横濱怪獣哀歌




怪獣警報発令中



 タテエボシが吼える。何度も何度も。
 くおぉおおおおおおおお、こぉおおおおおおおお、とサイレンを掻き消す鳴き声には、理屈や説明を加える必要の ない恐怖と興奮が混ざっていた。天敵に出会った動物が感じる本能の嵐だ。胡散臭い週刊誌に載っている、いかにも それらしい文面と見出しと写真が付いた記事では、怪獣は光の巨人によって慈悲を与えられている、エネルギーを生む 力を持ったが故に知恵の実を齧れなかった蛮族を浄化している、などと書いてあった。見るに堪えられなくて最後まで 読み通せなかったが、嫌なものほど頭にこびりついてしまうものだ。
 これ以上タテエボシの声を聞いてはならないと心が叫び、耳を塞いだが、そんなことで防げるわけがない。狭間が 怪獣の声を聞く際に震えるのは鼓膜ではなく、精神だからだ。早く逃げろとタテエボシに叫ばずにはいられなくなる が、そんなことをしても狭間の声は届かない。彼らの感情は解るのに、狭間の言葉は通じない。

「……ん」

 苦しむ狭間の傍ら、鮫淵は懐から出したポラロイドカメラで光の巨人を撮影した。吐き出された印画紙に現像液が 行き渡り、およそ一分後に撮影された画が映し出される。はずだったのが、印画紙には何も映っていなかった。一面の 白。露光量が多すぎて起きる白飛びですらない。横浜湾とタテエボシの姿形も見えない。

「うぅん、そうだなぁ。露光量はちゃんと確かめたんだけどなぁ。そうだな、これは羽生君が一時期熱心に語っていた あの説が正しいかもしれないっていうかで。あらゆる物質は光を反射しているからこそ視認出来るのであり、粒子が あるからこそ光が認識出来るのであり、光粒子は常に拡散しているから凝固出来るはずがないっていうかで。光を 固めるというか、一点に集中させるには、屈折させるのが確実かなぁ。うん、そうかもなぁ」

「ナニガ?」

 狭間に代わってツブラが問うと、鮫淵はツブラを一瞥した後、続けた。

「あ、うん、えぇと、それが正しいとするならば、光の巨人は実像ではないというわけだから、実像ではないとすれば 鏡に反射しただけの虚像というかであって、で、その反射させる段階で光粒子を収束させているんじゃないかって、 僕は考えたっていうかで。つまり、その、僕達が目の当たりにする光の巨人はスクリーンに映った映画のようなもの であって、映画のようなものだから、それと同じ理屈で写真に写らないんじゃないかって。まあ、うん、根拠を得る ためには物証も何も足りなさすぎて、仮設の仮説の段階に過ぎないわけだけど」

「だったら、尚のこと手の打ちようがないってことじゃないですか」

 呼吸を整えてから狭間が意見すると、鮫淵は白い写真と海上を歩く光の巨人を見比べる。

「そう。だからこそ、尚更解らない。スクリーンに映った俳優に僕達が触れないように、投影されただけの映像に 触れられる物体なんて存在しないんだよ。それなのに、シャンブロウは光の巨人に触れられる。けれど、その子は こうしてここにいるし、こうして触ることも出来る」

 鮫淵がおもむろにツブラの手を取ると、ツブラはきょとんとする。

「ル?」

「シャンブロウは虚像と実像の間に存在しているのか、全く別の物理法則に基づいた分子構成の生物なのか、それ ともこの子だけが実像であって虚像に消される僕達とその世界は元々虚像なのか。考えることがまた増えたよ」

「え、あ、それ」

 つまり、鮫淵はツブラの正体を知っているのだ。狭間が慌てると、鮫淵はなぜか照れた。

「あ、うん、大丈夫ですから。他の誰にも教えるつもりはないし、露呈させないんで。で、羽生君とは情報を共有して 研究を続行しているけど、僕のも、その、羽生君のと同じで趣味なんで。仕事じゃない、というか、仕事に出来ない けど研究しないとダメな気がするんで。だから」

