横濱怪獣哀歌




ダーク・オン・ザ・ウォーター



 静かに、だが確実に世の中が狂っている。
 いつからだろうか、新聞に世界情勢が載らなくなったのは。社会面を広げてみても、書いてあるのは真日奔の 政治家や企業の揉め事ばかりだ。国際面はあるにはあるが名前だけで、中身は以前の記事の焼き直しでしかない。 一紙だけのことではないのか、と別の新聞も読んでみるが、やはり国際面は無きに等しかった。戦中戦後のように 真日奔にとって都合の良いことばかり書いているのかもしれないが、だとしても妙だ。
 いつの頃からか、光の巨人の被害についての報道もなくなった。新聞だけでなく、テレビもラジオも当たり障りの ないことしか伝えず、怪獣警報が発令される回数も少なくなっている。どこで何が起きてもおかしくないから、どこ で何が起きようとも関知すべきではなく、どこで何が起きたとしても黙しているべきだ、とでも言いたいのだろうか。 それではまるで戦争だ、いや、もっと悪い。
 だとしても、一体どうすればいい。真琴は机に広げた本に集中しようとしたが、気が入らず、メガネを外して 目頭を押さえた。共学となってから日が浅い聖ジャクリーン学院では、男子生徒と女子生徒の住み分けはきっちり していて、図書室でも同様だった。中央にある本棚の島を囲む形で配置されている閲覧用の机は、窓側は女子生徒、 廊下側が数少ない男子生徒というふうに。誰が言い始めたことでもなく、いつのまにかこうなってしまったのだが、 一部の生徒以外はまだ共学に馴染んでいないので、自然な成り行きだった。住み分けが出来ていることで両者は 適度な間合いが生じているので、今のところは諍いらしい諍いも起きていない。だから、教師であるシスターも この状態を黙認している。問題があるとすれば、女子生徒の側にある本を取りに行くのがちょっと気まずい、と いうことぐらいだった。真琴はクラスでは半端な立ち位置なので、女子生徒達に絡まれないからでもある。
 近頃読んでいるのは、翻訳物のドイツ文学だ。聖ジャクリーン学院を建てたのはドイツの資産家だそうで、 その関係でやたらとドイツ文学の蔵書が多い。だとすれば、ドイツ語読みのジャクリーヌじゃなくて英語読みの ジャクリーンなのだろう、と疑問に駆られたが、差して重要でもなさそうだったので気にしないことにした。 真琴は中休みと昼休みを費やして読み終えた本を本棚に戻し、別の本を借りてから帰ろうと本棚を見渡した。

「あ」

 本棚の影から出てきた人物と、不意に目が合った。

「……へ」

 だが、それは生徒でもなければシスターでもなかった。真琴が面食らうと、彼女はにんまりして唇の前に指を 一本立ててみせた。静かにしていなさい、とのジェスチャーだった。彼女は青いコートの裾を翻して本棚の裏に するりと潜り込んでしまい、真琴ははっとして彼女を追った。だが、そこには誰もおらず、古典文学の背表紙が ずらりと並んでいた。すると、純文学と歴史の間から、ひょいっと顔が出てきた。やはり彼女だ。
 今度こそ見間違いじゃない、と真琴は歴史の本棚の間を通り過ぎ、彼女を追いかけたが、やはり誰もいなかった。 馬鹿にされている、と真琴はむきになって図書室を回った。しかし、何周しても彼女は見つからず、外に出た 気配もなかった。そうこうしているうちに下校時間を迎えたので、真琴は目当ての本を借りてから、図書室を 後にした。西日の差す中庭のベンチでは、部活も下校もせずに女子生徒達がお喋りに花を咲かせていた。

