横濱怪獣哀歌




魔ノ法ノ使イ手




 ――――猛烈に、眠い。
 今日もまた仕事があるのだから、起きなければ。ヲルドビスに行って開店前の準備を一通り終えなければ、店が 上手く回らない。いや違う、登校しなければ。学校に行かなければ。さっさと起き上がって制服に袖を通して、通学 カバンを提げて家を出なければ路線バスに間に合わない。いや違う、そうじゃない。ふなしま食堂に行って、店内の 清掃をしなければ。いや違う、それでもない。だったらなんだ。何をしなければならない。
 眠くて眠くてどうしようもないのに、体が動きたがる。何かをしたくてたまらないのに、手足が動かない。喉が異物 で塞がっているのか、声が思うように出せない。起き上がろうとしても、腹に激痛が走って背中も曲げられない。体中 がべとついていて、汗臭い。睫毛が皮膚に癒着したかのように瞼が開かない。耐えがたい空腹を感じているが、 その一方で吐き気もする。苦しい、ひたすらに苦しい。
 苦しい。




 狭間の意識がはっきりしたのは、それから十日後だった。
 付きっ切りで看護してくれていた看護兵によれば、意識が混濁した状態が長く続いていたらしい。訳の解らない 譫言を言ったり、ろくに傷口も塞がっていないのに起き上がって逃げようとしたり、誰かの名前を延々と呼び続けて いたり、と騒がしかったらしいが、全く記憶にない。終わりのない夢を見ていたような気もするが、それがどんな夢 であったのかもよく思い出せない。三途の川で溺れかけたが、現世に戻ってこられたらしい。
 上体だけは起こせるようになり、少しずつだが食事も取らせてもらえるようになると、状況が認識出来た。あの夜、 自分が何をしたのかも思い出せた。下腹部に恐る恐る触れてみると、分厚いガーゼに覆われていて包帯がしっかりと 巻き付けられている。手術の後に縫合されたようなのだが、まだ抜糸はされていないらしく、ガーゼの下の皮膚 には異物感がある。輸血やら何やらを散々受けたおかげで、両腕には注射針の痕がいくつも付いていた。看護兵が気を 利かせて持ってきてくれたラジオから流れる音楽が、非日常の生活に一抹の現実味を与えてくれた。
 狭間が寝かせられている部屋は、病室というには語弊があった。やけに天井が高く、窓は洋風の洒落た造りで、 ベッドも簡素なパイプベッドではなく木製の立派な代物だった。重厚感のある扉に毛足の長い絨毯、壁に掛けられた 品の良い絵画、調度品の数々。どう考えても病院ではないが、看護兵は本物の帝国陸軍の看護兵であり、医療技術も 真っ当で医薬品も同様だ。帝国陸軍が治療してくれなければ、狭間はとっくの昔に死んでいたことだろう。
 柱時計の針が正午を示し、昼時になった。狭間は少しずつ歩く練習も始めていたが、腹部から背中にかけての傷は まだまだ癒えておらず、数歩歩いただけで痛みに悶絶して座り込む羽目になった。なので、這いつくばりながら ベッドに戻り、布団の上でへたばっていると、見舞客が訪れた。

「やあやあ狭間君、ちょっとは元気になったかな?」

 にこやかに挨拶してきたのは、真日奔帝国陸軍玉璽近衛隊特務小隊所属の辰沼京滋技術少尉だった。

「……まだ動けそうにないです」

 弱々しく答えた狭間がベッドに這い上がろうと努力していると、軍服姿の辰沼は手を貸してくれた。

「だったら、もうしばらくは籠の中の小鳥でいてくれたまえ」

 辰沼は狭間を持ち上げてベッドに座らせてやってから、昼食の盆を載せたキャスター付きベッドテーブルを運んで きてくれた。具が擂り潰された野菜スープ、柔らかいを通り越してぐだぐだになるほど煮込まれた粥、ゼリー、と いった消化に良いものばかりだった。固形物が恋しくてたまらなかったが、数日前排泄した際に見舞われた地獄のような 腹痛を思えば、当分はこれを食べるしかなさそうだ。

