横濱怪獣哀歌




路地裏ノ闖入者



 十年前。
 二十五歳の頃、須藤邦彦は警察官だった。どこにでもいるような、若さと青さで拙い正義感を支えている、お巡り さんに過ぎなかった。都内での交番勤めは性に合っていたし、近隣住民とも仲良くやれていた。昇進試験に挑んで 刑事になり、官職で生涯を終えるのだと漠然と考えていた。あの日までは。
 事の起こりは、須藤が配属されている交番に程近い場所で怪獣の密売が行われていたことだった。その事件の 捜査に協力してくれないかと交番を訪れたのが、赤木進太郎だった。怪獣Gメンと警察が合同で捜査を行うのは 珍しくもなんともないし、赤木に頼まれたのは道案内と周辺住民についての情報提供だったので、須藤はその申し出 を快く受けた。怪獣を闇取引していた廃工場に向かい、懐中電灯を片手にその中に入った。
 コンクリート製の大きな箱はがらんとしていて、古びた机や壁に作り付けの棚程度しか残っておらず、灰色の床 が露わになっていた。砂埃にはうっすらと足跡が付いていて、車のタイヤ痕もあり、大きなものを運び入れたのは 間違いなさそうだった。だが、タイヤ痕も足跡も内側に向かっているのに、出た形跡がない。

「赤木さん、これ」

 違和感を覚えた須藤は、タイヤ痕に沿って懐中電灯の光を動かす。

「そのまま奥まで進めてみてくれ」

 赤木に指示された通り、須藤はタイヤ痕を辿っていく。工場の搬入口から中央に至ったところで、タイヤ痕が忽然 と消えていた。足跡も同様で、前触れもなく途切れている。横に反れたのかと思い、左右を調べてみるが、どちらにも 進んでいない。ということは、宙に浮き上がったのか。そうでなければ、地下に没したのか。
 昇降機も付いていないのにそんな馬鹿なことがあるか、と須藤が自分の考えを内心で笑っていると、赤木はタイヤ 痕が途切れている箇所に屈み、目を凝らした。それから手招きされたので、須藤は赤木に倣って目を凝らすと、 灰色の床にごく僅かながら切れ目が入っていた。紙一枚すら通りそうにない、コンクリートの繋ぎ目にしか見えない、 本当にかすかな隙間だった。赤木はその線を凝視していたが、身を起こした。

「ここで取引されていた怪獣は、ケウケゲンだったかな」

 赤木は少し考え込んでから、廃工場を後にした。

「だったら、しばらくはここに通い詰めることになりそうだ。尻尾を掴むには張り込むしかない」

「では、怪獣の取引相手の見当が付いたんですか?」

「少しばかりね」

 そう言い残し、赤木は須藤と別れていった。それからというもの、赤木は連日のように廃工場に張り込んだが、 なかなか成果が上がらないようだった。だが、根気よく、粘り強く、じっとその時を待ち続けていた。須藤は街の 見回りの最中に、物のように立ち尽くしている赤木を見かけてはその捜査意欲の熱心さに感嘆した。いずれ刑事に なる日が来たら自分もああなるべきだ、とすら思った。
 その日は強い雨が降っていた。南洋に出現した低気圧怪獣が迫るにつれて雨脚が強まり、停電も発生したため、 須藤は交通整理のために道路に立っていた。近隣地域で通行止めになった道路が増えていくと交通量も減っていき、 一台も通らなくなったので、交通課に連絡を入れると、須藤が立っていた道路も交通規制が掛かったので撤退しろ、 との指示を受けた。その代わりに通行止めにする、とも。
 増水した側溝から溢れ出した水が道路に広がり、浅い川を作っていた。ひどく歩きづらく、ずぶ濡れで体が芯まで 冷え込んでいたが、異常の有無を見回るのが警察官の仕事なのでひたすら足を進めた。長靴の中にまで水が入り、 靴下も制服の裾もたっぷりと水を含んで重たかった。側溝に溜まっていた泥が浮き上がってきたのか、妙な生臭さが 辺りに立ち込めていた。雨戸を閉め切った民家、シャッターを閉ざした商店街、と通り過ぎていき、あの廃工場に 至った。今日はさすがにあの人もいないだろう、と赤木が張り込んでいる定位置を窺うと――いた。紺色のレイン コートを着込んだ赤木は須藤に気付いたので、須藤はすぐさま赤木に駆け寄る。

