ドラゴンは滅びない




日溜まりの家



 目が冴えて、寝付けなかった。
 その原因として考えられるのは、今日は異能力の訓練をしなかったために魔力が体中に漲っているせいだろう。
心身共に疲労を感じているのに、寝付けないのは困りものだ。だが、魔力を多少抜けば、精神の高ぶりも収まる。
ロイズはベッドから起き上がると、タンスの上に手を伸ばし、母親の遺品である魔導鉱石のペンダントを取った。
この魔導鉱石はヴェイパーの魂を納めている魔導鉱石から切り出したもので、ヴェイパーの魂と繋がっている。
だから、この魔導鉱石のペンダントに高ぶった魔力を注ぎ込めば、ヴェイパーの魂の中へと流れ込むことになる。
そうすればロイズも楽になり、ヴェイパーも満ちる。要するに、リリとフリューゲルの契約関係と同じようなものだ。
 ロイズは子供の手にもすっぽり収まる大きさの青い魔導鉱石のペンダントを握り締め、魔力をそちらに向けた。
熱に似た力が、手の中の魔導鉱石に注ぎ込まれる。だが、抜きすぎると疲れるので、切りのいいところで止めた。
魔導鉱石のペンダントをタンスの上に置いたロイズはベッドに横たわり、そのうち眠気が来るだろう、と目を閉じた。
だが、すぐに目を開けてしまった。この屋根裏部屋と一階を繋げている梯子から、軋みが聞こえてきたからだ。
その軋みは軽く、息遣いは密やかだ。ロイズは起き上がると、梯子を登る者が穴から顔を出すのを待ちかねた。

「こんばんは」

 朝と全く同じように穴から顔を出した彼女は、ちょっと照れくさそうに笑った。

「ロイも目が冴えちゃったんだ。私も、なんだか眠れなくて」

 ワンピースの寝間着に上着を羽織っているリリは、ひらひらする裾を気にしながら屋根裏部屋に入ってきた。

「でも、なんで僕のところに来るの?」

 ロイズが少し訝しむと、リリは両親の寝室の方向を指した。

「お父さんとお母さんってね、ケンカした後はすっごく仲良くなっちゃうの。だから、邪魔したら悪いと思って」

「あ、そう」

 それもまた、いつものことだ。ロイズが素っ気なく返すと、リリは面白くなさそうに眉を下げた。

「そこ、褒めるところじゃない?」

「褒めてほしいの?」

 リリの言い草にロイズは可笑しくなり、笑ってしまった。リリは、ロイズのベッドに歩み寄ってくる。

「だって、だーれも褒めてくれないんだもん。お父さんとお母さんに言っても、二人とも照れちゃうだけだし」

 んしょ、とリリはベッドの傍に置いてある足場を使ってベッドに登ると、ロイズの隣に座った。

「眠くなるまで、お話しようよ。一人でお部屋にいたって、つまんないだけだもん」

「そうだね」

 リリのありがたい申し出に、ロイズは素直に頷いた。一人きりではつまらないのは、ロイズも同じだったからだ。
本を読もうにも読めるような本はこの部屋にはないし、話し相手になるような相手は手近な場所にいなかった。
ヴェイパーと思念で話すとしても、眠っているであろうヴェイパーを無理に起こすのは申し訳ないと思ったからだ。
 リリはロイズの被っていた掛け布団をめくると、小さな体を潜り込ませ、ロイズの寝間着の裾を引っ張ってきた。

「ほら、ロイも。起きてちゃ寒いよ」

「あ、うん」

 リリと一緒に寝るのは初めてではないが、あまり慣れていない。ロイズは少々躊躇いながらも、潜り込んだ。
自分自身の体温とリリの体温で、布団の中は温まっていた。リリは布団の下で体をずらし、ロイズに寄り添う。

「フリューゲルも一緒に寝られたらいいのになぁ」

「あれと?」

 ロイズが変な顔をすると、リリは小さな唇を尖らせる。

「そしたら、ロイみたいに寝るまで一緒にお話し出来るじゃない。昼間は私もフリューゲルもお仕事があるし、お勉強もしなきゃならないから、あんまり長くお話し出来ないんだもん」

「あれと話すことなんてあるの?」

 ロイズの呟きに、リリはむくれる。

「ロイはヴェイパーとずっと一緒だから、知らないことなんてないかもしれないけど、私とフリューゲルはまだお友達になったばかりだもん。まだまだ知りたいことがあるんだもん」