「横須賀で発電怪獣が暴走したのは、帝国陸軍の内乱が原因なんだそうだけど……」

「滅多なことは言うものではないわ、繭香さん。けれど、そのお話はどこで聞いたの?」

「ほら、うちのお父さんは軍隊相手に商売をしているでしょ? だから、取引先の御客様がうちに来ることが あるんだけど、それをうっかり盗み聞きしちゃったの」

「あー、あたしんとこもそんな話聞いたな」

「あ、そうか、音々ちゃんちの御商売はキャバレーだったね」

「そ。うちにいても暇だし、父ちゃんの新しい嫁さんのタマちゃんと話すのは好きだから、ちょいちょい店に行っては 遊んでんだよ。今日も今日とておっさん共がうちの綺麗どころの御姉様方に乗せられてじゃんじゃんお金を落として くれてんだなー、って思いながら、二階の特等席から客席を見下ろすのがすげー楽しいし。あと、うちの店のダンス は少女歌劇団にいたダンサーが仕込んでいるから上手いのなんのって。んで、立場は社長令嬢のあたしが見に行くと ダンサーもバンドも気構えが変わるらしくて、父ちゃんからはいつでも来いって言われているんだよ。まあ、それは どうでもいいとして、うちの御客の大半は軍人なんだよ。陸軍と空軍も来るけど、一番多いのは海軍だ。あいつらは 軍服が白いから、上から見ると一目で解っちまうんだよ。階級章までは見えねーけど、呼び付けたホステスの人数と テーブルに並べた酒の数で偉い奴はすぐ目星が付く。で、そいつらの接客に疲れたホステスは、あたしが御指名して タマちゃんに接待してもらって休ませてやるんだ。でないと、うちの貴重な従業員がくたびれちまうから」

「そのホステスさん達が、酔っ払った海兵から聞き出した御話を音々さんに御話してくれたのね?」

「要するにそういうこった。あたしは海軍については全然知らねーんだけど、父ちゃんは戦時中は海軍にいたことが あるから、適当に話してみたらなんか深刻そうな顔してたな」

「それで、その、それってどんなことなの?」

 ボブカットの女子生徒、兜谷繭香は声を潜めながらも興味津々で訊ねた。

「んーと、なんだっけなぁー。なんか、海兵の飛行機乗りだった奴が復員後に陸軍の変な部隊に引き抜かれたのが すこぶる面白くないから、何が起きても放っておけ、陸軍のせいにしちまえ、みたいな?」

 ショートカットの女子生徒、蜂矢音々は半笑いになる。

「あ、そうそう、それそれ。お父さんの御客様が話していたのも、そういう感じの話だった」

 繭香が手を打つと、ロングヘアの女子生徒、桑形桐代は物憂げに目を伏せる。

「横須賀で暴走した発電怪獣の件は、未だに詳しい報道はなされていないわ。それが真実の一端だとすれば、かなり拙いの ではないのかしら。横浜はただでさえきな臭いのだから」

「だとしても、あたしらに何か出来るわけねーし」

「逃げ出そうにも、お父さんはこういう時こそ稼ぎ時だって張り切っちゃってさあ……」

 繭香が嘆息すると、桐代は綺麗に整えられた細い眉を下げる。

「私の御父様も似たようなものよ。政治家というものは、人が困っている時に付け入るのが仕事だものね」

「うちの父ちゃんも店を閉める気は更々ないらしいしなー。商売人ってのはどうしてこう」

 音々はスカートが捲れるのも気にせず、片膝を立ててベンチに寝そべった。

「あー、ヲルドビスに行きてぇー」

「他の喫茶店も巡ってみたんだけど、コーヒーもケーキも紅茶もおいしかったのだけれど、何かが違うのよねぇ」

 切なげに嘆いてから、はしたないわね、と桐代は音々の裾を直した。

「マスター、御実家に帰られたのかな」

 繭香もまた音々の裾を直させてから、遠い目をした。

「それとも、急な御病気にでもなられたのかしら」

 桐代が憂うと、音々は両方の膝を立ててスカートを不作法に広げた。

「あと、バイトの兄ちゃんも行方知れずらしいしなー。つか、九頭竜麻里子はどこに行ったんだか」

「結婚するって急に言い出して、結婚式を挙げたらしいんだけど、それっきりなんだよね。結婚式の会場に光の巨人 が出現したってのは本当だけど、あの九頭竜さんが光の巨人なんかに消されちゃうとは思えないんだよねぇ」

「あの、九頭竜麻里子だもんなぁ」

 音々はさも嫌そうに舌を出す。

「光の巨人はとても理不尽だけど、九頭竜さんはそれ以上に理不尽だものね」

 桐代は辺りを少し窺ってから、肩を竦める。繭香はしみじみと頷く。

「だよねぇ。あの人が遅刻して登校してくる時って、その、なんというか……アレしているんだろうねぇ」

「花火のような火薬の匂いがすることもあったわ。あれは硝煙ね、恐らく」

「いつだったか、黒魔術に傾倒していた連中が占いに使うんだとかなんとか言って怪獣の肉を手に入れていたことが あったけど、その連中があっという間に転校していったってのはなぁ……。怖すぎるし」

