横濱怪獣哀歌




大山、鳴動セズ



 激しく咳き込み、意識を取り戻した。
 いつのまにか、気絶していたらしい。狭間は喉の痛みと背中の痛みと戦いながら起き上がると、藪木とタツヌマ、 アキナが倒れ伏していた。全員死んだのかとびくつきながら小突いてみると、藪木はくぐもった呻きを漏らした。 どうやら、死んではいないようだ。これがゴウモンの力か。

〈ガスの濃度を加減したから、あまり長くは持たん。その間に逃げろ、人の子〉

「だが、こいつらにはゴウモンのガスが効かないんじゃなかったのか?」

〈ほんの少しだけ成分を変えてやったのさ。その結果は見ての通りだ。話は後だ、早く逃げろ〉

「言われなくとも!」

 狭間はツブラを抱えて駆け出すと、何度か道に迷いながらも外に出た。箱が詰まったガレージの中には車の類は なかったが、ガレージの脇に軽トラックがあった。イグニッションキーは電話のあったスチール机の引き出しの中に 入っていたので、それを拝借し、エンジンを掛ける。動力源の怪獣はすぐに目を覚ましてくれた。普通自動車免許は 取得済みだが久しく使っていなかったので、運転の手順を一つ一つ確かめてからギアを変えた。

「なあおい、街へ出るにはどうすりゃいい?」

 狭間は助手席に寝かせたツブラの様子を確かめながら、エンジンの怪獣に問い掛ける。

〈一本道だから迷うこたぁない。だが、この辺は九頭竜会の息が掛かっているから気を付けろ。駐在所のオマワリ も九頭竜会から賄賂だのなんだのをたっぷりもらっているから、役に立たねぇ。別の街まで出て、それから電話でも なんでもすりゃあいい。お前がここでやられちまったら困るんだよ、人の子〉

「そりゃどうも」

 狭間は温まったエンジンを蒸かし、アクセルを踏み込んだ。荒い小石が散らばる砂利道を進み、軽トラックの声に 耳を傾けながらハンドルを切る。ゴウモンのガスは山全体に立ち込めているようで、薄い霧が掛かっていた。真夜中の 暗闇に加えて霧があるのでは視界は最悪だが、四の五の言っていられない。山道を下りながら、軽トラックとゴウモンは 交互に狭間に話してくれた。九頭竜会の目論見と、その理由を。
 横浜一帯を仕切るヤクザである九頭竜会は、四代目組長の九頭竜総司郎が統べていたのだが、半年前の中国 マフィアとの抗争で九頭竜総司郎は負傷してしまったため、横浜市内にある邸宅で療養することとなった。裏社会 での抗争は激化する一方ではあったが、早々に組長がやられたことで九頭竜会とその下位組織の士気は落ちていく ばかりだった。そこで組長代理として祭り上げられたのが、一人娘である九頭竜麻里子である。もちろん、内部 からも外部からも反発はあったが、麻里子は舎弟頭であり九頭竜総司郎の腹心でもある寺崎善行を直属の部下に 据え、九頭竜会の資金源であるマリアンヌ貿易会社の経営者で若頭である須藤邦彦の信頼と忠誠を得たことで、 九頭竜会全体を掌握したが、麻里子が組長代理に相応しい器だと認められた理由はそれだけではない。麻里子 は中国マフィアに対して、誰よりも凄まじい恨みを持っていたからだ。
 人体との神経接続が出来るように加工された非合法の怪獣義肢の密売は、九頭竜会が得意とする商売だったの だが、ここ最近、怪獣義肢の密売ルートに変化が起きた。抗争相手である中国マフィア、渾沌が密輸入した怪獣義肢 が関東一帯で売り捌かれるようになったからである。九頭竜会が売り捌く怪獣義肢よりも安く、質が良いものが 多いため、あっという間に顧客は奪われていった。このままでは、九頭竜会が仕切っていたシマだけでなく資金源 も奪い尽くされ、横浜の闇の勢力図が塗り替えられてしまいかねない。と、怪獣達は話してくれた。

「なるほどなぁ。俺はヤクザとマフィアの間に挟まれかけていたわけか」

 怪獣と人間の間に挟まれるだけでも疲れるというのに。狭間がぼやくと、ゴウモンは慰めてきた。

〈我らが人の子にしてやれることは限られているが、出来る限りのことはするつもりだ〉

〈そうだ。怪獣はそうあるべきなんだ。人の子と天の子を支え、導き、寄り添うべきなんだ。それなのに、あの 屑怪獣共ときたら、簡単に人間にくっついちまいやがって〉

 軽トラックは軽蔑を剥き出しにして吐き捨てる。

「それが怪獣義肢か」

 狭間が呟くと、ゴウモンが嘆く。

〈怪獣が人間を生かし、長らえさせる術は様々だが、あれだけは頂けん。そもそも、我らは人間とは根本的に違う 生き物であり、寄り添うことは出来ても交わることは出来ん。手術と薬で両者の肉を繋ぎ合わせれば、一時的には 強靭な力を得られるが、あまり長続きするものではない。束の間、死を免れられるだけだ〉

