機体の調整は、一晩掛けて行われた。 その間、ルージュは機体から魂を切り離されて休眠させられていたので、その様子を見ることは出来なかった。 目を覚ました頃には機体の調整も何もかもが終わっていて、暗かったはずの窓の外もすっかり明るくなっていた。 だが、その白さは朝日の白さだけではなかった。城から見渡せる森や旧王都の敷地が、雪に覆われていたのだ。 夏が短く冬が長い共和国では、雪などそれほど珍しいものではないのだが、久々に見たので一層美しく思えた。 薄汚い瓦礫の山や錆び付いた戦車などが白く柔らかなものに包まれている様は、奇妙なほど優しい景色だった。 ルージュは、正面玄関から外へ出た。薄氷の張った湖面にも雪が積もっており、全てが白に支配されていた。 さすがに寒いのか、フィフィリアンヌもいつものローブの上に厚い上着を羽織っていたが、フラスコはそのままだ。 きんきんに冷え切ったフラスコの中に入っている伯爵の動きはいつになく鈍く、どうやら夜中に凍り付いたらしい。 だが、フィフィリアンヌは伯爵の呻き声を無視し、空中で動き回って体の具合を確かめているルージュを見ていた。 機械油が取れ始めて動きが少々硬くなっていた関節は滑らかになり、人造魔力中枢も魔導鉱石が交換された。 そのおかげで、魔力増幅と活性が良くなり、出力も高まった。今ではほとんど使わない左腕の砲も、整備された。 銀色の髪も艶が増し、朝日を跳ねて眩しい。ルージュはくるりと空中で身を翻してから、竜の女の前に着地した。 「これ以上ないほど調子がいい。これなら、どんな相手とも戦える」 「そうか」 ルージュにべた褒めされても、フィフィリアンヌの答えは冷淡だった。 「報告の頻度は下がるとは思うが、報告は続ける」 「まあ、良かろう」 フィフィリアンヌは、かすかに眉根を歪めた。 「一つ、命じておく。ゼレイブでは、何もするな。事の行方だけを見ておれ」 「それでいいのか?」 「貴様にそれ以外の何が出来ると言うのだ」 「しかし…」 「私も奴も駒を詰めた。俗な言い回しだが、なるようにしかならん」 「だが、本当に」 「くどいぞ」 フィフィリアンヌがやや語気を強めたので、ルージュは仕方なく言葉を止めた。だが、疑問は残されたままだった。 本当にそれでいいのだろうか。成り行きに任せるだけでは、事は悪い方向へと転がるばかりではないのだろうか。 「たまには、あれに任せるのも良かろうて」 口調は相変わらず平坦だったが、彼への様々な感情が込められていた。それを聞き、ルージュは納得した。 そういう考えなら、解らないでもない。だが、そう言いたいのなら、なぜ最初からはっきり言おうとしないのだろう。 「行くなら早く行かぬか。これ以上、貴様と語らうことなどありはせん」 フィフィリアンヌはやや面倒そうに、ルージュを見上げた。ルージュは、ゼレイブのある方角を見やる。 「それは残念だ」 「はっはっはっはっはっはっはっはっはっは。所詮、貴君のような者ではこの性根のねじ曲がった女を満たすことはおろか、感性に引っ掛かることすら出来ぬのである。話し込んだところで、一日もせずに終わってしまうのである」 伯爵の哄笑に、ルージュは唇を曲げる。 「それが外れていないから、怒るに怒れないな。まあ、とにかく、ゼレイブへ行ってくるとする」 「違うな」 フィフィリアンヌは、きつく吊り上がった目を細めた。 「何が違うんだ?」 ルージュが聞き返すと、フィフィリアンヌは凍り付いた湖面を走ってきた風に乱された前髪を押さえた。 「貴様は元々、私の駒ではあるが物ではない。貴様を使っていたのも、目が届く場所にあったのと、ただ単純に使い勝手がいいからに過ぎん。確かに一時期は上下関係にあったが、書類に記す価値がないほど単純な口約束と魔力の源であるブリガドーンがあったからこそ関係は保たれていたのであり、そのどちらも失せた今となっては貴様が私に忠誠を誓う意味もなければ理由もない」 「理由ならある。私は、あなたに二度も助けられた。それだけで充分だ」 「安い命だな」 フィフィリアンヌは珍しく口角を上向けたが、その表情は明らかに嘲笑だった。 「その理屈で行けば、貴様の命は道端に転げている石よりも安いということになる。拾い上げられた者が主と言うなら、貴様の言う主はあの者であるはずだ。最初に貴様に目を付け、貴様を利用し、貴様を虐げていた、あの者こそが主と言うことになるぞ。