横濱怪獣哀歌




月面天女



 月の裏側には、モノリスが浮かんでいた。
 黒く滑らかな長方形の立方体で、全長は三十二メートル。表面に凹凸は一切なく、体表面は美しい平面だが 光沢はなく、太陽光の切れ端や月が撥ねた光を一粒残さず吸い込んでいる。これもまた怪獣だが、地球生まれでは ないと狭間は感付いていた。なぜなら、怪獣電波の波長が全く違うからだ。モノリスの意思や意識は伝わってくるが、 明文化出来るほどはっきりしたものではなく、整然としているのに掴みどころがない。
 そのモノリスの後方、月の裏側に身を潜めているのが大陸怪獣レムリアだった。形状はアトランティスに酷似して いるが大きさは小さめで、全長三〇キロ前後といったところだ。その内部の居住臓器では厄介な感染症が蔓延している とあっては、迂闊に近付けない。アトランティスの内部でも細々としたトラブルが起きていたが、騒ぎが大きくなる前 に収拾を付けていたのでなんとかなっていたが、ゾンビ風邪ともなるとそうもいかない。となれば、レムリアの居住 臓器から物資の補給を受けることを諦め、出来るだけ早く地球に向かった方がよさそうだ。
 その旨を伝えるため、狭間は今一度地球へと電話を掛けた。古代喫茶・ヲルドビスではなく玉璽近衛隊か綾繁枢に 連絡すべきだと思ったのだが、連絡先を知らなかった。なので、電電公社の交換台怪獣に繋いでもらうように 頼み、狭間は受話器を耳に当てて長々と待った。相手方の受話器が上がったのは、それから十数分後だった。

『…………どちら様でしょうか?』

 少しの間の後、訝しげな声が返ってきた。綾繁枢だった。

「あ、枢さん? 俺だよ、狭間だ」

 狭間が話しかけると、やや間を置いてから枢が応えた。

『…………狭間さん!? 今、どちらにおられるのですか!?』

「月の裏側だ。モノリスが見える。あと、大陸怪獣レムリアもだ」

『…………では、地球までもうすぐなのですね!?』

「そうなんだ。だから、その辺のことを政府と軍に知らせておいてほしい。それと、レムリアの居住臓器の中で ゾンビ風邪が蔓延しているそうだから、月への渡航を規制してもらってほしい。流行ったら大変だから」

『…………心得ました。皆様にそう伝えておきます。狭間さん、お元気そうで何よりです』

「こうして電話していると、今生の別れを交わしたとは思えないな」

『…………火星に比べれば、月と地球は御近所さんのようなものですからね』

「実際、そんな感じだからな」

『…………ツブラさんは御元気ですか?』

「今し方、結婚式を挙げた。それから、写真を撮った。紋付き袴と文金高島田で」

『…………まあ!』

「フィルムは地球に持っていってもらうから、そっちで焼き増しするといい。そっちに変わりはないか?」

『…………あの』

「なんだ」

 急に枢が口籠ったので、狭間が問い返すと、長い長い間の後に枢は小声で述べた。

『…………真琴さんが、綾繁家に婿入りして下さると仰ったのです』

「うぇっ!?」

 なんでそうなるんだ。狭間は面食らったが、少し考えた後に言った。 

「とりあえず、その、おめでとう。ええと、今、枢さんは十二歳で真琴は二十歳だから……」

『…………四年後です』

 ちょっと気恥しげな枢に、狭間は複雑な気持ちになった。真琴はそれでいいのか、なんでよりによって枢さん なんだ、俺だって人のことは言えないけど、でもまあ当人同士が納得しているならそれでいいのか、と逡巡していたが、 枢の背後から物音が聞こえてきた。どうやら、取り込み中に電話を掛けてしまったようだ。

「ああ、悪い。そっちの都合も聞かずに長々と話してしまって」 

『…………いえ、お構いなく。今、怪生研の御用事で鮫淵さんがいらっしゃっていたのです。よろしければ、 御電話、お変わりしましょうか?』

「そうだな、それがいい」

 狭間は興味深げに黒電話を眺めている少年を一瞥し、ふと思い立った。

『…………あ、えと、どうも、狭間君。鮫淵ですけど』

 枢に代わり、いつもと変わらぬ腰の引けた声が電話口から聞こえてきた。

「鮫淵さんも御元気そうで何よりです。それで、急にこんなことを言うのもなんですけど」

 狭間はアプスーの存在とその出生について、出来る限り詳しく説明した。彼の性格や、生まれ持った体質による 弊害や、それに伴って起きた出来事を伝えた。その間、鮫淵はじっと押し黙って耳を傾けていた。長い前置きの後、 狭間は本題に入った。身寄りもなければ行くあてもない少年を引き受けてくれないか、と。