「で、今度は俺にどうしろと? させたいことがあるから、俺を生かしてくれたんだろ?」

〈話が早くて助かるな〉

〈全くだ〉

「さすがに慣れてきたんだよ。というか、慣れなきゃやってられん」

 軽トラックとゴウモンに言い返してから、狭間はツブラを一瞥した。眠り込んだままだ。

〈先日、横浜にタテエボシが襲来したのは、横浜一帯を縄張りにする超大型怪獣がいないからだ。大都市の動力源 となることは、怪獣にとっても利益となる。人間の発展は怪獣の栄誉だからだ。イナヅマも、横須賀のガニガニも、 東京湾のデンエイも穏やかで善良な怪獣であったからこそ、人々は健やかに長らえてきた。だが、怪獣義肢のような 偏った思想を持つ怪獣が発電怪獣の座に就いてしまえば、横浜市民の生殺与奪が掌握されるばかりか……〉

「それ以外にもなんかあるのか?」

 狭間がゴウモンに問い返すと、軽トラックが答えた。

〈その怪獣を危険因子だと見なし、光の巨人が現れる〉

「なんだそれ? どうしてそこで余所者が割り込んでくるんだ?」

〈人間の感覚では理解出来るものではないからな、光の巨人の思想は〉

〈光の巨人は闇雲に現れるものじゃあないんだ。あいつらはあいつらで、人間を守ろうとしているみたいなんだが、 どうもそれが妙なことになっている〉

「守る? 何から?」

〈怪獣同士で情報交換し、議論した結果、光の巨人は怪獣から人間を守ろうとしているようだとの結論が出た〉

〈もっとも、俺達穏健派は人間に危害を加えるつもりはこれっぽっちもないんだけどな〉

「えーと、つまり……」

 狭間は砂利道の真ん中で車を止め、情報を整理した。

「怪獣は、俺にツブラを守れと言った。怪獣は直接間接を問わず人間を守っているが、怪獣義肢みたいな怪獣は人間 を守ろうとはせずに人間同士を争わせる。んで、光の巨人はそんな怪獣から人間を守るために現れては怪獣を 消失させているが、消失させる規模が大きすぎるから守る対象であるはずの人間も消してしまう。そして、ツブラは 光の巨人に対抗するために俺に引き合わされ、俺はそのツブラを守れと言われた。で、いいんだよな?」

〈大筋ではな〉

〈光の巨人と話し合おうとしても、ダメだった。戦おうとしたら、余計に被害がでかくなった。だが、何もせずにいると もっと被害はでかくなっちまった。そこに現れたのが天の子であり、人の子なんだ。このままじゃ、怪獣は光の巨人を 誘き寄せる原因にされちまうし、迫害されるかもしれねぇし、そうなったら強硬派がここぞとばかりに人間を襲い かねない。俺達は人間に有益な存在で在り続けたい、人間とは戦いたくはないんだ〉

「また大風呂敷を広げやがって」

〈これでも畳んだ方なのだがな〉

〈なんだったら、怪獣同士の思想の違いについても説明してやろうか。ややこしいんだよ、これがまた。俺達のような 考え方の怪獣は穏健派、過激な思想の怪獣は強硬派なんだが、その中でも色々あってだな……〉

「勘弁願うね、暗記は苦手なんだよ」

 これ以上面倒事を押し付けられたくはない。が、狭間は気を取り直して尋ねる。

「イナヅマが光の巨人に消されたのは、俺とツブラがイナヅマに近付いたせいか」

〈そうだ。イナヅマは穏健派の中でも特に天の子に思いを寄せていて、天の子の成長を手助けしてやりたいと常々 言っていた。それを光の巨人に嗅ぎ付けられたのだろう。どこから漏れたのかは解らんが……〉

