ドラゴンは滅びない




仲違いの夜



 伯爵は、戸惑っていた。


 ごとり、とフラスコを前進させ、後部座席に横たわる少女に近付いた。彼女は、ぼんやりと虚空を見つめている。
蒸気自動車がどれだけ揺れても反応せず、だらりと両手を下げており、スカートの裾が乱れても微動だにしない。
 少女、ヴィクトリアは、傍目から見れば死体と化していた。昨夜から、ヴィクトリアの様子がおかしくなっていた。
昼頃から上の空だったのだが、夜になると一層ひどくなった。ギルディオスが揺さぶっても、答えもしなかった。
熱でもあるのかと体温を測ってみても至って普通で、食事もまともに取っているはずなのだが、顔色は白かった。
 しかし今は、その人形のような表情すら窺えない。日が沈んでから大分時間が過ぎたので、夜も深まっている。
昼間は少し暑いほど温度の高かった空気もすっかり冷え込み、夜露が下りて草木をしっとりと濡らし始めている。
目立つ街道を避けて山道を通っているので、有機的な匂いを含んでいる濃密な空気が、時たま吹き付けてきた。

「ところで、ニワトリ頭よ。貴君はどこへ向かっておるのかね?」

「うん?」

 伯爵が問い掛けると、ギルディオスは振り向いた。辺りが真っ暗なので、運転席で鉱石ランプを灯している。
だが、光量が圧倒的に足りないので行く先にあるものはさっぱり見えないのだが、彼には見えているらしい。
その証拠に、ハンドルを動かして道に転がる障害物をちゃんと避けている。人でない体は、時として役に立つ。

「ゼレイブだよ。南に向かえば近付くはずだ」

 ギルディオスは、また前に向いた。

「ほう、ゼレイブであるか。確かに、このまま向かえば近付くことには近付くのであるが、直進したところで到着するわけではないのであるからして早々に進路を変更するべきである」

「オレもそんな感じがしてるんだが、この暗さじゃあなあ」

 と、ギルディオスは顎をしゃくって目の前を指した。正に闇雲、といった状況で、敵がいたとしても解らないだろう。
昼間から空に広がっていた雲が日が暮れても晴れず終いだったので、月の光もなければ星の瞬きすら見えない。
聞こえるのは、蒸気自動車の駆動音と虫の鳴き声だけだ。ギルディオスは速度を緩めると、制動して停車した。
がくん、と車体が前後に揺れて伯爵の入ったフラスコが動いた。何事かと思っていると、ギルディオスが言った。

「伯爵。お前ってさ、空間転移魔法は使えたよな?」

「はっはっはっはっはっはっはっはっは。何を愚かしいことを尋ねるのであるか、このニワトリ頭め。優雅かつ美麗でありながら知的で高貴なる我が輩に出来ぬことはないのである」

「じゃあ、ゼレイブまで飛べるよな?」

「ん、うむ…」

 伯爵は、珍しく言葉を濁してしまった。空間転移魔法を使えると言っても、所詮それは小手先の魔法に過ぎない。
魔力も少なければ生き物としても脆弱なスライムが移動出来る距離はかなり短く、長距離など出来るはずもない。
空間転移魔法を習得した理由は、フィフィリアンヌの城の中を自力で移動するためだけなので短距離が専門だ。
だから、覚えている呪文も短距離用のもので、街から街へ移動出来るほどの呪文は欠片も習得していなかった。
だが、伯爵の天を突くほど高い自尊心が、不可能を認めることを許さなかった。伯爵は無意味に威張り、笑った。

「はっはっはっはっはっはっはっはっはっは。それこそ愚問である!」

「じゃ、飛んでくれねぇか?」

「はっはっはっはっはっはっはっはっは」

「このままじゃ埒が明かねぇし、ヴィクトリアを放っておくわけにもいかねぇからよ」

「はっはっはっはっはっはっはっはっは」

「連合軍に目ぇ付けられちまうのはごめんだしな。だから、出来るんなら頼む」

「はっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは」

「おいこら。ちゃんと返事しろ変態生物!」

 ギルディオスは運転席から身を乗り出し、後部座席に迫った。だが、伯爵はまだ笑い続けている。

「はっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは」

「やっかましいんだよさっきから! ちったぁ黙れってんだ!」

 ギルディオスが喚いても、伯爵の哄笑は止まらない。

「はっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは」

「ヴィクトリア。お前もちったぁ反応してくれ。じゃないと、さすがに不安になってきちまう」

 ギルディオスが声を掛けたが、ヴィクトリアは動かない。鉱石ランプの青白い光のせいで、顔色が青ざめている。
尚更、死体のようだ。少女らしく薄べったい胸元は呼吸と共に浅く上下しているのだが、よく見なければ解らない。
普段の彼女であれば、無駄に笑い散らす伯爵を叩くか蹴るかして黙らせるのだが、それすらもしようとしなかった。
これは、本当に危ないのかもしれない。ギルディオスは、まだ笑い続けている伯爵のフラスコを、荒っぽく掴んだ。

