横濱怪獣哀歌




地球ノ緑ノ丘



 ――――照和五十五年。三月某日。


 真夜中に兄からの電話を受けた。
 受話器を置いた後、真琴は少し混乱してしまった。去年末に今生の別れを交わしたので、再び連絡が取れるとは 思ってもみなかったからだ。そもそもどうやって兄貴は火星から電話を掛けてきたんだ、だとしてもなんでヲルドビス なんだ、火星と地球の間のタイムラグは話に聞いた通りの長さだった、などと考え込みながら、真琴は電話台の傍 で座り込んでいた。世界規模の大騒動から三ヶ月ほど過ぎたが、世の中はまだ落ち着いていない。南極のエレバス山 の奥深くに潜んでいる怪獣聖母ティアマトが光の巨人と怪獣達に蹂躙された末に、死亡したことが確認された。それ により、地軸や磁場に影響が出て大災害が起きるのではと懸念されたが、何も起きなかった。それどころか、光の巨人 が現れなくなり、怪獣達が発する熱量も目に見えて安定してきたばかりか、磁場の乱れもなくなったので無線通信が 快適に行えるようになった。なので、地軸と磁場に影響を与えていたのは怪獣聖母ティアマトではなく、光の巨人の 方だったのではないのか、というのが専らの噂である。
 横浜駅そのものであったバベルの塔の破片、もとい、エ・テメン・アン・キが崩壊してしまったので当然ながら横浜駅 は使用不能になった。それによって横浜駅を経由する路線が不通になってしまい、急ピッチで線路を復旧する作業が 行われているが開通には程遠い。数時間程度ではあったが、エ・テメン・アン・キによって世界中の人間と怪獣の 意識が繋がり合った余波も未だに収まっておらず、怪獣に精神を引き摺られてしまった人間や、人間に感化され すぎて自分が怪獣であることを受け止めきれなくなった怪獣もいる。最も多いのが、人間同士の不和である。長らく 連れ添った夫婦や恋人、友人、家族の真意を図らずも知ってしまい、溝が出来たのである。距離を置くだけならまだ いいのだが、相手の真意にショックを受けて攻撃的になる者や、理想像からかけ離れていたことに落胆し、拒絶する 者もいる。そして、個人情報やら何やらも筒抜けになったので、至るところで犯罪が起きている。へそくりの隠し 場所が暴かれたり、人には言えない秘密を握られて強請られたり、中には迷宮入りと思われていた事件の手掛かり が見つかって解決に繋がったり、などなど。
 真琴はといえば、あの日、古代喫茶・ヲルドビスにいた面々と密接に通じ合ってしまったため、麻里子とジンフーの 夫婦の営みの様子が頭に焼き付いてしまった。どちらの感覚も流れ込んできたせいで、清い身でありながらも子を 作ろうとする男の快感と子を孕ませられんとする女の快感を知ってしまった。そのせいで、色々と面倒臭いこと になった。叶わずじまいだった初恋の感傷に浸ろうにも、あの快感が蘇ってきて変な気分になり、そのせいで悲が 光永愛歌として暮らしていた頃の私物を処分しようにも出来ずじまいだった。少しでも触ると悲の化粧の匂いが昇り、 それによって悲も女だったのだと実感し、それが麻里子の感覚と重なってしまうからだ。だが、それは表に出せる ものではないので、記憶の奥底に封じ込めていた。

「俺にどうしろってんだよ」

 事の次第を皆に説明するべきだが、まず最初に誰に言うべきなのか。

「枢さんと玉璽近衛隊の人達にはもちろん言うし、羽生さんには必ず報告しなきゃいけないし、野々村さんの奥さん と佐々本モータースの人達にも伝えなきゃならないし、ヤバい人達は隠し事をすると後が怖いから早く言うべき なのは確かだけど、物事には順番というものがあって……」

 真琴にそれを決める権利はあるのだろうか。

「どうしたもんかなぁ」

 聖ジャクリーン学院は春休みだが、学期明けには小テストもあるので予習をしなければ。物資の流通が回復して きたので食料品も手に入るようになったため、ヲルドビスは明日も通常営業するので、夜更かしをしていては仕事 に支障を来しかねない。しかし、これほど重大な情報を真琴の内だけで留めておくことは出来ない。かといって、順番 を間違えるとややこしいことになりかねない。真琴が思い悩んでいると、二階から足音が聞こえてきた。

