横濱怪獣哀歌




埠頭トイウ名ノ荒野



 テラサキの温情で、狭間は海に向かって嘔吐することだけは許された。
 だが、そんなものが嬉しいわけがない。疲労と乗り物酔いと極度の恐怖とその他諸々で胃腸が痙攣した狭間は、 ほとんど消化しきった夕食を横浜港に投じた。闇の凝固物のような海面に胃液混じりの唾液を吐き捨ててから、 呼吸を整えていると、背中を蹴られそうになった。咄嗟に体を転がして回避したが、狭間を蹴ろうとした暴走族は ビスまみれのブーツでこれ見よがしにコンクリートをにじり、下手くそな英語で罵倒してから去っていった。
 これは悪夢だ。いや、もっとひどい。ふらつきながら立ち上がった狭間が目にしたのは、横一列に並んだヘッド ライトだった。一〇台や二〇台ではない。いずれも仰々しい改造車で、車列の間に立っている男も女も常軌を逸した 格好をしている。彼らに比べれば、愛歌のピンク色の髪とオレンジ色の瞳など可愛い方だ。
 ――――獣の群れだ。
 狭間の脳裏にそんな言葉が過ぎる。誰も彼も凶暴性を露わにしていて、牙を見せびらかして噛み付く相手を探し、 爪を砥いでいる。彼らの行き場のない生命力を受け止めて、形にしてくれるのが服装であり、車なのだ。そして、 その車に搭載されている動力源の怪獣達は、運転手と同乗者にすっかり感化されていて語彙も暴走族らしくなって いた。怪獣達は見た目こそ厳ついが、中身は純粋なのだ。
 その猛獣の群れを率いるボスは、言うまでもなくテラサキだった。彼の愛車である真紅のサバンナRX−7は一際 入れ込んでいて、しきりにエンジンを蒸かしている。競馬であれば、真っ先に予想から外されてしまうだろう。愛車の ボンネットに軽くもたれかかっていたテラサキは、狭間の吐き気が落ち着いたと見るや、近付いてきた。不良共から 声援を受けたテラサキが手を振った際に、彼のスカジャンの柄が見えた。見事な千手観音を背負っていた。

「んじゃ、一発やろうぜ」

「はい」

 この状況で断れるわけがない。狭間は後輪を空転させ続けているバイクと、そのバイクを心配そうに眺めている ツブラを窺った。外見は幼い子供であるツブラに暴走族達は並々ならぬ好奇心を抱いているのか、あちらこちらで 下品な憶測が飛び交っている。そんな連中に、ツブラがシャンブロウだと知られたらただでは済まない。レース中に ツブラにちょっかいを出されでもしたら、ツブラは泣き喚いて暴れ出してしまいかねない。そんなことに なったら始末に負えないので、ツブラを手元に置いておかなければ。

「テラサキさん、ちょっといいですか」

「んだよ。今度はションベンか」

「あの子を乗せてレースしてもいいですか」

 狭間がツブラを指すと、テラサキはサングラスの奥で目を丸めた後、馬鹿笑いした。

「ぐひゃひゃははははははははははは、コブ付きでレースするなんて聞いたことねぇや!」

「そりゃ俺もですけど」

 背に腹は代えられない。狭間は不安げに手を握ってくるツブラを宥めつつ、笑い転げているテラサキを見上げた。 余程ツボに入ったのか、ひいひいと苦しげに喘いでいる。テラサキはサングラスを押し上げて目元を拭ってから、 狭間とツブラを見下ろしてきた。心の底から馬鹿にしている眼差しで。

「いいぜ、好きなようにやりやがれ。バイト坊主。ルールは簡単だ、山下埠頭を十周して先にゴールした方が勝ち。 ゴールってのは、あいつらがいる場所だ。俺が勝ったら、お前に落とし前を付けさせてやらぁ」

