横濱怪獣哀歌




魔ノ法ノ使イ手



 手回し式のコーヒーミルで、豆が細かく刻まれる。
 挽きたてのコーヒー豆をフィルターを付けたドリッパーに入れ、注ぎ口の細いポットから少量の湯を注ぎ、じっくりと 蒸らす。それから湯を円を描くようにしながらゆっくりと細く注ぎ、コーヒー豆が膨れたら注ぐのを止め、ドリッパーから コーヒーが滴り切る寸前でドリッパーを外す。最期の一滴には雑味が多いので、味が濁ってしまうからだ。
 コーヒーに添えられているのは、ドイツ式のパンケーキ、ダッチベイビーだった。小振りなフライパンに生地を入れて オーブンで焼き上げたもので、周りがふっくらと盛り上がっていて中央が凹んでいる。適当な大きさに切り分け、 粉糖とレモンを掛けて食べるケーキなのだが、触感はもっちりとしていて通常のパンケーキとは異なる。バターの 香りとレモンの酸味に砂糖の甘みが加わった味は、病人食とは桁違いに深く濃い、食べ物らしい食べ物の味だった。 コーヒーも程良い苦みと酸味があり、なんだか泣きそうになってくる。ようやく、自分が生きていることを再確認 出来たような気がする。やはり、まともなものを食べなければ、人間は人間らしくいられないのだ。

「狭間君、落ち着かれましたか?」

 ドリッパーを片付けてから、海老塚はにこやかに問うてきた。

「……はい」

 落ち着き過ぎて、毒気まで抜かれてしまいそうになる。狭間は二杯目のコーヒーを飲み、嘆息する。この男に聞く べきこと、聞きたくなくても聞かなければならないこと、聞かずにはいられないことが山ほどあるのに、コーヒーと 共に言葉を飲み下してしまいそうになる。せっかくだからとダッチベイビーもお代わりし、二切れ目に手を付けた。

「あの」

「はい、なんでしょう」

 海老塚の微笑に陰りはなく、服こそ違うが、態度はヲルドビスで働いている頃となんら変わらなかった。

「ええと、どうお呼びすればいいんでしょうか。マスターはマスターですけど、でも」

 狭間が躊躇いがちに尋ねると、海老塚は自分の分のコーヒーを傾けた。

「狭間君のお好きにどうぞ。その分ですと、従軍する気もなさそうですしね。軍人と魔法使いという間柄では上下 関係が出来上がってしまいますが、喫茶店の店主とアルバイトではそこまでのものにはなりませんし、私のその方が 望ましいと思っています。個人的にではありますが」

「それじゃ、マスター。真琴は、弟は元気ですか」

「ええ、御元気ですよ。狭間君の身を案じながらも、学校生活を続けておられます。狭間君と連絡を取る手段がないか と幾度となく尋ねられましたし、もしも会えるのであれば、と手紙も何通も託されました。出す宛が解らないから、 私の手に預けることで気を紛らわしていたのでしょうね」

「その、真琴の手紙って」

「こちらに」

 海老塚はジャケットのポケットから、三通の封書を取り出した。狭間真人様、と弟の神経質な字で宛名書きされて いた。それを受け取った狭間は、すぐさま封を開けて便箋を広げた。書き出しは素っ気なかったが、徐々に文章に熱が 籠ってきて、一人きりにされたことがどれだけ寂しいかということを十数行に渡って書き、愛歌が急にいなくなって 心配でたまらない、とのことをその倍近い行数で書いていた。現金な奴め、と思ったが、弟なりに割り切る手段がそれ だったのだろう。現実を直視過ぎて押し潰されたら、元も子もないからだ。
 真琴からの不躾ながらも愛情溢れる手紙を読み終えてから、狭間は本題を切り出した。海老塚はいつから魔法 使いだったのか、という質問をぶつけると、海老塚は長考した。コーヒーの湯気が減った頃、彼は口を開いた。

「私はかつて奉公をしていた子供であった、ということは以前お話しいたしましたね? 九歳の頃に実家から奉公 に出され、真日奔で事業を展開していたヴォルケンシュタイン家に仕えておりましたが、ヴォルケンシュタイン家は 実業家であると同時に中世時代から長らえていた魔法使いの一族だったのです。ですが、先の大戦で皆様は祖国の 軍隊に徴兵されて魔術武官として戦地に赴き、命を散らしました」

