横濱怪獣哀歌




怪獣使イ対怪獣使ワレ



 その怪獣の姿は、地上からでもはっきり見えた。
 なにしろ、巨大な円盤なのだから。西日を遮るために目の上に手を翳し、狭間は横浜上空にゆっくりと迫ってくる 空中庭園怪獣ブリガドーンを見上げていた。ヒツギに寄れば、ブリガドーンの直径は五〇〇メートル未満、中央に ある山に似た突起の高さは八〇メートル弱、飛行速度は雲よりも遅く、重力に逆らう力を常時放っているので急速 に落下する危険性はない。だが、万が一墜落すれば、ブリガドーンの膨大な質量が横浜駅とその地下のバベルの 塔の破片を完膚なきまでに破壊するばかりか、横浜駅とその近隣地域が壊滅する。ブリガドーンが墜落の衝撃で 反重力能力を暴走させてしまったら、横浜どころか神奈川県東部が抉られる。そうなってしまえば東京も大混乱し、 首都機能は衰える。最悪、御所の宮様にまで影響が及びかねない。

「無茶苦茶にも程があるだろうが、毎度毎度」

 狭間は不安を紛らわすためにタバコを吸ったが、さすがに今度ばかりは味が良く解らなかった。

「……ダメです。ブリガドーンは心を閉ざしています、何度語り掛けても応えてくれません」

 狭間の傍らに立つ枢は、脂汗の浮いた額を押さえた。

「聞き分けのない怪獣もいるのですね」

 麻里子はハンドバッグから白いハンカチを出すと、枢の顔を拭ってやった。枢はやや躊躇ったが、麻里子の厚意 を受け入れた。その様に驚いたのは狭間だけではなく、カムロも目をひん剥いて髪をうねらせ、一条御名斗は声を 裏返し、リーマオはこの世の終わりを目にしたような顔をし、寺崎は唖然としていた。
 風船怪獣退治を終えて横浜に戻ってきた一行は、休む間もなく横浜駅に直行したが、そこに待ち受けていたのは 未曽有の危機だった。人目に付かない場所にサバンナを停め、御名斗のバイクも停め、枢を遠くから見守っていた ヒツギも下りてきて合流した。そこで、狭間は風船怪獣の襲来を知らせてくれた声の主であるブリガドーンに改めて 声を掛けられ、横浜駅に墜落するまであまり猶予がない、と言われた。ブリガドーンは人間に多大な危害を加えて しまいかねない状況に早々に絶望しているらしく、二度と話してくれなかった。気持ちは解らないでもないのだが、 こんな時だからこそ話し合うべきではないのだろうか。

「あれを相手にするのが嫌だったら、帰ってもらって構いませんけど」

 狭間がブリガドーンを指すと、リーマオは身を乗り出してきた。

「ホンマか? せやったら、うちは抜けてええか? あんなん相手にしとったら、命がいくつあっても足らんもん!」

「御嬢様、その、俺も外れていいですかね? 須藤や御名斗とは違って、特に役に立てそうにないですし」

 寺崎が禿頭を押さえ、申し訳なさそうに眉を下げる。麻里子は二人の申し出を承諾した。

「よろしいですよ。その代わり、御二人は川崎のチンピラ共を片付けてきて下さいませんか」

「なんや、そんなんでええんか。せやったら寺崎はん、さっさと行こか」

 御無事なお帰りをお待ちしとりますー、と嫌みとも取れる言葉を投げかけてから、リーマオはさっさとサバンナ に乗り込んでいった。寺崎は何度も平謝りしながら、愛車の運転席に入ってエンジンを掛けた。

〈悪いな、人の子。寺崎がそう言うんなら仕方ない、俺は人間相手に暴れてくるぜ〉

 サバンナが少し申し訳なさそうに言うと、リーマオの怪獣義肢であるカーレンも憂う。

〈ごめんなさいねぇ、マオちゃんが。でも、この子も生きなきゃならないのよ。だから、許してね〉

〈許すも何も、怪獣共の無茶苦茶な申し出を無下に出来ない立場なのは俺だけなんだ。寺崎さんもリーマオさんも、 言っちまえばサバンナもカーレンも関係ないんだ。とりあえず、ここまで付き合ってくれたことに礼を言うよ〉

 狭間が怪獣電波で返すと、程なくしてサバンナは発進していった。寺崎とリーマオ、そしてサバンナとカーレン を見送ってから、狭間は吸い終えたタバコをコーヒーの空き缶に突っ込んだ。今、狭間達がいる地点は首都高速 横羽線の高架橋の下で、普段は多くの車が行き交っているのだが、今ばかりは静まり返っていた。頭上の高速道路 もしんとしていて、道路を挟んで建っているビルも同様だった。緊急避難警報が発令されたので、皆、警察の指示に 従って退避したからである。おかげで人払いする手間は省けたが、横浜駅に向かう道路は封鎖されていたので、 それを突破するのに一苦労だった。といっても、苦労したのは、公務に勤しむ警察官達に微弱な毒を含めた髪の毛 を打ち込んで昏倒させたカムロだけだが。死なせるのは簡単だが眠らせるのは面倒だ、としきりに愚痴を零して いたが、麻里子に宥められて渋々従ってくれた。