「おい」

「はっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは」

「だから、ゼレイブに飛べるか飛べないかってことを聞いてんだ!」

「はっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは」

「それ以外のことを言え、ていうかまともに喋ろ! そりゃ普段からあんたの価値観がおかしすぎて会話はまともに成立しねぇけど、それでも普通のやりとりは出来るはずだろうが伯爵! それともなんだ、とうとう頭がイカれたか! だったら今すぐフラスコから出してそこら辺にぶちまけてやろうか!」

「うおう待て待たぬか待てと言っておろうがニワトリ頭よ!」

 フラスコごと投げられそうになり、伯爵は慌てて叫んだ。ギルディオスは、フラスコを顔の前に持ち上げる。

「んだよ、まともじゃねぇか。じゃ、さっさと頼む。オレの言ったこと、聞いていたよな?」

「はっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは」

「聞いてないふりすんじゃねぇぞこの粘液野郎」

「聞こえているとしても、貴君の粗野で下品で知性の欠片もない言葉など我が輩が吸収するに値しないのである」

「いい加減にしやがれ。腹が立ってきた」

「貴君の荒いばかりで気品のない感情など、どれほど向けられても痒みすら感じぬのである」

「叩き殺すぞ」

「やれるものならやってみたまえ、さあ、さあ、さあ!」

 ギルディオスの手の中でフラスコが揺れ、ごちっ、とヘルムにガラスが衝突した。ギルディオスは顔を突き出す。

「オレを煽るとはいい度胸じゃねぇか、あん? てめぇみてぇな魔物の一匹や百匹、指一本で充分だ!」

「はっはっはっはっはっはっはっは。魔法も扱えぬ貴君が、上等なる魔物である我が輩に何を申すか」

「てめぇのどこが上等なんだよ、どこをどうひっくり返したってカビの親戚じゃねぇかよ!」

「この我が輩を俗な微生物と同列に扱うでない!」

「カビはカビだろうが、どこがどう違うってんだよ! ていうか、てめぇはいっつもそうだよな! 偉そうにげたげた笑うだけで何一つしやしねぇし、人のことを馬鹿にするだけで自分のことは棚どころか天上にまで持ち上げて得意満面で喋ってよ! 恥ずかしくねぇのか!」

