横濱怪獣哀歌




聖キ母ノ園



 空が裂け、海が降ってくる。
 山の断片、島の切れ端、無数の人間、怪獣の肉片、雨雲の一部、吹雪の一吹き、その他諸々。マリネリス大渓谷の 奥に据えられたミンガ遺跡から生み出される光の巨人の量は安定せず、大きさがまちまちだった。ふらふらと彷徨い 歩いて、光量と同等の質量を地球から運んできては消え失せていた。エレシュキガルに何らかの異変が起きている。 そして、それが地球と火星を繋いでいる光の巨人達に混乱をもたらしている。
 誰が何と戦い、何を求めているのか。その答えをはっきりと知る者は自分だけだろうな、とツブラは内心で思った。 エレシュキガルが安定性を失ったのは、ツブラ――イナンナが反旗を翻したからだ。エレシュキガルが金星から火星へ 運んできたミンガ遺跡と接触し、エレシュキガルの一部ともいえるクル・ヌ・ギアを揺さぶったため、その揺らぎが エレシュキガル自身を苛んでいるからだ。だが、そんなものでは決定打にはならない。
 今こそ立ち向かわなければならない。ツブラは火星の赤茶けた大地を素足で踏み締め、触手を惜しみなく開放 し、伸ばし切った。赤く波打つ肉の紐をしゅるりと束ねて渦巻かせ、体を軽く浮かせてから、赤い目で地平線を凝視 する。火星の地表に身を隠している大陸怪獣達もまた変動を感じ取り、ひどく動揺しているが、中の人間達に不安を 与えないようにするためか巨体をぴんと伸ばし切っていた。彼らは人間に愛された分、人間を愛しているのだ。

「姉様」

 遠く離れた地表に、もう一つの影が立つ。

「エレシュキガル」

 人にはなれない。だが、神話怪獣ではいたくない。ツブラは妹の名を呼ぶ。

「姉様、私はやっと願いが叶うわ」

 褐色の肌に緑色の瞳を備えたシャンブロウ、エレシュキガルは口角を吊り上げる。舌ではなく、触手が零れる。

「人の子が私を求めている! 人の子が私を欲している! 人の子が、姉様ではなく私を選んだ!」

 ずりゅずりゅと触手を這わせて前進しながら、エレシュキガルは恍惚とする。

「姉様が人の子に授けたメーを通じて、人の子の血の脈動が感じ取れる! バベルの塔が伸び切ったから、人の子の 心に私も入り込めている! 人の子は姉様だけのものじゃない、だから私のものにしなければならない!」

「エ・テメン・アン・キ……?」

 光の巨人達の異変の原因もそれか。ツブラはエレシュキガルの挑発と自慢を兼ねた言葉を聞き流しながら、火星 に連れてこられた地球怪獣達が錯乱気味に放っている怪獣電波を拾い集めた。皆、怪獣と人間が通じ合えるように なってしまったと戸惑っていて、その原因は横浜のバベルの塔だ、といずれの怪獣も叫んでいた。

「人の子共々エ・テメン・アン・キを火星に運び出せば、私は、私は、私は、私は、ああっ」

 エレシュキガルは身を捩り、悩ましげなため息を漏らす。

〈人の子ではないわ〉

 エレシュキガルを見据え、ツブラは語気を強める。否、怪獣電波に込めた感情を高ぶらせる。

〈彼には名がある。その名があるからこそ、彼は彼としていられるの〉

「けれど、人の子は人の子だわ。姉様、何を言い出すの?」

〈彼を人の子という括りに縛り付けて、人の子であるようにと押さえ付けるのは、もう終わりにしましょう〉

「姉様の言いたいことが解らないわ」

〈怪獣聖母ティアマト、或いはアマテラスオオミカミ、或いはパナギア。あれが怪獣聖母という概念を捨て、ただの 怪獣と成り下がれば、怪獣達の神話も終わるからよ。怪獣達に縋り付かれ、信仰されているのは心地いいけど、神話も 所詮は物語なの。始まりがあるからには、終わりもある。怪獣達の神話が幕を閉じれば、私達は神話怪獣である意味も 理由も概念も失い、ただの怪獣と成る。いえ、元からそうだったの。私達は外から来たというだけであって、怪獣 であることになんら変わりはない。――――だからもう、彼を人の子とは呼ばせない〉