「職業病みたいなもんですか」

「まあ、うん。それに、僕は実地検証が好きなんです」

 科学者ってこんなのばっかりなのかよ、と狭間は呆れた。だが、こうも思った。今の今まで科学者と接したことが なく、比較対象がないからそう思ってしまうのだ、と。しかし、こうも思った。羽生と鮫淵は標準でもなければ基準 でもないのだから、二人の振る舞いが科学者の常識であると認識してはいけない、とも。
 横浜市街地から迫ってきた怪獣のざわめきがタテエボシの咆哮を掻き消し、狭間らの頭上を怪獣の群れが飛び 越えた。その数は五〇近く、中型怪獣と小型怪獣ばかりだった。中でも特に目立つ有翼の怪獣は、胴体に漆塗りで 金箔が張られた箱を括り付けていた。もしかすると、これは。

「怪獣使い!?」

 実物を見るのは初めてだ。狭間がぎょっとすると、鮫淵が捕捉する。

「あ、うん、そうですね。あの個紋は枢様かな」

「クルルって変な名前ですね」

「あ、うん、僕も常々そう思うけど、言ったら不敬罪みたいに扱われるから言えないんです」

「偉い人なんだから、何も現場に来なくても……」

 狭間は横浜湾上を飛ぶ怪獣御輿の群れを見つつ、猛烈な不安に駆られた。枢という名の怪獣使いがどれほどの 力を持っているのかは知らないが、それでも常人だ。迂闊に光の巨人に近付いたら、怪獣共々消されてしまうだけ だというのに。怪獣達は主を止めようともせず、光の巨人に怯えもせず、光源に向かっていく。
 すると、怪獣の群れは光の巨人の手前で止まり、タテエボシの頭上で渦を巻いた。旋回する怪獣達はタテエボシ に近付いては遠ざかり、遠ざかっては近付き、不規則な円を描いて超大型怪獣の動きを制限している。何をしよう としているのか、狭間は薄々感じ取っていた。テレビや新聞で報道される怪獣使いの仕事ぶりは最低限で、皇族の 御公務のような扱いで、どこそこでどんな怪獣を洗礼しました、というだけだ。怪獣使いが洗礼を行う時も厳重に 警戒されるので、船島集落でムラクモが洗礼を受ける際には近隣住民は退避させられた。狭間も例外ではなかった。 だから、洗礼がどんな手順で行われるのかを知るのはごく限られた人間と怪獣であり、洗礼を行う際には怪獣使いは とても慎重になるはずなのだが――――
 枢という名の怪獣使いは何の躊躇いもなく、タテエボシに洗礼を施し始めていた。怪獣達のざわめきから察する に、枢は十歳になったばかりの少女であり、老成した立ち振る舞いをするが根はまだまだ幼い。洗礼の腕前と怪獣 の遠隔操作能力は安定しているが、思慮に欠けているのだそうだ。光の巨人に対抗したいがために、怪獣使いの名を 失墜させないためにタテエボシを操り、光の巨人を対消滅させようとしている。と、怪獣達は喋ってくれた。

「あーあー解った、大体解った、解ったから黙れ」

 一度に五〇匹もの怪獣に話しかけられたので、先程とは別の意味で頭痛がする。狭間が顔をしかめると、鮫淵 の分厚いメガネの下で眠たげに下がっていた瞼が上がる。男の目に、子供のような好奇心が漲る。

「あ、そうか、羽生君が言っていたこと、本当だったんだ。いやあ凄いな、うん」

「俺のコレも知っていたんですか」

 と、狭間が耳を差すと、鮫淵はまたも照れた。

「あ、はい。少しは。でも、それも口外しないんで、はい」

 だったらいいのだが、いやあんまりよくない、と狭間は自戒した。この調子で知られ続けたら面倒なので、今後 は自分の能力について誰にも言うものかと誓った。特に、九頭竜会には知られてはならない。知られたら最後、きっと 死ぬまでこき使われるだろうから。ツブラだけでなく自分も守らなければ。