「……あら」

 よろめきながら下りてきたのは、寝間着姿の麻里子だった。

「まだ具合悪いんですか」

 真琴が案じると、青い顔をした麻里子は厨房に入り、水を一杯飲んだ。

「私らしくもありませんね。風邪が長引くなんて」

 麻里子が弱り切っているからか、カムロの動きも大人しかった。髪の束を伸ばして赤い目を開き、麻里子を覗いて 案じているようだが、その動作はおっかなびっくりだった。ううう、と呻きながら麻里子はトイレに向かっていった ので、この分ではまた吐き戻すのだろう。彼女の姪である枢は異様に胃腸が弱いので、今頃になってその体質が現れた のだろうか。どちらにせよ、この分では明日も真琴とリーマオで店を回さなければならないようだ。
 しばらくしてからトイレを窺うと、生首が廊下に転がされていた。いちいち口から出すのが面倒なので、直接首の 根元を中に突っ込んで用を足しているらしい。当人にとっては便利なのだろうが、何度か生首を踏みかけたことがある ので傍迷惑である。待てど暮らせど麻里子は出てこなかったので、真琴は仕方なく自室に戻った。
 それが、あの日の夜の一部始終だった。




 新学期が始まった途端、麻里子は休学した。
 その理由は、妊娠していたからである。することすればそうなるだろう、と大人達は口々に言い、娘より年下の妻 を孕ませたジンフーの精力に呆れていた。中でも特に呆れていたのがリーマオで、自分より年下の後妻の腹から 生まれる腹違いの兄弟について複雑な心境を抱いていた。無理からぬ話である。体調不良の理由が解るや否や、麻里子は ヲルドビスからジンフーの邸宅に移り住んだ。その際に九頭竜邸のメイドを連れていったので、彼女とその腹の子 については心配はいらないだろう。それでなくとも、過保護すぎて攻撃的な父親とそれに輪を掛けて凶暴な夫が傍 に付いているのだから。
 麻里子の妊娠を切っ掛けに一騒動起きてしまったため、真琴は兄からの電話の件を話しそびれてしまった。曲がり なりにも怪獣使いの血筋の子ともなれば、綾繁家にとっても一大事なので、枢も想像の一端を 担っていたからだ。無論、枢を守る玉璽近衛隊特務小隊の面々もである。落ち着いていたのは海老塚甲治ぐらいな もので、羽生鏡護と鮫淵仁平は怪獣生態研究所の再開に向けて動いていたので、ここ最近は顔を見ることすら なかった。だったら佐々本モータースを尋ねようかとも思ったが、こちらも連日のように持ち込まれる故障車の修理と整備 で忙しそうだったので、声を掛けられなかった。
 だが、いつまでも黙っているべきではない。意を決し、真琴は枢の住まいへ向かった。エ・テメン・アン・キの居住 臓器が綾繁家の住まいだったが、そのエ・テメン・アン・キが滅んでしまったので、枢と彼女に従う怪獣達は宮様が 設えた家へと居を移していた。九頭竜邸と似通った作りで、武家屋敷に似た純和風の邸宅だった。横浜ではなく、 宮様の御所に程近い場所である。家紋が入った門を怪獣達が固めていたが、真琴が近付くと全ての怪獣が傅き、 門を開けてくれた。枢が操っているのか、ヒツギが言い聞かせているのか。いずれにせよ、兄のおかげで真琴まで が妙な立場を得てしまったのは間違いない。ありがたいようで、正直面倒臭い。
 玉璽近衛隊特務小隊隊員、田室秋奈上等兵が真琴を案内してくれた。枢の使用人として働きながら護衛として彼女の 身辺を警護しているのだそうだ。真紅の髪と目とそれに反比例した白さの肌は、最初に見た時は驚いたが、近頃は 見慣れてきた。秋奈が一歳年下だと知ったのは最近だが、帝国軍人なので敬語で接していた。

「事前連絡に感謝する」

「電話を一本入れて相手方の都合を確認するのは常識ですから。秋奈さん、枢さんはお元気ですか」

「大丈夫、問題はない」

 長袖で裾の長いメイド服を着ている秋奈は、分厚いレンズが填まったメガネを掛けていた。そのレンズには凹凸は なく、平べったいガラスでしかない。つまり、度が入っていない。真琴が訝ると、秋奈はメガネを掛け直す。

「注釈。私は視力は決して悪くないが、怪獣人間となった際に得た透視能力は常に発動しており、調子が良すぎると 己の瞼でさえも透かして見えてしまう。それによって心身が休まる暇がないということを辰沼技術少尉に訴え出た ところ、怪生研に掛け合って怪獣由来のレンズを填めたメガネを作ってくれた。それにより、メガネを掛けている際は 透視能力が制限されている。完全に封じられたわけではないが、楽であることは事実」