「例えば?」

「うーんとねぇ…」

 リリは口元に指を添え、考えた。

「フリューゲルって、どこで生まれたんだろう。ロイがどこで生まれたのかは前にヴェイパーから話してもらったから知っているけど、フリューゲルはそういうことをちっとも話してくれないんだもん。マドーヘイキになる前は魔物だったって言うけど、どんな魔物だったんだろう。やっぱり、今みたいに、凄い速さで空を飛んでいたのかな。フリューゲルのお父さんとお母さんは、どんな魔物だったのかな。フリューゲルにも、兄ちゃんとか姉ちゃんとかいたのかな」

「いないと思うよ」

「え?」

 ロイズの言葉に、リリは目を丸めた。ロイズは頭の後ろで手を組み、真っ暗な天井を見上げた。

「大分前に父さんが言っていたんだけど、野性の魔物はほとんど滅ぼされちゃったんだってさ。昔は一杯いたらしいけど、大きな戦争とか、サンギョーカクメイとかでどんどん狩られちゃったんだって。だから、今いる魔物は作られたものなんだって。なんていうのかな、ヴェイパーみたいな感じかな」

「でも、ヴェイパーは最初から機械のマドーヘイキだよ? フリューゲルとは違うよ?」

 不可解そうなリリに、ロイズはどう言い表すべきか悩んだ。語彙が少ないので、違いを上手く言葉に出来ない。

「だから、なんていうのか、えーと、フリューゲルもヴェイパーも同じ戦いの道具だったってことだよ」

「フリューゲルはヴェイパーとは違うもん。今は機械だけど、昔は機械じゃなかったって言ってたもん」

 リリに言い返され、ロイズは詰まってしまった。

「えーと、だから…」

 こん、と窓が叩かれた。二人が言い合いを中断して窓に振り向くと、そこには当のフリューゲルが浮いていた。
リリはすぐにベッドから出ると、上下式の窓をぐっと押し上げ、精一杯身を乗り出してフリューゲルに問い掛けた。

「ね、フリューゲル。フリューゲルには、家族がいるよね?」

 だが、フリューゲルは沈黙していた。夜は静かに、とフィリオラから言い聞かせられているからかもしれないが。
ねえ、とリリが再度問い掛けてもフリューゲルは黙していたままだった。暗がりの中で、赤い瞳が際立っている。

「ロイズ。リリに余計なこと教えんじゃねーよ」

 フリューゲルは窓の隙間を押し上げると、ぐいっと頭をねじ込んできた。

「リリ。オレ様はオレ様だ。オレ様はここにいるからオレ様で、昔のオレ様はオレ様じゃねぇんだ」

 彼の口調はいつになく厳しく、強張っていた。

「オレ様は道具でもなんでもねぇ。オレ様はオレ様だから、オレ様なんだよ。それが解ったら、そんな下らねーことは二度と言うんじゃねぇぞ。言ったりしたら、リリのトモダチだっつっても容赦しねぇからなこの野郎」

 言葉尻には怒りが滲み、声色も高ぶっていた。鋭利な輝きを放つ赤い瞳に、ロイズは射竦められてしまった。
だから、ロイズは頷く他はなかった。昼間とは掛け離れた態度と言葉に、リリも少しばかり怯えているようだった。

「ごめんね、フリューゲル」

 リリがしゅんとしてしまうと、フリューゲルは急に明るくなった。

「くけけけけけけけけけけけけ。解りゃいいんだよ、解りゃな!」

 オレ様はまた寝る、と言い残してフリューゲルは垂直に浮上し、ヴァトラス家の屋根に飛び乗ったようだった。
金属の足がレンガを踏み付ける、硬質な音がした。リリは上下式の窓を閉めると、またベッドに戻ってきた。
フリューゲルを怒らせたことを気にしているのか、沈んでいた。ロイズは掛け布団を上げて、リリを手招いた。

