達と 同じ手段を使ってお前を脅したとしたら、お前はさっきみたいに言い返せるか? 言い返せないだろうさ、あいつらは 文句を言った後に笑ってくれるほど気安くはない。可愛い弟の生首を抱かされているのが関の山だ。だから、お前に 命じることは必要最低限、教えることも必要最低限だ。もっとも、九頭竜会に入り、お前のソロモンの指輪の如き力を 使って貢献してくれるというのなら、また話は変わってくるがな」

 九頭竜はインテリ臭い外見に見合って、教養があるようだった。学がなければ、狭間の体質をソロモンの指輪に 喩えたりはしない。そう言われると、この厄介な代物も少しは含蓄深いような気がしてくる。

「では、御説明いたしましょう」

 あれを、と麻里子が手を差し伸べると、須藤が金庫を開いて蓋付きの瓶を取り出した。テーブルに運ばれてきた瓶 の中には、赤く乾涸びた肉片が半分ほど入っていた。それを見た途端、ツブラがびくっと痙攣した。

「ヒァッ」

「これは、渾沌の怪獣ブローカーを通じてシャンブロウの肉片を買い取った人から、譲って頂いたものです」

 麻里子は瓶を手にし、振ってみせた。枯れ葉を擦り合わせるかのように、かさかさと鳴った。

「狭間さんには、そのブローカーを押さえて頂きたいのです。手に掛けろ、とは申しませんが、ブローカーを私達の 元に誘い込んで頂きたいのです。丁重に御持て成しして差し上げたいものでして」

「ウジムシからある程度の情報は得たが、あいつもそこまで当てにはならんからな。当初はウジムシを使ってやろうと 思ったんだが、あいつは旭橋の半径一キロ以内からはどうしても出ようとしないんだよ」

 父親の言葉に、娘が続ける。

「続いて、辰沼京滋の行方です。数日前にフォートレス大神のアパートを引き払って怪獣人間共々引っ越していった のですが、足取りが途絶えてしまったのです。ですが、怪獣人間の管理維持費は馬鹿になりませんし、それ相応の 設備と薬物がなければ体を保てないのです。闇医者達に探りを入れてみたのですが、彼らは口封じされていたよう でして、あまり役には立ってくれませんでした。怪獣人間を作れる闇医者を求めている犯罪組織はいくらでもある のですが、辰沼さんの古巣である渾沌に戻ったと考えています。ですが、渾沌もああ見えて手が広いので、どこに いるのかまでは特定しきれないのです。ですから、行方を探る糸口となる情報を得てほしいのです」

 麻里子はハンドバッグから封筒を取り出すと、その中から履歴書を出し、広げた。

「というわけで、狭間さん。渾沌の根城で働いてきて頂けませんか」

「え、あ、それ、俺がヲルドビスで面接した時に出したやつ!」

 筆跡も内容もそっくり同じだが、顔写真だけが貼られていない。狭間がぎょっとすると、麻里子は須藤を見やる。

「いいえ、違いますよ。私がヲルドビスから拝借した履歴書を元にして、須藤さんとシニスターが偽装して下さったん です。シニスターはああ見えて器用な怪獣でして、須藤さんが目にした筆跡を完璧に再現出来るんです。彼らの力の おかげで銀行から有り余るほどの金を騙し取れたのですが、それは割愛します。顔写真を写真館で取るための代金は 立て替えて差し上げますし、日付を入れるペンもお貸しいたしますよ?」

「ここで断ったら、その履歴書はどうなるんですか?」

「そうですね……。どうしましょう、お父さん?」

 麻里子が父親に向くと、九頭竜はにやつく。

「使い道は山ほどある。俺が使わなくても、他の奴が利用するだろうさ」

「運が良ければただの偽名、運が悪ければ戸籍乗っ取り、更に運が悪ければ本人の与り知らぬところで重大犯罪の 一切合財を押し付けられるかもなー。げははははははははは」

 ソファーにふんぞり返り、寺崎は粗野に笑い転げる。

「ネタばらししちゃダメじゃん、よっちゃん。バイト君の家に、ある日突然督促状と逮捕状が雪崩のように届く日 まで黙っておかないと、面白くなーい。きゃふはははははははははは」

 寺崎に同調した御名斗は、手足をばたつかせてはしゃぐ。 

〈人の子の字、へったくそだなぁー。その分特徴が多いから、真似しやすかったけどな〉

 ちょっと得意げなシニスターが赤い目を細めると、須藤は左腕を撫でる。

「さて、どうする? 少しは考える時間を与えてやるが、あまり長くはないな」

 須藤が左腕を小突くとシニスターの赤い瞳が見開き、赤い光の鞭が伸びる。それが真琴の体に浅く巻き付き、次第 に締まっていった。肌に触れる熱を感じたからか、真琴の荒い呼吸が早まり、過呼吸気味になる。狭間は真琴の冷汗 が滲んだ手をしっかりと握り締めて、考えた。ツブラを暴れさせれば逃げ出せるかもしれないが、逃げ出したら 今度こそ九頭竜会を敵に回してしまう。味方になるつもりは毛頭ないが、身動きが取りづらくなる。政府と怪獣使いの 申し出を受け入れていれば真琴の身の安全も守られたのではないか、と頭に過ぎった。だが、しかし。
 乱暴にドアが開かれ、無数の銃口が狭間を睨んだ。





 


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