横濱怪獣哀歌




迷宮故事



 旭橋の真下にある排水口から、横浜の地下へと潜り込んだ。
 水筒と幾許かの食料と懐中電灯などの必要物資を詰め込んだリュックサックを背負った狭間は、ツブラの触手の力を 借り、淀んだ川面のすれすれにある排水口に身を投じた。背中に貼り付いているツブラが、飛び込む瞬間に橋桁の 裏に触手を絡めてくれたおかげで、振り子の要領で中に入り込めた。着地も上手くいった、かと思いきや、 下水道の底面にヘドロが堆積しているせいで踏ん張り切れずに滑ってしまった。このまま滑り続けると、下水道の 穴に落ちかねないので、咄嗟にヴィチロークの竹刀袋を足元に突き立てた。その甲斐あって、狭間は難を逃れた。

〈……うおあああああああああ!〉

 一拍置いてから、ヴィチロークが絶叫した。竹刀袋に染み込んだ汚水とヘドロが鞘を汚したからだ。

「そんなもん、後で洗えばいいだろうが」

 いちいち構っている暇はないので、狭間はヴィチロークを担ぎ直し、懐中電灯を手に歩き出した。

「ダローガー」

 狭間の背負ったリュックサックの上に座っているツブラは、狭間の言葉を真似た。下水道の見取り図でもほしい ところだが、生憎、狭間にはそんなものを手に入れられる伝手はない。なので、シスイの声を頼りにして狭間は 下水道を歩き続けた。ねちゃねちゃ、にちゃにちゃ、と積年の汚れが足に絡み付き、歩きづらい。その上、匂いが とんでもない。息をするのも辛くなるほどの臭気で、目に染みる。ありとあらゆる腐敗臭が混ぜこぜで、吸うのが 嫌になる空気だが、吸わなければ酸欠に陥ってしまう。なので、狭間はマスク越しに呼吸したが、そんなものでは 防げるはずもない。慣れるまでの辛抱だ、とは思ったが、結局、この匂いには最後まで慣れなかった。
 頼りなく細長い光条を進行方向に伸ばしながら、ひたすら歩き続けていくと、円筒形ばかりだった光景に少しずつ 変化が現れた。半円形の天井に、ごつごつとした異物が並び始めた。木の根のように節くれだっていて、太さは まちまちだった。触れる高さにあるものを小突いてみると、硬い手応えが返ってきた。材質は石のようだが、僅か ばかり温もりがある。ということは、これがシスイの根か。

「シスイ、ここはどの辺だ?」

 狭間は懐中電灯の明かりを上げ、根を照らす。

〈少し待て、感じ取ってやる。……俺のいる場所から南に一〇〇メートルといったところだが、そのルートでは 俺の太い根が消された場所まで辿り着けないな。下水管が繋がっていないんだ、構造の都合で〉

 シスイの答えに、狭間は苦い顔をする。

「面倒臭いな」

〈そういうふうに造ったのは俺じゃない、人間だ〉

「そりゃ解っちゃいるけどな」

 ぼやかずにはいられない。狭間はリュックサックとヴィチロークを下ろし、腕時計を見た。いつのまにか正午手前 になっていた。マリアンヌ貿易会社を後にしたのは午前八時前だったので、道に迷いながら歩き回って無駄に時間を 浪費してしまったらしい。それを悔やみつつも、休まなければ身が持たないので、狭間は水筒を出した。中身を作る 暇がなかったので、水道水を流し込んできたが、今はそれでも充分ありがたい。澄んだ水で喉を潤していると、ツブラ が物欲しげに見つめてきたので、狭間は水を入れたコップを差し出した。

「ほれ」

「ヤーン」

 ツブラはぷいっとそっぽを向いてから、横目に狭間を窺ってきた。

「仕方ねぇなぁ」

 とは言いつつも、狭間はツブラを抱き寄せて膝の上に載せた。ツブラはすぐさま笑顔になり、狭間に柔らかな頬を 摺り寄せた。下水道に入った際にカツラとサングラスは脱がせたが、レインコートと長靴は身に着けている。だが、 レインコートが煩わしいのか、ボタンを外して前を開けている。だから、平べったい胸元となだらかな下腹部と股間 が垣間見え、狭間はちょっと目を反らした。ヴィチロークもいるのだから、妙な気を起こすわけにはいかない。