  たかあまはらにかみづまります すめむつかみろぎかみろみのこともちて

  あまつのりとのことをのれ かくならば つみというつみとがはあらじをと

  はらいたまいきよめたまうと もうすことのよしを

  もろもろのかみたち さしおかのやつのおんみみをふりたてて きこしめせともうす


 枢が連ねる言葉に重ね、怪獣達が同じ言葉を放つ。但し、怪獣言語で。洗礼とは昨今呼ばれるようになった便宜 上の名称であって、古い時代には元服や裳着などとも呼ばれていた、と以前ムラクモが教えてくれた。その起源は 恐ろしく古く、怪獣達でさえも忘れるような古い時代から続いている儀式だ。洗礼に用いる文句は怪獣言語を人間 の言葉に置き換えたものであって、それが時代と共に変化していった末にこうなったのだ、とも。外国での文句も、 言葉こそ違うが怪獣に与える作用は同じだ。
 吼え続けていたタテエボシが喉を窄め、エラを塞ぎ、だらりと両前足を下げる。怪獣達の渦も狭まり、御輿を 付けた中型怪獣がタテエボシの頭に乗るが、タテエボシは一切抵抗しなかった。御輿の蓋が開くと、そこから 白と赤の着物を着た小さな小さな人影が出てきた。それが綾繁枢だ。振袖と帯を風雨になびかせながら、少女 はタテエボシの頭に跪き、先程と同じ文句を繰り返す。超大型怪獣の思考の中で荒れ狂っていた恐怖と本能が 力任せにねじ伏せられていくのが、狭間にも伝わってくる。正直、気分がいいものではない。
 荒波がさざ波に、さざ波が凪に変わり、タテエボシの意識がぴんと張り詰める。その張り詰めた意識に、枢の 意識が割り込んでくる。抉り込んでくる。破壊してくる。ずぶずぶずぶずぶ、と綾繁枢の支配欲に満ち充ちた力 がタテエボシの根幹たる精神の中枢に至り、そして――――

〈もうやだ、俺逃げるから! 海ん中帰るから! 帰るって! いや本当に!〉

 突如、タテエボシが怪獣言語を発して喚き散らした。

〈いやもう無理だから無理無理無理無理無理無理無理! 天の子の力がどんなものか試してみようぜー、だなんて 言い合うんじゃなかった! 誰が試しに行くかなんて決める勝負をするんじゃなかった! 負けるんじゃなかった!  あーもう帰りたい、マリアナ海溝に帰りたい! 帰る、俺帰る! だから、俺にマガタマなんか使わないでくれよ!  でないと困るんだって、俺にも怪獣なりに事情ってやつがあって……あおぉふっ〉

 超大型怪獣は、予想外に俗っぽかった。不良の度胸試しじゃないんだから、と狭間は呆れ返ったが、結果として それは大成功だ。光の巨人が現れたからには、ツブラが立ち向かわなければならなくなるのだから。

「ツブラ、頼む」

 狭間がツブラに手を差し伸べるが、ツブラは鮫淵を窺い、もじもじした。

「ヤーン」

「あ、そうか。すみませんけど、鮫淵さん。中座してくれませんか」

「あ、うん。解りました」

 鮫淵はポラロイドカメラと写真をビニール袋でくるんでから懐に入れると、背中を丸め、バス停から土砂降りの雨 の中へと出ていった。そうこうしている間にも、光の巨人はタテエボシとの距離を詰めていく。狭間はツブラの頭を 覆っているレインコートのフードと黒髪のカツラとサングラスを外してやると、ツブラは赤い触手を一気に解放した。 体に巻き付けている触手もするすると解き、赤い長靴も脱ぐが、レインコートのボタンを外したがらなかった。

「ハヅカシイ」

「怪獣って服を着ない生き物だろ?」

「チガウ。ワタシ、フク、キル。デモ、シカタナイ」

 ツブラは赤い目を瞬かせてから、触手の先端でレインコートのボタンを外して、するりと脱ぎ捨てた。赤い触手が 絡みつく青白い肢体が露わにしたツブラは触手で体を高く持ち上げ、狭間と同じ目の高さになった。小さく冷たい手が 狭間の頬に触れ、じっと目を覗き込んでくる。悪いことをしたわけでもないのに、咎められているような気がして、狭間は 目を泳がせかけるが、ツブラの触手が顎を戒めて視線を固定させた。