 ツブラは胸に両手を添え、指を組む。人間のように。

〈私がイナンナではなく、ツブラであるように〉

「姉様は姉様、人の子は人の子、そして私はエレシュキガル。名を変えたところで、何も変わりはしないわ」

〈いいえ、変わるわ。私が変えてみせる〉

 ツブラは触手を全て伸ばし、広げ、広げ、広げ、扇状の大きな影を作る。触手の一本一本に怪獣電波が届き、それを 残さず絡め取っては吸収し、理解する。今、彼は怪獣聖母に立ち向かおうとしている。怪獣達もまた、強硬派の願い を聞き届けてくれたソロモン王を慕い、狭間真人という青年に報いようとしている。ならば、ツブラは火星にて彼を 助けなければならない。幾度となく狭間とツブラを苦しめ、怪獣使いの一族に文字通り影を落とし、生と死の境界を たゆたう存在であることを利用して数多の者達の命を弄んでは食い散らかした、旧い怪獣を滅ぼさねば。
 この星で、愛しい男を出迎えるために。




 母を求める子の如く、光の巨人は氷の大地を貪った。
 狭間が首筋から刃のないナイフを外しても、その勢いは緩まなかった。渇きを癒すかのように、大地に甘えているか のように、光の巨人達はエレバス山に寄り添っては山肌をごっそりと抉っていく。彼らは僅かばかりの温度を奪うと 共に吹雪そのものも奪い去っているのか、カナシビックと狭間に吹き付けてくる吹雪の勢いは弱まり、あれほど激しく 降っていた雪もちらつく程度に軽減していた。風があるとないとでは体感気温が大違いだ。
 エレバス山のごつごつとした山肌が削られていくにつれ、その奥に身を潜めている怪獣聖母の姿が垣間見えるように なってきた。他の怪獣達とは大して差のない、岩盤から削り出されたような棘がずらりと生えていて、ウロコも同様 だった。温かみのある土色で、毒々しさはないが神々しさもない。怪獣使いがそうしていたように、怪獣聖母もまた 姿を現さないことで神秘性を醸し出していたのだろう。
 ふと、狭間の脳内で荒れ狂っていた怪獣電波が凪いだ。あら、と悲も反応してボンネットから上半身を出した。分厚く 頑丈な積雪の下でかすかに震えていた地面が、どん、と真下から突き上げるように激しく揺れた。狭間はよろめいたが、 カナシビックのサイドミラーを掴んで転倒は免れた。それは一度や二度ではなく、光の巨人に抗うかのように、立て続け に揺れが起きた。何かが裂ける音が響いたので、今し方の揺れでクレバスが出来たのだろう。

〈人の子……〉

 潮騒と大地の軋みに紛れかねないほど、儚げな怪獣電波が狭間の神経をくすぐってきた。

「やーっと返事をしてくれたか。遅いんだよ」

 狭間は側頭部を押さえ、病床の少女の囁きを思わせる弱々しい怪獣電波を拾った。

「あんただな、怪獣聖母ティアマトは」

〈私は罪を犯してはおりません。私は全ての怪獣の母としての務めを果たしていただけです〉

「じゃあ聞くが、あんたに旦那はいるのか?」

〈伴侶ですか……?〉

「一人だけじゃ母親にはなれんだろうが。プラナリアじゃあるまいし」

〈怪獣は星の子です。星の子は皆、星に導かれるさだめにあるのです〉

「だったら、余計に母親なんて必要ないだろうが。というか、それだったら地球が怪獣の母親ってことになる わけだが、地球は俺に対して何もしてこなかったぞ?」

〈星の卵より生まれ出た怪獣達を立派に育て上げるためには、誰かが支えてやらねばなりません〉

「そうか? あいつらには家族の概念なんてないし、血縁なんてものもない。あんたが怪獣達の記憶と魂をがちがち に固めているせいで、あいつらは成長する必要なんてなくなっちまった。それがどれだけ不幸なことか」

