横濱怪獣哀歌




マリネリス番外地



 荒涼とした大地。ぼやけた空。
 ざらりとした風は、とても懐かしい匂いがする。背中に触れる地面の冷たさは、昔からちっとも変わっていない。 重力は地球の三分の一程度しかないから、体がいやに軽い。メタンを多量に含んだ空気は酸素量が少ないが、地球の 大気は逆に酸素量が多すぎたので、順応するまでは酸素酔いに悩まされていたほどだ。望遠鏡で観測した際には赤く 見えている地表も、間近で見ると地球のそれとなんら変わりのない灰色の岩石に覆い尽くされている。
 どこかで旋風が吹き荒れているのか、地面がかすかに震えている。風向きが変わり、舞い上がった砂利の粒が肌を 擦っていく。その浅い痛みが淡い意識を呼び起こさせ、目を開かせた。無意識に触手を地中に突き刺して水分を摂取 していたらしく、飢えも乾きも感じていない。体だけは。

「ン……」

 地球人が火星と呼ぶ星に帰ってきた。帰ってきてしまった。

「ああ、ああ、あああああっ」

 人間の耳では聞き取れない音域でしか発音出来ない、古代怪獣言語を発し、ツブラは―――否、イナンナは顔を 覆って小さな体を縮めた。帰ってくるつもりなどなかったのに。帰ってきてはいけなかったのに。

「わたしは、あやまちをおかしたのだ」

 よろめきながら立ち上がったイナンナは、無数の赤い触手の隙間から砂と石の粒を落とすと、素足で硬い大地を 踏み締める。肉体は成長することを拒絶していたくせに、精神はそうはいかなかった。休眠状態である卵の姿から 覚醒した後、自分が何者なのか、なぜ地球にいるのか、どうして彼と巡り合わなければならなかったのか、すぐに 思い出した。それなのに。

「まひと」

 人の子である彼を、地球怪獣を統べる王たる力の主を、自分のものにしたいと願ってしまった。

「ごめんなさい」

 その報いが、今、我が身に及んでいる。眼下に望むのは、火星の赤道に沿って伸びている、恐ろしく巨大な峡谷 だった。人間達は、この地にマリネリス峡谷という名を授けていた。その深い谷から、光の巨人が産まれては消え、 消えては生まれ、そしてまた生まれている。光の巨人の子宮とも言える古代遺跡からぬるりと現れると、頼りない 足取りで歩み出し、全長四〇〇〇キロもの峡谷を端から端まで歩いていく。その最中に、彼らは瞬き、姿を消した かと思いきや再び現れ、また消える。その拍子に、地球から奪い取った熱や怪獣や都市や人間を無造作に放り出す。 故に、マリネリス峡谷の底は地球の産物で埋め尽くされていた。

「ねえさま」

 しゅるりと影が束ねられ、闇が凝固し、女の姿を作る。

「エレシュキガル!」

 イナンナが目を上げると、妹は死をもたらす瞳を姉に据えてくる。

「姉様、姉様はなぜ己を偽るの」

 イナンナと同じ外見ではあるが、褐色の肌と緑色の瞳を備えたエレシュキガルは、冷たい手で姉に触れる。

「地球で私の分身と会った時、自分がイナンナではないと仰った。それはなぜ」

「ちきゅうでのわたしは、しんわになをのこすふるいかいじゅうでしかない」

「それだけではないでしょう、姉様」

 恐ろしく冷たい手が、イナンナの肩に食い込む。爪が皮を破り、指が肉を抉る。

「神話時代、金星の神話怪獣たる姉様が、地球を訪れたのはなぜ?」

 緑色の瞳が見開かれ、イナンナの赤い瞳に迫ってくる。

「懐かしきバビロニアとバベルの塔の均衡を崩したのは、他でもない姉様。私は私一人であるならば、穏やかに神と しての務めを果たせる。けれど、姉様が現れると、私は嫉妬と憎悪と嫌悪で気が狂いそうになる。姉様さえ、あの地に 足を踏み入れなければ、私はバビロニアの神でいられた。ともすれば、怪獣聖母ティアマトに代わる、次世代の神に なれた。それなのに」

 ぐびゅ、とエレシュキガルの指がイナンナの肩に没し、骨を砕く。あまりの激痛に、イナンナは声も出せずに触手 を痙攣させた。際限なく溢れる体液を大地に染み込ませながら、エレシュキガルは姉の幼い体を触手で戒める。

「エリドゥの都で、人の世で初めて王となった男も姉様を崇めていた。ウルク、キシュ、アッカド、ニネヴェ、アルベラ、 そしてバビロン。どれもこれも、私が欲しかった都。それなのに、姉様は何もかも横取りしてしまう」

