ドラゴンは滅びない




形在るもの



 ジョセフィーヌは、歌を歌っていた。


 調子外れで舌っ足らずな共和国軍軍歌が、鍋から立ち上っている白い湯気と共に台所中に広がり、反響する。
覚えている歌は、数えるほどしかない。ラミアンも教えてくれたのだが、彼の知っている歌はいずれも難しすぎた。
言い回しも音階も面倒なので、覚えようと思っても頭に染み込まない。計算や面倒な文字と同じで、理解出来ない。
せっかく教えてくれるのだから覚えようと思っても、頭が拒絶してしまう。心は知りたがっても、体が受け付けない。
 昔は、そんな心と体の落差を感じるたびに苛々してしまい、感情の行き場を失った挙げ句に怒ったこともあった。
ずっと泣いてしまったり、ラミアンにどれだけ慰められてもふて腐れたままだったり、ラミアンと口を利かなかったり。
だが、今はさすがに違う。年数を数えることは出来ないが、ラミアンとまた暮らし始めてからは長い年月が過ぎた。
何度も何度も春が来て夏が来て秋が来て冬が来て、小さかった息子も大きくなって、背も追い越されてしまった。
ジョセフィーヌの知る者達も歳を取り、子供を設けるようになった。だから、時間が大分過ぎたことは解っていた。
過ぎていく時間の中には、白昼夢のように突然やってくる予知の中で視た光景があることもなかったこともあった。

「機嫌が良いようだね、ジョセフィーヌ」

 背後から声を掛けられ、ジョセフィーヌは手を止めた。

「あ、おいしゃせんせー」

 食堂と台所を繋げる扉を開け広げているのは、くたびれた白衣を羽織っている黒竜族の医師、ファイドだった。
ジョセフィーヌは汚れた手をエプロンで拭ってから、ファイドの元に近付くと、背伸びをしながらファイドを見上げた。

「キャロルさんと、フィオさん、だいじょーぶだった?」

「キャロルの経過は順調だとも、私が保証しよう。フィリオラの翼の傷も、もうほとんど回復したと言っていい。あれは応急処置が良かったのだな。フィリオラは先祖返りはしているから回復能力は高いが純血の竜族ではないから、翼そのものを再生出来るほどの力はない。もしあのまま切り落とされたまま放っておいたら、フィリオラの背面の筋肉組織と肩胛骨と背骨と肋骨の大部分が失われていたかもしれんからな。だが、もう大丈夫だ。骨も神経もきちんと結合しているし、筋肉組織もあるべき場所に戻っている。場合によっては手術の必要もあるかと思っていたが、その必要がなくて良かったよ」

