ドラゴンは滅びない




戦乙女



 竜の城の目前には、湖が広がっていた。
 晴れた空は高く、魔導金属製の肌を掠める風は柔らかい。湖と城を囲む木々の色合いは、変わりつつあった。
本当に三ヶ月が過ぎていた。眠っている間は一瞬にしか感じられなかったが、目覚めると時間の経過を実感した。
かなり古い上にあまり手入れのされていない城の壁にはツタが這い回り、荒れていたが、彼女らしい気もする。
 目覚めてから一日が過ぎた。久々の現実の時間は、慌ただしく流れた。地下室から出ると、部屋を与えられた。
といっても、長い間誰も使っていなかった部屋の扉の鍵を渡されただけで、後はルージュの好きにしろと言われた。
大変だったのはそれからだ。その部屋は本当に誰も使っていなかったらしく、雪のように埃が積もっていたのだ。
いくら機械の体とはいえ、ここまで汚いとさすがに嫌なので徹底的に掃除をしてみたが、まだ終わっていなかった。
部屋中に大量の本が溢れている上に、怪しげな害虫が至る所に隠れており、丸一日掃除しても片付かなかった。
これでは、掃除が終わるのは何日も後になる。それに、ルージュは、それほど掃除が好きというわけではない。
生身だった頃に短期間だが人間の真似事をして暮らしたことがあるので、やり方は知っているが得意ではない。
面倒で手間が掛かるし、何より体が汚れてしまう。これなら、ブリガドーンにいた方がマシだったとすら思った。
だが、空に浮かぶ山は消えてしまった。あの激しい戦いで完全に破壊されてしまい、海の中に没したのだという。
 竜のツノが生えている幼女、リリと共にゼレイブに行ったフリューゲルのことがほんの少しだけ気に掛かった。
そして、羨ましくもあった。それはそれで大変な道だろうが、人並みの幸せへの近道であることは間違いない。
ラオフーのことは、それほど気に掛からなかった。一年程度の付き合いだったが、特に思い入れもしなかった。
きっと、どこかで生きているだろう。ルージュはかつての同胞達のことを頭から払拭すると、背中に魔力を向けた。
 威勢の良い音を立てて、背部の推進翼から青い炎が迸った。足元の地面を蹴ると、すぐさま浮かび上がった。
フィフィリアンヌの言う通り、確かに以前よりも動作が軽くなっていた。魔力の伝達が滑らかで、反応が迅速だ。
体を浮かび上がらせるための浮遊魔法も強化されているので非常にやりやすく、試しに飛んでみようと思った。
 ルージュは青い湖面に向かうと、加速した。風圧を受けて体の下で水面が波打ち、細かな飛沫が飛び散る。
頬や手足を掠める水の感触と冷たさが心地良く、思わず唇を緩めていた。湖のすれすれから、上昇してみた。
一瞬、足元の水面が抉れて波紋が広がる。ルージュは魔導金属糸製の長い髪を揺らしながら、空を目指した。
一気に上昇し、竜の城の頂点近くまで飛行する。すると、湖を見下ろせる古いベランダに城の主が立っていた。
彼女と目が合ったので、ルージュは引き返した。ベランダの太い手すりにつま先を付けて着地すると、直立した。

「各部とも、異常はない。前よりも良いぐらいだ」

「当然だ。私が手を加えたのだからな」

 ベランダに寄り掛かっているフィフィリアンヌは、手の中のグラスを揺らした。ルージュは、手すりに腰掛ける。

「朝から酒か?」

「私にとっては、これは水だ」

 そう返してから、フィフィリアンヌはグラスの中のワインを喉に全て流し込むと、ルージュを見上げた。

「一晩経ったが、整理は付いたか」

「部屋の方も、心の方も、今一つだ」

 ルージュが首を横に振ると、フィフィリアンヌは足下に置いていたワインボトルを取り、グラスに注いだ。

「部屋の掃除も、結論も、あまり急がずともよい。ブリガドーン戦から三ヶ月が過ぎたが、未だに異変が起きんのだ。大方、あちら側も頃合いを見計らっているに違いない。だが、この膠着状態がいつまでも続くとは思えん」

「しかし、私は、本当に戦わなければならないのか?」

「事と次第に寄っては、だが、十中八九戦わざるを得ないであろう。これまでの愚劣な手段から考えるに、穏やかに事を進めるつもりは毛頭なさそうだからな。奴は私の手の内を把握しておる。厄介だが、その分歯応えはある」

「気丈と言うべきか、過激と言うべきか」

 ルージュが苦笑すると、フィフィリアンヌは二杯目のワインを飲み干した。

「ならば、無謀とでも言うが良い。今回、私の手の内にある手駒は、貴様とあの鬱陶しいスライムだけなのだ。貴様の破壊力はそれなりに優れているが、戦力としては不十分だ。増して、伯爵に至っては道案内と騒音を撒き散らす程度にしか役に立たん。対して、奴の手の内には様々な駒が揃っておる。勝機は少ないやもしれんが、やるだけのことはやるつもりだ」

