横濱怪獣哀歌




禍ツ玉、穿ツ魂



 儀礼用の剣。
 それは、イナンナがクル・ヌ・ギアに向かう際に剥ぎ取られた七つの装飾品のどれでもなく、カドゥケウスの杖でも なく、イナンナが産まれながらにして手にしている武器、シタとミトゥムでもない。そう、これはメーだ。神たる怪獣 が人間と通じるために作り出した、マガタマを変形させた物体だ。それが剣の形を取ったのは、狭間の意識の深層を 形骸化したからだろう。だが、それが王の印だとは思ったりはしない。ただの男の剣だ。
 ウハウハザブーンの上に直立した狭間は、己のメーを握り締める。短い鞘はズボンのポケットに突っ込み、海水を 含んで額に貼り付いた髪を払い、ツブラのマガタマから作り上げられた剣に意識を向ける。痺れるほど激しい怪獣 電波が返ってきて、狭間は一発で目が覚めた。一陣の風が吹き付け、重たく湿った服を凍り付かせる。
 横浜駅の成れの果てが、桜木町の上空に浮かんでいた。その近辺に怪獣がいたようだが、その気配は既になく、 それがどんな怪獣なのかは感じ取り切れなかった。だが、悲の気配はすぐに感じ取れる。怪獣とは全く別の方向 性の怪獣電波が、常に発せられているからである。悲の感覚を通じて、真琴と羽生と鮫淵の無事も確認する。皆、 エ・テメン・アン・キからは離れている。周囲に人間の気配――というか、怪獣が人間の体温を感知しているという 様子はない。だったら、いくらでもやりたいことが出来る。下水道に潜っていた時から、神経をざわつかせていた ものの正体を見極め、手を下すのだ。

〈おい、人の子! 無茶苦茶にも程があるぞ! エ・テメン・アン・キなんざ操ったら、脳が吹っ飛ぶぞ!〉

 ウハウハザブーンは忠告してくれたが、狭間はぎこちない笑みを返しただけだった。

〈大丈夫だ、俺は死なない〉

〈天の子の加護があるとかなんとか言い出すんじゃねぇぞ!?〉

〈そんなもんはない。だが、俺に死ぬつもりはない。お前らも、俺を死なせる気はないんだろ?〉

〈あぁ!? あ、……ああ、そりゃあな〉

〈だったら、俺を死なせないように努力しやがれ。でもって、俺に応えやがれ。お前らが求めて止まない王の名を、 今、この時だけ名乗ってやる! ティアマトにケンカを買わせるんだ、高値で売らなきゃ意味がねぇ!〉

 狭間はウハウハザブーンの背に刃のない剣を突き立てると、彼の熱と怪獣電波を吸収し、増幅させ、狭間の脳を 通じて周辺地域に存在する怪獣に発信した。その中で、反応が乏しいものがあった。桜木町と元町を含めた一帯を 取り囲むように、地中や下水道に配置されている怪獣だ。体積が小さいわりに熱量が恐ろしく高く、その上、怪獣 の傍には人間が控えている。その人間達は揃いも揃って怪獣鉱石を用いた武器を手にしていて、熱量の高いもの を携えていた。自動小銃だ。察するに、小さくとも熱量の高い怪獣達の正体は、魔法使いの海老塚甲治が愛して 止まない化石怪獣達だ。だが、彼がいない今、彼が仕掛けた魔法は作動させられない。だから、化石怪獣を狙撃 して力任せに目覚めさせ、魔法を発動させようというのだ。だが、どんな魔法を。
 高熱を発した怪獣が誘き寄せてしまうものはただ一つ、光の巨人だ。ということは、化石怪獣が囲んだ地域一体 を光の巨人に襲わせ、消し飛ばそうというのだろうか。怪獣使いを打倒するための作戦だとしても、いくらなんでも 無茶苦茶だ。光の巨人が相殺されずに都心へと移動すれば、被害者の総数は一千や二千では済まない。
 と、その時、狭間と通じていた怪獣の一体が震えた。頭蓋骨が穿たれたような衝撃が訪れ、よろめき、狭間は 察した。誰かが化石怪獣を狙撃したのだ。途端に、桜木町の一角から赤い光の柱が上がり、曇り空を突き破るかの 如く伸びていった。程なくして空が光り輝き、誘蛾灯に誘われる羽虫のように、三対の翼と光輪を背負った光の巨人 が現れた。身の丈は、超大型怪獣と同等かそれ以上だ。赤い光線に導かれるままに地上に向かい、赤い光線を掴む べく手を伸ばしていき――――光ごと、地上を抉った。化石怪獣の反応が、一つ、消え失せた。

〈人の子、化石怪獣共の総数は九十六だ。いや、今は九十五だ。真円に近い九十六角形を描いて、桜木町と元町 を取り囲んでいる。海の中にも反応がある。どいつもこいつも、魔法使いの魔法に掛かっていやがる。そのせいで、 俺達がどれほど呼びかけようとも反応がない。いくら人の子でも、その数を全部捌けるわけが〉