「お疲れ様です、赤木さん」

 だが、赤木は須藤を抑え込んで口を塞いだ。何をするのだと動揺したが、赤木は須藤の口を塞いだまま、自分の 口元に指を一本立てた。黙れ。彼の死体じみた温度の手のひらと、頬に貼り付いたレインコートの爬虫類じみた 感触をいやに鮮明に覚えている。
 民家のトタン屋根を叩く雨音に混じり、エンジン音が密やかに近付いてくる。須藤の背後で赤木が息を詰め、 口を塞いでいる手にも力が込められた。軒先から雫が一つ落ちるたびに緊張が強まり、鼓動が早まり、須藤も いつしか息を詰めていた。四つのタイヤが浅い川を掻き分けたのだろう、波紋が広がる。物陰から見える車体 の色は銀で、この近所ではまず見かけない洒落た外車だった。縦長のヘッドランプはカエルの目のようで、エア インテークの中央には、スリーポインテッド・アロー。メルセデス・ベンツだ。
 左ハンドルのベンツは廃工場に入っていき、搬入口を閉めた。そこでようやく赤木は須藤を離し、少し迷ったが、 一緒に来るようと合図した。怪獣Gメンの捜査に同行していいものかと須藤は逡巡したが、人出は多い方がいい、と 赤木が言ったので従った。二人は拳銃を手にして工場の裏手に回り、裏口のドアを開けた。
 雨の日ともなると、痕跡は解りやすかった。ベンツの泥混じりのタイヤ痕は、やはり工場の中央で途切れていた。 例の線の手前で、ぷっつりと断ち切られている。赤木は張り込んでいる間に目安を付けていたのだろう、工場の 壁を探り、電灯のスイッチを押した。すると、床が持ち上がってきたが、駆動音は一切しなかった。それもそのはず、 工場への送電はとっくに止められている。だとすれば、どういう仕掛けなのだ。
 須藤の疑問を察してか、赤木は厚さ二〇センチはあるコンクリート製の床板の裏側を指した。そこには、怪獣 の肉片が埋め込まれていた。青く透き通った肉片で、ほのかに発光している。床板の下にはもう一枚の床板が あったが、双方の間には柱が一本もなかった。その光景を目にした須藤の脳裏には、理科の実験が過ぎった。 磁石は同じ磁極を向き合わせると反発し合い、軽い磁石だとその反発力で浮き上がってしまう。その方法を 使えば物体を浮き上がらせることは出来ないこともないだろうが、コンクリートの床板ともなれば、恐ろしく 巨大な磁石を使う必要がある。こんな場所に、そんなものがあるわけがない。

「まるで磁石みたいですね」

 自分の馬鹿げた考えを振り払い切れずに須藤が呟くと、赤木は板と板の間に入り、須藤を手招きした。

「間違ってはいないな。魔法使いの操る魔法は、総じて現代の科学技術に通じている」

「魔法使い?」

 唐突に飛び出したおとぎ話のような言葉に、須藤は面食らった。その昔、特殊な技術を持った怪獣使い達が魔法 使いと呼ばれていた時代はあるが、それは何百年も前のことだ。日本でいうところの妖術使いだ。だが、彼らの 技術は不安定で曖昧で、科学技術の発展に伴って廃れていった。歴史の年表に数行ばかり書かれているだけで、 世界史の教科書でもそれほど重要視されていない。錬金術と呼ばれていた科学技術は今でも継承され、発展を 続けているが、魔法はそうではないからだ。時代の流れに埋没してしまった。
 その魔法使いが、こんな廃工場に来るのだろうか。しかも、ベンツに乗って。半信半疑どころか四分の一も信じて いなかったが、乗り掛かった舟、否、板からは下りられない。頭上に灯っている明かりのおかげで足元は見えるが、 行き着く先は地中か、地下室か。数十秒間の空中浮遊の後、板が止まり、目の前の壁が開いた。赤木は拳銃を手に してはいたが、銃口を上げようとはしなかった。だが、須藤は警戒心を緩められなかったので、赤木の背中越しに 銃口を上げていた。土が剥き出しの地下道はほのかに暖かく、雨音も聞こえなかった。ベンツの排気ガスが粘膜を 刺激してくる。地下道は造りは雑だったが幅が広く、ベンツのタイヤ痕が奥へと続いていた。
 この幅では、帰る時はバックしてくるしかないだろう。そんなことを考えながら、オレンジ色の明かりが零れる 最深部へと進んだ。赤木が足を止めたので須藤も立ち止まり、彼の肩越しに内部を見やった。そこには、廃工場の 地下とは思い難い世界が築かれていた。
 古びた本が隙間なく詰まった本棚、燭台型の怪獣、怪獣で出来た調度品、怪獣で出来た照明、怪獣怪獣怪獣怪獣 怪獣怪獣。なぜ一目見て解ったのかと問われれば、こう答えるしかない。目が合ったからだ。全ての家具と道具に 赤い目があり、その目が、無数の瞳が、白目のない目が、一斉に須藤を捉えたからだ。