「ほら」

「うん」

 リリはロイズが上げている掛け布団の下に入ったが、枕に顔を埋め、小さく漏らした。

「私、フリューゲルを怒らせちゃったんだ。家族のこととかは、聞いちゃいけなかったんだね」

「明日、また謝ればいいよ。きっと、すぐに許してくれるよ」

 ロイズが励ますと、リリはかすかに頷いた。

「そうだね」

 リリはのそのそと身を捩って仰向けになると、掛け布団を引き上げて顔の下半分を埋めてしまった。

「ロイ」

「なに」

 ロイズが聞き返すと、リリは泣きそうな顔をしていた。

「これで、いいんだよね?」

 その言葉は、ロイズだけでなくリリにも向けられていた。嫌なことから目を逸らし、怖いことからは逃げるのだ。
この三ヶ月間、二人はそうしてきた。お互いの抱える痛みや苦しみだけでなく、他人のものからも目を逸らした。
フリューゲルの心に刻まれた傷口を抉りそうになっても、すぐに逃げる。謝って、忘れて、なかったことにしてしまう。
ヴィクトリアに会うのはブラドール家の屋敷にお使いに出された時か、どうしても会わなければならない時だけだ。
前のように明るく振る舞うブラッドが時折見せる、とても険しい表情や苦悩に満ちた目も、見ていないことにする。
ブリガドーンでの出来事は思い出さない。話さない。記憶の底に封じ込めて、きつく蓋を閉めて、鍵を掛けてしまう。
それは、大人達も同じことだ。皆の傷口はまだ新しいから、極力触れないようにして、開かせないようにしている。
あのおぞましい出来事はなかったかのように、最初からブリガドーンは存在していなかったように振る舞っている。
ロイズも、出来る限りそうしている。母親に続いて父親までもが死んだ事実を、一度には受け止めきれないからだ。
一度に全てを受け止めてしまうと、ヴィクトリアのようになってしまう。それが恐ろしく、おぞましいからでもあった。
 このままではいけないと、思わないでもない。目を逸らしていては何も始まらず、また、何も終わることもない。
けれど、逃げていなければ押し潰されてしまう。明るい場所にいなければ、這い寄ってくる暗闇を拒めなくなる。

「うん」

 ロイズはリリを引き寄せると、そっと抱き締めた。

「これでいいんだよ」

 リリの体は、魔力が籠もっているためか体温が少し高くなっていた。リリは、ロイズに縋るようにして体を丸めた。
リリを安心させるためにしたこととはいえ、照れてしまった。ロイズはリリの体に回した手を、ゆっくりと下げた。
 それから二人は他愛もないことを話していたが、そのうちに眠気が訪れたので、どちらともなく眠りに落ちた。
ロイズは、夢を見た。この家でダニエルとフローレンスと共に穏やかに暮らしている、有り得ない世界の夢だった。
 だが、楽しかった。




 翌日は、洗濯日和の快晴だった。
 フィリオラは丁寧に洗って汚れの取れた家族の服を物干し竿に掛けながら、調子の外れた鼻歌を歌っていた。
その様を、フリューゲルが眺めていた。彼の仕事であるゼレイブ周辺の見回りと牧草狩りは、終わったからだった。
彼の主であるリリとロイズは、ブラッドに連れられて釣りに出掛けている。魚を沢山釣るんだ、と張り切っていた。
ロイズが出掛けるのであれば、とヴェイパーも三人に連れ立って外へ行ったので、今日のゼレイブは静かだった。
大事な家畜は頻繁に食べられないので、魚は重要な蛋白源だ。量が多かったら、塩漬けにして保存すればいい。
だが、彼らの腕ではそれほど期待出来ないだろう。ブラッドはともかく、リリとロイズの釣りの腕は今一つ冴えない。
それでも、釣ってくれるだけありがたい。フィリオラは夕食にどんなものを作ろうかと考えながら、洗濯物を広げた。

「おー」

 ふと、フリューゲルがやる気のない声を上げた。フィリオラは物干し竿に洗濯物を掛けてから、振り向いた。

「あ、ジョーさん。おはようございます」

「おはよう、フィリオラ」

 ジョセフィーヌは穏やかな微笑みを浮かべ、フィリオラに近付いてきた。

「今日は絶対に雨は降らないから、夕方まで干していても平気よ」

「いつもありがとうございます、ジョーさん」

 フィリオラは、ジョセフィーヌに笑い返した。

「いいえ、どうしたしまして」

 ジョセフィーヌは、年相応の態度と口調で答えた。最初は違和感を感じていたが、今となってはこれが普通だ。
だから、フィリオラは戸惑うことなく微笑み返していた。ジョセフィーヌの知性が成長したのは、三ヶ月ほど前だ。
丁度、男達がヴァトラス小隊としてブリガドーンに戦いに出ている最中に変化が起き、以前の幼さはなくなった。
知性が幼かった頃はほとんど出来なかった読み書き計算だけでなく、最近では魔法も扱えるようになっていた。
まるで、サラ・ジョーンズに戻ったようだとフィリオラは思っていた。サラ・ジョーンズというのは、以前の彼女の姿だ。
キース・ドラグーンに肉体を乗っ取られていたジョセフィーヌが、キースに演じさせられていた架空の女性である。
サラ・ジョーンズはフィリオラやレオナルドらが住んでいた共同住宅の管理人で、穏やかで人当たりが良かった。
だが、サラ・ジョーンズと大きく違うのは、ジョセフィーヌが持っている予知能力を巧みに利用していることだった。

「ヴィクトリアさんはどうですか?」

 フィリオラが尋ねると、ジョセフィーヌは少し悲しげな笑みを作った。

「今日は、とてもよく眠っているわ。昨日はひどく暴れたから、きっと疲れたのね。少佐が付いていて下さって、本当にありがたいわ。私達だけだったら、とっくに限界が来ていたでしょうから」