「よっちゃんまで行っちゃうなんて、付き合い悪ぅーい。それとも、あの女とデキてんのかな。御屋敷のみっちゃんと もデキてたけど、どっちも割り切っているならまあいいか。殺し合いになったら混ぜてもらおうっと」

 物騒なことを言い放つ御名斗に、ボニーとクライドは同調する。

〈ええ、それがいいわ。人間の殺し合いほど楽しい娯楽はないものね、ねえクライド?〉

〈そうだな、誰が勝とうが負けようが関係ない。最高にアガるのは殺し合いだ、なあボニー?〉

「ああそうかい、勝手にしろ。ヒツギ、ブリガドーンが下りてくるまでには、あとどれくらい時間が掛かる?」

 狭間はボニー&クライドをあしらってから、スカジャンのポケットに入れたものを確かめつつ、従属怪獣に問うた。 棺を担いだ中型怪獣、ヒツギはブリガドーンに塞がれた空の方角と横浜駅の距離を目測する。

〈ブリガドーンの落下速度が変わらないことが大前提となるが、彼が墜落するのはおよそ一時間半後だ〉

「なるほど。枢さん、ちょっとヒツギを借りてもいいか?」

 狭間がヒツギを示すと、枢は不思議がる。

「ヒツギさえよろしければ構いませんが、なぜ?」

「車で移動したら時間が掛かっちまうからだ。というわけだ、ヒツギ。ひとっ飛びしてくれないか」

 狭間はヒツギを手招くと、ヒツギは渋りつつも膝を折った。

〈枢様の御用命とあらば仕方あるまい。人の子、どこに飛びたい〉

「元町まで頼む。すぐに戻ってくるので、出来ればこの場で待機していてほしいんですが……無理ですよね」

 ヒツギの腕に抱えられた狭間は、退屈そうに怪銃を弄んでいる御名斗と縮めていた髪を解き放っている麻里子 に苦笑した。どちらも、目前の戦いに飛び込みたくてたまらないのだ。枢は二人の凶暴さに臆し、目線を不安げに 彷徨わせていたが、ヒツギに駆け寄ってきてその腕にしがみついた。

「わたくしも御一緒させて頂きますぅ!」

「ああ、それがいい。んじゃ、また後で」

 枢が飛びついてきた途端、ヒツギの両翼が力強く張り詰めた。狭間がその現金さに呆れてしまうと、ヒツギは若干 気まずげに目を逸らしたが、高架橋の下から出て羽ばたき、浮上する。高度を取りすぎては目立つので、なるべく 道路に沿って飛ぶように指示した。人目には付かなくなったが、急加速急減速急カーブの連続になってしまい、枢は せっかく収まった乗り物酔いがぶり返してきて、胃液も出ないのに吐き戻していた。狭間も何度か危うい場面が あったが、意地で喉を塞いで胃の中身を押し止め、目的地に辿り着くまではと踏ん張った。
 本番の前からこの体たらくでは、先が思いやられる。




 元町商店街の路地裏で、ヒツギは翼を閉じた。
 半死半生の枢をヒツギに任せてから、狭間はよろけながらも元町商店街に向かったが、こちらも緊急避難警報 の範囲だったので人影は綺麗さっぱりいなくなっていた。店先には今し方まで店員がいた痕跡があり、大衆食堂 には湯気が上る食べかけの定食が残されたままだった。電器屋の店頭のテレビには、落下しつつあるブリガドーン が映っている。生中継のカメラにリポートを続けているアナウンサーの声は強張り、しきりに避難を呼びかけていた。 この分では彼も避難しているかもしれないが、行くだけ行ってみなくては。
 佐々本モータースのシャッターは開いていた。そればかりか、小暮小次郎は平時と変わらぬ様子で車の部品を 整備していた。円形の研磨剤を高速回転させて金属を研磨する工具、バフを用いてマフラーを磨き上げている。 研磨剤が通り過ぎた後は鏡面の如き光沢を得て、息を詰めて作業する小次郎の顔も良く映った。少し見ないうち に一段と上達した整備の腕前は、彼が誠実に生きている証だ。一通り磨き終えてからバフの電源を切った小次郎 は、透明の安全ゴーグルを上げて呼吸を整え、そして――狭間に気付いた。