だが、貴様はあの者を拒絶して死したからこそ、私の手中に落ちたのだ。つまり私は、下らん願望を果たされた末に使い捨てられた廃棄物を拾ったまでであり、二回目もその程度なのだ。ブリガドーンでの戦いで敗北した、役にも立たぬ鉄屑の固まりを拾い上げて手を加えて動かせるようにしたまでだ」 「だが、それでも、拾い上げてくれたことには変わりはない」 「使い勝手の良い道具をこのまま朽ちさせるのは惜しいと思っただけであり、それ以上でもそれ以下でもない。今のところ、貴様はあの二人に比べれば遥かに優れた働きをしておる。これといった反逆もせず、暴走もせず、日々淡々と報告だけを繰り返している。このままではいずれどうなるか、貴様の頭でも想像が付こう。拾い上げられたからと言うだけで、私の手足となって飛び回り、私の代わりに手を汚し、私の思うことを叶え、私の永遠にも等しい退屈を時折紛らわす、都合のいい人形にしかならぬ」 「だが…」 「それが貴様の本望であれば、私は甘んじて受け入れよう。だが、それが貴様の本望でなければ、私は受け入れることはせん。いらぬ忠義の末に望まぬ未来を選ばれても、夢見が悪いだけなのでな」 「貴君と我が輩達の繋がりは、絹糸よりも細く、この雪よりも儚くも頼りないものなのである。切ろうと思えばいつでも切れるが、繋ごうと思えばいつでも繋ぎ直せる程度の、あまり面白味のない関係なのである。この女は、貴君の手中へ刃を握らせたのであるからして、その刃は我が輩達と貴君を繋げる糸を切れるものなのである。振るうか振るわぬかは貴君の自由ではあるが、振るうことを躊躇う理由などどこにもないように思えるのである。少なくとも我が輩であれば、こんなトカゲ女との腐った関係は断ち切ってしまいたいのであるからして、実に不本意で実に不可解で実に不愉快ではあるが、貴君の立ち位置を羨まぬでもないのである」 凍り付いているために若干反応が遅かったが、伯爵が能弁に述べた。それでも、ルージュは躊躇いを覚えた。 我が侭なら、一度叶えている。ブラッドに殺してもらった。そしてまた、ブラッドに会えた上に愛し合うことが出来た。 それだけで充分だ。ゼレイブに留まるという望みもこれから叶う。だから、これ以上望むべきことは何もないのだ。 フィフィリアンヌの言うような未来も、受け入れる覚悟はあった。機械仕掛けの体なのだから、人形に相応しい。 望みすぎて何も叶わないよりも、望まないで何も叶わない方が楽だ。ルージュは、自嘲混じりの笑みを浮かべた。 「切れと言われても、私は切りたいとは思わない。だから、その刃は使わないままでいい」 「面倒な女だ」 フィフィリアンヌは白いため息を吐き、ルージュに背を向けた。 「ならば、こう言おう。全てが終わるまでの束の間の時だけでも、貴様に人並みの幸せを与えてやろうと言っておるのだ。人でも魔物でもなく、ただの道具に過ぎない貴様に、人並みの意志を持てる機会を与えてやろうというのだ。本当にいらぬと言うのであれば、私は貴様の魔導鉱石を砕き、貴様の魂を失せた人形を繰って戦おう。その方が、下らぬことを並べ立てられずに済む。解るか、ルージュ。私にとっての貴様とは、所詮その程度なのだ。だが、貴様にはそれなりの意志がある。それを踏み潰すのは容易いが、潰したら潰したでうるさいのがおるのだ」 ただの道具。意志を持つ武器。戦うだけの人形。ルージュはそんな言葉を反芻していたが、口を開いた。 「そうだな。私は、そんなものだ」 けれど。魂を潰されることを悲しむ者がいるなら、その者のために何かを望んでもいいのではないだろうか。 「だったら、私もこう言おう。あなたが私を使い捨てると言うのなら、私は彼のために私を生かすことを選ぼう」 「では、言い換えろ。先程の表現では、貴様は私の所有物のままなのでな」 「これから私は、ブラッドの元へ帰る。それでいいか?」 「率直すぎて今一つ面白味に欠けるが、まあ良かろう」 フィフィリアンヌは振り返った。だが、すぐさまルージュから目を外し、雪に覆われている城を見上げた。 「行ってこい。そして、帰ってくるな。貴様の居場所は、ここではない」 「最初からそう言えば手っ取り早かったのでは?」 ルージュが小さく笑うと、フィフィリアンヌは即座に言い返した。 「長々と言葉を連ねることの面白さが、貴様には解らぬのか。