ドラゴンは滅びない




雨空



 大粒の雨が、顔と言わず全身を打ちのめす。
 それでも、走らずにはいられなかった。フィリオラは粘ついた泥水を散らしながら、視界の悪い中、駆けていた。
聞こえるのは自分自身の荒い息と乱暴な雨音だけで、一番聞きたい娘の小さな足音は少しも聞こえてこなかった。
手のひらに収まりそうな大きさの足跡は、よろけたり転んだりしながら、ゼレイブの外へ繋がる道に続いていた。
灰色の空の下では、何もかもが灰色だった。フィリオラはスカートの裾をたくし上げ、なりふり構わず走り続けた。

「リリ!」

 娘の名を叫んでも、雨音に掻き消される。フィリオラは渇いた喉に唾を飲み下してから、もう一度強く叫んだ。

「リリ!」

 すると遥か前方で、ばちゃり、と鈍い水音がした。フィリオラはその音源に目掛け、出せる限りの早さで駆けた。
 リリが家を飛び出した。フィリオラとレオナルドがたしなめても、フリューゲルを探しに行く、と言い張っていた。
今日は外へ出ない方がいい、と言っても聞き分けず、とうとう両親を振り切って勝手に外へ駆け出していった。
遊び慣れたゼレイブの中であっても、雨に濡れた斜面や増水した小川に近付いてしまっては大人でも危険だ。
 フィリオラが駆けていくと、水を含んで柔らかくなった道にリリが座り込んでいた。頭からつま先まで泥まみれだ。
走るうちに、何度も転んでしまったのだろう。フィリオラは近寄ろうとしたが、娘から生じる強い熱気に気付いた。

「きらい…」

 リリは黒い泥がべったりと付着した頬に、雨水と共に涙を流しながら、フィリオラに振り向いた。

「お父さんもお母さんも大嫌い!」

 リリは険しい眼差しで、母親を見据えた。

「フリューゲルが出て行っちゃったのは、お父さんとお母さんがいつもいつも怒るからだ! フリューゲルは、本当は良い子なのに! ロイには全然怒らないのに、フリューゲルばっかりなんて変だ!」

「リリ」

 フィリオラがリリの傍で足を止めると、リリは立ち上がり、両の拳を握り締めた。

「やっぱり、フリューゲルが嫌いなんだ! 嫌いだから、心配もしないんだ! お父さんもお母さんもフリューゲルが嫌いだって言うなら、私もお父さんとお母さんが嫌いだあ!」

 降り注ぐ雨が、急激に熱せられた。リリの体に付着していた雨水が一瞬にして蒸気に変わり、白く立ち込めた。
泥水がぶくりと沸騰し、爆ぜる。激情に任せて炎の力を放ったリリは、蒸気に包まれながら再度叫び散らした。

「嘘吐き!」

 子供らしからぬ激しい言葉に、フィリオラは硬直した。雨の寒さとは違う冷たさが、背筋を駆け抜ける。

「フリューゲルはどこにもいないじゃない! お母さんの嘘吐き! フリューゲルはもう帰ってきてくれないんだ!」

 うわあ、とリリは堰を切ったように泣き始めた。フィリオラは、背後に駆け寄ってくる足音に気付くと、振り返った。
レオナルドは雨と泥にまみれた妻と子の姿を確認すると、僅かに安堵した表情を浮かべたが、すぐに強張らせた。
フィリオラは夫から目を外して、泣く娘に向き直った。ここでレオナルドに頼ってしまっては、戦いに負けてしまう。
この戦いは、フィリオラとリリの戦いだ。フィリオラは泣き喚いているリリに歩み寄り、震えを堪えながら手を挙げた。
 上手く力の入らない手であっても、子供は容易く殴り飛ばせた。悲鳴を漏らし、リリの体は泥の中に倒れ込んだ。
リリは母親に張り飛ばされた頬を押さえて、信じられないと言わんばかりに目を大きく見開き、掠れた声を出した。