〈ですが、生まれたばかりの頃は〉

「死の概念もないのに、生まれられるわけがないだろ」

〈……ですが〉

「屁理屈捏ねやがって、面倒臭い、鬱陶しい、とか思い始めたな? こんな状況じゃなくても解るさ、それぐらいは。 まあ、俺だってそう思うんだが、あんたが態度を改めないことには怪獣共は何度だって俺を使いに出すだろう。今、 ここで俺を殺したとしても、怪獣共は新たな人の子を探し出してはあんたの元に突き出すだろう。そもそも、怪獣は 誰かに育てられるものではないし、母だの子だのと決め付けることからしてナンセンスなんだよ。大体、どこの誰が 怪獣聖母だなんてことを言い出したんだ? 自称だろ? 何を以てして怪獣聖母なんだ? 自分の腹から全ての怪獣 の卵をひり出しているならともかく、怪獣と怪獣を繋げる地脈の真上にある山に収まっているだけじゃないか」

〈ですが、私は〉

「黄金時代、あんたがノースウェスト・スミスを地球から追放したんだな?」

〈それは……〉

「どういう経緯で何がどうなってそうなったのかは、この際どうでもいい。俺の人生に関係ないからだ。だが、あんた は追放した傍から流れ者の賞金稼ぎが恋しくなったんだ。だから、ブリガドーンに墓を作った。だが、それはあくまでも ノースウェスト・スミスだけであって、彼の相棒のヤロールはどこにもいない。怪獣共はヤロールの名を口にする ことはなかったし、俺も特に気にしていなかった。金星人類と地球人類は育ってきた環境も違えば寿命も違うから、 同時期に墓に入るのは無理だったから、というのも考えられなくもないが、それにしたって不自然だ」

〈ですから、私は……〉

「宇宙怪獣戦艦を航行させないようにしたのも、火星怪獣達を受け入れずに戦いを起こしたのも、光の巨人をどうにか しようとしなかったのも、土に還って久しいノースウェスト・スミスにヤロールの存在を感じ取らせないためだった とでもいうのか? ……ああ、やっぱりそうだったのか。カマを掛けてみたら、あっさり思い出してくれる辺り、あんた は実に素直な怪獣だな。要するに、あんたはシャンブロウに横恋慕したんだな?」

〈私は、そのようなことは〉

「怪獣如きが、この俺に隠し事なんて出来るかよ」

 狭間はこれ見よがしに側頭部を叩いてから、中身が露出しつつあるエレバス山を仰ぎ見る。

「だから、シャンブロウに好かれた俺を欲しがっている。黄金時代の後に始まった神話時代を再現することで、あの時 と同じ状況を作り出そうとしているってわけか。……回りくどい上にしつこくて面倒臭ぇんだよ! というか、怪獣 にモテたところで嬉しくもなんともねぇ! ぐちゃぐちゃした感情をどうにかするどころか、そのせいで俺達は随分と 迷惑を被ってきた! その分だけ、あんたも迷惑を被りやがれ! まずは、光の巨人の相手をしてみせろ! ツブラと 俺の仲を引き裂いた分の代償は、ツブラがいなくなったせいでこの星が失ったものは、あんたの失恋の非なんか じゃねぇってことを思い知れ!」

 再び、狭間は自らにメーを向ける。

「怪獣共、俺の血の味を知りたいか?」

 凍えた外気に触れて乾き切った肌は、些細なことでひび割れる。故に。狭間は頬に塗り込んでいた白色ワセリンを 拭い去ってから、ひたりとメーを添え、肉に食い込ませた。寒風が押し寄せ、無防備な頬とそれに触れている金属を 容赦なく冷やし切る。程なくして、鋭い違和感が生じ、熱いものがメーを伝っていった。
 真新しい赤い滴が、白い雪原を汚した。





 


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