「オミズ」

 ツブラは小さな口を開いて触手をしゅるりと出し、狭間の口内に残る水分を絡め取ってから、身を乗り出して唇を 塞いできた。喉の奥に滑り込んできた触手の感触は優しく、くすぐったい。幼い体からは、下水道に立ち込める臭気 とは懸け離れた香りが立ち上ってくる。愛歌の使う化粧品よりもずっと蠱惑的な、花の匂いに似た――――
 あの夜、エレシュキガルから感じた香りよりも薄かったが、中身は同じだった。それはすなわち、ツブラが徐々に 成長している証だ。成熟したシャンブロウがどうなるのかは、狭間も把握している。ノースウェスト・スミスの手記 でもある本で、エレシュキガルと遭遇した際の経験で。だが、それに怯えたりはしない。むしろ、喜ぶべきなのだ。 狭間はツブラの触手を舌で存分になぞってから、ツブラを押し戻した。

「いい御身分じゃないか」

 不意に、聞き覚えのある声が響いた。狭間が身構えると、青白い光条が暗闇を貫き、狭間とツブラに当たった。 その光に目を細めていると、下水道には場違いな格好の男が現れた。

「――――羽生さん?」

 光源の主を捉え、狭間はその名を口にした。

「やあ」

 白衣姿の羽生鏡護はヘドロにまみれた黒いゴム長靴を履いており、懐中電灯を手にしていた。

「な……なんでこんなところにいるんですか」

 狭間が戸惑うと、羽生は聞き返してきた。

「君の方こそ、なぜ下水道になんか潜っているんだい。まさかとは思うが、白いワニの怪獣に呼ばれたのかい」

「ニューヨークじゃあるまいし」

「答えになっていないね。そんなものでは、この優秀過ぎて世界に疎まれる僕は満足しないよ?」

 怪獣の研究者である羽生には言ってもいいかもしれない。彼の勝気な表情に安心感を覚え、狭間は言った。

「楼閣怪獣シスイって知っていますか」

「ああ、知っているね。虎牢関のビルのことだろう? あれについては、この僕も何度か調査したよ」

「シスイを支えている根の中でも特に太い根がいきなり消えたせいで、虎牢関が傾いちゃったんですよ。物理的に。 だから、それを調べてくれとシスイから言われまして。シスイは海に出たいんですけど、根のバランスが崩れた せいで動くに動けなくなってしまったんです。で、今に至ります」

「竹刀袋の中身は?」

 狭間の肩越しに羽生の視線が飛び、竹刀袋を捉えた。

「ヴィチロークです。根を切れるのはこいつぐらいだろうと思いまして」

「なるほどね」

 羽生は狭間の顔をいつになくじっくりと眺めてから、口角を上げた。牙じみた犬歯が覗く。

「そのことについては、この僕は誰よりも詳しいと断言出来る」

「本当ですか? じゃあ、なんで根が消えたのかを教えてくれませんか」

「場所を変えよう。ここでは音が響き過ぎる」

 こっちだ、と羽生は歩き出したので、狭間は荷物をまとめてそれを追った。ツブラも担いでいった。彼の足取りは 確かで、迷わずに進んでいく。薄汚れた白衣を翻す背は、暗がりの中では冴え冴えとした明るさがあった。狭間の 持つ懐中電灯の光が撥ね、写真撮影などに用いるレフ板のような役割を果たしていたからだ。
 後にして思えば、この時から羽生は妙だった。呆れるほど饒舌な男なのにほとんど喋らず、地下に潜っているのに やたらと軽装で、狭間のように匂いを防ぐマスクもしていなかった。趣味は悪いが洒落た格好を好む、伊達男の羽生 が清潔にすることを怠っている。白衣にも染みが目立ち、裾には泥とヘドロがこびりついていた。
 彼らしくないことばかりだった。




 行き着いた先は、地下に作られた研究室だった。
 汚れきったスチール机、使い古しの実験器具、怪獣の生体サンプル、山積みの書籍、申し訳程度の生活用品。それらが 下水道の一角にある空間に詰め込まれていて、机の上では電球が填まったスタンドが煌々と輝いている。それに 繋がっているコードは天井伝いに伸びているので、恐らく、地上のどこかから拝借しているのだろう。
 羽生は狭間とツブラを座布団代わりの古雑誌に座らせてから、改めて事の次第を問い質してきた。狭間が知っている こと、解っていること、これからすることを説明すると、羽生はダンヒルのタバコを銜えながら傾聴した。だが、 決して火は付けなかった。

