横濱怪獣哀歌




南極物別レ



 更に三日掛けて移動し、マクマード海峡に面した海岸に到着した。
 エレバス山との距離がいよいよ狭まってきたが、その影響か、狭間は昼夜を問わず聞こえてくる無数の怪獣達の 声に悩まされるようになった。それ自体はいつものことではあるのだが、声と感情の重みがまるで違う。神話怪獣、 或いはそれに匹敵する旧い怪獣が狭間の脳と精神に無数の言葉を突き刺してくる。怪獣聖母ティアマトを守ろうと いうのだろうか、とも思ったが、それにしては様子が変だった。旧い怪獣達の意見がまとまっていないのだ。
 海を渡って吹き抜けた風には、懐かしささえ覚える間欠泉の匂いが混じっていた。狭間はがんがんと頭に響く 怪獣達の声を少しでも紛らわそうとしたが、無駄だった。怪獣電波を送受信することが出来ても遮ることは出来ない ので、甘んじて受け入れるしかない。一つだけいいことがあるとすれば、怪獣達の関心は怪獣聖母ティアマト に向かっているので、狭間を利用したがっている怪獣がいないことだった。

「狭間君、大丈夫?」

 悲が案じてきたので、狭間は火照って膨れ上がった脳を少しでも冷ますべく、雪の固まりを額に当てた。

「……まあ、なんとか。テケリ・リとかなんとか言ってくる怪獣もいましたけど、あれって確か」

「一九三〇年代に発見された神話怪獣の鳴き声ね。人間の耳で聞き取れる音を発する怪獣は珍しいから、有名な 話ね。だけど、私が知る限り、その鳴き声を発する怪獣を生み出した神話怪獣は、他の惑星の神話怪獣と争って 余所の星に行っちゃったのよ。で、その怪獣達がいたのはエレバス山と隣り合っているテラー山なのよ」

「神話怪獣って、住み分けがはっきりしているんだかしていないんだか怪しいんですね」

「それでも、互いの神話に干渉しないようにはしていたのよ。だけど、その声が聞こえたとなると、テラー山の神話 怪獣が怪獣聖母に働きかけようとしているというわけだから、あまりよくないわね」

「ティアマトが、それとも他の怪獣達がですか?」

「どっちもよ。私じゃなくてエレシュキガルが感じているんだけど、狭間君が怪獣に死という救いを与えたから、怪獣 達の意識に揺らぎが生まれている。その揺らぎが落ち着けば、新たな概念として怪獣の意識に定着するんだけど、 事が起きたのがつい最近だから、まだ波が荒いのよ」

 悲はボンネットから這い出して下半身を長く伸ばすと、白波を立てて荒れる南極の海を見下ろす。

「付け入るなら、怪獣聖母の精神が乱れきった今しかない」

「エ・テメン・アン・キの高度も、地上三〇〇メートルを越えたみたいですしね」

 ブリガドーンを経由して受信したガニガニの怪獣電波から映像を感じ取り、狭間は冷え切った額を押さえた。メーを 鞘から抜き、口に含もうとしたが、迂闊に冷え切った金属を粘膜に触れさせると凍って貼り付いてしまう。なので、狭間 はメーを防寒着の内側に入れて体温で温めた。それから、今一度、メーを銜えた。
 途端に、先程の比ではない量と出力の怪獣電波が降り注ぎ、狭間の全身を貫いた。呻いてうずくまり、吐き出して しまいそうになったメーを強引に押さえ込んだ。がちがちと震える歯が刃のない剣を噛み締め、乾燥でひび割れた唇 から滲んだ血が唾液に混じる。悲は狭間を案じてきたが、狭間はそれを制し、言った。

「聞こえるか」

 タバコを銜える要領で口の端にメーを銜え、狭間はエレバス山を見据える。

「怪獣聖母」

 聞こえないわけがない。知らないわけがない。感じ取っていないわけがない。

「俺が誰か、何のために来たのか、解っているだろう」

 エレバス山の火口から細く立ち上っていた水蒸気の煙が、脈打つ。

「ケンカを売りに来てやった」

 無論、勝つつもりでいる。負けたとしても、こちらにとっては都合がいい。

「聖母だろうが何だろうが、所詮怪獣は怪獣だ。――――ソロモン王の命令に逆らえるか?」

 我ながら、何を言っているんだとも思わないでもないが、ハッタリの一つや二つかまさないと立ち向かえる自信 をなくしてしまうからだ。水蒸気の煙が徐々に太さを増し、鈍い振動と共に噴煙が吹き上がり、多量の火山灰が 雪を灰色に汚していく。マクマード海峡ではざあざあと荒波が立ち、海底の間欠泉が息を吹き返したのか、至る ところから白い湯気が上がっていた。ごぼん、がぼん、と大きな泡も浮かび上がっては爆ぜる。
 かすかに星が震えた。