「だが、お前ほど口が達者な女なら、敵とやらをやり込められそうな気がするんだが。一度ぐらい、話し合ってみたらどうだ。そうすれば、平和的に解決出来るのではないか?」

「話し合うだけ、時間の無駄だからだ」

 フィフィリアンヌは三杯目のワインを注いでいたが、半分ほどで止めた。

「奴が私と顔を合わせようともしないのは、そもそも私をあてにしていないという意味なのだ。つまり、私と意見が合うわけがないと端から判断されているということだ。だから、私がどれほど滑らかで耳障りが良い言葉を並べようとも、奴の耳には届かずに擦り抜けてしまうだけだ。無駄だと解っている上で、行動するほど愚かではない。それに、無意味な行動は嫌いなのでな」

「ならば、私達を禁書集めに利用したことにもちゃんと意味があったのか」

「当然だ。貴様達を使った理由としては効率が良いからというのもそうだが、奴の出方を見るためでもある。だが、貴様達にろくな攻撃をしてこなかったことと、ラオフーが行方をくらましたことから考えるに、どうも私も奴の手の内にいたらしい。恐らく、ラオフーは最初から奴の手の内にいたのだ。ラオフー自身の目的と、奴の狙いが一致していたのかもしれん。ラオフーは気紛れで私の作戦を掻き乱したのではない、目的があったからこそ掻き乱したのだ」

「その、目的とは何なんだ」

「解り切ったことだ」

 フィフィリアンヌは三杯目のワインは飲み干さずに、グラスを下ろした。

「連合軍とニワトリ頭共を衝突させ、敵対させるために決まっておる。その場所にブリガドーンを選んだのは、私の動きを制限するためだろう。フリューゲルがリリを攫ってきたのは偶然かもしれんが、そのせいで事が円滑に進んでしまったようだ。ラオフーは、元から子供らをブリガドーンに集め、ゼレイブに住まう男達を引き摺り出して連合軍と戦い合わせるつもりだったのだ。その理由は、箱庭の守護者とも言えるラミアンを駆り出さねばならぬほどの状況を作るためであり、引いてはゼレイブの守りを手薄にするためだったのだ。ラミアンがゼレイブにおらぬのであれば、あの魔力の蜃気楼を突破するのはかなり簡単だからな。連合軍の生体魔導兵器、アレクセイ・カラシニコフにグレイスを暗殺させたことから考えると、連合軍との繋がりもきちんとしているようだな。盤は奴の駒で占められているが、まだマス目は余っておる。その隙間にどんな駒を置くかで、戦況は変えられるはずだ」

「その駒が私なのか」

「ああ。死んでおったのであれば、別の駒でも用意しようかと思っていたのだが、生きておったからな。有効に利用するまでだ。それに、貴様は何かと使い勝手が良い。フリューゲルと違って脳髄も詰まっておるし、ラオフーと違って裏切りもしないし、誰が主かを弁えておる。まあ、少々色恋沙汰には弱いようだが」

「従順とでも言ってくれ。魔性の王たる竜族に逆らえる魔物など、この世に存在するものか」

「そこでだ、ルージュ」

 フィフィリアンヌはワイングラスを掲げ、ルージュの目の前に突き出した。

「貴様に任務を命ずる。ブラッドをたらし込み、ゼレイブの内情を探れ」

「た、たらし?」

 思い掛けない言葉にルージュが仰け反ると、フィフィリアンヌはワイングラスを軽く揺らし、水面を波打たせた。

「技術に自信がないのであれば、適当な変形の魔法でも施してやるぞ。中身は機械であったとしても見た目が生身の女なら、あの年頃の男が食らい付かないはずがあるまい」

「それは、つまり、だ、抱かれろ、と?」

 ルージュはそれだけで取り乱し、目線を彷徨わせる。フィフィリアンヌは、彼女の大袈裟な反応に眉根を曲げる。

「最終手段だが、どうしてもそうせざるを得ない状況になったら抱かれでもなんでもするが良い。変形の魔法を知らないのであれば、一通り教えてやる。貴様の魔力と魔法の腕なら、あれぐらいの魔法は簡単に操れるだろうて」