 ぐぎぃ、と肩の関節を根元から折り曲げ、めきりと腕を外した。

「ぎぇああああっ!」

 苦痛に耐えかねたイナンナが吼えると、エレシュキガルは今し方まで姉の体に付いていたものを触手で絡め取り、 ごきごきと全ての骨を粉々に砕いて肉塊に変え、地球から奪った物資が詰まった峡谷に投げ捨てる。

「人の子でさえも、私から奪おうというの?」

「まひとは、だれのものでもない」

 力なく崩れ落ちたイナンナは、右腕の根元から体液を止めどなく流しながらも言い返す。

「けれど、姉様は人の子を自分のものにしようとした。しようとしている」

 エレシュキガルはイナンナに顔を寄せ、触手で細い首を絞め付ける。

「姉様、姉様は神話怪獣でしかないの。私と同じように、あの光の巨人達と同じように、時代に順応出来なかったが 故に無様に足掻いている、惨めで古くてつまらない生き物だということを忘れてはダメ。そんなモノが、バベルの塔を 呼び覚ますソロモン王の耳を塞いでもいいというの?」 

 恐ろしい怪力で首を絞られているため、喉が開けず、呼吸も出来ず、イナンナは口の端から触手を零す。

「私は私のバベルの塔を建てるの、私の星に。けれど、この星は黄金時代の終焉と共に滅びてしまった。火星怪獣は いくらかいるけど、彼らは何の役にも立たない。だから、私は私の都を作り、私を崇める王を招き、私が慈しむ民を 得て、私の星を作り上げるの。今度こそ。けれど、また姉様に邪魔をされてしまった。どうして? 姉様は姉様だから というだけで私の幸福を妨げるの? それなのに、姉様は自分の幸福を求めるの? どうして?」

 ごぎ、と首の骨がずらされる。その際に神経が千切られたのか、手足の自由が利かなくなる。

「けれど、私は姉様とは違うから、姉様を許してあげる。姉様がソロモン王を諦めてくれるなら、二度と目覚めず に眠りについてくれるなら、金星に帰ってひっそりと余生を過ごしてくれるなら、卵に姿を変えて宇宙の果てへと 長い長い旅をしてくれるのなら。けれど、そのどれも嫌だというのなら」

 エレシュキガルの下半身を成している闇が広がり、周囲の熱を奪い、冷たい暗黒の世界への入り口となる。

「クル・ヌ・ギアで大人しくしていてくれるかしら」

 そんなもの、全て聞き入れられるわけがない。イナンナは渾身の力で触手に意志を伝え、体力と体液を注ぐと、 波打たせた。エレシュキガルはすぐさま触手を放ってイナンナの触手を阻むが、その隙にイナンナは折られた頸椎 と千切れた神経を再生させ、束ねた触手でエレシュキガルの胸を突き、その手中から脱した。エレシュキガルは 追いかけてくるかと思いきや、静観していた。火星の地表であれば、どこに逃げたとしてもすぐに追いつけるから だろう。その余裕が腹立たしかったが、汚い言葉を吐ける余力などなかった。
 根元だけ残った右腕を触手で塞ぎ、触手で火星の大地を駆け抜けながら、イナンナは泣いていた。右腕がない、 狭間と何度も手を繋いだ手だったのに。体力さえ戻れば再生出来るが、それは狭間と繋いでいた手でもなく、彼と 指を絡め合った手でもなく、ただの肉の固まりだ。それがどうしようもなく悔しくて、悲しくて、幼子そのものの 振舞いで泣き喚いた。けれど、その声が彼に届くはずもない。
 届かないのに、求めてしまう。




 視界が上下に揺れている。
 この感覚は、体が覚えている。そう、あれは目覚めて間もない頃のことだった。足腰が覚束なかったので、狭間が 背負ってくれたのだ。彼の背中の広さと暖かさと、スカジャンの刺繍の感触は今も忘れられない。だが、どこの誰が イナンナを捉えたのだろうか。エレシュキガルであれば、もっと荒っぽい方法を取るだろうに。右腕の根元に違和感を 覚えたので目をやると、布のように平べったく伸ばされた怪獣の皮が巻き付けられていた。

「目が覚めたか。だが、あまり動いてはならんぞ」

 そう言って、イナンナを背負っているモノが振り返る。赤い肉塊から触手が生えた、異形の生物。地球人は火星人と いう名が付けていた存在だった。だが、その正体は、火星の環境に適応するために人間に癒着して共存関係を 持った怪獣であり、要は着ぐるみの外側というべき怪獣だ。トライポッドに乗って地球にやってきた火星人達は、 黄金時代に火星に移住した地球人の末裔だ。しかし、その火星人達は、地球侵略計画が頓挫してからというもの、 エレシュキガルと光の巨人を怖れて極冠付近の集落で大人しくしているはずなのだが。だとすれば、この怪獣の 中身はどこの誰なのだろうか。