「おかあさん…?」

「だったら、私もあなたが嫌いです」

 フィリオラはリリの柔らかな頬を殴った感触の残る手で、リリの襟元を掴み、無理矢理立たせた。

「フリューゲルがいなくなって、あなたはどう思いました? 辛い? 悲しい? 寂しい? 腹立たしい?」

 怯え切った視線を彷徨わせるリリと目線を合わせ、フィリオラは厳しい言葉を連ねた。

「あなたが私達を裏切ってここから去ってしまった時、私はどれほど心配したか解っているんですか? あなたの力で焼き尽くされた場所を見た時、あなたのネッカチーフをあの鳥が付けていたのを見た時、どれほど恐ろしい気持ちになったか教えてあげたいほどです。あなたは、あなたと同じように何も言わずに出ていったフリューゲルを責められる立場にありますか? 責めるばかりで、どうして彼のことも私達のことも信じてくれないんですか!」

「あ…」

 リリがフィリオラから逃れようと身を捩ったので、フィリオラは娘の細い両腕を強く掴んだ。

「悪いことをしたなら、叱られるのは当然なんです! 叱ってもらえなければ、どれほど悪いことをしたかが解らないからです! 確かに、叱られるのは怖いかもしれないし嫌かもしれません! 私だって、あなたのことを叱りたくないし怒鳴りたくなんてありません! ですが、そうしなければ、あなたはもっと悪いことをします! 悪いことが悪いことだと知ってほしいから、叱るんです! あなただって、悪いことはしたくないでしょう!」

 普段の母親とは、まるで様子が違う。怒り方も全く別だ。リリは畏怖に苛まれて、がくがくと体を震わせていた。
心の底から怒っている。今までに見たこともないほどの激しい眼差しで、リリを射抜かんばかりに見据えている。
フィリオラの頬には、雨水とも涙とも付かない水が落ちていた。細い腕を握り締めている手が、ほんの少し緩んだ。

「どうして、信じてくれないんですか?」

 フィリオラはリリの腕を掴んでいた手を下ろし、リリの両手を包み込んだ。とても小さく頼りない、幼い手だった。
怯えている娘の姿に、フィリオラは幼い頃の自分を重ねていた。怒鳴られて、罵られて、蔑まれていた頃のことを。
 あの頃の自分は、本当に愚かだった。決して愛してくれない相手を必死に信じて、愛してもらおうと努力していた。
どんなに馬鹿馬鹿しいことでも言うことを聞いて、どれほど罵倒されようとも従い続け、両親に近付こうとしていた。
だが、両親は最後までフィリオラに手を差し伸べなかった。共和国戦争が始まると、フィリオラだけを残して逃げた。
それを知った時、闇の中に投げ出された気がした。これで本当に世界で一人きりになってしまったのだ、と思った。
けれど、その頃にはレオナルドと恋仲になっていたし、ギルディオスもフィフィリアンヌもいたから持ち堪えられた。
どうしようもない無力感にも負けずに、果てしない空虚さにも折れずに、踏ん張れた。生きていてもいいのだ、と。
 それでも、たまに思い出すことがある。ストレイン家の中で、家族と笑い合えていたならどうなっていたのか、と。
そうなっていたら、きっとゼレイブにはいなかった。レオナルドとも出会わなかった。リリも生まれなかっただろう。
だが、どちらが幸せかと問われたら迷わずにこちらを取る。人として扱ってくれて、母にしてくれた場所だからだ。

「あなたに信じてもらえるなら」

 母に、信じてもらえたなら。

「あなたが私達を愛してくれるなら」

 家族に、愛してもらえたなら。

「私は、それだけでいいんです」

 それだけで良かったのに。フィリオラはリリの体を抱き竦めると、その場に座り込み、ぼろぼろと涙を零した。
リリは母親に抱き締められながら、釣られて泣き出した。レオナルドは妻子の傍らに膝を付くと、顔を覆った。

「ああ、そうだ」

 フィリオラの言葉に、レオナルドの心も抉られていた。どれもこれも、家族に掛けてもらいたかった言葉だった。
炎の力を持て余していたが故に異能部隊へ放り込まれ、異能部隊を破壊して逃げ出した後も遠巻きにされた。
その身を切るような寂しい日々の中で、一言でもいいから暖かな言葉を掛けてもらえていたら、違っていたはずだ。