「……う」

 この数、種類、個人で所有出来る怪獣の量を遥かに上回っている。須藤は拳銃を握る手に力を込めると、赤木は それを制してきた。怪獣の肉片と思しき赤い鉱石が熱を放つ、怪獣の肉片で出来た暖炉の前で、怪獣の外皮を加工 して作った安楽椅子に、老紳士が座っていた。長身で掘りの深い面差しで、品の良いスーツを身に着けた、白い肌 に銀色の瞳を持つ外国人だった。例のベンツは部屋の奥に隠れ、ヘッドライトを点滅させて警戒している。

「お久し振りです、先生」

 拳銃を下ろした赤木は、深々とこうべを垂れる。

「赤木君。長らく御苦労だったよ、おかげで邪魔が入らずに済んだ。――その若者は君の友人かね」

 老紳士は安楽椅子から腰を上げると、光る石――やはり怪獣の肉片が先端に填まった杖を手にした。滑らかで無駄 のない日本語で、母国語による訛りは全くなかった。なぜ、怪獣の腹の中とでもいうべき地下室にいる。なぜ赤木 は須藤をこの男の元に導いた。なぜ、なぜ、なぜ。疑問と混乱の嵐の末、須藤は拳銃を挙げた。
 発砲後に書かされる始末書のことも忘れ、引き金を引く。射撃訓練でしか使ったことのない武器を、人間を容易く 殺せる凶器を乱射する。発砲しては撃鉄を起こし、発砲撃鉄発砲撃鉄発砲撃鉄発砲撃鉄、空撃ち空撃ち空撃ち。 反動が肩と背筋を痺れさせ、両腕の骨が軋む。つんとした硝煙の匂いの中、須藤は生唾を飲み下す。
 真正面に立っていた老紳士の胸と、その手前にいた赤木の背に穴が開いている。その穴からは鮮血が噴出し、 服に吸い取られ切れなかった分が床に滴っている。二人はよろけたが、倒れ込みはしない。やってしまった、と いう猛烈な後悔とそれに勝る達成感を味わい、須藤は――口角を上げていた。

「ふへ、ひ、は」

 勝った。即物的な快感に見舞われた須藤が肩で息をしていると、二人が顔を上げた。

「ひ」

 なぜ死なない。あんなに撃ったのに。須藤が後退ると、赤木は渋い顔をして背中の穴に触れる。だが、顔色も声色も 平静で、硝煙の匂いがなければ、水鉄砲を撃たれたかのような態度だった。少し迷惑そう。それだけだった。

「俺も先生も怪獣人間だからまだいいが、そうじゃなかったら大事だぞ。だが、これは俺の責任だ。ここに連れてくる にしても、もう少し説明してからにすべきだった。申し訳ありません、先生」

「後で鉛玉を摘出してしんぜよう、赤木君」

 老紳士もまた何事もなかったかのように上体を起こし、穴の開いたスーツを見下ろす。

「では、先生も」

「いや、私は構わんよ。余計な血を流しては、貴重な体液が減ってしまう」

 老紳士の真っ直ぐな眼差しが向けられ、須藤は血の気が引いた。

「あ……あんた達、何者、なんだ」

「魔法使いと、その愛弟子だよ」

 この老紳士が魔法使いなのか。雰囲気は柔和で、灰色の瞳は理知的かつ穏やかで、須藤を見る眼差しも友人に 向けるかのような柔らかなものだった。だが、だからといって信用するべきではない。魔法使いはかつて実在して いたが、今は絶滅している。魔法使いだと名乗っているだけの、怪獣狂である可能性の方が高い。その上、銃弾 を何発も撃ち込まれても平然としているのだから、人知を外れている。赤木は自分も老紳士も怪獣人間だと言った が、それは違法行為だ。逮捕すべきだ。いや、しなければならない。それが警察官の義務だ。
 石畳の如く床に敷き詰められているのは、怪獣のウロコだ。地下室なのに空気が澄んでいるのは、植物怪獣 から切り取られた肉片が濾過装置の役割を果たしているからだ。どちらも違法の中の違法だ、罪状を述べるまで もなく逮捕出来る。怪獣Gメンもいるではないか。勝ち目はある。飲まれるな。圧倒されるな。

