横濱怪獣哀歌




月面天女



 モノリスの脇を過ぎり、月面へと向かう。
 大小様々なクレーターが連なる地表へ近付いたが、すぐにはレムリアの位置が把握出来なかった。体表面の色を 変えて擬態しているので、遠目からでは見分けが付けられない。シビックが入れられた刺胞は月の軌道をぐるりと 一巡して徐々に高度を下げ、黒く陰った領域――モスクワの海を通り過ぎてからしばらくすると、クレーターの底 から細長い触手が伸びてきた。それは器用に刺胞を絡め取って減速させると、するすると縮んでクレーターの底へ と戻っていった。隕石に抉られた穴にぶつかる、かと思いきや、ぬぽんと柔らかな液体の中に没した。どうやら、 このクレーターもレムリアの擬態の一部だったらしい。
 触手に導かれるまま進んでいくと、空間が開けた。アトランティスよりも手狭ではあるが、人間が生きるための 環境はきちんと整えられている居住臓器だった。空も青く、地面には青々と草木が生い茂っていて、畑や民家もある が、人影は見受けられなかった。ツブラはボンネットから顔を出して触手を伸ばし、刺胞の膜を破ってからシビックを 発進させたが、狭間は念のために車内に留まっていた。ゾンビ風邪患者達の呻き声が至るところから聞こえてきて、 怪獣達も不安げにざわめいていた。
 細い道をとろとろと走っていくと、細長い形状の怪獣が横たわっていた。長い鼻面に一対のツノに硬いウロコに 覆われた肢体、ヘビを思わせる体形で、全長は一〇メートル前後といったところか。その怪獣の前には、着物姿の 女性が佇んでいたが、防毒用マスクで顔全体を覆っていた。

「お待ちしておりました」

 長い髪を結い上げている女性は、深々と一礼した。

〈これが人の子と天の子か。なるほど、こいつがなぁ〉

 ヘビに似た怪獣は一対の牙が生えた口を広げ、女性の背後で鎌首をもたげた。

〈俺はウワバミだ。そして、この女は久美だ〉

「どちらも存じ上げています」

 狭間は車中から返事をすると、どうぞこちらへ、と久美は奥を指し示した。

「ゾンビ風邪を罹患した方々は家に閉じ込めてありますが、病原体は空気中に漂っておりますのでご注意を」

「久美さんは大丈夫なんですか?」

「私は以前にゾンビ風邪に掛かったことがありまして、抗体が出来ているのです。ですが、もう一度患わないという 保証はありませんので、用心しておくに越したことはないのです」

 久美はウワバミの鼻先に腰掛けると、ウワバミはゆっくりと起き上がり、這いずりながら移動した。

〈レムリアに住んでいた連中は怪獣中毒がひどいから、その分、長引いちまっているのさ。あの手の病気は、人間の 体に蓄積した怪獣の毒素と人間が生まれ持ったものが反発し合って出来ているものだから、怪獣の毒素が抜け切るか 人間の体が折り合いを付けないと、治るものも治らないんだよ。怪獣の毒素を排出させるための薬を使うと治るのは 早くなるんだが、生憎、レムリアにはその薬を作れる人間がいなくてな〉

「元を正せば、レムリアの居住臓器の調子が悪くなっていたのが原因だったのです。水と土を濾過して循環させるため の居住臓器が――人間でいうところの腎臓なのですが――光の巨人との接触によって動きが鈍くなってしまい、そのせいで 皆さんはレムリアの体液が多分に混じった水を飲んでしまい、更にゾンビ風邪に罹患した方が地球から転送されてきたので、 今に至ります。私の場合は皆さんとは逆で、怪獣中毒手前の状態でいなければ心身に不調を来す体質なので平気なのです。 むしろ、調子がいいぐらいで」

 少々怪獣電波を交え、久美は語りかけてきた。そうでもしなければ、車の中と外で会話が成立するわけがない。 なので、狭間も怪獣電波を併用しながら答えた。

「ああ、なるほど。そういう事情だったんですか。久美さんのことは知り合いからお聞きしていたんですが、長らく 臥せっていた理由が解りました。ということは、ウワバミの元に通い詰めていた理由もそれなんですね」

