横濱怪獣哀歌




空中庭園地獄



 それから、兄弟は空中庭園を歩いた。
 その間にも光の柱が立ち、何本も立ち、その度にいくつもの怪獣といくつもの都市と数え切れないほどの人間が 消されていき、地球の温度がほんの少しずつ下がっていった。北極の上空を覆っている冷気の雲は分厚く、 大きく、重苦しい。それが季節風に流されて広がれば、日本のみならず世界規模で寒波に襲われるだろう。と、 分析したのは真琴である。思い出してみれば、今年の夏は短かった。
 ブリガドーンを歩き回ってみると、あちこちに建物の痕跡が残っていた。崩れかけた石造りの城や、中国風の朱塗り の柱が目立つ屋敷、怪獣を資材に使ったはいいが怪獣が逃げ出したせいで土台しか残っていない城や、 古代遺跡といっても差支えのない外見の宮殿すらあった。ブリガドーンで暮らすことは、物理的に高みから下々を 見下ろすことが出来るばかりか、格の高い怪獣を従属させられるほどの能力があるのだと誇示出来るからだろう、 時の権力者達がこぞって引っ越してきていたようだった。だが、いずれも長続きはしなかったらしい。

「ちったぁ歴史に詳しかったら、物凄く面白かったんだろうが」

 狭間は古代遺跡さながらの石造りの宮殿を見上げつつ、爪楊枝を噛み締めた。古代ギリシャのパルテノン神殿に 似ているような気がしないでもない。

「かもしれない。下に戻ったら、歴史ももうちょっと本腰を入れて勉強してみるよ」

 真琴は横倒しになった石柱に腰掛け、この石はどこから切り出してきたんだろう、と考え込んでいる。

「あ、そいつは怪獣だな。いや……厳密には、怪獣の残骸かな」

 狭間も石柱に腰掛け、小突く。その刺激によって微妙な出力で怪獣電波が放たれ、淡い記憶を見せてくれた。

「ブリガドーンにこの神殿が建てられたのは神話時代よりもずっと後の時代で、バベルの塔も倒れた後で、人間の 文化も技術もまだまだ発展途上だった頃のものだそうな。前身はトロイの木馬だとかなんとか言っているが、それが 本当なのかどうかは俺には断言出来ん。神殿に形を変えられた時、複数の怪獣が混ぜ合わされて練り上げられたせいで 記憶も感覚もごっちゃになっている。昔の怪獣使いってのは、今よりもずっと過激なんだな」

「それで、どうする?」

 真琴は地球を一望してから、兄を窺う。

「どうって……どうしたもんかなぁ」

 狭間は石柱に寝そべると、前髪を掻き上げる。底なしの闇が広がる宇宙と、無数の星々。

「兄貴がブリガドーンから聞いた話が本当なら、遠からず氷川丸が突っ込んでくる」

「飛べればの話だ。氷川丸はかつて宇宙を行き交っていた宇宙船怪獣の生まれ変わりかもしれないが、今は古い 客船でしかない。余程のことがなければ、こっちには近付けない」

「氷川丸が来る前に脱出してしまえばいいんだけど」

「だなぁ。そうすれば、俺達はとりあえず地に足を付けられる。氷川丸は本懐を果たす。ブリガドーンはそれを 良しとするかどうかは解らんが、まあ、抗いはしないだろう。どうにもこうにも受け身なんだよ、こいつ」

 狭間が苦笑すると、ブリガドーンがかすかに揺れる。

〈私は庭だ。庭は人も怪獣も甘んじて受け入れるものだ〉

「愛歌さんはどうする?」

 ここに置いていくか、連れていくか、それとも。真琴は膝の間で手を組み、目を落とす。

「当人の意思を確かめるのが一番だが、まだ寝ているし、エレシュキガルの闇がくっついているから揺り起こそう にも触れないんだよなぁ。ライキリにやってもらうと、またぞろ物騒なことになりかねん」

 狭間は腰の刀に触れると、ライキリはがたがたと動いて嫌がった。

〈一度はまだしも二度はごめんだからな、エレシュキガルなんぞを相手にするのは!〉

「いっそのこと、全部の地球怪獣に脅しを掛けて宇宙怪獣戦艦を呼び出させて、火星にトンズラしちまうか?」

 これ以上足掻いても、誰も何も守れないのなら。冗談めかしてはいたが、狭間は至って本気だった。

「……俺が兄貴の代わりになれるのなら、そうしてくれと言いたいけど」

 生憎、俺は誰の代わりにもなれない。そう言って、真琴は割れた爪を見下ろした。

「その気持ちだけで充分だ、真琴」

 狭間は身を起こし、弟の頭を乱暴に撫でる。弟は指を握り、気まずげに顔を背ける。

「本気にするなよ、土台無理な話なんだから」

 そうだ、根本的に不可能なのだ。光の巨人がどれほど現れて熱を奪い取っていっても、火星は地球になれないし、 その逆もまた然りだ。火星と地球の位置を入れ替えたとしても、大きさが違うのだから、地球と同じように公転 することは出来ないだろう。周回軌道に乗れるかどうかも定かではない。今も尚神話時代に囚われている旧き神話 怪獣、エレシュキガルの空しい夢物語だ。怪獣も光の巨人も人間も、その夢の中にいる。
 忌まわしい悪夢だ。