 声が聞こえる。
 どこからか、いや、どこからでも。誰かに話しかけられたのか、と振り返ってみるが、そこには誰もいない。いや、 そうではない。住民が退去した民家に設置されているガス玉怪獣やボイラー怪獣が、ざわめいている。言葉の意味は 解らないが、聞こえてくる。脳がくすぐられているかのような違和感があり、慣れない感覚で怖気立ち、血管の内側 がむず痒くなる。耐え切れなくなって、真琴はその場に座り込んだ。
 これは、一体どういうことだ。理解しようにも、その余裕がない。真琴はコートの袖の上から二の腕に爪を立てて 違和感を堪えようとするが、出来なかった。体は火照っているのに冷え切っていて、興奮しているのに眠気が訪れ、 高揚と落胆が交互に押し寄せてくる。

「真琴君、どうしたんだい」

 不安げに真琴を覗き込んできた羽生が、真琴の肩に触れた。手袋とコート越しではあったが、それが感じ取れた。 砂井鏡護として生まれた少年の半生人生葛藤混乱覚悟経験覚悟記憶記憶記憶記憶記憶。これ以上は耐え切れないと 真琴は羽生の手を弾き飛ばそうとしたが、羽生はそれよりも先に手を離して飛び退いた。

「これは……?」

 ひどく青ざめた顔で手袋を填めた左手を凝視し、羽生は肩を上下させる。その手首に絡み付いていた針金型怪獣 のジャコツは、主を思い遣っている。優しい仕草で慈しんできたジャコツを指先で撫で、羽生は深呼吸する。

「状況を整理しよう、真琴君。君は、一体、僕の、何を、知った」

「……は、羽生さんが元々は砂井という家の生まれで、心を病んでいるお姉さんがいて、そのお姉さんが着ている 着物は深緑が多くて、そうでない時は菖蒲柄の浴衣を着ていて、それから」

 真琴が途切れ途切れに答えると、羽生は頭痛を堪えるように目元を押さえる。

「……この僕が見たのは、真琴君が狭間君の背中ばかり見ている光景だよ。狭間君のバイクのタンクに付いた傷に ドクターペッパーのステッカーを貼ってやった時のこと、一ヶ谷市の高校でのこと、聖ジャクリーン学院に転校 してからのこと、昨日読んだ本の内容。――ああ、読書の趣味はいいね。この僕も好きさ、古典SFは」

「羽生さん、これ、どういうこと、だと、思います? さっきからもう、頭の中がざわざわしてぐちゃぐちゃして、 電波が混線しているような」

「実際、電波が混線しているんだろう」

 冷静さを取り戻すためなのか、羽生はタバコを銜えて火を灯すが、その手もやはり震えていた。

「バベルの塔というのは強烈だね。現生人類と怪獣は、エレシュキガルに大いに感謝すべきだよ」

 まばらにちらつく雪の彼方に、成長し続けるバベルの塔の破片が浮かんでいた。羽生は目測と暗算で計算すると、 地上から三〇五メートルの位置にいるね、と報告してくれた。

「ひとまず、ヲルドビスにでも戻ろうじゃないか。ここは寒いし、怪獣が多すぎる」

 頭が痛いね、と羽生は顔をしかめつつも、真琴に手を差し伸べてくれた。だが、先程のようなことが起きては身が 持たないので、真琴はよろめきながらも自力で立ち上がった。二人がいたのは、横浜駅跡地からそれほど遠くない 山下公園の一角で、空中庭園怪獣ブリガドーンが残していった船と板の残骸の片付けに追われる海兵達もいたが、 彼らもまた同様の症状に見舞われているようだった。

〈――――久し振りだよ、この感覚は〉

 誰でもない声が聞こえた。しかも、明確な言葉で。

〈バベルの塔を通じて人間と通じ合っていたのは、マグマに溶けて生まれ直す前のことだが、ああ……煩わしい。 私は一隻の船であれば、それでいいというのに〉

「羽生さん、今のって、まさか」

 真琴がぎこちなく問うと、横浜港に停泊している大和型軍艦、狗奴国が不意に汽笛を鳴らした。

「怪獣の声だ……!」

 歓喜と高揚と興奮をない交ぜにした呟きを漏らし、羽生は凶暴ささえ感じられる笑みを浮かべた。

「ああ、なるほどね。そういうことか。怪獣の精神と人間の精神は元々繋がりがある、そうでなければこうも簡単 に受信と発信が出来るわけがない。なんてことだ、皮膚感覚さえ共有出来るんだ。く、ぅは、ふふふふ」

「あの、羽生さん」

「真琴君、ヲルドビスには一人で帰りたまえ。この素晴らしき宇宙の至宝たる僕は、仕事が出来たんでね」

 ひらひらと手を振ってから、羽生は雪道をものともせずに去っていった。羽生の記憶に寄れば、彼は山奥の農村 の出身なので、この程度の積雪など造作もないのだ。真琴は全身の違和感と混乱が収まっていなかったが、帰路を 辿ることにした。その最中にも、怪獣達はしきりに話しかけてくる。狭間真人の弟と知っているからでもあるが、 ちょっかいを出してくる。いちいち相手にしていてはきりがないし、気疲れするが、脳に直接語り掛けてくるので 防ぎようがない。ああ苛々する、鬱陶しい、やかましい、面倒臭い。煩わしい。やかましい。うるさい。
 タバコでも吸えば、少しは気が紛れそうだ。





 


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