横濱怪獣哀歌




神話ノ中ノ神話



 黄金時代よりも遥か昔、宇宙の彼方にて目覚めた頃を思い出す。
 概念の凝固物、分子の寄せ集め、光とも闇とも言い難い物体ですらなかった時代、自分には名前などなかった。 ただ一つ解ることは、どこかに向かうために星の海を彷徨わなければならないことだった。暗黒物質のさざ波と次元 の歪みと時間の切れ端に押しやられるがまま、不定形な物体のまま、ゆらゆらと漂い続けていた。
 だから、あの名を授けられた時、ようやく己というものが定まった。人ならざるもの、形は人間に似ているが人には なりきれないもの、かといって神には至れぬもの、獣と呼ぶべきではないもの、この世ならざるもの。貪欲な本能と 底知れぬ渇望と、それに伴う不安ばかりが心身を苛んでいた。だから、彼を求めた。

「ああ、ああ、ああああぁ……」

 エレシュキガルが歓喜に震えている。体液とは言い難い、闇の雫を赤い双眸から零している。

「人の子が、私の、私の作った光の中を、ああ、ああ、ああっ」

 そして、彼女もまた彼を求めている。

「うひふひひひひひひ、人の子は私のもの、人の子はクル・ヌ・ギアに通じる道に入った、人の子はもう私だけの ものになる! 人の子、人の子、人の子!」

 整った容貌をだらしなく崩し、エレシュキガルは触手を妖しく波打たせる。

〈好きなだけ、思い上がっていればいいわ〉

 ツブラは冷ややかに言い捨てると、触手をずるりと伸ばしてエレシュキガルの足元に落ちている影――――否、 クル・ヌ・ギアへと通じる闇を滑り込ませた。思わぬことにエレシュキガルは目を剥くが、ツブラはすかさず彼女の 全身を触手で戒め、体液を絞り出すかのようにぎちぎちときつく締め上げる。エレシュキガルは触手を蠢かせて 抗うも、ツブラは渾身の力で捻り、搾り、丸め――――ぶぢゅりっ、とエレシュキガルが爆ぜた。
 破裂した眼球から黒い滴が飛び散り、火星の砂を濡らすかと思いきや、闇の粒は地面に触れると同時に大穴を 開けてエレシュキガルを取り込もうとしてきた。闇もまた触手を繰り出し、物理法則が異なる宇宙を連ねる神話怪獣 を柔らかく抱き締めてきた。ツブラはその触手に己の触手を絡めると、エレシュキガルを外に放り出し、その代わり にクル・ヌ・ギアへと身を投じた。肉体を再生させたエレシュキガルは姉を追おうとするが、エレシュキガルと同等 の命と力を持つツブラという対価を得たクル・ヌ・ギアは、エレシュキガルを拒んだ。姉の目論見に気付いた時には 既に手遅れで、ただの触手怪獣に成り下がったエレシュキガルは苛立ちに任せて咆哮を放った。
 至るところで光の柱が屹立し、地球の物質を吐き出した。




 狭間は知る。
 光の巨人の内側、火星と地球を繋ぐ扉、かつては金星と神話の世界を連ねていた光の道の中で、クル・ヌ・ギア たる闇の世界は神話怪獣の胎内であると。ツブラがイナンナと呼ばれていた頃、イナンナを填めてその立場と信仰 を奪おうとした、神話怪獣タンムズの成れの果てだ。イナンナに力及ばず、神話怪獣として名を上げられなかった 怪獣は憎悪と憤怒に任せて闇の世界で暴れ回り、闇を喰い散らかした。その闇がタンムズの体液に混ざり合い、骨に 絡み、魂を潤し切ると、いつしかタンムズは闇そのものと化していた。
 そして、タンムズは知る。イナンナが手に入らないのであれば、イナンナに通じる怪獣を手に入れてしまえばいい のでは、と。故に、タンムズはエレシュキガルを選んだ。しかし、エレシュキガルはタンムズを選ばなかった。妹は クル・ヌ・ギアに良く馴染んでくれたが、彼女の関心はイナンナに向いていた。だから、タンムズは。

「姉にもフラれて妹にフラれたとなると、そりゃ根性もひん曲がるわ。クル・ヌ・ギアの中に入ると落ち着きは するけど、余計なものまで流れ込んでくるから面倒臭いったらありゃしない」

 そう呟いたのは、クル・ヌ・ギアに体が溶けかけている悲だった。シビックも車体の後ろ半分が闇の中 に没しているが、ボンネットと運転席だけは外に出ていたのでヘッドライトを灯していた。