「アノコ、スキ?」

「いや別に。それ以前に無理だ」

 麻里子のことを指しているのだろうと察した狭間が即答すると、ツブラはにんまりと目を細めた。

「ワカッタ!」

 途端にツブラの唇が狭間の唇を塞ぎ、ぬるんずるんと触手の束が喉に突っ込まれた。粘膜に張り付いた触手が体力を 吸い上げていくに連れてツブラの小さな体は温まっていき、狭間の体温を遥かに超えた熱さを宿す。どちらのものとも 付かない粘液を纏った触手の束を喉から引き抜かれた狭間が、貧血を起こして座り込むと、成人女性に近い体格になった ツブラは狭間の頬を一舐めしてから横浜湾へと身を躍らせた。

「何が解ったってんだよ、全く」

 頬に残る感触に辟易しながらも、狭間はツブラが巨大化する様を見守った。みるみるうちに手足が伸びて体格が 倍々に伸びていき、触手も電柱ほどの太さになり、なまめかしい体形となったツブラに巻き付く。タテエボシの全長 とほぼ同等になると巨大化が止まったので、巨大化したツブラの全長は五〇メートル前後といったところか。
 ツブラが最初にしたことは、タテエボシとその周囲を取り巻く怪獣達と怪獣使いを触手で包んで、守ることだった。 赤い繭を背負った巨大女性型怪獣は、眷属と思しき小型の有翼体を引き連れている光の巨人と向き直り、澄んだ 声で吼えた。ツブラを視認した光の巨人とその眷属は次々に海中に身を投じ、海水を消失させながらタテエボシへと 襲い掛かろうとするが、ツブラがそれを許すはずがない。鞭のようにしなった赤い触手が海面を割り、光の巨人と その眷属を真上から叩き伏せる。眷属は一つ残らず排除出来たが、光の巨人は両断された状態で屹立し、ツブラに 真正面から突っ込むかと思いきや、接触する寸前で左右に分かれ、桜木町に狙いを定めた。
 だが、ツブラは振り向かなかった。その必要がないからだ、とすぐに解った。赤い繭が弾け、数百、数千本もの 触手が両断された光の巨人を戒める。新たに二つ増えた繭がほろりと崩れ、触手が海面でとぐろを巻くと、光の権化 は消え去っていた。いつのまにか嵐も収まり、雲の切れ間からは暖かな日光が差し込んできた。
 遠からず、怪獣警報は解除されるだろう。




 その日の夜。
 チキンライスとチキンサラダを夕食に食べながら、狭間は愛歌に事の次第を話した。麻里子のこと、タテエボシと 怪獣使いと光の巨人の件、そして鮫淵とのことも。電子レンジで温め直したので作り立てよりは味が落ちてしまった が、それでも愛歌はチキンライスの出来を褒めてくれた。そう言われると悪い気はしないので、次は自宅でも作って みよう。付け合わせに作った味噌汁の方は、相変わらずの味だったが。

「羽生さんと鮫淵さんがそう言うのなら、シャンブロウの資料がなくなったのは確かってことね」

 チキンサラダも綺麗に食べ尽くしてから、愛歌は油揚げの味噌汁を啜った。

「羽生さんが私に揺さぶりを掛けてきたんじゃないかって思ったけど、そうじゃないとすると、事は思っている よりも根深いのかもしれないわねぇ」

「怪獣使いも噛んでくるんですかね」

「かもしれないわね」

「でも、俺とは関係ないですよね。そういうのって」

「関係なきゃいいんだけど、相手が関係を持とうとすると厄介なのよね。経験したかったら、ややこしい事情を 抱えている女学生じゃなくて、割り切った関係の相手にするべきってことね。あ、デートのことね。語弊がない ように付け加えておくけど」

「今はそんな話はしてないんですけど」

「ヤーン!」

 二人の会話に割り込んだツブラは、赤い目でじっとりと愛歌を見据えた。

「あら、そうなの。じゃ、私は御遠慮しておくわね。狭間君とのデート」

「そんな話もしていないんですけど」

「ツブラちゃんは狭間君が本当に好きなのねー、かぁわいい」

 にやつく愛歌に、狭間は反論したかったが、ツブラの機嫌を損ねると面倒なので好きにさせておいた。ツブラは にこにこしながら狭間の膝に潜り込んでくると、頭を胸に擦り付けてくる。たまに胃の部分を押されてえづきかけたが、 痛みやら何やらをぐっと堪え、ツブラが満足するまで放っておいた。
 二度も嵐に襲われたくはないからだ。





 


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