 狭間が突き刺したメーを捩じると、うぁっ、とウハウハザブーンは呻いた。

〈だから、お前らの力を借りるんじゃないか。王の命令だ、逆らうなよ!〉

 狭間は息を詰め、きつく目を閉じる。自分の頭の中に出来上がっていた、怪獣との交信に用いる思考パターンを 拡張し、変換し、怪獣達の通信網に重ならせて同じ形に整える。膨大な情報を処理するための怪獣、怪獣同士の 繋がりを保つために怪獣電波を仲介する怪獣、個体同士で微妙に異なる怪獣電波の出力を安定させる怪獣、他の 怪獣が捉えた映像を送信する怪獣、などと区分けしていく。もちろん、全ての怪獣も従順だったわけではないが、 ウハウハザブーンを通じてエ・テメン・アン・キと交信し、エ・テメン・アン・キの怪獣電波を利用して押さえ付けた。 その甲斐あって、九十五もの化石怪獣の意識を全て絡め取り、狭間の支配下に置いた。

〈……あったまいてぇ〉

 狭間が高熱と疲労で膨れ上がった脳を押さえるかのように額を押さえると、ウハウハザブーンががたついた。

〈だから言わんこっちゃねぇ! これ以上やらかせば、脳の血管が何本かダメになる! そうなったら人の子の力は なくなっちまうばかりか、二度と目が覚めなくなっちまう! だから、これから先は俺達に任せろ! 強硬派に!〉

〈ウハウハザブーン、お前、強硬派だったのか?〉

〈逆に聞くが、俺が穏健派に見えるか?〉

〈そりゃそうだ。そういえば、強硬派は神話怪獣にケンカを売りたがっていたが、その理由はこれか?〉

〈そうとも! 俺達強硬派はこの星を熱し、怪獣を滾らせ、死のない生に痛みという刺激を与える者よ! 人の子は 俺達を引っ掻き回してくれる、だから俺達も引っ掻き回そうじゃないか! 神話なんてクソ喰らえだ!〉

〈よく言うぜ〉

〈怪獣聖母とエ・テメン・アン・キのイカレっぷりを目の当たりにしちまったからな、そう思わずにはいられなくなるんだ。 怪獣にしても人間にしても何にしても、暇を持て余し過ぎるとろくなことを考えやしねぇ〉

〈もっともだ〉

〈いいか、人の子。意識だけをこっちに寄越せ、自分の頭で考えようとするな。俺達の脳で考えるんだ〉

 無茶な注文をしやがる、と狭間は毒突きかけたが、その通りにした。普段であれば意識だけ体から離すのは至難の 業だが、今し方死に掛けていたのと体が弱り切っているのと、ツブラに引っ張られていたおかげで、先程の感覚は すぐに思い出せた。メーを通じて意識を怪獣達に重ね、彼らの脳を間借りし、彼らを熱させ、魔法に戒められた 化石怪獣達を揺さぶり起こす。化石怪獣達が破裂しそうなほど溜め込んだ熱量を噴き出させ、地中に染み込ませ、 熱量を下げていく。その影響で、桜木町のそこかしこから間欠泉の如き蒸気が爆発し、白煙が漂った。だが、それが 狙いだ。光の巨人が熱を感知して出現するまでには、ほんの少しだが間がある。感知出来ないほど短く、瞬間的に 熱量を吐き出してしまえば、化石怪獣も鎮まり、魔法も成立させずに済む。
 一つ、二つ、三つ、十、二十、四十、八十、そして九十五。化石怪獣の数だけ爆発が発生し、その数だけ道路と 下水道に大穴が開いたが、出現した光の巨人はあの一体だけだった。化石怪獣は粉微塵に吹き飛んだものもあれば 半端に砕けたものと様々だったが、いずれも魔法からは解き放たれていた。彼らの文句が脳に突き刺さる前に意識を 引き戻すと、狭間はメーを引き抜いて鞘に納めた後、ウハウハザブーンの背に倒れた。それから、余力を振り絞って 化石怪獣達から生じた熱を束ねさせ、エ・テメン・アン・キに向かわせた。細長い赤い糸が空を駆け抜け、横浜駅 の残骸に突き刺さると、エ・テメン・アン・キはびくりと脈打ち、当人の意思とは関係なしに得た熱によって急激 に成長し始めた。この調子で行けば、半月足らずで全長三〇〇メートルに成長するだろう。
 自分は何者にもなれない。だが、彼女の伴侶にはなりたい。




 その後、狭間はウハウハザブーンと共に横浜湾の一角に流れ着いた。
 狭間を見つけてくれたのは悲だったが、助け出してくれたのは悲が連れてきてくれた羽生と鮫淵だった。それから のことはあまり覚えていないが、手近な民家に運び込まれ、手当をされた。狭間の隣には真琴が転がされていて、 弟もまた死にそうになっていた。高熱に苛まれ、頭が割れそうなほど激しく痛み、喉も腫れ上がり、関節が強張り、 まともに動けなかった。真琴は一晩寝たら起き上がれるようになったが、狭間は起き上がれるようになるまで三日 は掛かった。その間、狭間の身の回りの世話をしてくれた二人の科学者には頭が上がらない。
 五日目の朝、狭間はようやく自力で歩けるようになった。声はまだ掠れているが、出せないこともないので、これで まともに意思の疎通が出来る。熱は下がり切ったが体力が戻っていないので、足に上手く力が入らないが、自力で 用を足せるのがこんなにも素晴らしいことなのかと痛切に実感した。