「迎えに来た」

 レオナルドは妻と子を抱き締め、少年の頃に家族から言ってほしくてたまらなかった言葉を言った。

「一緒に家に帰ろう。リリ、フィリオラ」

 リリは両親の腕の中で、何度も頷いた。そして、何度も謝った。フィリオラは、そんなリリに頬を擦り付けていた。
雨脚は一向に弱まらず、三人の体をひどく濡らしていた。手も足も冷え切ってしまって、指先は痺れそうだった。
だが、冷たさは感じなかった。互いの体温と愛情に包まれていたから、雨の冷たさを感じている余裕などなかった。

「ごめんなさい…」

 リリは両親の服の袖を両手で握ると、言葉にならない言葉で喚いた。

「おとうさん、おかあさん、だいすき」

「ええ」

 フィリオラはリリの泥に汚れた頬を袖で拭うと、涙を拭わないまま、微笑んだ。

「私もあなたが大好きです」

「帰ったら、風呂でもなんでも沸かしてやる。ついでに、何か作って喰わせてくれ。腹が減った」

 レオナルドが言うと、フィリオラは満面の笑みで頷いた。

「はい、レオさん」

 レオナルドは妻に笑い返すと、妻と子に口付けた。さすがに、照れ臭いなどと言っていられる場合ではなかった。
フィリオラはリリを立たせ、ごめんなさいね、と言いながら殴ったせいで腫れてしまった丸っこい頬を撫でてやった。
リリは首を横に振り、泥に汚れた手で涙を拭った。レオナルドがリリの左手を取ると、フィリオラは右手を取った。
そして、三人は手を固く繋いで家に帰った。一向に弱まらない雨脚の中であっても、家族の心は満ち足りていた。
 愛し、愛されるのは、なんと幸せか。




 ロイズは扉を細く開けて、リリの部屋を覗いた。
 ベッドでは、レオナルドが念力発火能力で沸かした風呂に入って綺麗になったリリと、フィリオラが眠っていた。
フィリオラはリリを寝かし付けていたようなのだが、途中で自分も眠たくなったらしく、ベッドに俯せになっていた。
 フリューゲルの家出はギルディオスがリリに与えた試練だと、ロイズもフィリオラから言われて既に知っていた。
だからフリューゲルの心配はそれほどしていなかったが、不安げなリリのことはさすがに気に掛かってしまった。
突然家を飛び出してしまった時はどうなるかと思ったが、両親と共にちゃんと帰ってきたので、もう大丈夫だろう。
フィリオラに寝かし付けられたリリの寝顔は、疲れていたが安心しきっていた。これなら、心配する必要はない。
邪魔をしてはいけない、とロイズが扉を閉めて立ち去ろうと振り返ると、風呂上がりのレオナルドが戻ってきた。

「リリもフィオ小母さんも、寝ちゃったみたいです」

「そんなところだろうと思ったよ」

 レオナルドは扉を開けて中に入ったが、ロイズも手招いた。ロイズは、きょとんとして自分を指す。

「僕も?」

「お前も、立派なうちの家族だろうが」

 レオナルドにそう言われてしまっては、逆らえない。ロイズは少々躊躇いながらもリリの部屋に入り、扉を閉めた。
レオナルドは眠り込んでしまった妻を抱き上げ、リリの傍に横たわらせ、別の掛布を妻の体の上に掛けてやった。
ロイズは多少距離を取り、扉の傍に立った。レオナルドはフィリオラの傍に腰を下ろして、愛おしげに娘を撫でた。

「フリューゲル、帰ってくるといいな」

「え、あ、はい」

 その言葉に、ロイズはちょっと不思議な気持ちになった。レオナルドは、フリューゲルが嫌いではないのか。
無意識のうちにその感情が顔に出てしまったらしく、ロイズの顔を見たレオナルドはやりづらそうに苦笑いした。

「確かに、オレはあいつが好きじゃない。我が侭で乱暴で口が悪くてやかましいからな。だが、そんな馬鹿な鳥でも、リリの友達だと言うのなら、オレも大切にしたいと思うんだよ」

「だったら、どうして仲良くしないんですか?」

「いきなり仲良く出来たら、誰も苦労はしない」

 そういえば、レオナルドは恐ろしく意地っ張りな性格だとフィリオラから説明された。不仲の原因は意地なのか。
父親という立場も相まって、素直になりづらいに違いない。ダニエルもそうだったが、意地っ張りとは実に面倒だ。
普通なら真っ直ぐ通るだけでいい道をわざわざ遠回りをして、やたらと荒れた道を選んで進んでいくようなものだ。
ふと気付くと、レオナルドがロイズを凝視していた。ロイズが戸惑っていると、レオナルドはやけに難しい顔をした。