「俺が勝ったら、どうします」

「お前の好きにしろ」

 随分とアバウトな答えだった。約束をした気でいると馬鹿を見る展開だなこれは、と確信した狭間は、万が一にも 勝てたら勝ち逃げしようと決めた。もしも勝てなかったとしたら、ツブラの力を借りて生き延びるしかない。ツブラ と一緒に海に飛び込めば、なんとかなるはずだ。たぶん。
 それから五分後。狭間は不良少年に手持ちの金を全額渡して譲り受けたヘルメットを被り、怪獣タンクの上にツブラ を跨らせ、逆ウィリーの態勢を取っていた。暗がりで見えづらいのをいいことに、ツブラの触手を数本出させて車体 後部を浮き上がらせている。そうでもしないと、すぐに発進してしまうからだ。そのせいでまたテラサキから馬鹿笑い されたが、放っておいた。狭間はそれどころではないからだ。
 バイクレースなんてやったことがないし、テレビで中継されているモータースポーツすら見たことがない。だから、 レースの技法も何も知らないのだ。解っているのは、相手を追い抜いて先頭に出た方が勝ちだということぐらいで あって、それ以外はさっぱりだった。それに、テラサキの説明がいい加減すぎて、レースをするコースがどこから どこまでなのかも把握出来ていない。山下埠頭はだだっ広いので、コースを間違えたらあっという間にテラサキとの 差が開いてしまうだろう。他にも不安要素はいくらでもあったが、狭間は全力で黙殺した。
 暴走族達の不揃いなカウントダウンの後、テラサキと狭間はスタートした。もちろん狭間は出遅れてしまい、後輪を アスファルトに噛ませた時にはサバンナのテールランプが遥か彼方にあった。ひとまずテラサキの後を追ってコースの 道順を確かめよう、と判断し、狭間はサバンナのテイルに喰らい付くことに専念した。
 だが、それ自体がとてつもなく難しかった。二輪と四輪では速度も馬力も違うから、というのもあるが、テラサキの 運転技術が異様に高かった。小刻みなギアチェンジと同時に行っているはずなのにハンドル捌きは的確で鮮やか で、それでいてアクセルとブレーキのタイミングが絶妙で、大きくカーブしても速度が落ちるどころか後輪を滑らせて 淀みなく移動していく。九十度の曲がり角に差し掛かっても、勢いが緩みもしない。素人の芸当ではない。

「追い付けるわけねぇだろ、あんなの!」

 このままでは周回遅れになってしまう。狭間は限界近くまでバイクのスロットルを捻り、必死にサバンナのブレーキ ランプを追いかけながら、頭の片隅で考えた。正攻法でこの男に勝てるわけがない、なんとかしなくては。テラサキとの 車間距離が開いたまま五週目に突入したが、長いストレートで更に間隔が開けられてしまった。

「なあお前、おいバイク!」

〈なんだよ急に、ノってきたところだってのに!〉

「この辺一帯の怪獣を煽れ!」

〈なんでだよ! あんなに凄い奴とレース出来ることなんて滅多にないんだ、邪魔が入ったらどうする!〉

「邪魔が入らなきゃ俺はテラサキに殺されるぞ、そしたらツブラを守れなくなっちまうしぃっとぉっ、お前だって 他の怪獣達から白い目で見られちまうぞぁっ、おう! わあ石踏んだぎゃあ!」