「警察官か。ふむ」

 白髪の髭を蓄えた顎をさすり、老紳士は灰色の瞳を動かし、須藤を観察する。表情こそ穏やかだが、人間に 対する眼差しではなかった。喩えるならば、店先に並ぶ野菜を品定めするかのような。

「昔、一度は引き入れようとしたのだが失敗してしまったのだよ。彼の発達しきった肉体を手に入れ逃した のは未だに惜しく思うが、自ら遠ざかっていたものに追い縋るほど女々しくはない。だが、警察官として使う のは勝手が悪すぎる。官庁はあちらの手足だからな」

「では、どうします?」

「まずはやるべきことを果たさせてから、決めてやるとしよう」

 そう言って、老紳士は凝った装飾が施された棚の引き出しを開け、毛の固まりを掴み出した。黒髪のカツラ かと思いきや、ぐねぐねと独りでに蠢いている。となれば、これも怪獣か。

「今し方、愛弟子から電話が入ってね。あの娘の首は、綺麗に切り落とされたのだそうだ。ジンフーの剣捌きは 私が見込んだ通り、いや、それ以上かもしれんな。予定通りだ」

「となると、タツヌマにやらせるんですか」

 先生がおやりになった方が、と赤木は懸念を示したが、老紳士は髪の毛の固まりの怪獣を撫でる。

「後進に道を譲らねばならぬ歳なのだよ、私は。辰沼の診療所まで、これを届けてはくれまいか」

 警察官君、と老紳士は須藤を見据えた。

「な」

 なんで俺が、と言いかけた時、赤木の銃口が須藤の喉を抉る。

「剥き身で届けるわけにはいかないからだ。それと、俺はあちら側にもツラが割れている。でもって、お前の せいで表を歩けない格好にされちまったからな。責任を取れ」

 撃鉄が起こされている。赤木の人差し指が引き金に掛かっている。それをほんの少し絞られれば、弾丸の底部が 叩かれて炸裂し、鉛玉が飛び出して須藤の喉を貫く。そして死ぬ。つまらない死に様だ。死にたくない。だが、 善人の皮を被った悪党共の言いなりになるのか。公僕だというのに。
 運ぶ時にこれを使え、と赤木は部屋の奥を指した。銃口に背中をつつかれながら、緞帳の如き重厚なカーテンを 開けると、小部屋が設えられていた。やはり怪獣で出来たベッドとテーブルと本棚と、地下室でありながらも水場 があり、狭いながらも風呂と洗面所があった。赤木が声を掛けると、擦りガラスが填まった引き戸が開かれ、タオル を被った少女が顔を覗かせた。背は高めだが手足がひょろっとしていて、肌も青白いので、外にはほとんど出して もらえていないのだろう。須藤はたじろいだが、何の躊躇いもなく裸身を曝した少女を見、絶句した。
 乳房がある。となれば女だ。だが、下には男性器が備わっている。ならば男だ。しかし、顔はどちらかといえば 女だ。けれど、少年に見えなくもない。どっちなんだ。どちらでもあるのか。度重なる珍事で混乱に見舞われた 須藤が後退ると、少女であり少年である奇妙な生物は、濡れた裸足で硬い床をひたひたと踏んだ。

「あっちゃん、これ、なあに。というか、なんで撃たれてんの? そいつに?」

「そうだ。見てみろ、的確に内臓の位置を撃ち抜いている。いい腕をしていやがる」

「おわー、本当だあ。肝臓と腸と肺が見事にダメだね、最高。銃声が多すぎたから、無駄弾散らしの腐れ童貞じゃん って思ったけど、意外と上手いね。ふーん、悪くないじゃん。俺の方が上手いけどね」

 赤木がジャケットを脱いでみせると、奇妙な生物は興味津々で弾痕を見つめた後、須藤に向いた。

「で、それを撃ったのが交番のマッポだったんだぁ。たまに散歩に連れて行ってもらった時に見かけたけど、真面目 さだけが取り柄のクソ童貞だなーって思っていたけど、そうでもなかったんだぁ」

