横濱怪獣哀歌




火星ノ赤キ丘



 火星から地球に至るには、地球時間で二年八ヶ月もの時間を要する。
 アトランティス単体であれば半年足らずで済ませられるのだが、中に人間がいるとなればそうもいかない。加速 して過度な重力が掛かれば、居住臓器がひしゃげて居住区が崩壊してしまうからだ。そうなれば、人間なんて呆気 なく潰れて死んでしまう。火星の重力圏から脱した後、地球の公転軌道に入らなければならないのだが、火星の公転 軌道は真円ではなく楕円形であり、タイミングを上手く見計って地球と火星が最接近する頃合いに丁度いい場所に いられるように計算した上で出発しなければ、やっとのことで地球に近付いてもガス欠で全滅、という最悪の事態 になりかねない。アトランティスはその巨体さ故に自力では大気圏外に脱するので精一杯で、それ以降は太陽風を 翼膜で受け止めて帆船のように航行するのだが、航行する方向と太陽風の方向を合わせなければ航行速度は格段 に落ちてしまう。そして、地球と火星は二年二ヶ月おきに最接近するのだが、アトランティスに寄れば前回の 最接近は地球時間で一年八ヶ月前だったので、次の最接近は半年後となる。そこから更に地球への航行時間を 逆算すると、三ヶ月で全ての準備を整えて出発するべきである、という結論が出た。もちろん、住民達と何度となく 話し合いを重ねた末に出した結論である。
 その旨を地球側に連絡しておかなければ、H・Gウェルズの二の舞になりかねない。あれは地球人類と火星人類 の間で意思の疎通が出来なかったことから起きた悲劇だ。あの時は地球側に事情を知る者がいなかったから、不幸 な結末を迎えてしまったが、今度は違う。狭間が火星へ旅立ったことを知る者は多数いるので、狭間が地球側 ――――というより、横浜の誰かに連絡を取れば事の次第を伝えられる。
 そのためにはまず、地球との通信手段を確立しなければならない。光の巨人による電波妨害がなくなったが、それ故 に地球と火星の距離を縮める術は失ってしまったので、地球に電波が届くまでには六分から四分までのタイムラグが ある。その上、火星の上空には電離層があり、電波が跳ね返されてしまうので短波を衛星か何かに受信させてそれを 中継してもらわなければ、届くものも届かない。
 というわけで、短波の電波発信基地の建設と並行して、電波を増幅させて送受信出来る怪獣を火星の衛星軌道上に に打ち上げることになった。もちろん、そのための発射基地も建設しなければならず、光の巨人達が無造作に地球 から持ってきてくれた物資が大いに役に立った。かつては横浜の造船所で働いていた労働者達はここぞとばかりに 技術を発揮してくれ、サンダーチャイルド達も彼らのやる気に応じて良く働いてくれた。その甲斐あって、電波発信 基地と怪獣衛星を打ち上げるための怪獣ロケット発射基地が早々に出来上がった。そして、衛星怪獣を搭載 した怪獣ロケットが打ち上げられ、無事に火星の周回軌道に乗った。
 その電波発射基地の中枢たる通信室には、馴染み深い黒電話が据えられていた。ふなしま食堂の残骸の中から 発掘されたもので、まともに動く電話はこれしかなかったのだ。狭間は怪獣の骨を組み合わせて作った机と椅子に 腰掛け、ツブラはその膝に収まった。黒塗りの受話器を手にすると、電波発射基地に電力を供給している発電怪獣 イナヅマが穏やかな怪獣電波を注いできた。

〈人の子よ、案ずるな。人の子の声は、必ずや地球へと送り届けてくれようぞ〉

「心配なんかしてねぇよ。頼りにしている」

 狭間が応じると、電波発射基地の傍らで巨体がほんの少し動いた。

〈その言葉、裏切らないと誓おう〉

「氷川丸のこと、気にしているのか?」

〈……我が迅速に伝えておけば、人の子は要らぬことに巻き込まれずに済んだであろう〉

「けど、あれでよかったのかもしれない。あんた達と出会ったばかりの頃の俺は、怪獣の話なんて真に受けよう としなかったからな。それから色々あって信じざるを得なくなったわけだが、信じすぎて痛い目に遭ったのも 一度や二度じゃなかったな。で、ようやくあんた達との付き合い方が解ってきた」