〈事前にイナヅマにだけ教えていた伝言の存在にも、光の巨人に気付かれちまったみたいだしなぁ〉

「伝言って、ノースウェスト・スミスに会え、ってやつじゃないのか?」

〈それも我らが人の子に伝えるべきことの一つではあるが、イナヅマが伝えようとしていたことではない〉

〈といっても、俺達もイナヅマの伝言を知っているわけじゃない。怪獣義肢みたいな連中がいるから、俺達も情報を 制限しているんだ。仲間同士で腹の探り合いをしなきゃならないのは辛いがな。だから、イナヅマの伝言を知るには イナヅマの伝言を知れる立場にある怪獣に会わなきゃならねぇ〉

「いちいち回りくどいな!」

〈回りくどくなければ保てないものもある〉

〈んで、その怪獣の名は――――〉

 やっと話の要点が出てきた。狭間が安堵しかけた時、フロントガラスに何かが激突した。車体が大きく揺さぶられ、 フロントガラスがクモの巣状に砕けて破片が散らかる。思わず顔を覆った狭間は身を縮めたが、激突したものの正体 を目にして絶叫した。それは、黒髪を顔にまとわりつかせた女の生首だったからだ。

「うおわああああああああああああっ!?」

〈わあああああっ!?〉

〈ぎゃああああ!?〉

 狭間に釣られたのか、怪獣二匹も咆哮する。

〈だからお前が邪魔なんだ、人の子〉

 その叫びを冷ややかに切り捨てたのは、また別の怪獣の声だった。滑らかな黒髪が渦を巻き、刃を作り、フロント ガラスを切り裂いて穴を広げた。黒い刃の合間からは赤い目が現れ、狭間とツブラを忌々しげに凝視する。黒髪に 包まれている生首の、整い過ぎた顔立ちには覚えがあった。九頭竜麻里子だ。

「カムロ……なんだよな?」

 驚き過ぎて色々なものが出そうになったが、狭間は意地で堪えて問い掛けると、生首を包む黒髪は毒づく。

〈手間を掛けてここまで誘き寄せたってのに、ゴウモンなんかに言いくるめられやがって。人の子、お前ってやつは 全く期待外れだよ。俺達の声が聞こえること以外はな〉

「だっ……お、お前、つまり、どういうことだ?」

 疑問が山ほど頭に浮かび、狭間はそれをぶつけようとしたが言い淀む。髪の毛怪獣、カムロは艶やかな黒髪を海藻 のように波打たせながら、少女の生首を毛先で撫でる。

〈十七歳のメスガキにヤクザの組長代理が勤まるわけがないだろ? 俺は九頭竜会の会長である九頭竜総司郎に 拾われたから、その恩返しとして御嬢様の首を繋いでやった。中国マフィアとの抗争でちょん切られたのは、もう 十年も前の話だがな。で、この俺が怪獣義肢として御嬢様にくっついたわけだが、御嬢様は出血多量と酸欠で頭が ダメになっていやがった。だから、俺が御嬢様の脳みそにちょいと細工して、体の方もちょいと細工してやって、 完全無欠の美少女の出来上がりって寸法だ。もっとも、御嬢様は俺の正体に気付いちゃいるが、俺ありきの自分 だとは思っちゃいないみたいだがな。総司郎の方も、この前の抗争で足をぶった切られて、その足を繋ぐために 俺の髪の毛を何本か貸して縫い付けてやったが……御嬢様に比べて意志が強いもんだから、乗っ取るのにいくらか 手間取っちまったよ。他の連中はちょろいなんてもんじゃねぇけど〉

「それ、拙いだろ! いや拙いなんてもんじゃない、最悪だ!」

 狭間は思わず声を荒げる。怪獣が人間を操っているばかりか、ヤクザを意のままに操るとは。

〈怪獣は人に寄り添うものであり、操るものではない。カムロ、お前はそれを忘れたのか〉

〈腐れ外道が!〉

 ゴウモンと軽トラックの罵倒を意に介さず、カムロは狭間に語り掛けてくる。

〈で、お前らは、人の子と天の子を逃がそうと画策したわけだ。浅はかだよ、どいつもこいつも。ゴウモンのガスが 通じるのは人間と動物であって、怪獣には通じないんだよ〉

「俺とツブラをどうしようってんだよ、カムロ!」

〈どうもこうもない。人の子と天の子を使い切ってやろうってことだよ。お前みたいなボンクラと脳足りんのガキ じゃ、せっかくの力を生かせるわけがない。だから、俺が必要なんだ。九頭竜会にも、お前にも〉