「いや、特に」

「本気で怒ったオレが馬鹿だったよ」

 あー、と力なく声を漏らしながら、ギルディオスは運転席に座り込んだ。伯爵のフラスコを、助手席に放り投げる。

「だが、この状況がやばいことには変わりねぇんだ。そいつは解るよな?」

「辺りは暗闇、魔法の使い手は倒れ、目的地は定めてはあるが道筋は見えぬと来ている。挙げ句に貴君が年甲斐もなく怒ってくれたものだから」

「責任転嫁すんな馬鹿野郎。先にげっらげら笑い出したのはてめぇだろうが万年自称伯爵!」

「なっ、何を申すかニワトリ頭め! この世が全てスライムで出来ておれば、我が輩は伯爵どころか皇帝に」

「それ、本気で言ってんのか?」

 急にギルディオスが冷めた態度を取ったので、伯爵は胸を張るような気持ちで触手を反らした。

「当然である」

「てめぇが君主になった国に住むくらいだったら、連合軍に身売りした方がまだマシだぜ」

「我が輩が国家を統治すれば、国土は地上の楽園となり、国民は至上の幸福を得られるのであるからして」

「安っぽい新興宗教の教祖みてぇなこと言うんじゃねぇよ、下らねぇ」

「貴君の罵倒の文句は決まり切っておるのであるからして、いい加減に飽きてきたのである」

「馬鹿に馬鹿っつって何が悪い」

「はっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは。いちいち怒るのは、図星だからなのである」

「うーるっせぇ!」

 ギルディオスは足を上げ、伯爵のフラスコを蹴り飛ばした。どがん、と助手席の扉にフラスコが勢い良く衝突した。

「決めた! 今からてめぇを焼く、焼いてやる! 今までずっと我慢してきたが、もう耐えられねぇ!」

「はっはっはっはっはっはっは。焼くと言っても、魔法を使えぬ貴君には炎どころか火の粉も起こせぬのである」

 助手席の扉にぶつかったせいで更にヒビが進行したフラスコの中から、伯爵は触手を出して甲冑を指した。

「火なんざ、怒ればいくらだって出せるんだよ」

 どぅん、とギルディオスの拳が蒸気自動車のボンネットを抉った。手の下で塗料が焦げ、きな臭い匂いがした。
どうやら、準備は万端のようだった。触手の先を掠めた苦い煙に、伯爵はびくりとして触手を引っ込めてしまった。
表情こそ見えないが、ギルディオスは伯爵を睨んでいる。ヘルムの隙間の奥から、強い視線が注がれている。
 それは、敵意だった。彼が戦闘時に発する気迫が視線に充ち満ちており、伯爵を今にも伯爵を射抜きそうだ。
きつく固められた両の拳には、苛立ちとは異なった真摯で強烈な感情、怒りに漲っている。間違いなく、本気だ。
そこまで怒ることもないだろう、と伯爵はちらりと思ったが、ギルディオスの視線は鉄線のように硬く張っていた。

「…あのなあ」

 ギルディオスの拳が、ぎぢり、とボンネットの中に抉り込まれる。

「本当に、状況を解ってんのか?」

「無論である」

「そういうことじゃねぇよ」

 ギルディオスはうっすらと煙の立ち上る拳をボンネットから抜くと、伯爵に突き付けた。

「ヴィクトリアだよ、ヴィクトリア! 放っておけねぇだろうが!」

「我が輩は別にそうは思わぬ」

「はあ!?」

 思い切り声を裏返したギルディオスに、伯爵は言う。

「あの小娘は窮地かもしれぬが、我が輩にはなんら関係のないことなのである」

「関係ねぇだと!?」

「そう思わぬか、ギルディオスよ」

「思わねぇな」

「貴君はつくづく甘い男であるぞ、ギルディオス。あの脱走兵の時も思ったのであるが、なぜ切り捨てぬのである」

「なぜって、そりゃ」

「魔法を使えぬ小娘など、何の意味も成さぬのである。まともに動いておるのであれば少しは役に立つのであるが、動かぬのであれば人形にも劣る存在である」

「おい」

「第一、この小娘が我が輩達と共におることからして不可解なのである。目的も一致していなければ利害も合わず、理由など微塵も見当たらぬのである。ゼレイブに向かうとしても、我が輩の感覚ではゼレイブはまだ大分先にあるのである。無闇に南に直進したところで、この道ではゼレイブに繋がる街道には交わらぬのであるからして結局は到着出来ぬのである。小娘と我が輩達が行動を共にする利点は皆無であるからして、むしろ邪魔であると思うのである。その証拠に、小娘が禁書など集めておるせいで我が輩達は回避出来たであろう危険に遭い、逃れられたであろう戦闘に巻き込まれたのである。増して、その戦闘時にも、この小娘が身の丈を弁えずに余計なことをして戦況が悪化したことも一度や二度ではなく」

 素早い動作で伸ばされた銀色の手に掴まれ、伯爵は思わず言葉を切った。

「黙れ」

 フラスコの前面が、焼けた鉄に覆われた。ガラスを通して注がれる怒りを含んだ熱が、伯爵の体を痛め付ける。
フラスコを掴むギルディオスの手は、かなり熱していた。普段感じる無機質な冷たさからは、掛け離れている。
ガラス越しに接している肉体の水分が熱で膨らみ、ごぼり、と泡となって立ち上った。みし、とフラスコが軋んだ。
重々しいバスタードソードを容易く操る太い指が、フラスコを締め付けてくる。薄いヒビが更に増え、広がっていく。
すぐ目の前で、銀色の指の関節が曲げられていく。その角度が狭まるほどに軋みは高まり、球体が歪み始める。
親指がヒビを抉り掛けたが、不意に力が緩んだ。ガラスの球体に生じていた歪みも戻り、焼けた鉄も遠のいた。
 手を下げたギルディオスは、ゆっくりと肩を落とした。ばつが悪そうに、伯爵を締め付けていた右手を見下ろす。

「…悪ぃ」

 ギルディオスは右手を振って熱を冷ますと、運転席に背を沈めた。

「少し、黙っててくれ。頭、冷やしてぇから」

 はあ、と疲れた様子で脱力した甲冑は、ハンドルの両脇に足を投げ出すと、腹の上に両手を置いて組んだ。
言われなくても喋る気はない。伯爵は、煮えそうな体を冷やすので手一杯だった。体をくねらせ、フラスコから出す。
湿った夜風に触れると、少しばかり楽になった。コルク栓を振り上げながら触手を捩り、ネジのように巻いていく。
それを緩やかに伸ばし、空気と接する表面積を増やした。その表面から、うっすらと白い湯気が立ち上っていた。
 鉱石ランプの硬質な光が、フラスコを舐めていた。







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