無粋な奴め」 ルージュはまだ笑っていたが、柔らかくも冷たい地面を蹴って浮上した。振り返らずに、晴れ渡った空を目指す。 フィフィリアンヌは言い回しこそきつかったが、中身は至って優しいものだった。これもまたいつものことだった。 だが、彼女から離れるとその言い回しで罵倒されることもなくなる。少し寂しかったが、すぐに振り切ることにした。 事が終わった時、ルージュがこの世に在るかは解らない。それを踏まえて、フィフィリアンヌは自由を与えてくれた。 その自由の長さは解らないが、楽しめるだけ楽しもう。しばらく飛んでいると、昨日のような分厚い雲が現れた。 寒風と共に、あまり粒の大きくない雪が吹き付けてくる。硬い肌に触れた途端に溶け落ち、いくつもの滴が垂れた。 その感触は柔らかく、少しくすぐったかった。 ゼレイブに帰り着いたのは、夕方を過ぎた頃だった。 ゼレイブの方角だけを見据えて真っ直ぐに飛んだので、最短距離なのだが、それでも時間は掛かってしまった。 冬が深まるに連れて日没がかなり早くなったので、辺りはすっかり暗くなっていたが、吸血鬼の目には関係ない。 なだらかな山の麓に点在している民家の明かりが、段々と近付いてくる。それだけでも、心が浮き立っていた。 明日からは、今までとは全く違った日々が始まる。まだ右も左も解らない状態だが、精一杯頑張っていくしかない。 フリューゲルが順応出来たのだから、自分に出来ないはずがない。そう思いながら、ルージュは高度を下げた。 ゼレイブ全体を包み込んでいる魔力の蜃気楼の手前で、制止した。念のため、足の先をそっと差し込んでみた。 分厚くも柔らかな魔力は、差し込まれたつま先によってかすかに揺れただけで、拒絶反応は返ってこなかった。 どうやら、ラミアンにはちゃんと受け入れられたようだった。ルージュは安堵しつつも、いつになく慎重に降下した。 ヴァトラスの兄夫婦と弟夫婦の家からは暖かな明かりが零れ、夕食時なのか、かすかなざわめきが聞こえる。 ブラドール家の屋敷に近い方の家、弟夫婦の家の屋根にはフリューゲルと思しき妙な形の影が座り込んでいた。 フリューゲルはちらりとルージュを見たようだったが、特に気にすることもなく、家族が団欒する家を見下ろした。 その素っ気ない反応が少し癪に障ったが、すぐに払拭した。ルージュは、ゼレイブの出口である道に着地した。 「お帰り」 急に声を掛けられ、ルージュは驚いた。かつてルージュが破壊した家の手前に、防寒着を着たブラッドがいた。 「フィルさん、どうだった?」 長い時間待っていたらしく、ブラッドの顔色はやや青ざめて血の気が引いていたが、いつも通りに明るく笑った。 ギルディオスとの殴り合いで出来た傷は、三日もしないうちに全て塞がって骨も元に戻り、折れた歯も復活した。 だが、あの戦いの翌日はさすがに起き上がることも出来ず、ブラッドは全身の痛みに呻きながら眠り込んでいた。 しかし、吸血鬼の再生能力は素晴らしく、散々痛め付けられた首や頭に後遺症は一切残ることなく綺麗に治った。 ブラッドが眠っている間に、ルージュはギルディオスと共にラミアンや他の者達と話をし、ここにいたいと言った。 他の者達はルージュが来ることを渋っていたが、ギルディオスが味方に付いてくれたおかげで、なんとかなった。 ギルディオスを敬っているのはブラッドだけではなく、ゼレイブに住まう者達のほとんどが敬愛しているようだった。 だからこそ話が通ったが、そうでなかったらどうなっていたことか。ブラッドだけならば、はねつけられていただろう。 ブラッドは、若さ故の勢いはあるがゼレイブの中での立場は低い。それは、傍目に見ているだけでもよく解った。 やはり、ギルディオスにあの話をしたのは良かったのだ。彼が味方に付くか付かないかで、かなり違ってしまう。 「それは問題なかった。それよりもブラッド、どれくらいここにいたんだ」 ルージュが問うと、ブラッドは少し考えてから返した。 「日没よりちょっと前くらいかなぁ。でも、別に大したことじゃねぇよ」 「待っていられなくても良かったんだが」 「でも、なんか、待っていられなくってさ。散々会っていたのに、会いたくってたまらなかったんだ」 ブラッドは照れたらしく、血の気の失せていた頬に色を戻した。 「蜃気楼の具合でも解ったと思うけど、父ちゃんもなんだかんだで許してくれたよ。