 ファイドはジョセフィーヌの頭に手を置き、軽く叩いてやった。

「後は君の仕事だ、ジョセフィーヌ。精の付くものを作ってやって、養生させてやりたまえ」

「うん!」

 ジョセフィーヌは元気よく頷き、笑った。

「じゃあ、きょうのゆうごはんはなににしようかなー」

 張り切りながら、ジョセフィーヌは台所に戻っていった。ファイドは壁にもたれると、白衣のポケットに手を入れた。

「君は、不安ではないのかい?」

「なにが?」

 ジョセフィーヌは野菜を切るためにナイフを手にし、振り返った。

「だって、ラミアンもブラッドも、ちゃんとかえってくるんだよ?」

「ああ、そうだったな」

 ジョセフィーヌの答えに、ファイドは頬を緩めた。ジョセフィーヌは、土の付いたイモを手に取る。

「だからね、ジョーはいいこにしてまってるんだ。だって、それがおかーさんのおしごとだもん」

 その通りだと言わんばかりに頷いているファイドに、ジョセフィーヌは笑い返してから、イモの皮剥きを始めた。
 ファイド・ドラグリクがゼレイブを訪れたのは、男達がブリガドーンへ戦いに出向いてから二日後の夕方だった。
彼は妊娠しているキャロルの経過とここに住まう者達の様子を見に来たのだが、すぐに街中の異変に気付いた。
そこかしこに戦痕が残り、地面には家が丸々入ってしまいそうな大穴が空き、子供達と男達が姿を消していた。
 ピーターとアンソニーに事の次第を説明されたファイドは、当初は数日間の予定だった逗留を延長してくれた。
戦いを終えた男達が無事に帰ってくるまでの間、ラミアンやレオナルドらに代わり、ゼレイブを守ると言ってくれた。
ファイドは純血の竜族だ。異能者であるとはいえ、男二人だけではゼレイブの全てを守ることには限界がある。
なので、今のゼレイブには非常にありがたい申し出だった。この状態で連合軍に襲われては、一溜まりもない。
彼はあくまでも医者であり戦いを主とする人物ではないが、その身に宿る竜の力はどんな武器よりも勝る力だ。
 丁度良い時に、丁度頼れる男が来てくれた。ファイドはここにいる皆から信頼されているので、尚更だった。
どれだけジョセフィーヌが明るく振る舞おうとも、皆に淀んだ不安は消えない。不安でない者など、一人もいない。
ジョセフィーヌも、予知しているとはいえ恐ろしくないわけがない。予知で視る未来は、決して絶対などではない。
だから、ジョセフィーヌの心中にも重たい不安が溜まっていた。だが、ファイドが来てくれたおかげで軽減された。
 今日の夕ご飯は、特に力を入れよう。食糧に限りがあるので思い切ったことは出来ないが、それでも頑張ろう。
ファイドは頼れるお医者の先生だ。ジョセフィーヌだけでなく、皆が世話になっているのだからお返しをしなくては。
 鼻歌の音階が、上がった。




 夢を見ていた。
 この感じは、いつも視る予知夢だ。ジョセフィーヌの持つ予知能力が最も冴えるのは、深く眠っている時だった。
起きた瞬間に忘れるものもあれば、何日も忘れられないものもある。今回は、その忘れられない類の夢だった。
こめかみに鈍い痛みがあり、胃の辺りが重苦しい。よく眠ったはずなのに体が重く、少しも気分は良くなかった。
 だが、起きて朝食を作らなければならない。ジョセフィーヌは上体を起こそうとしたが、ひどい頭痛が響いた。
視たくないものが、次々に視界を過ぎる。いつか視た未来の姿が溢れ出し、頭と心に容赦なく流れ込んでくる。
映像は生々しく、匂いや感触まで感じられることがある。ジョセフィーヌにとって、予知とは未来ではなく現実だ。
幻であって幻ではないものだ。体温に温められているような鉄臭い匂いが、鼻の奥にべっとりと貼り付いている。
 月のものか、と思って下半身を探ってみたが経血が出ている様子はない。となれば、これもまた予知の一部だ。
何を予知したのか、思い出したくない。先日の予知は映像こそ見えなかったが、明確な印象があるものだった。
前触れもなく、表現を和らげることもせず、ただ冷酷に示してくる。今回の予知も、先日の予知と似た感じがした。

「らみあーん…」

 耐え切れなくなって夫の名を呼んでみたが、ラミアンはいない。息子もまた、ブリガドーンに向かっているのだ。
いつもであれば、夫が頭を撫でたり抱き締めたりして慰めてくれる。息子も、少し照れながらも相手をしてくれる。
予知の苦しみを深く理解してくれるのは、付き合いの長い二人だけだ。他の者達には、あまり頼りたくなかった。
それでなくても、皆は大変なのだ。そんな時に弱音を吐いて泣きついたりしては悪いし、不安を増長させてしまう。
負傷しているフィリオラや妊娠初期で体が辛いキャロルに負担を掛けないためにも、起きて仕事を始めなくては。
しかし、頭が痛い。体もだるい。熱はないが、楽ではない。予知能力が過剰なまでに働くと、いつもこうなるのだ。
何もこんな時に、と膨れてもどうにもならない。ジョセフィーヌは気合いを入れて起き上がったが、立てなかった。
それどころか、ますます気分が悪くなってしまった。うぇー、と変な声で唸っていると、寝室の扉が数回叩かれた。

「はーい」

 ジョセフィーヌが力なく答えると、入ります、との声の後にアンソニーが入ってきた。

「どうかしたんですか?」

「えっとねー、うんとねー」

 ジョセフィーヌは気分の悪さを堪えながら事の次第を説明しようとしたが、頭痛のせいで言葉が出てこなかった。
ラミアンであれば何も言わなくともすぐに理解してくれるのだが、付き合いの浅い相手には説明する必要がある。
喋ろうとしていると、アンソニーの体温の低い手がジョセフィーヌの額に触れた。念波が、その手に吸収される。