「よお、コジ」

 昨日も会ったかのように狭間が挨拶すると、小次郎はぐっと唇を噛み、感情を堪えてから言った。

「お久し振りです、まーさん」

 がしゃん、と事務所側から陶器の割れる音がした。狭間と小次郎が同時に振り返ると、小次郎に差し入れのお茶 を運んでこようとしていたのか、つぐみが盆を落としていた。彼女の足元には、砕けた茶碗と緑茶の池があった。 どうやら狭間は死んだものと思われていたらしく、つぐみは慌てふためきながら二階の自宅へと駆けていった。おかー さーん、あのひといきてたー、と失礼極まりない声も聞こえてきたので、小次郎は赤面した。

「すみません、せっかく訪ねてきてもらったのに、つぐみが失礼なことを」

「いや、いいさ。一度死にかけたんだ、あながち間違いでもない」

「死に掛けたって……一体何があったんです?」

「それについて話してやりたいのは山々だが、ちょっと時間がなくてな」

 狭間はスカジャンのポケットからカセットテープを出し、差し出した。

「しばらく、こいつを預かっていてくれ」

「それは構いませんけど、中身は何なんです?」

「最高にイカした曲だよ。代わりに、この前借りたテープを貸してくれないか」

「いいですけど」

「ところで、コジもつぐみちゃんもうららさんも避難しないのか? どでかい怪獣がそこまで来ているのに」

「どうせ、どこに逃げても同じですから」

 朗らかに述べたのは、娘に連れられて工場に下りてきた佐々木うららだった。

「お久し振りです、狭間さん。御元気そうで何よりです」

「ああ、どうも。ですけど、警察の指示には従った方が」

 狭間は親子を案じるが、うららは事務所の机に飾られた夫の写真を窺った。

「ええ、そうするべきなんですけどね。タカさんを一人にしてはいけないと思ってしまうと、どうしても」

「だけど、会社と心中する気はないですからね。ザッパーも軽トラもいるから、逃げようと思えばすぐに逃げられる んだから。その辺、勘違いしないでほしいです」

 つぐみはうららの前に立ちはだかり、胸を張る。その自信は不安の裏返しだ。

「そうか、だったら大丈夫だな」

 愚かな判断を肯定してやるのもまた愚かなのに、そう言わずにはいられなかった。狭間の思う正義を行使する時 は今であり、佐々木モータースを守らなくてはならないという義務感が青臭い正義を後押ししていた。ブリガドーンと 怪獣使いと魔法使いという難敵に立ち向かうのは恐ろしいし、正直言って逃げ出したかったが、逃げ出せない理由を 作るために佐々木親子と小次郎の決意を利用してしまった。それだけ、狭間が弱い人間だということだ。

「これでいいですか、まーさん」

 小次郎が渡してきたのは、以前、狭間に貸してくれたミックステープだった。

「ありがとう、必ず役に立ててみせる」

 狭間は小次郎特製のミックステープを受け取り、頷いた。

「狭間さんこそ、これからどこに向かわれるんです?」

 うららに心配そうに問われたが、狭間ははぐらかした。

「野暮用を片付けたら、また来ますよ。今度、俺のドリームも連れてきますんで、その時はよろしく」

 守らねばならないものをもう一つ増やしてから、狭間は駆けた。が、その途中で自動販売機の前で立ち止まり、 小銭を出してリンゴジュースを買っていった。路地裏に戻り、少し血の気が戻ってきた枢に飲ませてやると、枢は 狭間の手を取って感謝した。ヒツギはそれが面白くなさそうだったが、礼は述べてくれた。それから、再び商店街 に戻って電器屋に行き、代金を置いてからラジカセと電池を調達した。再生機器がなければ、カセットテープ は単なる黒くてきらきら光る紐に過ぎないからだ。
 ヒツギは横浜駅に戻るべく飛び立ったが、今度は先程より速度は緩めていた。そうでもしなければ、枢がまた 吐きに吐いてしまうからだ。これで、心残りが一つなくなった。後は真琴に会いたいところだが、さすがにそこ までは出来ない。ブリガドーンが近付くにつれて横浜駅周辺の重力が変動しているのか、車が浮き上がり、窓が 砕け、道路が隆起していた。横浜湾では、バンリュウが哀切に吼えていた。人間が逃げ切るためには、彼の放つ 電力が欠かせないが、あと一時間程度で全員逃がし切れるわけがない。臆病なバンリュウのこと、この場からは 逃げたくてどうしようもないだろう。だが、健気にも恐怖と戦っている。堪えている。他の怪獣達も、迫りくる 同胞をどうにかして正気に戻してやろう、追い返してやろうと懸命に叫んでいる。誰も彼も、最悪の事態を防ぐ ために尽力している。狭間は枢の冷え切った手を握ってやると、枢も握り返してくれた。
 今、出来ることをやらなければ。





 


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