 膝の上で手を組んだ海老塚は、物憂げに目を伏せる。

「大奥様は私が奉公に入って間もなく、重い病で亡くなられておりました。旦那様は枢軸国軍魔術少佐として奮戦 し、かなりの戦果を挙げられましたが、元来繊細な御方だったので、度重なる戦闘で心が病んでしまわれ、自死に 近い形で戦死してしまわれました。御二人の御長男であるシュヴェルト様は、枢軸国軍魔術中尉として奮戦されたの ですが戦死なさいました。次男であるシュトーク様は学生の御身分で魔法の技術は未熟でしたが、御父様と御兄様 の死を無駄にするまいと奮起されて従軍なさったのですが……。伴侶と息子達を立て続けに亡くされた奥様は、失意の 中、病で亡くなられました。ヴォルケンシュタイン家に残されたのは、老齢の大旦那様だけとなりました」

 声色を震わせた海老塚は、背を丸めて項垂れる。

「そこで、大旦那様は私に申し付けられました。我が子となって家名と家業を継ぐべし、と。戦争が起きるまでは、 私の実家は幾度となくヴォルケンシュタイン家に助けられておりましたし、ヴォルケンシュタイン家の皆様を心から お慕いしておりましたから、引き受けない理由はどこにもありませんでした」

「第三次世界大戦ですか……」

 二十二年前に終結した、世界中を巻き込んだ大規模な戦争だ。真日奔は三度の大戦を乗り越え、国内は平穏を 取り戻してはいるが、その傷は未だに癒え切っていない。狭間の呟きに、海老塚は頷く。

「そうです。怪獣監督省を立ち上げる手伝いをなさったのは大旦那様ですので、それはお間違えのなきよう。魔法 使いといっても、私は小手先の魔法しか扱えない魔法使いの弟子以前の存在、魔法使いの丁稚です」

「麻里子さんにカムロが移植されるように手を回したのは、マスターなんですね」

「怪獣使いから頼まれましてね。カムロを人に慣らしておくように、と」

「シニスターとヴィチローク、というか、タヂカラオとライキリもそうなんですか」

「タヂカラオは、玉璽近衛隊が大政奉還の以前から代々引き継いできた怪獣義肢なのです。左腕と引き換えに綾繁家 に忠誠を誓い、国家に心身を捧げた証でもあり、精鋭の兵士にしか扱えない武器です。ライキリは元々は怪獣使いが 神事に用いていた怪獣だったのですが、カムロの護衛に付きたいと当獣が申し出たので、裏から手を回して九頭竜 総司郎に預けたのですよ。その結果は、あまり芳しくありませんでしたが」

「俺の体質について、最初から知っていたんですか」

「ええ。狭間君を初めてお見かけしたのは、十五年近く前のことです。特異な体質を持って生まれた子供がいる、と の情報の真偽を確かめるべく、船島集落に傷痍軍人である丹波さんを送り込んだのです。彼は戦地で心身に負った傷 があまりにも大きすぎたがために、その苦しみから逃れるために氷室千代さんに乱暴を働いてしまいましたが、あの 事件がなければ帝国陸軍の情報部は狭間君の体質の真偽を確かめきれなかったでしょう」

 穏やかな口調で残酷な事実を述べる海老塚に、狭間は顔色を失う。

「それじゃ、ほんとうに、あの男は」

「怪獣使いの手先ですよ」

 海老塚の笑みは、陰るどころか弱りもしない。過去の記憶とそれに伴う感情が噴出し、狭間は頭を抱える。

「じゃあ、千代は俺がいたからあんな目に遭って、千代もムラクモも助けてやれなかったから船島集落は」

「それは驕りというものです、狭間君。狭間君の存在がムラクモを狂わせたわけではありません、千代さんの思いが ムラクモの荒魂を呼び起こしてしまったのですよ」

「俺のこと、いつから知っていたんですか」

「政府から狭間君の診療録を寄越された時です。確か、二十年前ですかね。言葉を覚え出したばかりの子供が、怪獣 使いでしか知り得ない情報を話している、とのことでした。半信半疑でしたが、その子供に定期的に診察を行って言動 を逐一報告しろ、と狭間君が掛かり付けの御医者様に命じたのです。すると、怪獣使いですら把握出来ない怪獣の動向 について述べているばかりか、車の動力怪獣の不調の原因もぴたりと言い当てるのです」