「この鳳凰仮面が来たからには、もう大丈夫だ! とでも言っておけば、気を許してくれるかな」

 タコのような八本足をうねらせた火星人は、躊躇いがちにイナンナを窺ってきた。

「ホウオウカメン!?」

 すぐさま地球人の耳に届く発音で言葉を発し、イナンナは身を乗り出しかけたが、傷が痛んで呻いた。

「だから、無理をするんじゃない。怪獣だって不死身じゃないんだ、片腕をもがれて平気なわけがあるか」

 八本足のうちの二本を使ってイナンナを背負い、四本で地面を這いずって進み、残りの二本で一抱えもある鉱石 を担いでいた。イナンナは触手を伸ばしてそれに触れ、その意図を悟った。輝水鉛鉱、すなわち怪獣達の燃料だ。 恐らく、鳳凰仮面は怪獣のスーツを生かすために不可欠な輝水鉛鉱を含む鉱石を拾いに来た道中に、イナンナを 発見してくれたのだろう。ならば、彼の住処は徒歩圏内にあるのだろうか。だとしても、光の巨人を通じて火星に 飛ばされてから、彼一人で生き抜いてきたのだろうか。いや、それは有り得ない。いかに鳳凰仮面がタフな男で あろうとも、火星で生き抜くための手段は知らないはずだ。――――だとすれば。
 鳳凰仮面の肩というか足越しに見える景色に目を凝らし、網膜に映るものだけではなく、地表の温度を目視した。 分厚く積もった砂と石の下に、ほのかに熱の高いモノが横たわっている。いや、その表現は妥当ではない。地中に 身を潜めている何者かは、地球の上空を巡っていた空中庭園怪獣ブリガドーンより遥かに大きく、直径は五〇キロ を超えている。厚さも相当なもので、薄い部分でも一〇メートルはありそうだ。

〈久しいね、イナンナ〉

 怪獣電波を用いて話し掛けられ、イナンナは確信した。

「アナタ、アトランティス!」

〈なんだね、その人間の真似事の喋り方は。……ああ、野々村が一緒だからか。そうとも、私はかのアトラスの島、 大陸怪獣アトランティス。の、ほんの一部だ。神話時代の終焉に伴い、光の巨人を通じて火星に逃れたのだが、質量 が大きすぎたので空間を超越する際に体が千切れてしまってね。ノア、ムー、レムリア、パシフィス、メガラニカ、 と私と同じように転移したのだが、皆、散り散りになってしまったのさ。太陽系の外に出た様子はないから、金星か 木星の衛星か土星の輪か、それとも小惑星帯か、或いは太陽の黒点と成り果てたか……。まあ、どいつもこいつも 頑丈だから、元気にやっているだろうさ。この私のように〉

「ジャア、アトランティス、ニンゲン、マモッテ、イル?」 

〈守るというか、共存しているのさ。私は大陸であり大地であるが、耕してもらわなければ土は肥えず、肥えた土 に種を撒いてもらわなければ腐ってしまう。水もまた上から下へと流さなければ、濁り、淀み、腐ってしまう。故に、 私は人間がなければ成り立てない怪獣なのさ。細切れになった私の体は火星のあちこちに埋まっていて、光の巨人を 通じて飛ばされてきた人間達を見つけては共存怪獣サンダーチャイルド――トライポッドを撃退した戦艦の名を拝借 させてもらったんだが――をくっつけて生存させ、私の中に収めて暮らさせている、というわけさ〉

 目前の地面が盛り上がり、アトランティスへの入り口が現われた。分厚い筋肉で出来た管の先端は窄まっていたが、 口が開いたので、鳳凰仮面は足を進めた。すぐさま管の口は閉じ、再び地中に没した。中は真っ暗かと思いきや、 内壁が淡く発光しているので見通しが効いた。管の内側は凹凸があり、人間の足ならば何度となく躓いてしまう だろうが、火星人に相応しい八本足はつま先がない上に骨もないので、凹凸に引っ掛かっても形に合わせて変形 するので転ぶ心配はなかった。しばらく歩いていくと、視界が開けた。