「あーうー」

「ああ、予知のせいですか」

 ジョセフィーヌの上擦った呻きを遮るように言ったアンソニーは、ジョセフィーヌの額から手を離した。

「魔力が落ち着くまで起き上がらない方がいいですよ。もっとひどくなりますから」

「うん、だけどねー」

「家事ならオレとピートにでも任せておいて下さい。やり方はあなたから視ますから」

 と、アンソニーはジョセフィーヌの肩に手を触れた。その手に、情報が含まれた念波が吸われていくのが解った。
それは、異能者同士だからこそ解ることだった。今日やるべき家事の手順や方法などが、彼の手に流れていく。
朝食の献立も畑仕事や家畜の世話のやり方も、ほぼ全部が吸い込まれた。彼は一通り吸い込むと、手を離した。

「これでいいでしょう。ですが、この内容をピートに伝えるのが骨なんですよね。あいつは念動力馬鹿ですから、隊長やロイズみたいに精神感応能力は持ち合わせていないんですよね」

 言葉で説明するのは面倒なんですよ、とアンソニーはぼやいた。

「あんそにーさあん」

 ジョセフィーヌはベッドから身を乗り出し、アンソニーに近寄ろうとした。

「なんですか。他に何かあるんですか」

 アンソニーはジョセフィーヌを見下ろすと、ジョセフィーヌは顔をしかめた。

「ジョーのおしごと、ぜんぶやっちゃやだー。いっぺんにぜんぶよんじゃうなんて、そんなのずるっこだー」

「そんなことを言っている場合ですか」

 アンソニーはその子供染みた態度に呆れたが、ジョセフィーヌはむくれている。

「だあってー、ジョーはおかーさんなんだもん。おかーさんはね、おしごとするのがおしごとなの」

「それはそうかもしれませんが」

「やーだー」

 ジョセフィーヌが頬を張ると、アンソニーは困ってしまって眉を下げた。

「手伝うと言われてなんで怒るんですか、ジョーさん? 普通は喜びませんか?」

「だって、やなんだもん」

「ですけど、その頭痛じゃ動けませんよ。無理をしたら治るどころかひどくなりますし」

「やなんだもーん」

 拗ねたジョセフィーヌは、そっぽを向いた。アンソニーは彼女の思念を読んでしまおうかと思ったが、手を引いた。
すると、開け放ったままにしていた扉の外に足音が止まった。足音の主は、白衣姿の黒竜の男、ファイドだった。