「鎮静剤と睡眠剤の魔法植物が足りなかったら、仰って下さいね。うちの倉庫には、まだたっぷりありますから」

「ありがとう、フィリオラ」

 ジョセフィーヌは、優しく目を細めた。

「これで、いいんですよね?」

 不安と躊躇いを紛らわすように、フィリオラは呟いた。ジョセフィーヌは、頷く。

「ええ、いいのよ」

 草原を渡ってきた風がゼレイブに滑り込み、干したばかりの洗濯物をはためかせて、山へと向かっていった。
山の斜面に作られた畑には秋の作物が実り、収穫されるのを待っている。畑で働く、男達の姿も見えている。

「今のところはね」

 間を置いてから、ジョセフィーヌは付け加えた。フィリオラは敢えてそれを聞き返さずに、笑った。

「ブラッドさんとうちの子達が、魚を沢山釣ってきてくれるといいですね」

「きっと釣ってきてくれるわよ。今夜は何を作ろうかしらね」

 じゃあまた後で、とジョセフィーヌはフィリオラに軽く手を振ってみせると、ブラドール家の屋敷へと戻っていった。
フィリオラは手を振り返していたが、洗濯物を干す作業に戻った。子供達の小さな服を広げ、物干し竿に通す。
フィリオラとレオナルドの服も通してから物干し竿を持ち上げ、物干し台に引っ掛けた。これで、洗濯は終わりだ。
ならば次は部屋の掃除だ、とフィリオラが洗濯桶を持ち上げようとすると、唐突にフリューゲルが立ち上がった。

「どうかしましたか、フリューゲル?」

 フィリオラが問うと、フリューゲルはぎちっと首を大きく曲げた。

「これでいいのか?」

「いいんですよ。そうしなきゃ、いけないんです」

「でも、フィリオラ、つまんなさそうだぞ」

 フリューゲルの躊躇いのない眼差しが、フィリオラを見据えていた。

「じゃあ、良くないんだな?」

「良くないかもしれないけど、今はそうするしかないんです」

「だったら、いつか良くなるのか?」

「良くさせるためにも、今はこうするのが一番なんですよ」

 フィリオラの答えに納得していないのか、フリューゲルは更に首を曲げた。

「お前らって変だ。蒸気野郎はしたくないって言っていたのに、フィリオラもジョセフィーヌもしなきゃならないって言う。したくないのにするなんて、変だぞ。したくないんだったら、しなきゃいいじゃねーか。それとも、お前らはそんなに」

 フリューゲルの赤い瞳が、ぎゅんと見開かれた。

「ヴィクトリアが嫌いなのか? 嫌なのか? リリも嫌いなのか? だったらオレ様は、すぐにあいつを」

 フィリオラの手が挙げられ、フリューゲルの顔の前に差し出された。フリューゲルは一瞬臆し、ずり下がった。

「なんだよ」

「それでは、私達がしてきたことの意味がなくなってしまいます」

 フィリオラは手を下げると、かかとを上げて背伸びをし、フリューゲルとの間を狭める。

「ですからフリューゲル、もうしばらく見守りましょう。きっと、ヴィクトリアさんは立ち直ってくれますよ」

 ね、とフィリオラは少し首をかしげた。フリューゲルは曲げていた首を戻すと、仕方なく頷いた。

「うん…」

 フィリオラは鼻歌を歌いながら洗濯桶を持って家の中に戻っていったが、フリューゲルはその場に立っていた。
皆が皆、言っていることもしていることも遠回しすぎて掴みづらい。そんなにヴィクトリアが邪魔なら、殺せばいい。
リリだけでなく皆が触れないようにしている者を生かしておいたところで、何の意味もなく役にも立たないだろう。
自分だったら、さっさと殺してしまう。その方が楽だし、すっきりする。嫌だ嫌だと思うくらいなら、そうしてしまう。
人間というのは、さっぱり訳が解らない。フリューゲルはもう一度首を曲げていたが、痛くなったので元に戻した。
 この家は暖かく、そして明るい。だが、それはこの家と家族だけで、その周囲は濃い影が広がってばかりだ。
ヴァトラス一家が明るければ明るいほど、影は濃さを増す。それはどうしようもなく残酷で、ぞっとするほど冷たい。
だが、目を逸らしては余計に影は濃くなるだけではないか。事実、そのせいでリリは要らぬ不安を抱えている。
 このままで、いいはずがない。




 あの戦いから、三ヶ月が過ぎた。
 緩やかなる時間は彼らの心に余裕を与えもしたが、同時に傷口を深めもした。
 光の中に住まう幸せな少年と少女と、闇の中に溺れゆく孤独な少女。

 光が眩しく輝けば、闇は限りなく深まるのである。







07 7/25