「いやあ凄かったよ、怪獣の棘に下腹部を貫通されている君を回収し、応急処置の後に開腹した時のことったら!」

 この話は、もう何度目になるだろうか。狭間はげんなりしたが、辰沼の話を聞き流した。

「大腸と小腸がひどく破れていて、縫合するためにはどちらも切除する必要があったんだから。大腸は七センチ弱、 小腸に至っては一〇センチ近くを切除しなければならない状態だったんだから。他の臓器にはこれといって損傷が 見受けられなかったから何もしなかったけど、どこかの内臓が破裂していたら元通りに縫い合わせてやったのに。 背骨と骨盤にも若干ヒビが入っていたけど、これはどちらも自然に治りそうだから手は出さなかったよ。惜しいね。 出血量は失血死する一歩手前だったから、その辺の兵士を掻き集めて輸血してあげたけど、これといって拒絶反応も 起きていないようだね。人見知りしないタイプなのかね、君は。今のところは破れた皮膚を強引に引き延ばして穴を 塞いでいるけど、そのままにしておくと体を伸ばした時に突っ張っちゃうから、そのうち皮膚を移植して治すべき なんじゃないかなぁ。でも、その皮膚が人間のものでなければいけないっていう理由はどこにもないんだよね」

 饒舌な辰沼を横目に、狭間はスープを啜った。味は良いのだが、毎日同じものだと飽きてくる。

「あの」

「弟さんへ電話がしたい、って言いたいんだろう? でも、それはまだ許可出来ない」

「それと」

「ここがどこなのか、って聞きたいんだろう? でも、それもまだ教えられない」

「だったら」

「結婚式の後、何がどうなったのか、って教えてもらいたいんだろう? でも、それもやはりダメだ」

「でしょうねえ」

「解っているのなら、なんで毎日毎日同じ質問をしてくるのさ」

「退屈なもんで」

「それは僕も同じだよ。ここは居心地は悪くないんだが、手が寂しいんだ。闇医者として九頭竜会と渾沌の子飼いに されていた頃は、そりゃあ楽しかったものだよ。人間と結合させる怪獣義肢の被験体には事欠かないし、どいつも こいつも重傷を負ってくるから銃創も刺し傷も切り傷も治し放題だし、ついでに表には出回らない医薬品も回って くるから試し放題だし。でも、ここはそうもいかない」

「せめて本か新聞でも」

「それもダメだ。で、怪獣達は話しかけてくるのかい」

「いつも通りですよ、そんなの」

 脳内に響く怪獣達の声をあしらい、狭間は頬を歪めた。

「彼らの声は情報源としては不充分なのかな?」

「だって、俺は人間ですから。怪獣の世間と人間の世間は別物ですから、当てになりませんよ」

 人間だから、この程度の負傷で寝込む羽目になる。狭間は空になった器を重ね、盆を押しやった。

「御馳走様でした」

 その後、辰沼はひとしきり喋っていった。会話の内容は変わり映えしないが、狭間は他人との接触に飢えている ので、辰沼と話し込んだ。看護兵は狭間の食器を下げるために部屋を出ていったので、会話には加わらなかった。 というより、看護兵は狭間とも辰沼とも関わらないように上官から厳命されているのか、必要最低限の会話しかして くれなかった。面と向かって接してみると、辰沼は羽生よりも馴れ馴れしい性格で、それまでに抱いていた人物像 とは懸け離れていた。辰沼は冷酷なマッドサイエンティストなのだとばかり思っていたが、彼なりの信念や持論を 持って進んだ道の先にあったのが怪獣義肢であり、玉璽近衛隊なのだと知った。
 彼の直属の部下であった藪木と秋葉のことも、ただの実験台でも兵器でもなく、家族のように大事に扱っていた。 横浜で裏社会に耽溺していた頃も、汚れ仕事を引き受けるのはほとんど辰沼で、誉れ高い帝国軍人である二人が 下劣な犯罪に手を染めないようにと気を配っていた。同門でありながらも道を違えた羽生鏡護のことは、敵対視 しているかと思いきや、尊敬に値する科学者だと褒めていた。幸福の真っ只中から不幸のどん底に突き落とされた 羽生の心身も案じていて、同じ部隊に入隊したのだから手助けしてやりたい、とも言っていた。