「運び屋にする」

「えぇー、マッポを? やだぁー」

 奇妙な生物は小奇麗な顔を崩し、やけに幼い態度で嫌がった。

「我が侭言うな。お前も外に出られる」

 赤木が宥めると、奇妙な生物は形の良い唇を尖らせる。

「外に出られるって言ってもなぁ、マッポが一緒だとつまんないよ」

「生きるか死ぬかはお前の自由だ。どうなるかも自由だ。だが、あの娘は死なせるな」

「えー、なんだっけ。あー、あれか。九頭竜会の御嬢様。でも、あれって普通の血筋でしょ?」

「普通だが、少し違う。母親がな」

「あ、そっか」

 赤木の言葉の意味を察したのか、奇妙な生物は急に大人しくなった。ショートカットよりも少し長めの髪から垂れ 落ちる雫は雨粒よりも大きく、透き通った粒が首筋から鎖骨、鎖骨から胸元をなぞる様から、須藤は目が離せなく なっていた。首から上だけなら、五年後には美女になるであろう顔立ちなのに。胸から腰までであれば、少女特有 の拙い色気に満ち溢れているのに。伸び切った手足に筋肉と程良い脂肪が付けば、肉感的な魅力を得るだろう。 それなのに、あってはならないモノが生えている。須藤にもぶら下がっているオスの象徴が、彼女――いや、彼、 いや、彼女、いや、彼、いや、どちらでもないものの美しさを陰らせている。いや、引き立てている。
 それは、須藤の内に築き上げられていた価値観を崩壊させるには充分すぎた。赤木が須藤に何かを言っていた ような気がするが、もう何も聞こえなかった。レインコートを脱ぎ捨て、拳銃を捨て、帽子を捨て、警察手帳も 捨てた。怪訝そうな顔をしている生き物に濡れた手で触れると、絹のようにきめ細やかな肌が吸い付く。

「これを、くれ」

 震える声で、須藤は常軌を逸した要求をした。

「こいつをくれたら、俺はなんでもしてやる。俺は、何をすればいい」

 自分が何を言っているのか、解っていた。魔が差しただけだ、撤回しろ、今ならまだ間に合う、と頭の片隅で理性 が叫んでいる。だが、そんなものはもうどうでもよかった。交番勤務のことも、これまで積み重ねてきた人生の何も かもが下らなくなった。昇級試験に挑もうとしていたことも、刑事になりたかったことも、家族も友人も、親密になり つつある女性のことも。

「どうする」

 困り顔の赤木が奇妙な生き物に問うと、彼、或いは彼女は小首を傾げた。

「んー、まあいっか。マッポだけど、こいつ、なんか面白そうだしぃ」

「では、交渉成立ということでよろしいかね」

 カーテンを上げ、老紳士が入ってくる。奇妙な生き物はぱっと表情を華やがせ、須藤の手から逃れ、仔イヌのよう に老紳士にまとわりついた。無邪気な笑顔を見られたのは僥倖だが、とてつもなく不愉快で須藤は顔を歪めた。 だが、あれはまだ手に入っていないのだから仕方ないのだと須藤は自制した。
 それから、魔法使いである老紳士は、須藤がやるべき仕事について事細かに説明してくれた。奇妙な生き物に例の 黒髪の怪獣を被せて変装させ、横浜市の寿町の路地裏にあるビルの地下室に連れていき、そこに運び込まれている であろう首が切断された娘と黒髪の怪獣の結合手術を成功させるために助力してくれ、と。そして、その後、結合 手術を行った闇医者に左腕を切断してもらい、怪獣義肢との結合手術を試してみてくれ、と。
 成功すれば人ならざる力を得られるが、怪獣義肢との相性が悪ければ一日も持たずに死ぬ。成功したとしても、 怪獣義肢を付けた怪獣人間となったら最後、体を維持するための薬を手に入れるために裏社会に入り浸らなければ ならない。薬を手に入れ続けるためには、裏社会に人脈を築かなければならない。薬の代金を調達するためには、 いかなる汚れ仕事も厭わぬ覚悟を据えておかなければ、まず身が持たない。それ以前に、薬を手に入れられるほど 体力が回復するのかどうかも、怪獣義肢が須藤の命令を聞いてくれるかどうかの保証もない。
 それでも請け負うのかね、と老紳士は須藤の意思を確認してきた。一秒でも早く奇妙な生き物を手に入れたくて、 須藤は老紳士の言葉が終わる前に承諾した。赤木が寄越してくれた服に着替えて武装を整え、奇妙な生き物にも 服を着せてから例の毛髪怪獣を被せ、外に出ると、雨が上がっていた。
 新たな門出に相応しい、光に溢れていた。





 


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