「そうら、ここまで来たらもう大丈夫だぞ」

 そう言って、鳳凰仮面はイナンナを背中から降ろした。そこにあったのは、居住臓器というにはあまりにも広大な 世界だった。空、海、農地、そして街が揃っている。新鮮で爽やかな風が吹き付けてきたが、地球のそれと相違ない、 酸素が濃く甘い空気だった。イナンナが見入っていると、鳳凰仮面の後頭部が――いや、共存怪獣サンダーチャイルド の後頭部がぱっくりと割れた。そこから現れたのは、素顔の鳳凰仮面、野々村不二三だった。火星怪獣の皮をなめした 服を着ていて、屈強で骨太な体にぴったりと貼り付いている。

「相棒、お前は一人でうちに帰ってこられるな? 鉱石も工場に運べるな?」

 野々村はサンダーチャイルドの頭を軽く叩くと、タコに似た火星怪獣は従順に頷いた。 

〈おしごと、できるよ!〉

「だったらよし、ちゃんと仕事をしてくるんだぞ」

 火星怪獣は手を振るように足の一本を振ってから、足を波打たせて緩やかな坂道を降りていった。一本道の先に ある市街地では、火星怪獣と人間が日常を謳歌している。どうやら、人間達はアトランティスの外に出る時にだけ サンダーチャイルドを身に着け、そうでない時は互いを補い合いながら暮らしているようだ。地球で目にしてきた 光景となんら変わらない。牧場には、地球で養育されていた家畜が放牧されていて、畑にはやはり地球の作物が 植えられているが、家畜と作物の世話をしているのはサンダーチャイルド達だった。八本足を巧みに使い、牛や豚 の住まう小屋を手入れし、雑草を毟っている。人間達もまた、彼らと同じ仕事をしていた。

「アノコタチ、シゴト、イヤ、イワナイ?」

 少なくとも、イナンナの知るサンダーチャイルドはあれほど大人しくはない。火星人達は、黄金時代の魔法や 神話時代の技術を駆使して、やっとのことで手懐けていたのだが。

「仕事に慣れない奴は混乱してちょっと暴れたりもするが、水さえたんまり与えておけば文句は言わないんだよ。 この星は、地球よりも水の価値が遥かに高いからな。俺もそれを嫌というほど味わわされた。火星に飛ばされて すぐの時は、そりゃあ大変な目に遭った。箱根で光の天使に襲われた時、俺は死んだと思っていたから、火星に 放り出されているってことに気付くのが遅れたんだ。自分がマリネリス峡谷に散らばる瓦礫の中にいるんだと 悟ったのは、目が覚めてから二三時間経ってからだったか。だが、あの広さだ、遺跡から次々に湧いてくる光の 巨人から逃げようったってそう上手くいくものじゃない。何度か光の巨人の中を通り抜けて、峡谷のあちこちに 飛ばされて、もうダメだと思った時に峡谷の上に出られたんだ。そこで、俺はあいつと出会った」

 そう言って、野々村は相棒であるサンダーチャイルドを示した。

「俺は狭間君じゃないから、あいつが何を言っているのかは解らなかったが、背中を開いて中に入れと言ってきた のは理解出来た。怪獣の中に入るだなんてとんでもない、と思ったが、どうせ死ぬならやるだけやってから死のう と思い直して、あいつの背中の穴に飛び込んだ。それからしばらくして連れてこられたのが、ここだった。怪獣の 腹の中だというのは今でも信じ難いが、暮らしてみると居心地は悪くない。知り合いもいるしな」

 だが、野々村は地球への里心を振り切れてはいないのか、その横顔は切なげだった。確かに、怪獣は熱量の高さ に応じて膨大な水を消費する生き物なので、水を惜しみなく与えられれば素直に従うようになるだろう。しかし、 火星の水脈を探し出すのは一苦労などというものではない。遠い昔には氷河や運河があったが、今となっては 枯れ果ててしまっている。アトランティスが地球から持ってきた水もあるだろうが、それにも限りがある。だと すれば、とイナンナは感覚を張り巡らし、感じ取った。大陸怪獣の下で蠢く、怪獣の気配を。

「ムラクモ!」

「ああ、そうだ。よく解るなぁ、さすがは怪獣だな。俺が火星に来る前に飛ばされてきた、水脈怪獣ムラクモが地下 水脈を見つけ出して掘り返してくれるから、水は余るほど手に入るんだよ。といっても、貴重品には変わりはない から、取水制限はあるがな。とりあえず、うちに行こう。おいで、ツブラちゃん」

 野々村は腰を曲げてイナンナと目線を合わせ、手を伸ばしてきた。少し躊躇ったが、イナンナは左手を上げて 彼の手を掴んだ。その手は狭間よりも骨が太く、肌が厚く、大きかった。狭間に対して気が咎めかけたが、今は それどころではないのだと思い直し、イナンナは正義の味方の厚意を受けることにした。
 彼の家は、街外れの一軒家だった。





 


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