「僕はねぇ、あいつが他人とは思えないんだよ。色んな意味で」

 辰沼はベッドサイドに置かれた椅子に腰掛け、腕を組んでいた。

「でも、そんなことを言うと、同類扱いするな、だのなんだのと百倍にして言い返してくるから言えないんだけどね。 羽生はああいう態度を取ることで自分を保っている男なんだから、それをとやかく言うべきじゃない。あいつは軍隊 は嫌いなんだけど、従軍しないと食い扶持を稼げないほど追い詰められていたし、国としても羽生ほどの科学者を 遊ばせておくわけにはいかなかったから、こうして玉璽近衛隊にお迎えしたってわけさ」

「羽生さんとは一度もお会いしていませんけど、御元気ですか?」

「一応ね。昨日、あれが出ただろう? それの事後処理に向かった」

「光の巨人ですか」 

「ラジオのニュースの通りだよ、被害状況は。あればっかりは、政府も宮様も怪獣使いも隠しようがないからね」

 辰沼は狭間を見据え、何かを言いかけたが目を逸らした。

「やはりシャンブロウだけなんだよ、あれに立ち向かえるのは」

「俺がどうしようもない馬鹿だってのは、俺が一番よく解っています」

 ツブラをエレシュキガルと共に光の巨人の向こう側に去らせてしまったから、人類は光の巨人に対抗する手段を 失った。触手に粘膜を探られる感覚を思い出すと、体の奥底がじんと熱く疼くが、下半身が立ち上がるほどの余力 はない。けれど、ああでもしなければ、ツブラは政府と帝国陸軍のオモチャにされていた。そうでなければ、怪獣 兵器として運用され、死ぬまで使い切られた。そのどちらも嫌だから、彼女を火星に逃がした。
 それが正しい選択だったのだ、と信じる他はない。




 閉じ籠もっていると、時間の流れが解らなくなる。
 ラジオのニュースで読み上げられる日付がなければ、今が何月何日なのかを忘れていただろう。新聞の類いは一切 読ませてもらえなかったので、仕方なく作り付けの本棚に入っていた本に目を通してみたのだが、どれもこれも 分厚い上に難解だった。それでも暇潰しにはなったので、三日掛けて一冊読破し、更に三日掛けてもう一冊を読破し、 と繰り返していくうちに本棚に詰まっていた本を平らげてしまった。
 読んだ本と読破するために掛かった日数を掛け算してみると、二ヶ月は過ぎたことになる。その頃になると、 狭間の体調はいくらかマシになっていて体力も随分戻ってきたが、外に出してもらえなかった。庭に出て運動する ことは許されたがそれだけで、この建物の外には出してもらえなかった。時折、建物の上空を飛ぶ怪獣の言葉を 聞き取って怪獣電波で話しかけてみたが、怪獣達もあまり近付きたくないらしく、曖昧な言葉しか返ってこなかった。
 俺は死ぬまでこの建物に閉じ込められるのだろうか、と不安を覚えつつも、特に何もしなくても生きていける環境 に浸かり切っていた。すっかり労働意欲が萎えて、ぼんやりしているだけで一日を終えることも多く、体も締まり がなくなってきた。このままではダメになる、と一念発起し、室内で出来る運動を思いつく限りやった。治療と食事 以外の身の回りのことも自分でやると言い張り、使用人達に混じって洗濯や掃除をし、固形物も食べられるように なったので料理もした。だが、タバコだけはどう足掻いても手に入らなかった。
 狭間の私物はあの日に着ていた血塗れのスーツと財布ぐらいしかなく、着替えといえば、陸軍から与えられた 入院着と下着、そして、普段着に使えと言われて寄越された国防色の作業着だった。当たり前だが階級章は剥がされていて、 使い古しなので色褪せていた。上下合わせて二着しかなかったが、ないよりはマシだ。
 スーツのポケットに入っていた黒い布の切れ端は、ツブラが着ていた黒いワンピースの残骸だった。それもまた 狭間の血をたっぷり吸っていたが、捨てる気になれなかったので、丁寧に洗って手元に残した。胸ポケットに入れて いたはずのポケットチーフがなくなっていたことが少し気になったが、あの騒ぎの中で紛失したのだろう。黒い布が 彼女であるかのような気持ちで唇を寄せたところで――――無遠慮にドアがノックされた。