 髪束の間に出でたカムロの赤い瞳がぎょろつき、狭間とツブラを眺め回す。

〈人の子。お前がそいつらに何を吹き込まれたのかは察しが付くが、そいつらの言葉を鵜呑みにするもんじゃない。 俺達は俺達のやり方で、人間と人類に貢献しているんだからな。いつの時代も文明が育つ切っ掛けは戦争なんだ。 電気だの熱だのをちびちび送ってちまちま文明を育てるよりも、そっちの方が余程手っ取り早い。だから、俺達 の側に付け、人の子。俺の毒針で麻里子と九頭竜会の連中の記憶をちょいといじってやるから、こっちに来い。そう すれば、人生楽しくなるぜ?〉

 フロントガラスに開いた大穴から運転席に入り込んできた生首は、表情筋を動かして口角を上げさせる。

〈なんだったら、麻里子の首から下を自由にさせてやってもいい。俺が言うのもなんだが、良い体だ。ガキのくせ に胸はでかいし、尻も丸いし、俺の毒針を使えばアレの締まりも自由自在だ。もちろん処女だぞ。噂じゃ、お前、 あの変な髪色の女に手も出していないんだってな? 出させてもらえてないんだってな?〉

 なんでそんな話が怪獣に知れ渡っているのだ。ゴウモンとカムロと軽トラックが暴露した事実よりも、こちらの 方が衝撃が大きかった。狭間は羞恥心と情けなさとその他諸々で赤面し、耐え切れなくなって、思い切り蹴った。 麻里子の生首をフロントガラスごと外に蹴り出し、これまで味わった恐怖と絶望を吐き出さんばかりに叫んだ。

「俺がアレするかどうかなんてのは俺が決める! そぉっ、それ以前に、俺は愛歌さんとそういう関係になるつもりも ないし、なるわけがないだろうがあああっ!」

 吹っ飛ばされた生首は砂利道を転がったが、カムロが手近な木の根に髪を引っ掛けて止まった。髪で首を覆って いたからだろう、麻里子の綺麗な顔には傷一つ付いていない。

〈あれ。妙だな。俺が知る限り、男って生き物は繁殖行為を匂わせるとすぐに喰らい付くんだが……〉

「俺の人生は、俺が決める! だから、俺がいつアレを捨てるかってことも俺が決める! お前の周りにいるヤクザ 共と一緒にするんじゃねぇや! 俺は怪獣使いにもなれない怪獣使われだが、そこまで怪獣に決められたくはない んだよ! 俺が穏健派と強硬派のどっちの味方をするのかも、俺が決める! 解ったら、俺に道を開けろ!」

 勢いに任せてなんてことを言うんだ俺は、と後悔が過ぎったが、狭間は強気な態度を緩めなかった。

〈ところでカムロ。お前が分離してから時間が経ったが、御嬢様の首から下はそろそろ死ぬんじゃないのか? お前が 御嬢様の首から下を放り出した場所は窪地だからな、俺のガスが溜まりに溜まっている〉

 やや語気を強めたゴウモンに、カムロはぎくりと髪束を歪ませる。

〈この俺を脅すつもりか、ゴウモン?〉

〈嘘かどうかは自分で確かめてみればいいさ、俺は乗せてやらないけどな!〉

 ゴウモンの尻馬に乗り、軽トラックが煽る。カムロは髪を枝に絡ませて首を持ち上げ、宙へと放った。

〈二度目があると思うな、人の子!〉

「俺だって、二度も三度もお前に付き合いたくはないよ、カムロ」

 カムロの負け惜しみを一蹴し、狭間はアクセルを踏み込んだ。軽トラックに道案内させて山を下り、狭間は町外れに にある電話ボックスに辿り着くと、軽トラックのダッシュボードに入っていた数枚の小銭を拝借した。軽トラックには 自力であの建物に戻ってもらってから、愛歌に電話を掛けた。夜明け前にもかかわらず、愛歌はすぐに電話に出て くれたが、ここがどこなのかを把握するまでが一苦労だった。怪獣Gメンである愛歌はゴウモンの存在を知っていた ので、ゴウモンそのものである山の名前とその近隣にある公衆電話の位置もすぐに調べてくれた。そればかりか、 その山の近くに調査に出ている怪獣実動課の人間に連絡してくれた。

〈俺は動かん。ここから動けん。故に、俺の心も動かん〉

 闇が和らぎつつある夜空の下、ゴウモンの低い声が聞こえてきた。

〈人の子。お前の心はいずれ動くかもしれない。だが、俺は変わらん。変われはしないんだ〉

 それから数時間が経ち、朝日が昇り切った頃、一台のセダンが細い峠道を昇ってきた。その車の運転手は赤木 進太郎と名乗り、身分証明書も見せてくれた。愛歌の同僚だそうだ。狭間は重ね重ね礼を述べてから、ツブラを 汚れきったスカジャンでくるみ、セダンの後部座席に乗り込んだ。
 地獄の一夜が終わった瞬間だった。