「慣れないうちは弦が痛いでしょう」

 秋奈のメガネは真琴のそれと遜色のない、野暮ったいセルロイド製の黒縁のメガネである。

「大丈夫、問題はない。時間の経過と共に慣れる」

 とは言いながらも、秋奈はしきりに耳元を気にしていたので、やはり耳が痛むのだろう。長い廊下を通り、障子戸 とふすまを横切り、怪獣達が庭木を手入れしたり落ち葉を掃いている庭を横目に進んでいくと、奥の間に至った。 二体の護国怪獣の雄姿が描かれているふすまの前で膝を付き、失礼いたします、と秋奈はふすまを開けた。

「真琴さんをお連れしました、枢様」

「あら……」

 ふすまが開くと、鮮やかな朱色の着物姿の枢が座っていた。その手元には少女向け漫画雑誌が広げられていて、 開かれたページの中では恋する少女とバラが散っていた。枢はそれに気付くと慌てて座卓の下に隠した。

「お、お気になさらず! 秋奈さんからお借りしたものですので!」

「大丈夫、問題ありません。来月号が発売されるまでは、存分にやきもきしていて下さい」

 読み終えられたら回収しにまいります、お茶も淹れてまいります、と言い残してから、秋奈は真琴を部屋の中へと 突っ込んだ。来客の扱いが乱暴である。秋奈の気配が遠のいていくと、枢は色白な頬に血を昇らせて俯いていた。 罪悪感と羞恥心からか、目を潤ませてさえいる。

「あの」

 真琴が躊躇いがちに声を掛けると、枢は着物の袖で顔を覆う。朱色の布地にクジャクが舞っていた。

「麻里子さんとジンフーさんの間にお子さんが出来ましたでしょう? で、ですから、私なりに調べてみようとした のですが、田室さん達からそれはそれはきつく止められてしまいましたの。それで、秋奈さんがまずは子供を作る過程 から知ってみたらどうかと仰って、それで、い……色恋沙汰の……漫画を……」

「はあ」

「ですけど、どれもこれも破廉恥なんです! ふしだらなんです! いやらしいんです!」

「へえ」

「だ、だって、年頃の男女が見つめ合うだなんて! 手を繋ぐだなんて! お茶を御一緒するだなんて!」

「うん」

「殿方と二人きりで同じ部屋にいるだなんて……ああっ! ああっ、いけません、真琴さんがいらっしゃる!」

「いや、別に何もしませんから。誤解を招くような発言はしないで下さい」

 真琴が窘めると、枢は真っ赤になった頬を押さえる。

「で、ですが……うう……」

「とりあえず、落ち着いて下さい。本題に入れないので」

「あ、あのぉ」

「まだ何かあるんですか」

「真琴さんは、悲姉様を好いていらしたと怪獣達から窺いました。どんなお気持ちだったんですか?」

「え」

 そんなことを聞かれても困るのだが。真琴は面食らったが、下座の座布団に腰を下ろしてから考え込んだ。枢が 興味深げに見つめてくるのが煩わしかったが、無下には出来ないのでそのままにしておいた。悲のことを考えると、 今でも息苦しくなる。やるせなくなる。切なくなる。だが、それは好意であると言えるのか。初恋だと思っていただけ であって、本質は全く別の感情だったのではないだろうか。確かに、光永愛歌は真琴が理想とする女性像だったが、 それはただの理想でしかないのでは。悲という女性の本質を知る前に、彼女は逝ってしまった。だから、真琴の中の 青臭い理想はいつまでたっても崩れやしない。なんて愚かしい。

「――――俺はまだ、恋なんかしたことない」

 きっと、恋することに憧れていただけだ。

「そうなのですか?」

 きょとんとした枢に、真琴は苦笑する。

「だから、その辺のことは俺じゃなくて他の人達に聞いた方が確実ですよ」

「そうですか、失礼なことをお尋ねして申し訳ありませんでした。それで、今日はどのような御用事で?」

 枢は平静を取り戻すと、真琴の向かい側に座って佇まいを直した。

「先月のことなんですが、兄貴から電話が掛かってきたんです」

「狭間さんから!?」

 枢が身を乗り出すと、それと同時にふすまが開いて秋奈が現れた。

「お茶をお持ちいたしました。それと、事の次第を隊長に報告しますので失礼いたします」

 お茶は真琴さんがお出し下さいませ、と秋奈は御茶請けと湯のみと急須を載せた盆を置くや否や、メイド服の裾を 翻して小走りに去っていった。軍人とメイドの掛け持ちは大変だ。真琴は言われた通りに湯飲みと桜の形をした 練り切りが載った小皿を座卓に載せると、枢が明らかに渋い顔をした。