「何を騒いでいるんだい、君らは」

「あ、ファイド先生」

 アンソニーは手を引き、振り返った。扉に手を置いて寝室を覗き込んだファイドは、苦笑いする。

「吸血鬼の花嫁に手を出したら命はないと思いたまえ、アンソニー」

「いえ、そういうわけではないですよ」

 アンソニーはファイドに向き直ると、ベッドに座るジョセフィーヌを指した。

「起きてくるのが遅いのでどうしたのかと思って来てみたら、頭痛だそうです。異能力の酷使と過労が原因ですね」

「君がいると私の仕事が減って敵わんな」

 ファイドはちょっと肩を竦めてから寝室に入り、ジョセフィーヌに近付いた。

「おはよう、ジョセフィーヌ。彼の言うことに間違いはないと思うが、そうなのかね?」

「うん、あたまいたい。でも、おしごとしなきゃダメなの、だってジョーのおしごとだもん」

 ジョセフィーヌは不機嫌そうに、ファイドを見上げた。ファイドは、いやはや、と笑う。

「真面目なのは結構だが、君も体を大事にしなければならないよ、ジョセフィーヌ」

「でーもー」

「それとも、何か嫌な予知でもしたのかい?」

 ファイドの声は穏やかではあったが、重みが含まれていた。目付きは優しいが、瞳は赤く縦長の瞳孔は鋭利だ。
真正面から覗き込まれると、多少なりとも威圧感を感じる。今更ながら、ファイドが竜族であることを実感する。
医者らしい柔らかな物腰と態度で包み隠されているが、彼がただ者ではないことは関わった誰もが理解している。
あのフィフィリアンヌと付き合いがあり、黒竜戦争も生き延び、共和国戦争などの戦乱も全て乗り越えてきた男だ。
威圧と言っても、フィフィリアンヌのように刃物を突き付けてくるようなものではないが、逃れがたいものであった。
 予知夢。まだ見ぬ未来。新たに視た未来。瞬きをするたびに予知夢の映像が次々に蘇り、脂汗が手に滲んだ。
予知夢は未来を見せるだけ。その未来から逃れるための手段を示すことはなく、ただ義務的に教えるだけだ。

「いやだよう」

 予知を忘れたくて、ジョセフィーヌは頭を振った。

「じっとしてるの、いやなんだよう」

 こうしている間にも、時間は過ぎていく。一日、一時間、一分、一秒と、未来に向けてじりじりと歩み寄っていく。
それが、たまらなく怖い。視た未来が来なければただの悪夢だったと切り捨てられるが、もしもそうでなかったら。
動けば、未来は変わるかもしれない。幼い知性しか持たない頭で必死に考えた末に、そんなことを思い付いた。
 朝食を作らなければ。掃除をしなくては。洗濯をしなくては。畑仕事をしなくては。家畜達の世話をしなくては。
日常の営みを繰り返していけば、穏やかな時間を積み重ねていけば、ただの悪い夢になってくれるかもしれない。

「何を、予知したんだい」

 ファイドの言葉はいつになく強く、ジョセフィーヌの内心の抵抗を制した。ジョセフィーヌは、頭を抱える。

「いわなきゃ、ダメ…?」

 辛うじて出した声は、頭痛と嫌悪感で震えていた。

「こんなの、いいたくない。みたくない。だから、きかないで、おいしゃせんせー。おねがいだから」

「そうか。そんなにひどいか」

 ファイドは申し訳なさそうにしつつ、ジョセフィーヌの乱れた髪に触れた。途端に、ジョセフィーヌはびくりとした。

「あ、う」

「ああ、すまんすまん」

 ファイドは平謝りしてから、身を引いた。

「ならば、後で薬でも持ってきてしんぜよう。今日はゆっくり休むが良い、ジョセフィーヌ」

 寝室を後にするファイドの後ろ姿に、軽く頭を下げたアンソニーは、ジョセフィーヌの手首に指先を伸ばした。

「みるな!」

 叩き付けるように強く言葉を発したジョセフィーヌは、ほつれた前髪の間からアンソニーを見上げた。

「みちゃ、だめ」

「ですが」

「あのね、アンソニーさん。アンソニーさんも、みたくないことをみたことって、あるよね?」

 頭から手を外して顔を上げたジョセフィーヌは、苦しさからか目元にうっすらと涙を溜めていた。

「ジョーも、こんなのはみたくない。こんなちから、ほんとうはいらない。いらないけど、すてられない。たいちょーさんからは、ほこりにおもえっていわれた。でも、ジョーのちからはいいことにはつかえない。ジョーがみるのは、いつもいつもわるいことばっかり。いいことなんて、ほとんどみないの。だからね」

 ジョセフィーヌはぐいぐいと目元を擦っていたが、呟いた。

「いいたくないし、おしえたくないの。ラミアンとブラッドにはかぞくだからおしえられるけど、ほかのみんなはダメ」

 ジョセフィーヌの言いたいことは、解らないでもない。アンソニーも、接触感応能力故に読み過ぎることがある。
知りたくなかったことや知らなくてもよかったことまでもが頭の中に流れ込み、忘れようにも忘れられなくなる。
知りすぎる苦しみは、アンソニー自身も痛いほど知っている。その苦しみを与えてはならないと思っているのだ。
だが、それは違うように思う。同じ異能者だから気を遣うのではなく、同じ異能者だからこそ分かち合わなくては。
異能部隊は、そのために造られた部隊だ。それぞれに能力を使い合うことで、その真価を最大限に引き出す。
 本当は視たくない。読みたくない。知りたくない。ジョセフィーヌの強い拒絶の言葉に、軽い畏怖すら感じていた。
だが、逃げてはいけない。未知の戦場であるブリガドーンへ戦いに向かった皆に比べれば、予知を知ることなど。
 だめ、とのジョセフィーヌは抑制したがそれを振り切り、アンソニーはジョセフィーヌの手首を力任せに掴んだ。
手のひらに触れた彼女の肌は冷や汗でぬめり、体温も低かったが、それが伝わってきたのは情報の後だった。
痛みすら感じるほど鋭い思念が脳髄を貫き、それが抜けると痺れが生じた。彼女が予知したものが、視えてくる。