「しかし…」

 それでは、ブラッドを填めることになる。ルージュが顔を伏せると、フィフィリアンヌはワインを一口飲んだ。

「あれは顔だけは良いからな。放っておいたら、ヴィクトリア辺りに喰われるやもしれんぞ」

「それはいかん、それだけはいかん!」

 途端に慌てたルージュが声を上げると、フィフィリアンヌは狡猾な眼差しをを注いできた。

「ならば、やるのだな?」

 断り切れない状況を、作られてしまった。ルージュは反論しようかと思ったが、上手い文句が思い付かなかった。
ブラッドにさえ絡めなければ、どうとでもあしらえるはずなのに、ブラッドが少しでも関わると思考が固まってしまう。
フィフィリアンヌの作戦も解らないでもないが、いくらなんでも短絡的ではないか。そんなに上手くいくとは思えない。
恐らくこれは、ばれることを前提にしている。接触することをブラッドに口止めしたところで、ばれないわけがない。
ゼレイブに住まう者達は、ただでさえ勘の良い者達だ。そこへ、人ではない自分が近付けば、気配が感付かれる。
要するに、ルージュを囮として使うつもりなのだ。盤の手前に配置されれば、いずれ相手方に接触して動かされる。
戦いの道具でしかない魔導兵器には、実に相応しい役割だ。ルージュは内心で自嘲しながら、唇の端を歪めた。

「了承した」

「素直で結構だ。男の前でも、それぐらい素直に慣れれば良いがな」

「余計なお世話だ」

 ルージュが言い返すと、フィフィリアンヌはワイングラスにワインを注ぎ、ルージュへと差し出した。

「男をたらし込むに当たって、最も有効な手立ては餌付けだ。だから、貴様には料理も教えてやろう。どうせ、料理の方法などろくに知らぬだろうからな」

「それは、その通りだが」

 今度は言い返せず、ルージュは言葉を濁した。

「だが、そこまでする必要があるのか? その、たらし込むだけなら、餌付けなどしなくとも」

「貴様はあれを誑かすだけで満足なのか、ルージュ」

「は?」

「誑かして利用してそれきりでいいと言うのなら、私は別に構わんが」

 フィフィリアンヌは面倒そうな態度で、目線を逸らした。

「貴様はあれに惚れておるのだろう? 一度は潰えた恋やもしれんが、貴様が生きているなら再生する余地もあるやもしれんではないか」

 フィフィリアンヌは、冷血無慈悲な女だとばかり思っていた。実際、今し方までルージュを道具として扱っていた。
その彼女の口から、血の通った言葉が出てくるとは思いも寄らなかった。ルージュは意外に感じて、目を丸めた。

「なんだ、その顔は」

 フィフィリアンヌが不服げに睨んできたので、ルージュは表情を戻した。

「あなたは真冬の吹雪で凍り付いた海面よりも冷たいのだとばかり思っていたが、優しい部分もあったんだな」

「褒めるのか貶すのか、はっきりせんか。私も、貴様如きに世話を焼くのは私らしくないと思っているが、このままではどうにも後味が悪くてならんのだ。それに、色恋沙汰に不器用な女を見ておると苛々してたまらんのだ」

 フィフィリアンヌが吐き捨てると、彼女の足元でごとりとフラスコが動いた。

「はっはっはっはっはっはっはっはっは。トカゲ女よ、貴君も随分と甘くなったものであるぞ。貴君とそこの吸血鬼女の性格は、我が輩からしてみても似通ってるのであるからして、トカゲ女にとっては吸血鬼女が色恋沙汰に戸惑う様を見るのは、かつての自分の姿を見ているのと同じであるからして他人事ではないのであり、吸血鬼女のもどかしくもまどろっこしく面倒くさい恋心が手に取るように解るのである。道理で、貴君らの仲が良くなるわけである」

「貴様に発言権はない」

 フィフィリアンヌはすかさず足を振り下ろし、ブーツの硬い靴底でフラスコの球体部分を踏み付けた。

「本来であれば、この女の愚にも付かない恋心になど爪の先ほども興味を抱かんが、たまたま気が向いたから手を出してやっているだけだ。それに、奴と真っ向からやり合うまでは私も退屈なのだ。単なる暇潰しに過ぎん」

「はっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは。貴君もこの我が輩のように魂を解放し、素直になれば良いのである。ほれほれ、思い出さぬか。貴君がカインと惚れ合っていた頃の、背中がむず痒くなるような甘ったるいやり取りや初々しくも馬鹿馬鹿しい言動を! 我が輩は覚えておるぞ、ああ覚えておるとも、貴君とカインがこのベランダで寄り添いながら囁き合った愛の言葉を、交わした恋文の内容を、夜の営みの一部始終を!」