「ええ、そういうことなのです。私の体質を理解して頂けたのなら何よりです」

 あちらです、と久美が示した先には透き通ったドームがあった。その中には、こぢんまりとした家と田畑があり、 川も流れていた。よく見るとドームと地面は繋がっておらず、完全に独立していた。

「レムリアが粘液を分泌して作ってくれた居住区です。アトランティスはどちらかというと男性的ですが、レムリアは 女性的で、なんというか水っぽいのです。ですから、粘液を利用することが出来るのです」

「中にある家は、久美さんの御宅ですか?」

「いえ、違います。レムリアが狭間さんのことを知ってから、造り上げたのです。私はこの居住臓器で暮らしている方が 快適ですし、あの中は狭すぎてウワバミが入りませんから」

 私の家はこっちです、と久美が反対方向を指したので、狭間は振り返った。リアガラス越しに見える街並みの 中に、一際立派な土色の邸宅が建っていた。平屋建てなのだが、いやに凝った造りで屋根はウワバミのウロコに似た 瓦がびっちりと並んでいる。狭間がそれを視認した途端、ウワバミの怪獣電波が乱れたので、彼が久美のためだけに 張り切って造ったのだろう。狭間がちょっと笑うと、久美が恥じらい、ウワバミが自慢げにした。という怪獣電波が 飛んできた。ツブラは二人を見やったが、よそはよそ、とでも言いたげな顔をしていた。
 入り口はどこかと探す前に、粘膜に穴が開いた。シビックが入り、ウワバミも入ってきたが、半分ほど入ったところ で閉じてしまったので体の下半分は外に出たままだった。だが、ウワバミはしれっとしているので平気なのだろう。

「では、約束のものを」

 シビックの車外に出た狭間は、怪獣の骨を加工して造ったナイフを取り出し、髪を縛る紐の根元に添えて一気に 切り裂いた。ろくに手入れもしていなかったので、毛先がかなり傷んでいる。切り落としたばかりの髪束を久美に 手渡すと、久美は数本の髪を抜いてウワバミに銜えさせた。地脈怪獣は先が割れた舌で細い髪を舐め取り、喉を 鳴らして飲み下してしまうと、膜の向こう側で尻尾をばたつかせた。

〈なるほど、これが人の子の――――いや、違うな。ハザママヒトの味ってやつか。悪くねぇな〉

「え」

 怪獣から名前を呼ばれる日が来るとは思ってもみなかった。狭間が面食らうと、今まで黙していたレムリアが穏やか な怪獣電波を放ってきた。膜の外側の地面が震え、風が起きる。

〈天の子、いえ、ツブラが何度となく歌って聞かせるから、私達も覚えてしまったのです。人間の感覚では、地球の 緑の丘として聞こえているようですが、怪獣言語ではこう歌っているのです。彼は人の子ではない、私の愛する人間、 私の永遠の伴侶、狭間真人。そして私はイナンナではない、私はツブラ、彼の永遠の伴侶。聞いているのが恥ずかしく なるような歌でしたが、聞き流せるものでもなかったので……〉

「気付かなかった……」

 狭間が呆気に取られると、派手な音を立ててシビックのボンネットが閉まった。

「おい、ツブラ」

 狭間がボンネットを叩くと、ヤーン、とか細い声が返ってきた。惚気るのは一向に構わないのだが、手段を選んで ほしかった。だが、悪い気はしない。しかし、恥ずかしいものは恥ずかしい。その様子を見、久美が肩を震わせて いた。笑っているのである。ついでにウワバミもがしゃがしゃとウロコを鳴らしていた。大笑いしている。

「まあ、その、その辺のことは後で二人で話すとして、久美さんはこれからどうするんです? 地球には、弟さん がいらっしゃいますが。あと、アトランティスには弟さんの奥さんとお子さん、姪御さんもいまして」