「よっすー」

 気軽に挨拶しながら入ってきたのは、怪獣人間である藪木丈治伍長だった。

「あ、どうも」

 狭間は黒い布をポケットに入れて態度を取り繕うと、藪木の陰から田室秋奈上等兵が顔を出した。

「現状、報告」

「体調は安定していますよ。腹が痛む頻度も減りましたし、腸の具合もそれなりに良くなってきましたし、中庭 に出て少し走ってみたけど大丈夫でした。毎度どうも」

 狭間が義務的に告げると、秋奈は後ろ手に持っていた紙袋を差し出してきた。

「差し入れ」

「ありがとうございます」

 狭間が礼を述べると、秋奈は小走りに近付いてきた。藪木は秋奈に続いて部屋に入ると、ドアを閉めた。紙袋の 中身はコーヒー豆で、焙煎済みだった。だが、細かく砕いていないのですぐには飲めない。香ばしく深みのある香り がふわりと立ち上り、消毒液の匂いが抜け切らない部屋に一抹の安らぎをもたらした。この香りをどこで嗅いだのか、 思い出す必要すらなかった。はっとして狭間は顔を上げると、新たな見舞客がドアを開けた。

「お久し振りです」

 かすかに軋みながら開いたドアの先には、ここにはいないはずの男が立っていた。

「これ、やっぱり……」

 この香りを間違えるはずがない。狭間はコーヒー豆の入った紙袋を握り締める。

「顔色も随分と良くなりましたね」

 彼が足を踏み入れると、二人の軍人は素早く身を引いて背筋を伸ばし、敬礼する。

「御陰様で」

 紙袋が破けてコーヒー豆が床に飛び散ったら一大事なので、狭間はかすかに震える手でテーブルに置いた。

「食欲もおありで、何よりです」

「そちらは、いかがでしたか」

「御安心なさい。皆さん、御元気ですよ。彼女を除いて、ではありますが」

 老紳士は狭間の前に立つと、深々と一礼した。

「改めまして、自己紹介させて頂きます。真日奔帝国関東総司令部特務怪獣技官、通称・魔法使い。甲治・フォン・ヴォル ケンシュタインと申します。またの名を、海老塚甲治」

 軍服とは細部が異なる服を着込んだ老紳士は、カウンターの奥でコーヒーを淹れている時となんら変わらぬ笑顔 を浮かべていた。その笑顔の裏に、彼は何を考えていたのだろうか。怪獣や裏社会の住人達に振り回されて右往 左往している狭間を、どんな気持ちで眺めていたのだろう。嘲笑っていたのだろうか、憐れんでいたのだろうか、 それとも。懐かしい人物と再会出来た嬉しさよりも戸惑いが先に立ち、狭間は言葉に詰まった。
 まずは、弟の安否を訊ねなければ。





 


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