 コンテナに突っ込みかけたがなんとか回避し、狭間はテラサキを追い続ける。もう七週目に入った。

「ノースウェスト・スミスのことだってなあ、俺が死ねばパーになる! パーだ! それでもいいのか!」

〈いや良かぁねぇよ! 全然良くねえって!〉

「じゃあ仕事しろ、俺を生かすために働け!」

〈やるだけやってみるけど、具体的に何をしろと?〉

「競争させろ! 他の誰がどうなるかなんてどうでもいい、俺がテラサキに負けなきゃいいんだ!」

〈あんたも大概だな、人の子〉

「四の五の言ってられる場合か!」

 そもそも相手が非常識なのだから、常識をぶつけたところで事態が解決するわけがない。狭間がバイクを急かすと、 バイクは狭間でも聞き取りづらい古い怪獣言語で叫んだ。それがとてつもなく汚い言葉で、罵倒する意味も含まれて いるようだ、とすぐに解った。それもそのはず、車列から飛び出してきた改造車が狭間の後ろにぴったりと貼り付く や否や、クラクションまじりで喚き散らしたからだ。こちらも古い怪獣言語で。
 それからは大騒ぎだった。運転手もいなければイグニッションキーも抜かれた車が縦横無尽に走り回り、そこかしこ で競争し始めた。中には幅寄せし合っている車もいたが、それでぶつかって擦れたとしても、狭間の責任ではない。 気が咎めないわけではないのだが。
 テラサキのサバンナと競い合おうと躍起になった車が何台も挑むが、次々に引き離されていく。だが、その走りは 精細を欠いていて、カーブに突入する際のブレーキングが怪しくなっていた。バイクの挑発によって、レースに対して 持ち主に勝るとも劣らぬ情熱を抱いているサバンナがその気になってしまったらしく、運転席からはテラサキの罵倒とも 悲鳴とも声が上がっていた。独りでにハンドルが回ってしまうからだ。
 ドライバーなしで暴走する車達による乱入のおかげで、テラサキは最短距離となる道順から外れることを余儀なく された。ひっきりなしに割り込んでくる車を回避しては追い抜き、追い抜いてはまた割り込まれたためにサバンナの 速度が落ち始め、狭間との距離もどんどん狭まってきた。だが、ここで狭間は重大な問題に気付いた。

「確か、テラサキはゴールは暴走族が並んでいる場所だって言ったよな?」

「イッテタ!」

 狭間の胸にしがみついているツブラが、大きく頷く。自分の考えの甘さに、狭間は歯噛みする。

「そのゴールラインがバラバラになっちゃ、ゴールしたかどうか解らないじゃないか。あーくそ失敗したぁ!」

〈どうする、人の子?〉

「とりあえず、サバンナを追い抜け!」

 急ブレーキと急発進を繰り返すサバンナのテールランプは躍るように左右に振れ、デタラメな方向から差し込んで くるハイビームを切り裂いている。右から飛び出してきたファミリアを避け、カリーナも避け、カローラ、カペラ、 スカイライン、ルーチェ、と避けていき、ついにサバンナのテールランプを捉えた。
 そして、狭間はスロットルを限界まで回し切り――――




 最低最悪の一夜だった。
 バイクの振動が骨身に染み込んでいて、三半規管がおかしくなっている。頭もふらふらするし、関節がぎしぎしする が、仕事はきちんとこなさなければ給料は出ない。狭間は芯まで疲れ切った体をウェイターの制服で包み隠し、表情 だけは取り繕いながら、古代喫茶・ヲルドビスの店内とバックヤードを行き来した。ツブラも疲れたらしく、いつも 読んでいるかぐや姫の絵本も膝の上で閉じたままだった。
 朝と昼のピークタイムを気力で乗り越え、休憩時間は賄いを食べた直後に居眠りして、午後を乗り切れるだけの 体力を取り戻した。夕方になり、客の入りがまばらになってきたので、狭間は少しだけほっとしながら厨房と店内 を行ったり来たりしていたが、マリコ御嬢様と連れ立って入店してきた男を見た途端に疲労も安堵も吹き飛んだ。