ルージュがフィルさんに使われていたってことがまだ引っ掛かっているみたいだけど、この間のラオフーのこともあるから、戦力増強の意味も込めてルージュが来ることを許してくれたんだと思う。母ちゃんは全然納得してねぇし、乗り気なのはおっちゃんとオレとリリぐらいで、正直言って状況は良くない。でも、すっげぇ嬉しいんだ」 幼い子供のような笑顔を浮かべ、ブラッドはルージュの手を取った。 「あんなに寒くて寂しい場所で待ち合わせしなくても、いつでも会えるんだぜ! やろうと思えば、一日中だって傍にいられる! 声だって聞けるし、触れるし、話せるなんて、夢みたいだ!」 ブラッドのあまりの喜びように、ルージュも嬉しさが込み上げてきた。 「本当だな」 「でさ」 ルージュの手を離したブラッドは、急に畏まった。 「なんだ?」 ルージュが聞き返すと、ブラッドは言いづらそうにあらぬ方向を睨んだ。 「ルージュの部屋のこと、なんだけどさ」 「別にどこでも構わん。雨風さえ凌げればいい」 「うん、あのな。待っている間、ずーっと考えていたんだけどさ、その、良かったらでいいんだけど」 恐る恐るルージュへ視線を戻したブラッドは、意を決して叫んだ。 「オレの部屋に来てくれたら、マジで最高なんだけどさ!」 「いいのか?」 「いいっつーか、オレが来てほしい! 古い屋敷だから無駄に広いし、未だに使い切れてねぇし!」 「だが、一緒には寝られないな」 「へ?」 ルージュの言葉に、ブラッドは真顔になった。ルージュは、くすりと笑う。 「あの姿にならなければ、の話だが。この恰好でいる間は、お前の傍の床で休ませてもらうことにしよう」 「つーことは、また、アレやってくれんの?」 「様子を見ながら、だがな。他の者に見つかっては面倒だし、何よりお前以外に見せたくないんだ」 自分で自分の言葉に照れてしまい、ルージュは妙に声を上擦らせた。ブラッドは、途端にはしゃいだ。 「うわっはぁーう!」 「そこまで喜ぶほどのことか!?」 大はしゃぎするブラッドにルージュが戸惑うと、ブラッドはだらしなくにやけた。 「あーもう、好きだ、大好きだ!」 ブラッドは浮かれた足取りでルージュの元へやってくると、手を差し伸べた。 「帰るぞ、ルージュ」 「ああ」 ルージュがその手を取ると、ブラッドは不満げに眉根を曲げた。 「違うって、そういうんじゃねぇよ。こういう時に言う言葉があるだろ?」 フィフィリアンヌにも似たような反応をされたな、とルージュは少し笑ってから考え、相応しい言葉を思い出した。 「ただいま、で、いいんだな?」 「お帰り」 ブラッドは、一際優しい笑顔を見せた。ルージュは嬉しいのだが、嬉しすぎて、照れくさくてどうしようもなくなった。 繋いでいる手が過熱していくのが解ったが、止められない。思わず、ルージュはブラッドの手を振り解こうとした。 「や、火傷、するぞ」 「そんなもん、初めて会った時にしちまったよ」 ブラッドはルージュの手を強く掴み、引き寄せた。ルージュはされるがままになり、すんなりと抱き締められた。 長時間飛行による機関部の発熱や感情の高揚による過熱とは違った温度が、ルージュの肌に染み渡ってくる。 こんなに幸せで、いいのだろうか。ルージュは少しばかり戸惑いながらも、ブラッドの背に手を回して縋り付いた。 ブラッドの手がルージュを慈しみ、温めてくる。外気と同じぐらいに冷えた指先のはずなのに、とても優しかった。 また、お帰り、と囁かれたのでルージュもまた、ただいま、と答えた。何度言われても、嬉しさは全く変わらない。 ようやく手に入れることの出来たものは、今までに味わったどんなものよりも温かくて優しく、たまらなく愛おしい。 だが、だからこそ恐ろしかった。ちょっとした切っ掛けで、降り始めた雪のように溶けて消えてしまいそうに思えた。 この命と同じく、仮初めの幸せだ。いずれ終わりが訪れる。そうだと解っていても、隅々まで幸福感に満たされた。 何もするなと命じられたが、消えてしまうぐらいなら、戦って守りたい。ブラッドの肩に顔を埋めながら、心を決めた。 それが、恋人としての役割だ。 凍えた風に誘われて、儚きものが空より地へと降り注ぐ。 触れただけで溶ける様に、竜の少女は周囲を重ね、鋼鉄の乙女は己を重ねる。 消えてしまうからこそ愛おしく、脆いからこそ掛け替えのないものがある。 一人、長らえ続けることは、いつしか苦しみと化すのである。 07 9/21 |