「無理を言っているのは解っています。鮫淵さんには怪生研の仕事も研究もあるでしょうし、御自身の生活も 大事ですから。どうしても無理だと仰るのなら、俺の方でなんとかします」

 長い、長い間が空いた。

『…………うん、解った。えと、その、僕なんかでよければ』

「本当にいいんですか?」

『…………えと、その、自分から頼んできたのにその言い方はなんだろうってちょっと思ったけど、まあ、でも、その アプスーって子が大人になるまでは付き合ってもいいかな。それに、連れ合いがほしかったし。怪生研のゴタゴタ が落ち着いたら、怪獣を調べて回る旅に出ようかと思っていたというかで。だから、うん。それと、僕はあんまり 絵は上手くないから。写真もそんなでもないから。だから、怪獣のスケッチをしてもらえるなら、うん』

 鮫淵の柔らかな言葉を聞き終えてから、狭間はアプスーを手招きし、受話器を押し付けた。

「地球に行ったら、この人がお前と一緒にいてくれるんだそうだ。アプスー、挨拶しておけ」

「ん?」

 アプスーは訝しげだったが、見よう見まねで受話器を耳に当てて話しかけた。それから、二人は会話し始めたが、 どちらも自分のペースで話すのでのんびりしていた。途切れ途切れの単語しか使えないアプスーと、体言止めばかり で曖昧な言い方をする鮫淵は、なんだかんだで会話が成立していて意思の疎通も出来ていた。この様子からして、 二人は仲良くやっていけそうだ。狭間はツブラを抱き寄せ、安堵のため息を零した。
 これで、心置きなく月へと旅立てる。




 シビックには、嫁入り道具ならぬ婿入り道具が運び込まれた。
 住民達が寄付してくれた家財道具一式、件の紋付き袴と文金高島田、一週間分の食料、友人達からの餞別などが 詰まった箱が後部座席とトランクに押し込まれた。おかげで後輪が凹んだが、ツブラが頑張ってくれれば走れない こともない。レムリアへの移動手段は、アトランティスの刺胞に入れてもらって発射してもらう、という方法を取ること にした。管を伸ばしてレムリアに繋げるのもいいのだが、そうするとゾンビ風邪の原因となる微生物が管を通じて アトランティスに流入してしまいかねないし、月に接近しすぎると離れる際に余計な体力を浪費してしまい、その せいで地球の周回軌道へ突入する段階でミスが起きたらこれまでの苦労が水の泡だ。なので、アトランティスへの 負担が最も少なく済む手段を考え抜いた結果、刺胞を使う手段を思い付いた。
 旅立つ前に、狭間とツブラは世話になった人々と怪獣達に挨拶をして回った。無事現像された結婚写真を手に し、ツブラと結婚したことを触れ回った。両親はその様を遠巻きに見守ってくれていて、挨拶回りが終わってからは ささやかながら宴席を設けてくれた。居住臓器の中では貴重な酒を振舞い、ツブラにはこれまた貴重な砂糖を溶かした 甘い水を飲ませてくれた。狭間が産まれてから今に至るまでの苦労話を散々聞かされて、うんざりする一方で 無性に切なくなった。二人が狭間とツブラの関係を知ってから、認め、許すまでには相当な葛藤があっただろう。 そして、今一度、自分の親の心の広さを知った。両親がおかしな言動をする息子を叱り付けずにそのままにして おいてくれたから、狭間は自分の体質を疎みながらも憎みはしなかった。だから、ソロモン王になれたのだ。
 軽い酔いを味わいながら、狭間はアトランティスが映し出している偽物の夜空を見上げていた。居住臓器の内壁に アトランティスが目にした宇宙を映像として浮かび上がらせているので、白い月と青い地球があり、なんだか妙な 気分だった。狭間は最後の一本になってしまったアメリカンスピリッツを銜えると、火を灯し、ゆっくりと吸った。

「思えば遠くへ来たものだなぁ」

 狭間に声を掛けてきたのは、野々村不二三だった。アトランティスでの日々で退屈凌ぎに体を鍛えていたので、 全体的に筋肉の厚みが増している。だが、鍛えすぎてしまったらしく、近頃では鳳凰仮面の衣装が入らなくなって しまったそうだ。地球に帰ったら仕立て直すのだろう。