 狭間はツブラの触手を撫で回しつつ、少し笑う。

「だから、気にするな。むしろ、俺とツブラを横浜に呼び付けてくれて感謝している。結果オーライだ」

〈人の子がそう申すのであれば、我は我を許せるやもしれん〉

 イナヅマの怪獣電波が和らぐと、沈みがちだった感情の波が浮き上がっていった。それに応じて電圧が上がり、 通信室の怪獣電灯がぢぢぢっと点滅する。

「マヒト、電話、スル?」

 ツブラがダイヤルに指を伸ばしたので、狭間はその指を穴に入れてやり、回させた。

「する」

 横浜の市外局番を回し、それから桜木町界隈の市内局番を回し、それから。

「ヲルドビス」

 狭間が回した番号を見て、ツブラが呟いた。狭間は頷いてから、受話器を耳に当てる。呼び出し音が聞こえてくる までにはまず六分ほどあるので、じっと待っていなければならない。それから、真日奔は今は何時頃かと計算した ところで狭間は自分の考えの浅さに気付いた。火星はまだ日は高いが、地球の真日奔は真夜中で午前二時過ぎだ。 古代喫茶・ヲルドビスはとっくに閉店しているし、真琴が今でも住み込んでいるとしても、真面目な弟が夜更かし しているはずがない。それから五分以上が経過し、呼び出し音が遥か彼方から聞こえてきたが、受話器が上がる気配 はなかった。仕方ない、また今度だ、と狭間は受話器を下ろそうとした時――――がちゃりと上がった。

『…………もしもし』

 それから五分後、ざらついた電波越しに聞こえてきたのは、忘れもしない弟の声だった。

「真琴か? 俺だ、兄ちゃんだ。今、火星にいる」

 狭間が呼び掛けてから六分後、返事があった。

『…………本当に、火星から? いやに遅れて聞こえてくるけど、あ、そうか、距離が開いているから電波の交信を するだけでも時間が掛かるんだ。だとしてもどうやって、あ、いや、それは愚問か。火星にも怪獣はいるもんな』

 困惑した後に納得した様子の真琴の声が聞こえてから四分半後、狭間は返す。

「まあ、大体そんなところだ。横浜はどうなった? マスターや他の人達は?」

 それから五分十数秒後、真琴が答える。

『…………大変だった。横浜駅というかバベルの塔が、急成長した後に崩壊したんだ。兄貴が怪獣聖母にケンカを売った 頃合いにバベルの塔が成長しきって、そのせいで全ての人間と怪獣の意識が繋がっちゃったんだ。おかげで、兄貴 の苦労が少しだけ解るようになったよ。凄いのは羽生さんで、あの人、怪獣と意識が繋がっているのをいいことに 怪獣の脳を電算機代わりにして鬼のように難しい数式を計算していたんだ。それがなんのための数式なのかって、 宇宙怪獣戦艦の定期航路を航行するためのものなんだ。それと、東西諸国が躍起になっていた月の植民地化計画 が完全に頓挫した。その理由についての情報は錯綜しているけど、最も有力なのは月の神話怪獣がティアマトの 死を受けて生命活動を停止からだ、ってのが専らの噂だよ。俺もそうだと思う。月面から地球を攻撃出来るような 火力を備えた神話怪獣がいないんじゃ、利権争いをしても無駄だからね。それに伴って月面行きの怪獣電車の規制が 緩くなってきて、半月に一本だけだった東京月面間の電車が週に一本に増えるんだそうだよ。といっても、料金は べらぼうに高いから、俺には関係ない話ではあるけど。それと……カナさんはどうなった?』

 長い前置きの後、真琴は本題を述べた。狭間は少し躊躇ったが、率直に言った。

「カナさんは、往くべきところに逝ったよ」

 その言葉が届くのは、五分後だ。それから更に十五分後、弟は呟いた。

『………………よかった』

 受話器越しに、真琴が泣いているのが解る。声の上擦り方は、子供の頃とちっとも変わらない。

「枢さんに頼んで、お墓を建ててもらってくれ。カナさんだけじゃなくて、哀さんと――――愛歌さんも」

『…………うん、そうする』

 四分半。

「大学、どこにするつもりだ?」

 五分半。

『…………それはまだ解らないけど、もっと勉強したいのは確かだよ。知識がないと、知りたいことが何なのか すらも解らないってことに気付いたから。特待生になれるぐらい、頑張るよ』