「黙らんかあ!」

 居たたまれなくなったフィフィリアンヌは、伯爵のフラスコにワイングラスを叩き付け、両方を割った。

「それ以上言ってみろ、この場で貴様を一滴も残さず蒸発させてやろうではないか!」

 フィフィリアンヌの血の気のない頬に、僅かに赤みが差している。これは照れているのだ、とルージュは察した。
カインというのは、フィフィリアンヌの夫だった男の名だろう。伯爵の口振りからすると、余程甘い関係だったようだ。
伯爵を罵倒しながら割れたフラスコを踏み付けているフィフィリアンヌの姿を見ていると、とても想像出来ないが。
ルージュは、フィフィリアンヌの甘ったるい結婚生活に対して少しだけ興味がわいたが、問い詰めないことにした。
そんなことをすれば、今度はルージュが伯爵の代わりに蹴られる。触覚が戻ったのだから、痛覚も敏感になった。
だから、絶対に痛い。フィフィリアンヌの蹴りにはやたらと力が入っていて、ガラス片を全て粉々に砕いてしまった。
 やはり、竜は恐ろしい。




 その夜。ルージュは、城の上に立っていた。
 昼間は伯爵に煽り立てられたフィフィリアンヌがいきり立ったため、思いの外、竜の城は騒がしくなってしまった。
だが、悪くない。ブリガドーンにいた頃のフリューゲルとラオフーとの騒がしい日々を思い出し、少し懐かしくなった。
彼らの騒ぎを横目に見ていただけだったが、あれはあれで楽しかった。誰かと連んだのは、二人が初めてだった。
二人には思い入れがないと思っていたのに、いざ離れてみると寂しいと感じた。友人でも仲間でもないというのに。
また会えるものなら会いたいが、次は敵同士になるだろう。ラオフーも、そしてフリューゲルとも戦うかもしれない。
だが、二人が相手ならば躊躇いもなく殺せる自信がある。迷いが生じてしまうのは、ブラッドに関することだけだ。
それ以外のことは、どうでもよかった。ブラッドに対する恋心が膨らむに連れて、周りが見えなくなってきていた。
ルージュ自身も実感していたが、歯止めが利かない。増して、フィフィリアンヌからたらし込めと言われては尚更だ。
 それでは、恋をしろと命じられたも同然だ。戦うために蘇らせられたはずなのに、最初にすることは恋愛なのか。
筋違いどころか、大いにずれている。今後の戦略のために必要なのだと解っていても、違和感は拭えなかった。
その上、恋心に利用されている。だが、嬉しくてたまらなかった。恋をしてもいいのだと、初めて肯定されたからだ。
 ルージュは、右手を胸の魔導鉱石に載せて軽く握った。手のひらに伝わってくる魂の温度は熱く、高ぶっている。
失った心臓の鼓動によく似た、魂の脈動が感じられた。ルージュはまた涙が滲んできてしまった目元を、拭った。
嬉しさと切なさが、等しく込み上げる。同時にブラッドへの火照った感情も迫り上がり、胸の奥が締め付けられた。

「ブラッド」

 ルージュは、暗黒の夜空を見上げた。

「お前は、私が喰う」

 三度目の戦いで、二人は互いの首筋に牙を突き立てた。だが、次は、それだけでは済ませない。

「だから、お前も私を喰え。喰い尽くしてくれ」

 戦いのために、再び恋に身を投じる。しかし、ルージュからすれば逆だった。己の恋を貫くために、戦うだけだ。
この両腕に、この魂に、この命にやっと意味が出来た。最初は鬱陶しいだけだったが、今はとても大切な感情だ。
生まれて初めて愛おしいと思った者を守るためなら、その者と思いを通じ合わせるためなら、どんなことも出来る。
あまり得意ではない料理も、意識したことのない女らしい仕草も、己の恋に積極的になることも、出来るはずだ。
だが、数十年ぶりに作った料理は派手に失敗してしまい、フィフィリアンヌからはひどい文句で嘆かれてしまった。
食材の無様な有様を思い出したルージュは、途端に気が滅入りそうになったが、頭を振って無理矢理払拭した。
まだ次がある。だから、これぐらいのことで滅入ってはいけない。ルージュは顔を上げると、足元の屋根を蹴った。
 夜空に飛び出すと、冷ややかな夜風が肌を舐めていった。その感触が心地良く、ルージュは頬を緩めていた。
ブラッド。彼の名を呼ぶ機会は、これから増えるだろう。そして、彼から名を呼ばれる機会も増えてくれるだろう。
自分と他人を区別するためのただの記号でしかなかった名に、ほんの少しだけだが、愛おしさが沸き起こった。
 これが、生なのだ。二度目の死を経験してから、初めて知った。温かくもあり、それでいてどこか気恥ずかしい。
けれど、心地良い。ルージュは背部の推進翼から迸っている青い炎を強め、加速すると、夜空へと駆け上った。
 ああ。私は、生きている。




 右腕には剣を、左腕には砲を、そして胸には愛を。
 竜の手によって蘇った美しき兵器は、戦うために恋をし、恋をするために戦う。
 二度も潰えた命を再び輝かせたのは、愛しい男への弛まぬ恋情であった。

 恋心とは、何物にも勝る原動力なのである。







07 7/21