 二日後。
 命拾いして帰還した日とその翌日はさすがに仕事に出られなかったので、海老塚に無理を言って休みをもらった。 丸一日かけてツブラの触手を綺麗にしてやり、カムロの毒針を見つけて抜いてやると、ツブラの調子も次第に戻って きた。それはいいことだが、気力と体力が消耗した狭間が体調不良で腹を空かしたツブラに襲われると今度こそ命 が危うくなるので、ツブラには少しずつ体力を喰わせてやり、喰わせた分だけ狭間も食事を取った。そのせいで 胃腸が休まる暇がなくなり、狭間は腹痛にも襲われたが、殺されるよりはマシだと思い直して踏ん張った。汚れ に汚れたスカジャンとジーンズはクリーニングに出したので、綺麗になって戻ってくるだろう。
 古代喫茶・ヲルドビスで働いていると、生きている実感が沸く。芳ばしいコーヒーの香りに暖かな料理、海老塚 との穏やかな会話。窮屈だが小奇麗なギャルソン服を着て忙しくしていると、日常のありがたみが身に染みる。ツブラ はバックヤードでかぐや姫の絵本を読んでいる。狭間に話しかけてくれる常連客と世間話をしていると、ドアのベルが 鳴ったので客を出迎えた。が、狭間は腰が引けた。

「ぃ、いらっしゃいませ。四名様、ですね」

 喉の奥で悲鳴を飲み下し、狭間は表情を取り繕った。なぜなら、その四人連れは、不機嫌そうな九頭竜麻里子、 同じく苛立たしさを隠そうともしない寺崎善行、仏頂面の須藤邦彦、へらへらと笑っている一条御名斗だった。居所を 探そうと思えばすぐに見つかるよな、クソ真面目に仕事に来た俺が馬鹿だったんだ、ああ今度こそ殺される、と 狭間は竦んでいたが、客を突っ立たせているのはよくないのでボックス席に案内した。

「御注文は後で御伺いいたします」

 一刻も早く逃げ出したかったがそうもいかないので、狭間が一礼してから去ろうとすると、呼び止められた。

「お待ちになって、狭間さん」

 麻里子の言葉に、狭間は全身全霊の勇気を振り絞って振り返る。

「なんでしょうか、麻里子さん」

「私からの誘いをお断りされたのは、これが初めてです」

 情報を吐かせようとしてしくじったのは、ゴウモンで拷問しようとしたのに失敗したのは、殺そうとしたのにやり 返されたのは、ツブラを奪おうとしたのに奪えもしなかったのは、屈辱を味わわされたのは。麻里子の目は、そんな 思いを雄弁に語っていた。

「この屈辱を耐え忍び、乗り越えることこそが己を高めるのだと、私は認識いたしました」

〈人の子。今回だけはお前の生き意地の汚さに免じて見逃してやらないでもないが、次があると思うな。今回は御嬢様 の首から下をダメにしないために引き下がっただけだ、勘違いするなよ〉

 麻里子の肩の上に現れた赤い瞳が瞬き、カムロが悔しさを吐露する。

「また機会がおありでしたら、御誘い申し上げます」

 一度深呼吸して感情を宥めてから、麻里子はメニュー表を広げた。

「ケーキを全て頂けますでしょうか」

「はい?」

 ケーキの中には、ホールケーキもあるのだが。狭間が面食らうと、他の面々も注文した。

「チョコレートパフェの大盛! 今回だけだからな、バイト坊主! 御嬢様の顔を立てただけだ!」

「俺ね、クリームソーダの特盛! わあい御嬢様の奢りだあー!」

「……俺はコーヒーで」

 いきり立つ寺崎と浮かれる御名斗とは逆に、須藤は苦笑いしつつ注文した。狭間はそれを伝票に書き込んだが、 チョコレートパフェとクリームソーダを大盛と特盛に出来るのだろうか、と訝った。しかし、海老塚はそれをあっさり 受け付けてくれたばかりか、手早く作ってしまった。
 テーブルを埋め尽くす大量のケーキを涼しい顔で平らげていく麻里子、花瓶のようなサイズのチョコレートパフェ と格闘する寺崎、ビールジョッキサイズのクリームソーダを目の前にしてはしゃぐ御名斗、渋い顔をしてコーヒーを 傾けている須藤。この三人とその配下のヤクザ、そして九頭竜会を実質支配しているカムロを敵に回してしまった のだと狭間は今更ながら実感したが、こうなったら開き直るしかないと腹を括った。
 もう、どうにでもなれ。




 


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