「野々村さん、今まで御世話になりました」

 狭間が一礼すると、野々村は首を横に振る。

「それを言うべきは我々だ。狭間君が来てくれなければ、皆、火星に骨を埋めていただろう」

「千代やシュヴェルト先生達は元気にやっていますかね」

「なあに、心配はいらない! 人間も怪獣も、生きていれば生きていける!」

「暴論ですけど真理ですね」

「そうだろう、そうだろう!」

 野々村は満面の笑みで大きく頷いていたが、ふと真顔になる。

「やっと、鳳凰仮面の結末が書けたんだ。あの男は俺の手に負えないほど強くなってしまったから、並大抵のこと では屈しなくなった。だが、紙芝居を盛り上げるためには危機を作る必要があり、それ故に鳳凰仮面と関わった登場 人物達は次々に不幸になっては命を落としていった。次回への引きを強くするため、これで助かったというところで また新たな敵やらピンチが訪れて、そして次回では呆気なく死んでしまう。鳳凰仮面はその悔しさをばねに更に強く なるのだが、歯痒さは計り知れない。俺はそれをどうにかしてやろうとして、あの話を書いた」

 鳳凰仮面、十三話。突如現れた地底人に少女が攫われ、鳳凰仮面は地底人を追って地下帝国に潜入し、少女を奪還 すべく地底人と拳を交える。だが、地底人の正体はかつての相棒であり、以前は鳳凰仮面と組んでヒーローとして 戦っていた男だった。彼は言う、俺は地下帝国の生まれだ、祖国は滅びに瀕している、だから地下帝国を浮上させる 必要がある、その娘は生贄にするために攫ったのだ、祖国の民は俺の帰りを待ち侘びている、そして地下帝国が滅び から逃れることも信じている、その気持ちを裏切れるものか、と。

「友人を倒すのは簡単だ。少女を見殺しにして多数の人々を救うのもまた正義だ。二人を生かした上で、地上を守る ために地下帝国を滅ぼしに行くこともまた正義だ。だが、それは鳳凰仮面ではなく、あの頃の俺が思い付いたことで しかなかったんだ。だから、あれは鳳凰仮面の正義ではなく俺の正義でしかなかった」

 鳳凰仮面、十四話。鳳凰仮面は葛藤の末、生贄にされようとしている少女を救った。そして、かつての相棒と 拳を交える。そして、鳳凰仮面はかつての相棒を倒してから脇に抱え、地下帝国と地上を繋ぐ穴を開けてから、英雄 を取り戻したくばこの俺を倒すがいい、地下帝国の民よ、と宣言してから地上へと脱した。それを追って、地下帝国 の民は次から次へと外に出てくる。地上は大混乱に見舞われるが、鳳凰仮面は彼らを従えてひたすら逃げる。逃げて 逃げて逃げた先には、怪獣が待っていた。その居住臓器に民達が収まると、鳳凰仮面は友人を解放する。そして、 ここが新たな祖国だ、平和に過ごしたまえ、と言い残して立ち去った。それから、少女を家族の元まで送ってやり、 鳳凰仮面は七色のスカーフを翻しながら夜の横浜に消えていった。

「最終回、大受けでしたね」

 野々村の紙芝居は、娯楽の乏しさも相まって大人気だった。最終話である十四話を上演する日は、子供達だけで なく大人も押し寄せてきた。そこで、野々村は鳳凰仮面を堂々と演じ切り、盛大な拍手を浴びていた。

「ご都合主義の下らないものを見せるなと言われるかと思ったが、そうでもなかった。むしろ、都合が良すぎても いいから誰も彼もが救われる話が見たい、と切望された。俺もそういう話が読みたかった。だから、鳳凰仮面が全て を救うことが出来て心底ほっとしている。作り話というのは、過酷な状況下では救いになるんだ。紙芝居を見た人々 がそうである以上に、俺も鳳凰仮面に救われた。全く、大したヒーローだ」

 感慨深げに述べていたが、野々村はにいっと笑った。

「これからどうなるかは解らんが、まあ、どうにかなる!」

 野々村は狭間の背を力一杯引っぱたいてきたので、狭間はつんのめってタバコを落としかけた。

「おうあっ!」

「だが、どうしても辛いことがあれば、いつでも鳳凰仮面を呼ぶがいい! 全力で助けてやろう!」

「お気持ちだけ受け取っておきます」

「なあに、遠慮することはない! 衣装も受け取ってくれればいい!」

「サイズが合わなくなったからって押し付けないで下さい、あんなの二度と着ません!」

 この勢いでは、本当に鳳凰仮面の衣装を渡されてしまいそうだ。さすがにそれだけは勘弁願いたいので、狭間は 野々村から離れるべく、夜道を歩いた。普段は静まり返っている家々もざわついていて、皆、地球に帰れる瞬間を 楽しみにしている。かつてはマリナー一族が住んでいた丘を見やると、偽物の月光の下、長い触手をたなびかせる 影が歌声を紡いでいた。その歌に自分の歌を重ねながら、狭間は彼女の元へと向かった。
 それから五時間後、シビックを詰めた刺胞が月面へと発射された。





 


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