 狭間は気まずさを誤魔化すために話題を変えると、久美は笑みを収めた。

「鏡護と御知り合いなのですか? 理屈っぽくて口が回って嫌になるほど頭が良い子でしたが」

「それはもう、大変お世話になりました。というか、羽生さんは昔からああいう性格なんですね」

「ハブ……ああ、鏡護を引き取って下さった方の御名前ですね。そうですね、会えるものなら一度会ってみたいもの です。ああいう性格ではありますけど、鏡護は優しい性分の子でしたから。私が臥せっていた時も、様子を見に来て は本を置いていってくれたものです。弟のお嫁さんとそのお子さんとも、いずれお話ししたいですね。こんなにも近く にいるのにお会い出来ないのは残念です」

「月の表側には駅と基地がありますが、そちらから地球に帰るというのは」

「その方法を考えたこともありましたけど、私は怪獣電車に乗れるほどのお金を持っていませんから」

「だったら、怪獣達に掛け合って地球に電話を掛けられるようにしておきます。電話番号が解らなくても、怪獣達に 頼めば繋いでくれるはずですから。そうすれば、誰かがなんとかしてくれるはずです」

 狭間は荷物を掘り起こしてから黒電話を出し、久美に渡す。久美は古めかしい機械を抱え、一礼する。

「ありがとうございます。大事にします。ですが、狭間さんが不自由なさるのでは?」

 久美の懸念に、狭間は側頭部を小突く。

「俺を誰だとお思いで? 地球と月の間程度なら、怪獣共を経由すればなんとかなります」

「ウワバミがあなたのことをソロモン王と称している時がありましたが、そのことを指していたのですね」

「そういうことです。こちらこそ、お会い出来てよかったです」

 狭間は返礼してから、レムリアを仰ぎ見る。

「色々と気を回してもらったのはありがたいが、お前が俺にそこまでしてくれる理由はなんなんだ?」

〈月の裏側にはモノリスが浮いているでしょう? あいつは外の宇宙から来た怪獣なんだけど、ハザママヒトに興味を 抱いているようなのよ。だけど、ハザママヒトは地球のものよ。ツブラのものよ。そして、怪獣の未来を切り開いた ものよ。そんなに大事なものを、余所者の怪獣なんかに渡せるわけがないわ。だから、今度は私達がハザママヒトと ツブラを守ってやるのよ。御節介かもしれないけどね〉

「いや、ありがたいさ。だが、必要最低限でいい。俺が出来ることは自分でやる。そうでないと、鈍っちまうからな」

〈ええ、そう言うだろうと思ったわ。それでこそ、我らがハザママヒトだもの〉

 レムリアが微笑んだのか、怪獣電波に温かみが宿った。あばよ、と言い残してウワバミが後退していくと、その鼻先 に腰掛けている久美も手を振りながら去っていった。薄膜の外に出る前に彼女は防護マスクを外してみせたが、きつめに 吊り上がった目と細面の顔立ちは弟にとても良く似ていた。羽生より一回り年上なので不惑を越えているが、衰えよりも 年を重ねた落ち着きと品の良さがあった。再び礼をしてから、狭間は新居を見渡した。
 薄膜で作られた球体は宇宙空間を漂った後、小さなクレーターに収まった。




 怪獣の骨と皮で組まれた家は、ただの箱でしかなかった。
 窓はあれどもガラスはなく、床はあれども土台が剥き出しで、柱と枠はあれども戸板はない。怪獣が見様見真似 で人間の住処を作ってみた、というだけでしかないが、レムリアの努力は認めざるを得ない。外観は洋風で、壁は 簡素なのに屋根だけは立派で、駒形切妻屋根が備わっていた。水場と思しきものはあるが、水道管のようなものは 筒ではなく棒で、風呂場に至っては風呂桶の底が抜けていた。働き甲斐があるというものだ。
 荷解きを済ませてから、狭間は戸板のない部屋の床を拭いてから、布団を敷いた。砂糖水と酒で引っ越しを祝い、 例の結婚写真を写真立てに入れた。それから、あかねの餞別である鏡台を置いた。鏡に被せられている布を 剥がすと、赤い目が現れてぎょろついた。地球で製造されたガラス製品は、一つ残らず探求怪獣ミドラーシュの意思 が宿っている。ついに、あの時の約束を果たす時が来た。