 そう言われて、医者に何度も診察されたことを覚えているような気がする。年端もいかない頃だったから、何の 疑問も抱かずに怪獣達の言葉を口にしていた。診察といっても注射をされるわけでもないし、苦い薬を飲まされる わけでもなく、病院からの帰り道で喫茶店に立ち寄ってアイスクリームを食べさせてもらったのが嬉しかったことの 方が印象深かった。両親は怪獣使いの思惑を知っていたのだろうか。知らなかったとしても、薄々感付いていた のかもしれない。だから、いつのまにか病院には行かなくなったし、頭の中に聞こえてくる言葉をむやみに喋っては ダメだと言い聞かせてくるようになったのだ。けれど、両親の思い遣りや愛情は踏み躙られてしまった。

「……なんで、今の今まで気付かなかったんだ」

 そうだと解っていたら、ヲルドビスには近付かなかったのに。狭間が顔を覆うと、海老塚は憂う。

「私も出来ることなら狭間君には手を出したくなかったのですが、怪獣使いには逆らえない身の上でして」

「俺がヲルドビスに行き着くことは、そう仕向けられていたんですね」

「ええ。狭間君がヲルドビスに縋らねばならなくなるように、退路を塞いでおりました」

「愛歌さんもグルだったんですね」

「はい。今回の件の首謀者は、かなし様なのです」

「カナシ? ――――もしかして、愛歌さんってあわれの双子の妹なんですか?」

 ならば、愛歌は怪獣使いの一族の生まれということか。狭間は深呼吸した後、海老塚と目を合わせる。

「よく御存知で。野々村さんがお話になったのですね」

「はい。……箱根で」

「狭間君の仰る通りです。愛歌さんは怪獣使いの家に生まれながらも怪獣使いとしての能力を持たず、綾繁家から 排除されてしまわれたのです」

「麻里子さんの母親であるシノギという人の旧姓が光永だということは、光永家ってのは」

「怪獣使いは姓はあれども戸籍を持っておりませんので、綾繁家から放逐された子供達を一市民として扱えるように 作られた家系なのです。鎬様は悲様とは二回りほど年が離れておられますが、御姉様に当たります」

 だから、愛歌は枢に対して臆さなかったばかりか、綾繁家に批判的な言動を取っていたのか。そして、今の 今まで考えないようにしていたことを考え、狭間は喉の奥に迫り上がる苦みを堪えた。

「あの結婚式の夜、ツブラと光の巨人の力を借りて、エレシュキガルを光の巨人の向こう側に追い出したんです。 その直前に、羽生さんから教えてもらっていたんです。エレシュキガルは愛歌さんの体の一部で、愛歌さんの命を 長らえているのはエレシュキガルなんだと。だけど、俺は、必死で、ツブラを渡したくなくて、これ以上誰かが光の 巨人に消されるのが嫌で、だから、俺は、エレシュキガルを、ツブラと、ぅ、あ」

 間接的に愛歌を殺してしまったのではないか。狭間は背筋が怖気立ち、呼吸を早める。海老塚は狭間の背中に 手を添えてさすってくれ、大丈夫です、と柔らかく言った。

「悲様は、いえ、愛歌さんは御無事ですよ」

「ほんとう、ですか」

 脂汗と涙が滲む顔を上げた狭間に、海老塚は目を合わせてきた。

「愛歌さんが操っていたエレシュキガルは、クル・ヌ・ギアのほんの一部に過ぎません。神話怪獣の本体がどこに あるのかは私達でさえも解りませんし、あったとしてもまず操り切れませんからね。ですが、次にお会いした時は、彼女は私達の 知る愛歌さんではなくなっているかもしれません。エレシュキガルは愛歌さんの心身を保つための繋ぎである共に、 怪獣中毒を中和する役割も果たしておられましたからね。それを失った今、愛歌さんは」

「怪獣に近付いている、と?」

 狭間は深呼吸し、吐き、やや落ち着きを取り戻した。

「ただの怪獣であれば、それほど問題はないのです。哀様は怪獣と化してからの方が落ち着いておられますし、今の 生活を楽しんでおられます。他の光永家の方々は、鎬様のように最後まで人間で在られた方、哀様のように怪獣に なったことで救われた方、長らえられずとも穏やかに最期を迎えられた方、とおられますが、愛歌さんはその いずれも選びませんでした。怪獣Gメンになられたのも、人間らしく生きたいと望み、怪獣監督省に働かせてくれと 政府に頼んだからです。赤木軍曹が相棒だったのも、そうした背景によるものです」