「和菓子、嫌いなんですか」

「和菓子は嫌いではないですけど、こうも連日のように出されると飽きるんです。ヲルドビスで頂いた御菓子は、 甘くてこってりしているのにふわふわしていて、ほろ苦いのに舌触りが滑らかで、ぴりっと洋酒の風味が効いていて、 それはそれはおいしかったのですが……また餡子ですか……」

 二つともどうぞ、と枢は皿を差し出してきた。

「それと、私は玉露よりも牛乳がたっぷり入った御紅茶の方が好きです。角砂糖は二つ欲しいです」

「随分と性格が変わりましたね」

「いえ、私は何も変わっておりません。ただ、もう少し欲望に忠実であってもいいのだと悟ったまでのことです。怪獣 使いと言えども人間です、そして私は子供です。綾繁家の当主とはいえ、それは形だけであって何人もの代理人の お力を借りているのであり、私自身が偉いわけでもなんでもないのです。その上、今日は休日なのです。真琴さん がお尋ねになるというから、用事をお断りして時間を作ったのですから、おやつぐらい好きなものを頂きたいのです。 それを願うのは、罪深いことなのでしょうか」

「心底不満げな顔ですこぶる下らないことを言いましたね」

「こんなこと、他の誰にも申せないからです」

「俺をなんだと思っているんですか」

「…………お友達、ではないのですか?」

 枢が照れ臭そうに呟いたので、真琴はどう言ったものかと迷った。兄の件がなければ接点が生まれるはずもない 相手であり、真琴は帝国陸軍やら何やらとは無関係なので上下関係でもなんでもなく、やんごとない家柄の当主と 平民の高校生を繋げるものはない。増して、肩を並べられる間柄ではない。友達とは対等な者同士を指す言葉で だと真琴は考えているので、この表現は正しくない。真琴がそう言おうとしたところで、ふすまが開いた。

「真昼間から若い男女が密室に籠っているだなんて、不健全すぎていっそ健全じゃないか」

 ああやれやれ、とネクタイを緩めながら無遠慮に入ってきたのは、スーツ姿の羽生だった。ジャケットとスラックス は地味なグレーだが、ネクタイは光沢のある紫と黄色でワイシャツは水色という毒々しさだった。

「お久し振りです、羽生さん。どうしてここにいらっしゃるんですか」

 真琴が問うと、羽生は胡坐を掻いた。すかさず枢が玉露と練り切りを差し出すと、羽生はそれを口にした。

「何ってそりゃあ、仕事に決まっているじゃないか。真琴君こそどうしたんだい、珍しいね。あ、このお茶は秋奈君の 淹れたやつか。道理で渋すぎるわけだ、ああおいしくないねぇ、おいしくないねぇ。玉露の甘さが死んでいる」

「羽生さんは、宇宙怪獣戦艦を火星と地球の間で運行すると仰っているのですが」

 半信半疑とでも言いたげな枢に、真琴は返す。

「羽生さんが出来ると言うなら出来るんでしょう」

「そうとも、この優れ過ぎて何物も追いつけない頭脳を生まれ持ったが故に多忙を極める僕が言うんだ、確実だ」

 ああ甘いね、餡子の固まりだよね、と羽生は練り切りを食べ終えてから真琴に向く。

「それで、狭間君から電話があったそうだけど、それは本当に狭間君だったのか? 狭間君の声を模倣した怪獣の ペテンであるとは思いたくないが、そう思わざるを得ないのがこの僕でね。彼しか知り得ない情報があれば、信用 するに値するんだが。……そうだな、この僕が我が子に付けた名前でも知っていたら、疑う余地はないんだがね。 満月に宛てた手紙にしたためたんだが、一切口外はしていないんだ」

「ええと……」

 真琴はカバンの中からノートを出すと、口頭で説明するよりも早いと字を書いた。螢。

「――――信じるしかなさそうだね」

 羽生はその字を凝視した後に頬を緩めたが、すぐさま立ち上がった。そうと解れば仕事を急がないと終わるもの も終わらないからなっ、と再度ふすまを開けて出ていった。落ち着きのない男である。それからしばらくして、今度 は特務小隊の面々が押しかけてきた。ライキリとタヂカラオがやけに元気で、情報を全て寄越せとうるさいんだ、と その持ち主である田室正大中佐が辟易していた。真琴は兄との電話の内容を洗いざらい喋ったが、人間は満足しても 怪獣は満足せず、夜が更けるまで話し込まされた。
 怪獣同士、積もる話があるのだろう。






 


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