「…すいません」

 掠れた呟きを零し、アンソニーはジョセフィーヌの手首から手を離した。ジョセフィーヌは、俯く。

「ほら、ね。みないほうが、よかったでしょ?」

「それは、本当なのですか」

「わかんない。でもね、ジョーがみたことは、いつもほんとうになるの。だから、こんどもきっと」

「とりあえず、仕事をしてきます。朝食を作らないといけませんから」

 アンソニーは、若干青ざめていた。ジョセフィーヌは頷く。

「うん、おねがいね。ジョーがやりたいけど、やっぱりあたまがいたいから。ごめんなさい、それとありがとう」

「いえ、気にしないで下さい」

 アンソニーは深く息を吐くと、失礼します、と言い残して寝室を後にした。彼の足音が、廊下を遠ざかっていく。
その足音が聞こえなくなった頃、ジョセフィーヌは突っ伏すようにしてベッドに倒れ込むと、枕を抱えて顔を埋めた。
アンソニーが全て視ずに済んだら、どれだけ良かっただろうか。この苦しみを抱えるのは、自分一人で沢山だ。
だが、接触感応能力を遮れるほど念波や魔力の扱いに長けていない。練習したことはあるが、出来なかった。
 まただ。また、誰も彼もが不幸になる。それを先に知っていながらも、何も出来ない自分がとても歯痒かった。
ジョセフィーヌは枕を抱き締めて、目を閉じた。今度は良い夢が見られたらいいな、と願いながら意識を沈めた。
 だが、視たのはまたもや予知夢だった。




 そんなことが、あってもいいのか。
 ジョセフィーヌから読んだ予知夢の映像が頭の芯にこびり付き、激しい動揺が溢れて心中を掻き乱していた。
視る時は、見る時よりも遥かに鮮明な絵が現れる。まるで現実であるかのように感じられ、錯覚することすらある。
だが、これを現実として受け止められるほどの余裕がなかった。アンソニーは壁に手を付き、何度も深呼吸した。
 土壁から伝わってくるのはブラドール一家の平和な日常と愛情に満ちた日々の残滓で、多少心が落ち着いた。
気のせいだと思い込んで、忘れてしまおうか。だが、そんなことをしては、現実から目を逸らすことになってしまう。
ジョセフィーヌを視たのは、アンソニー自身の意志だ。後悔する理由はない。真っ向から、受け止めるしかない。
躊躇うことなどしてはならない。ブリガドーンに向かうのが彼らの戦いなら、これはアンソニーに与えられた戦いだ。
 ジョセフィーヌは、いつもこんな目に遭っているのか。そう思うと背筋が逆立ち、指先から寒気が這い上がった。
自分であれば、耐えられない。彼女の知能が幼いままなのは、苛烈な現実と非情な予知から身を守るためか。

「だが、どうする…」

 これを、報告するべきか。だが、そんなことしては、この危うくも心地良い平穏な日々がまた崩れ去ってしまう。
男達が帰ってきても、言えるかどうか。平和と子供達を取り戻して幸せを勝ち取った彼らを、掻き乱したくない。
それに、アンソニーもこの状態を壊したくなかった。平和らしい平和を味わうのは久々で、抜け出せなくなっていた。
生温いと言えば生温いが、敵兵士と殺意を向け合う日々に逆戻りすることを考えれば、当然の心理だと言えよう。
今ばかりは平和に過ごしていたい。アンソニーはひやりとした壁から手を外すと、台所へ向かうべく歩き出した。
 ジョセフィーヌから知り得た、今日の仕事の内容を思い出しながら。







07 6/12