「うぉわぁっ!?」

 心臓が痛むほど動揺した狭間が仰け反ると、制服姿のマリコは淑やかに微笑む。

「御安心なさいませ、狭間さん。テラサキさんには御灸を据えておきましたので」

「あー、そうだ。御嬢様の御命令だからな」

 スカジャンにジーンズ姿のテラサキは、かなり不満げではあったが、マリコに従っていた。狭間は嫌な汗を背中に 掻きつつ、二人をボックス席へ案内した。厨房に戻ると海老塚に訝られたが、なんでもありません、とはぐらかした。 マリコはダージリンの紅茶とビーネンシュティッヒというカスタードクリームを挟んだケーキを注文し、テラサキは先日 と同じくチョコレートパフェを注文した。
 二人が注文した料理に用いる皿を用意しながら、狭間はテラサキと談笑するマリコを窺わずにはいられなかった。 昨夜の常軌を逸したレースと怪獣達の暴走を収めたのは、細身で小柄な女学生、マリコだった。フルスロットルで テラサキのサバンナを追い抜いた狭間の目の前に、突如、マリコが現れて手を差し伸べたかと思うと狭間のバイク の後輪が突如パンクして急停止した。そればかりか、テラサキのサバンナも急停止し、他の車も次々に停止した。 そしてマリコはサバンナの運転席からテラサキを引き摺り出し、約束を破りましたね、と叱責した。
 その一言でテラサキと狭間のレースは有耶無耶になり、狭間に因縁を付けて絡んだテラサキはマリコにこってりと 絞られ、狭間は特に何もされずに解放された。そればかりか、マリコが乗ってきた黒塗りの外車に壊れたバイクを 積んでもらい、フォートレス大神に程近い場所まで運んでもらった。マリコの行動に裏があるのではと勘繰っては いたものの、マリコの態度は終始柔らかかった。それがまた恐ろしかったのだが。

〈おい、人の子〉

 綺麗に盛り付けられたチョコレートパフェを盆に載せていると、マリコの髪から怪獣の声がした。

「なんだよ」

 紙ナプキンを敷いて細長いスプーンを添え、狭間が小声で言い返すと、例の怪獣は続けた。

〈勘違いしてもらっちゃ困るが、うちの御嬢様は怪獣使いなんかじゃねぇからな。御嬢様が怪獣達の馬鹿騒ぎを 止められたのは、御嬢様にはそれだけの魅力が備わっているからだ。まあ、俺もちったぁ手を貸しはしたが〉

「そもそも、やんごとない怪獣使いがヤクザと関わるわけがないもんな」

〈でもって、俺は御嬢様に従っているわけじゃない。俺は御嬢様の一部となることを望んだ結果、ここにいるんだ〉

「そりゃ結構だ」

〈だが、御嬢様にちょっかい出すなよ? 出したら承知しないからな〉

「出せるわけないだろ」

 などと言っているうちに紅茶とケーキも仕上がったので、狭間はそれを二人の元へと運んだ。一礼して下がろうと すると、マリコに引き止められた。何事かと狭間が焦っていると、マリコは名刺を差し出した。

「どうぞ、これを御手元に御控え下さい」

 九頭竜興業 社員 寺崎善行 という名刺と、九頭竜興業 社長代理 九頭竜麻里子 という名刺だった。社名 からして堅気ではなかった。それどころか、名刺の端には代紋が印刷されている。円を描いた龍。

「……どうも、ありがとうございます」

 狭間がびくつきながらも受け取ると、麻里子は深々と頭を下げる。

「この度は、不肖の部下が大変御迷惑をお掛けいたしました。今後、狭間さんにはちょっかいを出すなと部下達に 厳命を下しておきますので、どうぞご安心なさいませ」

「あっいえ、こちらこそ、色々とすみませんでした」

「そのお詫びと言ってはなんですが、狭間さん」

 麻里子は気恥ずかしげに目線を彷徨わせた後、上目遣いに狭間を見つめてきた。

「私とお付き合いして頂けませんか?」

 思わず、手から盆が滑り落ちた。くゎんくぉん、と足元で回転する銀色の盆をすぐさま拾うべきなのに、体が全く 動かなかった。疲れも眠気も何もかも吹き飛んでしまい、狭間は混乱が一巡した後に我に返って仕事に戻った。答えは いつでもよろしいですから、と麻里子が言っていたことは辛うじて覚えているが、その後の記憶は曖昧だ。
 ひどく狼狽したからである。





 


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