「皆さん、家庭の事情だということだったけど、きっと九頭竜さんが手を回したんでしょうね」

「他にもあるだろ。学校の回りを変なのがうろつく、って噂が立った次の日にはいなくなっちまうし、痴漢が出るって 話を教室でしたら、三日後には痴漢のおっさんが手足を折られて人相まで変わっちまっているし、誰それがいじめられた なんてことが話題に出たら、その次の日には……。つうか、これって要するに九頭竜麻里子が面白くねーって思ったから 手ぇ出しているだけだよな? 学校の平和だのなんだのはこれっぽっちも考えていないよな?」

「だから怖いのよ、あの人は。だから、誰も彼も九頭竜さんの機嫌を窺うようになってしまったのだから。そんな彼女が 結婚なさると聞いた時はそれはもう驚いたけど、九頭竜さんを受け止めてくれる殿方がいらっしゃるなら、少しは落ち着く のではないのかしら。ただの願望と言えばそれまでだけど」

「つか、落ち着くわけないだろ。あの女を嫁にしようって男がまともなもんか、受け止めるどころか煽るだろ」

「まあ……それもそうだね」

「悪いようにならなければいいと願うしかないわね。こればかりは」

 桐代は苦笑しつつ話を収めたが、ふと、窓越しに三人の会話を立ち聞きしていた真琴に目をやった。真琴は途端に 気まずくなり、愛想笑いをしつつ後退る。

「ああ、いえ、俺は何も、すみません」

「そうだよ、なんで今まで気付かなかったんだろう!」

 そう叫ぶや否や、繭香はベンチから下りて駆け寄ってきた。

「狭間君はヲルドビスに住み込みで働いているんだよね、ね!?」

「まあ、そうだけど」

 その勢いに負けて真琴が腰を引くと、桐代は期待に目を輝かせる。

「でしたら、ヲルドビスに入らせて頂けないかしら? 無論、ただとは言わないわ」

「マスターの淹れたコーヒーとケーキが出てこねーのは残念だけど、それは我慢するからさー、な?」

 音々も身を起こし、にいっと口角を上げた。

「え、っと……」

 三人に食い入るように見つめられ、真琴は断れなくなった。生まれてこの方、女性から熱視線を注がれたことは一度 たりともない。出来ればそれは愛歌さんが良かった、と思ってしまうのも男の性である。借りてきた本も課題も予習 もあるし、アパートで兄と愛歌の帰りを待っていたいのだが、彼女達の頼みを断れば確実に陰口を叩かれる。この三人が 言わなくとも、学院の中の誰かが言い出す。そうなれば、今後の生活に関わる。
 結局、真琴は首を縦に振った。




 合い鍵を使い、裏口の鍵を開ける。
 ドアの隙間からは、壁に染み込んだコーヒーの香りがかすかに零れ出す。一応、声を掛けてから中に入り、明かり を付けた。バックヤードにうっすらと埃が被っているのは、店内と厨房の掃除だけで手一杯だからだ。真琴は三人を 手招きすると、彼女達は御邪魔しますと挨拶してから足を踏み入れた。コーヒーの残り香だけでも気分が高揚して くるのか、皆、表情が明るくなった。ヲルドビスが彼女達の心の拠り所である証拠だ。
 営業していると勘違いされると困るから、と前置きしてから、真琴はカーテンを閉めたまま店内の明かりを灯した。 すると、三人ははしゃぎながら駆けていき、いつも座っている窓際のボックス席に腰掛けた。そこまで喜んでもらえる と悪い気はしないので、真琴はちょっとにやけた。

「僕が淹れたのでよかったら、コーヒーでも飲む? 出来は今一つだけど」

 真琴が提案すると、三人は快諾してくれた。後で文句言わないでくれよ、と付け加えてから、真琴は自分で焙煎 して挽いたコーヒー豆をフィルターをセットしたドリッパーに入れた。コーヒーカップを四つ出し、ヤカンで湯を 沸かし、それが沸いたらコーヒーカップに入れて温め、コーヒー豆に少しだけ注いで一分間蒸らした。

「私にももらえる?」

 誰でもない声が割り込んできて、驚いた真琴はヤカンを落としかけた。すると、声の主は事もなげに手を出して、 ヤカンの底に躊躇いもなく手を添えて支えてきた。火から下ろして少し時間が経っているとはいえ、中身が熱湯 であることには変わりはない。それなのに、ヤカンに触れて熱がるどころか眉一つ動かさず、呆然としている真琴 の手からヤカンを取ってコンロに戻した。