「つまり、シスイが動けば、屑共の下らない抗争に決着が付くのが早くなると」

 羽生の言葉に、竹刀袋から出たヴィチロークががたつく。

〈下らないとはなんだ! 実際、馬鹿げた縄張り争いだが!〉

「まあ、そういうことです。それにしても驚きましたよ。まさか、羽生さんがこんなところに潜んでいるなんて」

 狭間はツブラを抱えつつ、錆び付いたパイプ椅子に腰掛ける羽生を見やった。

「この僕が立てた仮説と、それに基づいた実験を行うためには丁度いい機会だったんだ。だから、地下へ潜った」

 しゃきん、と金属音がする。羽生の手中から。

「国家という後ろ盾を失ったはずなのに、この僕はたまらなく高揚するんだよ。法の目を掻い潜ることなんてこの僕 にとっては造作もないことなんだ、穴だらけの法律を作った政府にこそ落ち度があるんだよ。研究資金もサンプルも 器具も、手を回せば手に入らないものじゃない。むしろ、怪生研にいた頃の方が制約が多くて身動きが取れなかった が、今となってはそんなものもない。この僕は、この僕が成すべき研究が出来る」

 かちん、と硬い金属音が下水道の内壁に跳ね返る。

「ねえ、満月」

 羽生は机の隅に置いた写真立てに、彼にしては熱っぽい眼差しを注いだ。そこには、若い女性が写っていた。 小暮小次郎にどことなく似た面差しの女性は明るい笑顔を浮かべていて、その肩に腕を回している羽生は表情も 仕草もぎこちなかった。ならば、彼女が羽生の妻の満月なのか。

「写真写りが悪いのはこの僕だけだ、何を憂うんだ」

 ぱちんぱちんぱちんぱちん。金属音が忙しなくなる。

「ああ、あまり気にしないでくれるかい。どうせ、こんな場所には長居はしないんだ。次の家の目星は付いている んだ、だからそんなに文句を言わないでくれるか? 客の前で醜態を曝すほど、この僕は落ちぶれちゃいない」

 羽生は笑う。誰かに向けて。

「いいことを教えてあげよう、満月。いや、講釈は省くよ。また君が拗ねてしまったら、後が面倒だからね」

 羽生の眼差しがぐるりと巡り、虚空に止まる。狭間はその先を辿るが、汚れた壁しかなかった。

「光の巨人は犠牲の大きさに応じて光量を変えるんだ。死人が多ければ多いと予想されるほど巨大で、暴れる怪獣 の規模に応じて個体数を増やし、怪獣に害を成されるであろう人間が流す血の量によって、羽根による絨毯爆撃の 範囲も変わってくる。つまりだね、こういうことだ」

 ぱちり。羽生の左手が上がり、手のひらから長方形の銀色の刃が現れる。鉛筆削りなどに用いる小型の折り畳み式 ナイフ、肥後守だった。だが、その刃には赤い目が付いている。

「羽生さん、それは」

 彼の意図を察した狭間が腰を浮かせるよりも早く、羽生は左手の親指の腹を肥後守――否、刃物怪獣ヒゴノカミ の刃に押し付けてすっと引いた。その親指には既に何本もの傷跡が付いていた。皮膚の浅く細い切れ目から赤い 滴が膨らみ、鏡の如く滑らかな刃に垂れ落ち、音もなく吸い込まれる。とろんとしていたヒゴノカミの目が見開かれ、 ぎょろつき、かちかちかちかちかち、と慌ただしく振動した。怯えているからだ。
 直後、下水道から闇が拭い去られた。すかさず狭間はツブラに命じて触手を伸ばさせ、羽生の体を絡め取って 引き寄せると、今し方まで彼がいた地点に子供程度の大きさの光源が降り立った。極小版の光の巨人、言うならば 光の天使だ。薄い光輪と一対の羽根を背負った光源は机を消し去ると、人間の血を吸ったヒゴノカミを捉え、羽生 の元へと歩み出してくる。一歩踏み出すごとに、その足の形にコンクリートが抉られる。
 一歩、二歩、三歩、四歩、五歩、と足跡が増えていくが、それに反して光の天使の光量が衰えていく。光輪も翼も 崩れ、舞い落ちるが、その光に消失させるほどのエネルギー量は残っていなかった。よろめきながら近付いてきた 幼い天使は怪獣を滅するために小さな手を伸ばしたが、それも崩れ、光量が弱まった後、光の天使は爆ぜた。
 再び、下水道は闇に満たされた。





 


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