 六分。

「頑張り過ぎるなよ。免許を取ったら、ドリームでも乗り回して気晴らしするといい」

 五分。

『…………そうする』

 四分五十秒。

「タバコの味は覚えたか?」

 五分二十秒。

『…………知らない方がいいかもしれない』

 六分十秒。

「そうか。それで、本題なんだが」

 四分四十秒。

『…………入るのが遅すぎない?』

 五分十秒。

「三ヶ月後、火星から大陸怪獣アトランティスが地球へ向けて出発する。それから二年八ヶ月後、地球に到着する 予定だ。光の巨人によって地球から火星に飛ばされた人達が五千人ほどいて、その人達を地球に帰すためなんだ。 うちの両親もいる。羽生さんの奥さんも、佐々本モータースの社長も、鳳凰仮面もだ。だが、千代は火星に残る んだそうだ。ムラクモと一緒に生きたいから、だそうだ。俺はツブラと一緒に月で降りる。そこにいる大陸怪獣 レムリアに世話になるつもりだ。このことは、皆に伝えてやってくれ」

 六分二十秒後。

『…………本当に? 本当に、父さんと母さんが? 千代ねえが? 皆、本当にそっちにいたんだ!』

 五分後。

「そうだ。羽生さんのお子さんは娘さんで、螢って名前なんだ。ちょっと難しい字で、火かんむりの下にワかんむり で虫、って書く字なんだ。蛍に似ているけど、ちょっと違うんだ」

 六分後。

『…………ああ、うん、解った。難しい方の字のホタルだ』

 四分五十秒後。

「だから、皆が地球に帰ってくることを誰かに伝えてくれ。アトランティスが現れても怯えないように、と枢さん から怪獣達に言い聞かせてもらってほしい。でないと、また一悶着起きかねないからな」

 六分後。

『…………解った。兄貴もツブラも、頑張れよ』

 六分二十秒後。

「お互い様だ。じゃあな、真琴。元気でな。皆によろしく」

 受話器を下ろしてから、狭間はツブラの触手に顔を埋めた。寂しいわけではない、ただ少し切なくなっただけだ。 ツブラは触手を伸ばして狭間の頭を撫でてくれたので、狭間は若干の気恥ずかしさと猛烈な愛おしさで声を潰した。 もう一度電話しようかとも思ったが、止めておいた。それから、三ヶ月後の出発に向けて作業を進めた。
 狭間は火星の赤き丘を歌い、ツブラは地球の緑の丘を歌い続けた。




 それから三ヶ月、狭間は少年と共に過ごした。
 ツブラは不満げだったが、二人きりで気持ちを確かめ合う時間を充分取るようにしたので許してもらえた。野々村 を始めとした周囲の人々は懸念を示し、少年自身も不安げではあったが、時間を重ねていくうちになんとかなった。 狭間が怪獣電波を使わずに口答だけで喋るように努めたので、少年も必要に駆られて言葉を使うようになり、少し ずつではあるが人間の言葉を使えるようになってきた。
 その最中、少年が自分の名前が何なのか解らないと告白してきた。物心付く前から怪獣電波に頼っていたので、 親が呼んでくる名前も聞き取れなかったからだ。音の強弱と高低だけで名前と思しき音を認識していたので、それ を耳にしたら応じるようにしていたのだが、結局意味は解らずじまいだった。狭間はマリナー一族と関わりのある 者達から少年の名を聞き出そうとしたが、彼らに心底恐れられてしまったので会話が成立しなかった。そこで、狭間 は少年に名を付けようと思い立った。ツブラも賛成してくれた。

「アプスー」

 狭間が脳裏に過ぎった単語を口にすると、ツブラが言った。

「ソレ、古代怪獣ノ中ノ古代怪獣、原初怪獣ノ名前。地底ノ淡水ノ海。ソレガ、アプスー」

「ア?」

 少年がたどたどしくも発音したので、狭間は頷く。

「そうだ。自分の名前は自分で言えるように、ちゃんと覚えておけ」

「ア」

 少年、もとい、アプスーが口を開くと、ツブラも口を開いてみせる。

「ア、プ、スー」

「で、どうするかは決まったのか?」

 狭間が尋ねると、アプスーは頷く。

「ン」

「火星に留まるか?」

 狭間が問うと、アプスーは首を横に振る。

「月に来るか?」

 首を横に振る。

「地球に行きたいのか?」

 力一杯頷く。

「だったら、もっと喋れるようにならないとな」

 さあ今日も仕事に行くぞ、納期は厳守だ、と狭間はアプスーを伴って家を出る。他の住民達と大差のない、怪獣の 骨と皮と鉱石を組み合わせて作った家を後にすると、ツブラが小さな手を振って見送ってくれる。住民達は狭間達と 一定の距離を置きながらも、過度な接触は計ってこなかった。居住区を歩くと、そこかしこから馴染み深い音階の歌 が聞こえてくる。様々な国の言語で、それぞれの声で、望郷の念を高めていた。
 三ヶ月後、大陸怪獣アトランティスは火星から旅立った。





 


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