「怪獣に恋愛感情の概念があるのかどうかは怪しいですけどね」

 沈みかけたシビックのボンネットに腰掛け、狭間はタンムズの意識と向き合っていた。嫉妬と憎悪とその他諸々 が四方八方からやってくるのだが、タンムズの意識は別の方向に集中しているらしく、心身に掛かる負荷はそれほど でもなかった。狭間の考えでは、光の巨人に飲み込まれて間もなく火星に出られるのだと思っていたのだが、クル・ヌ・ ギアに足止めされてしまった。入るのは二度目だが、気分が良いわけがない。

「だけど、おかしいわね。今までは、こんなのは感じ取れなかったのに」

 ぎゅるりと下半身の闇を渦巻かせてボンネットの端に腰掛けた悲は、あらぬ方向を見上げる。

「あれ?」

「どうかしたんですか」

「エレシュキガルがいなくなった」

「え、そんなこと解るんですか」

「そりゃ解るわよ、私はクル・ヌ・ギアとくっついているんだから、エレシュキガルとも地続きみたいなもん なんだから。……でも、その代わりにくっついたのって、これ」

 まさか、と言いかけて、悲はあらぬ方向を見上げた。かと思いきや、シビックを飲み込んでいる闇から突如伸びて きた闇の触手が悲を絡め取って飲み下し――――それと同等の質量を持つモノが闇から吐き出された。濃いピンク色 の髪ではなく、赤い触手と白い肌と赤い瞳を備えたもの。

「マヒト!」

 あの、愛おしい声が鼓膜をくすぐった。狭間の胸中に、一拍置いてから歓喜が込み上がってきた。すぐさま手を 伸ばし、闇の冷たさも死の空虚さも厭わずに、その手を掴み取った。シビックのボンネットを足掛かりにして彼女の 元へと跳ね上がり、緩やかに闇を泳ぎ、一条の光の中で抱き寄せる。

「ツブラ!」

 ツブラ、ツブラ、ツブラ。その名を口にするだけで胸が詰まり、目眩さえ覚える。

「マヒト……」

 赤い瞳を潤ませながら、ツブラは狭間を見つめてくる。狭間はその顔を両手で挟み、頬の柔らかさと確かな質量 を入念に確かめる。触手の滑らかさも、小さな体の弾力も、何もかもがあの日のままだ。だが、一つだけ違うのは、 彼女から感じる怪獣電波が違うということだ。――――悲のものだった。つまり、ツブラは悲の存在と質量を間借り する形でクル・ヌ・ギアに存在しているということだ。大方、エレシュキガルを外に吐き出させ、その代わりに強引 に滑りませたのだろう。道理で、タンムズの意識が逸れているわけだ。

「でも、本物のツブラじゃないんだな」

 だから、唇を重ねられない。狭間が悔しさと嬉しさをない交ぜにして呟くと、ツブラは狭間の胸に縋る。

「ゴメンナサイ……」

「謝るんじゃねぇよ。むしろ、その方がやる気が出てくるってもんだ。ここで本物のツブラと会えてみろ、外に 出る気がなくなっちまうじゃねぇか。だから、これでいいんだ」

 怪獣の肌ではなく、人の肌に似た手触りの頬を撫で、愛おしい怪獣を慈しむ。

「ティアマトにケンカを売ってきた。でもって、怪獣共を煽りに煽ってきた。俺の味を知りたければ俺を喰いに来い ってな。というわけだから、俺はもう地球には帰れねぇ。一歩でも踏み込んだら最後、爪の先まで残さずに怪獣共に 喰い散らかされちまうだろうからな。それでいいんだよな、ツブラ」

「……ウン」

 ツブラは狭間の胸に額を摺り寄せ、小さな手を背に回し、触手で柔らかく抱き締める。

「俺達、駆け落ちするんだもんな」

「ン」

「というわけだから、火星まで行くのを手伝ってくれ。ツブラもそのために来てくれたんだろ?」

「ウン!」

 ツブラがにこやかに頷くと、狭間は口角を上げる。ああ、このまま絞め殺されてしまいたい。生きていくのが面倒 になる。冷たい闇に溶け込んでしまえば、どんなにか楽になれるだろうか。などと考えてしまうのは、クル・ヌ・ギアに 精神が引っ張られているからだ。馬鹿を言え、童貞を捨てていないのに死ねるはずがあるか。
 外に出るためには、何をすべきか。狭間と同等の質量と命を持つものを引き摺り込めば出られるとは知っているが、 火星側にそこまで都合のいいものが存在しているとは思い難い。九頭竜会や渾沌の面々のような、どうしよう もない悪人だと解っていれば死に至らしめても大して問題はないのだが、そうでなかったとしたら、狭間は後悔しても しきれない。いや、その相手を人に括るから考えが煮詰まってしまうのだ。――――怪獣であれば。