「ミドラーシュ、俺達が見えるか?」

 狭間が意を決して話し掛けると、赤い目がにんまりと細められる。

〈ああ、よく見えるとも。ハザママヒトとツブラが火星に腰を据えたら、覗き見するのも一苦労だと案じていたんだが、 月にいるのであれば問題はない。光の巨人がいなくなったから、電波障害も起きないからな。さあ、君達の初夜を存分に 見せてくれ! シビックのフロントガラスを通じて初体験は拝んだが、初夜と初体験は別物なんだ!〉

「スケベにも程があるだろ」

 居たたまれなくなって狭間が顔を逸らすと、ごとごとと鏡台が動いてミドラーシュが迫ってきた。

〈これもまた怪獣と人類の未来のためだ! 解るだろう、ハザママヒト! 怪獣と人間が通じ合えるという証拠を 数多の怪獣達に知らしめることで、怪獣と人間の隔たりは更に狭まるだろう! それによって、黄金時代をも上回る 時代が訪れる可能性もあるのだから! さあさあさあ、私に見せてくれ! 君達の初夜を! 私だけでなく、怪獣達 がこの時をどれほど待ち侘びていたことか! さあさあさあさあさあっ!〉

「見セナキャ、ダメ……?」

 毛布を被っていたツブラはそっと目を覗かせたが、羞恥心で潤んでいた。

「ミドラーシュの力を借りなきゃ切り抜けられない場面があってな、勢い余って訳の解らん約束をしちまったんだよ。 だから、責めるなら俺を責めろ」

 狭間が苦笑すると、ツブラは怖々と鏡台を窺ったが、小さな唇を結んだ。

「頑張ル」

「無理しなくてもいい」

「ダッテ、ツブラ、オ嫁サン」

 ツブラは毛布から抜け出すと、箱の中から白無垢を引っ張り出して被った。着付けも何もなく、白い布が赤い触手 と幼い肢体を覆っただけでしかなかったが、その白さは薄暗い部屋の中では眩しすぎた。赤い瞳は頼りなく視線を 彷徨わせていたが、狭間を捉えると、ちょっと照れ臭そうに唇が綻んだ。ミドラーシュが黙り、狭間に興味津々の怪獣 達も黙り、全ての怪獣電波が途絶える。それにより、狭間は全てが許されているのだと悟った。これが怪獣達なりの 祝福なのだとも察する。人の子ではなく、天の子でもなく、一人の男と女に成れたのだと。

「俺の」

 狭間はツブラの顔を覆う白い布を剥がし、赤い触手に指を通す。柔らかく滑らかな、彼女の本体。

「ウン」

 ツブラは狭間の指の感触を味わい、微笑む。

「俺の命、好きなだけ喰わせてやるよ」

 だから、まずはお前を喰わせろ。そう言って、狭間はツブラを押し倒す。目を合わせて粘膜を重ねると、どこの誰に 見られていようが気にならなくなった。耳が痛むほどの静寂を切り裂き、束の間の昼を無駄にして、長すぎる夜を 費やして、時間と命を燃やした。自分の欲深さと彼女の貪欲さは衰えず、何度かの微睡みを経て、ようやくどちらも 満たし切った。初夜と呼ぶには長すぎる夜が明けると、地球の向こう側に太陽が昇った。
 白い布を翻し、赤い触手をなびかせ、愛しい怪獣は踊る。安いタバコの薄い煙越しに、愛し抜いた女を見つめる。 気怠さすらも心地良く、舌に絡み付いた彼女の体液は緩やかな死の味がする。遥か昔、かぐや姫と呼ばれた人型 怪獣は地球で育った後に月へと帰ったが、その後はどうしたのだろうか。神話怪獣の役割を終えて命を終えたか、 それとも近代の怪獣として長らえているか、或いは太陽系外のの宇宙へと旅立ったのだろうか。そのかぐや姫が どれほど美しくとも、俺の妻には敵うまい。最後のゴールデンバットを吸い終え、狭間は宇宙を仰いだ。
 妻の歌声に、夫の歌声を重ねた。





 


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