 ――――にいさま、にいさま。
 いない。どこにもいない。にいさまはここにはいない。いないからいない、いないからいないけど、いないなら みつけなきゃ。さがして、みつけて、それからそれかそれから。どうするんだっけ。
 瞼を開けると、暗闇が晴れた。虚空に伸ばした手は何も掴めず、ぱたりと倒れた。光永愛歌、否、綾繁悲は天井 をぼんやりと見上げながら、きょうはどこでのりとをあげればよろしいのでしょうか、と口に出すために必要な気力 を呼び起こしていた。悲には怪獣使いの能力は不充分だったが、哀に頼むよりも諸経費が安く済むからか、頻繁に 政府の人間がやってきては仕事に駆り出した。怪獣使いでなくとも出来る仕事だが、魔法使いに頼むと手続きやら 何やらが厄介で、普通の技術者を使うと死人が出かねない、そんな仕事を寄越された。
 特に多かったのが、帝国海軍の雑用だ。だから、悲は戦艦にまで乗せられて最前線に放り出された。狭くて暗い 船室、金気臭い水、生臭い食事、海兵達の猛烈な臭気、転覆しかねないほどの大波、便所はただのバケツ、派手な 着物はどんどん垢じみていくのに洗濯すらさせてもらえない、そもそも洗濯をしてくれる侍女がいない。辛すぎて 声を殺して泣いていると、海兵がこっそりと飴玉を寄越してくれる。海水の湿り気で飴が泣いていて、包み紙に 貼り付いていたけど、その甘さに何度救われただろう。ひどい船酔いで何度となく吐き戻して着物も何もかもが 汚れているのに、それを厭わずに悲を優しく抱き締めてくれたシュヴェルト・ヴォルケンシュタイン魔術少尉の 温もりに、何度慰められただろう。けれど。

「あの人は」

 ――――にいさまは、うらぎりものなのですか。

「たぶん、そう」

 ――――にいさまは、なぜごこくかいじゅうをあやつるのりとをぞんじておられたのですか。

「でも、信じたくなかったの」

 ――――にいさまは、ちみゃくかいじゅうをあやつってやまおくのむらをつぶしたのですか。

「それが羽生さんの故郷の村だって、知っていたくせに」

 ――――にいさまは、まほうつかいのちいをたかめるためにわたしをおとしいれたいのですか。

「そうでもなきゃ、私みたいな出来損ないに近付くもんですか」

 ――――にいさまは、わたしをおきらいだったのですか。

「それだけは嘘じゃないと信じたいけど、でも、もう解らないことよ」

 ――――にいさまは、だれのみかただったのですか。

「家族の味方だったのよ、あの人は。だから、魔法使いの地位を脅かす私達を陥れようとした」

 ――――にいさまは、なにをおのぞみだったのですか。

「強くなりたかったんだわ、誰よりも。私に優しくしてくれたのも、本心を隠し通したのも、強く在ろうとしたから なのよ。実際、強かったわ。にいさまは」

 ――――にいさまは、ほんもうでしたか。

「……そうね。私のところに来てくれないってことは、クル・ヌ・ギアじゃなくてちゃんとあの世に行ったってことだもの。 護国怪獣を操って本土への空爆を防いだんだもの、にいさまは誰よりも強くなれた。何万人も、何十万人も守れた。 あの瞬間のにいさまは、魔法使いも怪獣使いも超えていた。だから、紛い物で出来損ないの私なんかじゃなくて、 本当のエレシュキガルがにいさまを見初めてくれたのよ。きっと、そういうことなのよ」

 ――――かなしは、ほんもうでしたか。

「……そうね。そう思わなきゃ、気が狂いそう」

 悲は冷え切った手で顔を覆うと、唇を歪めた。死んでも生きたかった、死ねない理由があるから生きようとした。 怪獣使いにはなれなかったから、怪獣になった。エレシュキガルに近付いて、姉を超えて、血族達も超えた存在に なったのだと思わなければやっていられなかった。誰かの命を奪わなければ長らえられない自分が疎ましかったが、 自殺なんて出来なかった。綾繁家から捨てられて魔法使いに拾われ、光永という名を与えられ、人間らしい生活を 少しだけ送らせてもらえたのは嬉しかった。嬉しかったが、その喜びの対価は大きすぎた。
 怪獣と通じ合える青年とシャンブロウを引き合わせよ、と哀に命じたのは魔法使いだ。海老塚甲治ではなく、その 主人の複製品である老紳士だ。悲がにいさまに心酔したように、哀も老紳士に心酔していた。いや、心酔しなければ 心の平穏を保てなかった。シビックの動力怪獣に意識を飛ばしていたのは、肉体が当の昔に限界を超えていたせいに 違いない。悲であれば哀を救うことが出来たかもしれないが、哀は滅びた。やっと、死ねた。

「私は、ねえさまのところには行けるのかな」

 悲は身を起こすと、崩れた下半身がずるりと畳に擦れた。腰骨から下がごっそりと消えているので、本当なら内臓 が零れ出してもおかしくないのだが、漏れているのは闇だけだ。今となっては、それをまとめて外見を取り繕う気力 すらない。食事をした痕跡がある囲炉裏の間を横目に、這いずって縁側まで移動し、庭を眺めた。
 荒れた庭の先には、地球があった。





 


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