「いやいやいやいやいや、それもダメだろ! そこまで短絡的になるべきじゃない!」

 狭間は自分の思考を払拭するために声を上げ、だぁんっ、とシビックのボンネットを叩いた。その拍子にツブラが びくんとしたので、狭間は平謝りした。深呼吸してからタバコを抜いて銜える、つもりでメーを口にした。途端に闇に 没した人々や怪獣達の意思が宿った怪獣電波が感じ取れたが、エ・テメン・アン・キを通じて感じ取ったものよりも 出力が弱かったので大した影響はない。細切れの記憶を見せられているような、悪夢の切れ端が頭にこびり付く ような、少しばかり煩わしいだけのものだ。が、その中に一際強いものがあった。言うならば、未練の凝固物だ。 それは急激に出力を上げて狭間の脳に突き刺さり、どぽんと闇を一塊浮き上がらせ、形を成した。

「……う」

 その姿形は、綾繁悲に酷似している。だが、今、悲はツブラと化している。おのずとその正体を悟った狭間が声を 潰すと、女、綾繁哀はにんまりと笑った。悲と同じ顔ではあるが、慢心と驕りに満ちた表情だった。

「よくもこの私をやり込めてくれたね? ねえ? 怪獣使われの分際で」

「お、俺のせいじゃないだろ! というか、俺もあんたに文句を言わなきゃならない! よくも俺の弟にちょっかいを 出してくれたな! おかげで真琴がえらい目に遭っちまったじゃねぇか! 死に掛けたんだぞ!」

 狭間はツブラを抱き締めながら喚き散らすと、あわれはじっとりと睨んでくる。

「死んだら死んだでいいじゃないの。こっちの世界で存分に可愛がれるから」

「なんで今更出てくるんだよ! 幽霊っつーか精神体になっていたんじゃないのか!」

「そうよ? だから、私もクル・ヌ・ギアに入り浸っていたから、勝手知ったるなんとやらなの。ともすれば、悲よりも 要領が掴めているかもしれないわね。だって、私は本物の怪獣使いなんだから。枢なんかとは比べ物にならないほどの 才能があるんだから、神話怪獣の一つや二つ、どうにか出来ないわけがないじゃなーい」

 死んでいるくせにいやに元気なのは、姉も妹も変わりがない。ああ、あの人の姉貴だ、と狭間は痛烈に実感する。 まとわりつかれるのは面倒だが、今の狭間には哀を突っぱねられるような力もない。ツブラが狭間の背後から哀を 窺うと、哀は不愉快げに眉根を寄せた。

「……面白くない」

 哀は身を成す闇を生前のそれによく似た形状の着物に変化させると、ぬるりと迫ってきた。一瞬で間を詰められて しまい、避ける間もなく背後に回り込まれる。狭間はツブラを抱えて後退ったが、シビックのボンネットの端で足を 止める他はなかった。迂闊に滑り落ちたら、どこまで落ちるか解ったものではないからだ。哀の髪は触手のように自在 に操り、呆気なくツブラを絡め取る。狭間は追い縋るが、ツブラの手を掴む寸前で引き離されてしまう。

「何しやがる!」

 狭間はシビックの端まで移動するが、哀は手が届くか届かないかという微妙な位置に浮かぶ。その髪に縛られた ツブラはじたばたと暴れるが、悲の存在を間借りしているからか、本来の力が出ないらしく振り解けずにいる。かと いって、メーが通じる相手だとは思えない。悲は怪獣と化しているが、哀はそうではない。誰から教えられるまでも なく、それが理解出来るからこそソロモン王なのだ。

「何ってそりゃあ、意地悪」

 ツブラを一瞥し、哀は唇を尖らせる。

「せっかくまこちゃんを可愛がって遊べると思ったのに、まこちゃんは私じゃなくて悲なんかが好きで、私を見向きも してくれなかったんだもの。トライポッドを持ち出してやりたいようにさせてあげれば、私のこともちょっとは気に掛けて くれるかもって思ったけど、そんなことはなかったし。面白くない、面白くない面白くない面白くない!」

 女の激情を受け、闇が波打った。狭間がクル・ヌ・ギアに引き摺られかけたように、タンムズが哀に引き摺られて いるからだ。メーを通じて、その揺らぎが狭間の精神をぐらつかせてくる。ツブラを救い出さなければ、だが。狭間は メーに歯を喰い込ませながらシビックに踏ん張り、冷え切った体を奮い立たせるために、哀に臆さぬように、怪獣の 如き咆哮を放つ。面白くないのはこっちも同じだ、いや、それ以上だ。
 幸せになりたいだけなのに、邪魔をされる謂れはない。





 


16 1/1