「うわ、ひでぇ」

 狭間が洗面所の鏡を覗き込むと、ひどく顔色の悪い男が見返してきた。無精ヒゲがだらしなさに拍車を掛けて いて、垢じみた寝間着が汚らしい。備え付けの石鹸を泡立てて顎に擦り付けてから、鏡の前に置かれていた刃物を 拝借して肌に当てたところで、気付いた。

「お前、ヒゴノカミか?」

 石鹸の泡が付いた薄い刃に赤い目が現れ、煩わしげに瞬いた。狭間は小さく嘆息し、泡を拭ってやる。

「まあいい、大人しく俺のヒゲを剃れ。御託は後で聞いてやる」

 ヒゴノカミが抵抗したような気もしたが、それに構わずにじゃりじょりと無精ヒゲを剃り落としていった。それほど 濃く生える方ではないのだが、五日も手付かずだとそれなりの長さに伸びていたので、洗面台には石鹸まみれの毛が 散らばった。一通り剃り終えてから、ついでに顔も洗って口も漱いだ。そこまですると、今度は髪のべたつきも気に なってしまったので、給湯器が動くことを確かめてから体も洗い流し、洗濯済みの自前の服も着替えた。
 寝間着以外の服に袖を通すのは久し振りだった。こうも寒くては、部屋の中でもスカジャンを着ていなければ風邪が ぶり返してしまう。居間に行くと、まだ少し疲れた顔をしている弟が本を読んでいた。野毛山の市立図書館 から持ち出してきたらしく、背表紙には分類番号がある。ジャージの上下にドテラという受験生スタイルだった。

「兄貴、起きて大丈夫か?」

 真琴は本から顔を上げ、狭間を見上げてきた。

「まあ、なんとかな」

 狭間は胡坐を掻くと、乾き切っていない髪をタオルで拭った。

「カナさん達は?」

「バベルの塔の破片、というかエ・テメン・アン・キが横浜駅ごと上空に浮かび上がっちゃったから、その様子を見て くるって言って出掛けたよ、カナさんは。鮫淵さんも観察しなきゃ気が済まないって言って、一緒に。羽生さんは東京 に行ってみるって言ったけど、行けたかどうかは怪しいな。兄貴がなんかをやらかしたせいで、帝国陸軍が地中に 埋まっていた化石怪獣ごと吹っ飛んだけど、全部の部隊が撤退したわけじゃなさそうだし。まあ、でも、あの人のこと だから、滅多なことにはならないだろうけど」

「そうか」

「で、台所には掻き集めてきた食糧があるから、兄貴が食えるのも作れないことはないから。生米もあるし」

「おう」

 狭間は腰を上げ、居間の隅にある鉱石怪獣入りのストーブに当たり、湯冷めしそうな体を暖めた。

「雪、随分積もったな」

 掃き出し窓の外には、白い平原が出来上がっていた。雪の粒は細かく、静かに降り続いている。

「だから、羽生さん、兄貴のドリームを佐々本モータースに持ち込んでチェーンを付けてもらってから出発 したんだけど、あんなバイクで雪道を越えていけるのかなぁ……。どこかで立ち往生していなきゃいいけど」

 真琴は本に栞を挟み、頬杖を付いた。 

「後で雪掻きしなきゃ。出入りが出来なくなる」

「横浜にスノーダンプなんてあったか?」

「あったよ、金物屋の倉庫に。お金置いてから持ってきた」

「真琴が雪掻きしてんのか」

「カナさんはアレだし、鮫淵さんは図体は大きいのに腕力がない上に下手すぎて話にならなかったし、羽生さんは そもそもしてくれないし、兄貴はぶっ倒れているし。だから、俺がやるしかなかったんだよ」

「すまん」

「いいよ、別に。元気になったら、やってもらえばいいだけのことだから」

 真琴はシャツの裾でメガネのレンズを拭ってから、掛け直した。

「それで、火星には行けそう?」

「行く。行くんだ」

 狭間はズボンのポケットに差していた儀礼用の剣を取り出し、鞘から抜き、刃のない刀身に己を写す。

「それじゃ、怪獣が義理の姉になるのか。……ぞっとしないね」

 真琴は笑うに笑えないと言わんばかりに、頬を引きつらせた。狭間は鞘に剣を戻し、似たような表情を浮かべた。 祝福するつもりはなさそうだが、文句を付ける気もないらしい。つまり、真琴は狭間の心を折ることを諦めたのだ。 それでいいのだし、そうなることを望んではいたのだが、喜んでもらえないと知ると少し寂しい。だったら、狭間は 真琴が誰を伴侶に選ぼうとも全力で祝福してやろう。それが身内の仕事というものだ。
 分厚い雪が、波の音さえも吸い込んでいた。





 


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