「いつ頃になるだろうな」

「何がですか?」

「お前と殴り合うのが、だ」

「ええ!?」

 思い掛けない言葉に、ロイズは目を剥いた。レオナルドは、逞しい腕を組む。

「出来れば殴りたくないが、お前がリリに手を出したら話は別だ。いくつだろうが殴る」

「え、えぇー…」

 今度は、呆れてしまった。レオナルドの血の気が多いとは聞いていたが、そこまで多いとなるとうんざりしてくる。
フリューゲルの時もそうだが、レオナルドのその手の心配は早すぎるのではないか。第一、まだどちらも八歳だ。
ロイズもリリも、お互いをいい友達としか思っていない。その関係が変わるのは、十年後ぐらいでないだろうか。

「こら」

 不意に、フィリオラの声がした。フィリオラは半目の状態で起き上がると、レオナルドの頬をぐいっと抓った。

「親友の忘れ形見になんてことを言うんですか、レオさんは」

 レオナルドはフィリオラの手を頬から外させると、抓られた部分を擦りながら眉を下げた。

「しかしだな」

「そりゃ、私だってリリが誰かとお付き合いするようになったら心配ですけど、まだ八歳なんですよ?」

 フィリオラは寝間着の裾を直してから、レオナルドの傍に寄り添った。

「それに、ロイズなら大丈夫ですって。きっと、いいお婿さんになってくれますよ」

「うえええ!?」

 なんて突拍子のないことを。驚きのあまりにロイズが仰け反ると、フィリオラは笑顔を向けてきた。

「ねえ、ロイズ?」

「あ、えーと…」

 ロイズは答えに詰まってしまい、真っ赤になりながら俯いた。そんなことを言われると、はっきりと意識してしまう。
リリの女の子らしさはこれまでも朧気ながら感じていたが、意識してしまうとますます目に付いてしまうことだろう。
それでは、やりづらいことこの上ない。ロイズがすっかり縮こまっていると、フィリオラは楽しげな笑い声を零した。

「あら、可愛いですねぇー」

「からかってどうする」

 レオナルドが額を小突くと、フィリオラはむくれた。

「だって、男の子ってからかうと可愛いじゃないですか」

「お前、そういう趣味があったのか?」

「趣味ってほどじゃないですけど、好きなのは確かですねぇ。ブラッドさんもそうですけど、レオさんもからかうといい反応してくれましたし」

 ころころと笑うフィリオラに、レオナルドは眉根を曲げた。

「となると、お前は解っていてやっていたんだな?」

「たまにですけどね」

 上機嫌なフィリオラに、レオナルドはひどく落ち込んで肩を落とした。

「そうか、オレはやり込められていたのか…。それも、こんな女に…」

「生涯の伴侶にその言い草はないと思いますが」

 ねえ、とフィリオラに話を振られたが、ロイズは言葉を濁した。

「えーと、その…」

 子供心にも答えづらいことだったので、どう答えたらいいのか解らず、結局ロイズは答えられず終いだった。
レオナルドとフィリオラは言い合っていたが、その言葉はどちらも攻撃的ではなく、他愛もないじゃれ合いだった。
それでも、リリが起きる気配はなかった。余程疲れてしまったのだろう、だらしなく涎を垂らして眠り込んでいる。
ロイズはこの部屋から出ていこうかどうしようかと悩んでいたが、視界の端に眩しい光を感じたので、顔を上げた。
 分厚い雨雲が切れ、その隙間から光が差し込んでいた。雨はまだ降り続いていたが、光は徐々に太くなった。
これなら、虹が出るかもしれない。虹が出たらリリを起こそう、とロイズは晴れやかな気持ちで光を見つめていた。
 止むからこそ、雨は降る。




 甘く柔らかいだけの愛は、本物の愛ではない。
 偽りの笑顔を浮かべて痛みを繕っているばかりでは、家族にはなれない。
 心を剥き出しにし、痛みも傷も全て受け止め、時に戦い合ってこそ。

 本当の家族に、なれるのである。







07 8/3