「い……いいですけど、奥に引っ込んでいて下さいね」

 真琴は面食らいながらも彼女を諌めると、彼女は茶化すように笑みを浮かべた。図書室での追いかけっこでは、 影を踏むことすら許されなかったのに、こうもあっさり姿を現すとは気紛れにも程がある。

「いいわよ、あの子達がいる間はね。まこちゃんの御部屋、お借りするわ」

 ひらひらと手を振りながら、彼女は二階へと上がっていったが、足音が聞こえてこなかった。年季の入った建物 なので、どんなに体重が軽いものが歩いても軋むはずなのだが。訝りながらも、真琴は四杯分のコーヒーを淹れると、 常連客の元へと運んだ。だが、評判は芳しくなく、飲めるけど凄くおいしいわけではない、とのことだった。

「ありがとう、狭間君。私達の我が侭、聞いてくれて」

 繭香は空になったコーヒーカップを置き、満足げに頬を緩めた。

「ちったぁ気が晴れたし。でも、こういうのは一度きりだからいいんだよな。二度三度と我が侭ぶっこくのは、育ちが 悪いなんてもんじゃねーから。あたしは嫌いじゃないな、まこちゃんのコーヒー。すんげー童貞臭くて」

 けたけたと笑う音々に、言葉を選びなさい、と諌めてから桐代は真琴に一礼した。 

「改めてお礼を言うわ、狭間君。マスターがお帰りになったら、またお店に窺わせて頂くわ」

「で、狭間君もマスターの行き先は……」

 繭香の気弱な問いに、真琴は眉を下げる。

「それは俺も知らないんだ。ごめん、役に立てなくて」

「まあ、気にすんなよ。そのうち帰ってくるだろ、この店にはマスターの宝物が」

 あるんだから、と音々は言いかけたが、言葉を切った。店の壁に作り付けられている棚に詰め込まれている はずの化石が、半分以下に減っていた。盗まれたのかと真琴は動揺したが、その形跡はない。だとすれば、海老塚が 自ら持ち出したのだろう。あれほど大事にしていたのに、なぜ、どうして。持ち出された化石がなんだったのかと 思い出そうとするが、真琴にはどれもこれも石の固まりにしか見えなかったので、そもそも何の化石だったのかすら まともに覚えていなかった。

「きっと、マスターは自分のコレクションと共に化石の好事家同士の集まりに赴かれたのね」

 桐代が自分なりに考えた結論を出すと、繭香はそれを良しとしたようだった。

「そっか! もしかすると、今頃は発掘しているのかも!」

「んじゃ、それが終わったら帰ってくるんだな。じゃあ安心だ」

 だとするとマスターの化石談義が御茶請けになっちまうな、と言いつつ、音々は帰り支度を始めたので二人も 通学カバンを手にした。三人を見送ってから、真琴はコーヒーを淹れ直し、冷蔵庫で保存していた食パンに砂糖を 混ぜたバターを塗ってトースターで焼いた。二杯のコーヒーにシュガーバタートーストを添え、二階へと向かった。
 真琴の自室のドアを開けると、彼女はベッドに腰掛けて窓の外を眺めていた。その横顔は、やはり愛歌にどうしよう もなく似ている。だが、愛歌とは違う。髪の色は愛歌よりも濃いピンク色で、どちらかというと赤紫に近く、髪の長さ も腰近くまである。髪の渦巻き方はそっくりなので、愛歌の髪もパーマではなく生まれ付きの癖毛だったのだろう。 紺色と空色の中間のような色味のコートはやや光沢があり、布地とは思い難い滑らかさがあった。彼女は振り返り、 テーブルにコーヒーとトーストを並べる真琴を見やった。

「ねえ、まこちゃん」

 彼女はヤカンを受け止めたはずなのに火傷一つない手を伸ばし、結晶の如く透き通った瞳を煌めかせた。

「カナちゃんのところに行かなきゃ。でも、私だけじゃ何も出来ないの。だからお願い、力を貸して」

「――――俺は兄貴じゃない。何も出来ない」

「まこちゃんじゃなきゃ、ダメ」

 そう言って、彼女はするりと真琴に近付いてきた。両手を掴まれると、その体温はぞっとするほど冷たかった。氷、 いや、石だ。熱という熱を吸い取られた後の残骸、遺物、つまりそれは。真琴は怖気立ったが、彼女は真琴を柔らかく 抱き締めてきた。服越しであろうとも触れ合った部分から体温を奪い取られ、真琴は膝を折った。
 胃の中に収めたコーヒーも、氷塊の如く冷め切った。





 


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