「じゃあ、なんで愛歌さんはエレシュキガルを外に出したんです? 自分の命を縮めるかもしれないのに?」

「それは私達には解りかねることです。吸血鬼騒動が始まってから、愛歌さんとエレシュキガルを捉えるべく手を回して はいたのですが、回し切れずにこのような事態に成り果ててしまいました。挙句に、エレシュキガルに太刀打ち 出来る切り札であるシャンブロウは光の巨人によって消し去られました」

 海老塚の声色が僅かばかり低まり、眼差しの温度が下がる。

「愛歌さんの内に巣くうエレシュキガルを阻める者は、最早、地球上にはおりません。君は、実に罪深い」

 大罪人でありながらも、命を救ってもらえただけありがたく思え。海老塚の瞳に凝っている輝きは、冷徹な意志 を含んでいた。返す言葉もなく、狭間は冷め切ったコーヒーを啜った。

「ですが、その罪を利用しない手はないのですよ」

 海老塚はゆったりと足を組み、狡猾に口角を緩める。

「怪獣使いを陥れるためには、愛歌さんにはこれまで以上に暴れて頂かなければ」

「……は、あ?」

 何を言い出すのだ、この人は。狭間が呆気に取られると、海老塚は窓越しに空を望む。

「ヴォルケンシュタイン家の皆様が命を散らす原因となった第三次世界大戦が勃発した切っ掛けは、怪獣使いにある といっても過言ではありません。怪獣使いは超大型の発電怪獣を運用することにより、文明が発達した現代であろう と国家と経済を掌握し続けていますが、それは当の昔に時代遅れなのです。欧米諸国では、怪獣を思念ではなく 電流を使って制御する方法が用いられておりますし、その方が遥かに安全かつ安価なのです。玉璽近衛隊を始めと した精鋭部隊を護衛に付けておくのも、はっきり言って人材と怪獣の無駄遣いなのです。なので、私は内側から怪獣 使いを滅ぼすべく画策しておりましたが、あまり上手くいきませんでした」

「あ、あの、マスター」

「怪獣使いの一人や二人暗殺してやろうと目論んだこともありましたが、そんな暴挙に出ると大旦那様が築き上げて 下さった魔法使いの地位を失ってしまうので歯噛みするばかりでした。なので、名前だけの家系でしかなかった 光永家に率先して関わり、怪獣使いの血筋を散らばらせ、怪獣使いには達せずとも生まれ付き怪獣との親和性の 高い子供を何人も作らせました。御名斗さんはその一人ですが、両性具有であり性格に多大な問題があったので、 御嬢様のお付きに留まらせたのですが、若干教育を誤ってしまいました。けれど、鎬様から生まれた麻里子さんは 常人以上怪獣使い未満とでも称すべき力を持っておりましたので、カムロに人の血を馴染ませるという大仕事を お任せいたしました。その結果、実に良い仕上がりとなりました」

「あ……ぁ、ええと……」

 おぞましいことを饒舌に語る海老塚に、狭間は身を引く。

「ここには、枢様が静養しておられます。御可哀想なことに、無理が祟って寝込んでしまわれたのです」

「もしかして、あなたは」

 十年前、麻里子に施したものと同じ手術を行うつもりか。青ざめた狭間は、腰を浮かせて後退る。

「怪獣使いは同類である怪獣使いに対しては、比較的警戒心が薄いのです。なので、定様にお近付きになれるのは 枢様とその御兄弟だけなのです。つまり、怪獣使いの要にして当主である定様の御命を頂戴するには、怪獣使いを 手駒とするほかはないのですよ。ですが、それには一つだけ問題があります。カムロと一体と化した枢様、いえ、 枢様と一体と化したカムロを説き伏せるためには、カムロの言葉が解る者がいなければなりません。そこで、君が 役に立つというわけです。その御仕事を引き受けて下さいますよね、狭間君?」

 海老塚の柔らかな物言いには、逆らい難い威圧感が込められていた。どれだけの長い年月、どれほどの恨みを 注ぎ込んで築き上げた計画なのだろうか。止めろ、間違っている、そんなことをしてもろくなことにはならない、 と言いたかったが言えるはずもなかった。海老塚の執念は、ヴォルケンシュタイン家への忠誠の篤さの証でもある からだ。狭間は一言も言い返せず、膝を折って椅子に座り直した。
 三杯目のコーヒーは、泥水よりも不味かった。





 


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