ドラゴンは滅びない




春、萌ゆる時




 キャロルは、乳母車を押していた。


 雪解けが始まったとはいえ、風はまだまだ冷たい。乳母車の中ではしゃぐ愛娘は、厚い上着を着込んでいる。
とても小さな手にも柔らかな毛糸の手袋を被せ、同じく小さな小さな足も毛糸の厚い靴下を履かせてやっていた。
傍らを歩く夫は、長い黒の外套をなびかせている。キャロルの足取りに合わせて、穏やかな歩調で歩いている。
広大な草原は所々で雪が解け、地面を覗かせており、小川では涼やかな音を立てながら雪解け水が流れていく。
心なしか、頭上を巡る鳥の鳴き声も軽やかだ。日差しはうっすらと熱を帯びており、目を細めてしまうほど強い。
 ゼレイブを出て、湖の傍も通り過ぎた。先日の苛烈な戦闘の痕跡である焼け野原は、遥かに後ろに見えている。
日差しさえも吸い込みそうなほど黒い焼け跡には、粉々に砕けた骨の欠片や骨の砲身が空けた穴が残っていた。
そこで繰り広げられた生体魔導兵器との戦闘の詳細については、戦闘後に前線に出た面々から聞かされていた。
二体の生体魔導兵器、アレクセイとエカテリーナは、生物の範疇を越えた魔力を放ち、人ならざる者達を襲った。
だが、最終的にはアレクセイはブラッドらによって大破され、エカテリーナはアレクセイの残留思念に貫かれた。
グレイスの呪いによって僅かに自我を取り戻したアレクセイの断末魔は、エカテリーナの死を望んでいたそうだ。
二人の間にも複雑な事情があったようだが、二人とも完全に死した今となっては真相を知る方法はなかった。
 アレクセイとエカテリーナに目の前で両親を殺されたヴィクトリアも、近頃ではすっかり言動が落ち着いてきた。
斧を振るってフリューゲルと戦うことは止めないまでも、子供達の年長者らしい穏やかさを持つようになってきた。
ゼレイブの住人達との距離も、少しずつではあるが狭めている。この一年で、ヴィクトリアも成長したようだった。
 ヴィクトリアとは対照的に、ギルディオスの行動が少なくなっていた。今では、外で見かけることも減ってしまった。
ヴィクトリアによれば、剣を振るうこともなくなってきて一日動かずにいるのだそうで、まるで彼らしくない行動だ。
生体魔導兵器の件が終わったから少し休みたくなった、と、ギルディオスはいつものように明るい態度で言った。
けれど、それにしては大人しすぎた。皆はギルディオスが大人しくなった理由を悟ったが、口には出さなかった。
元々、ギルディオスは死者だ。いずれ、その時は来る。誰もが覚悟していたことであり、知っていたことだった。
だから、誰が言い出したわけでもなかったが、最後は穏やかに見送ってやろう、という空気が流れるようになった。
死は解放でもなければ癒しでもないが、魂に安息は訪れる。戦いも、遂に彼を縛り付けられなくなったのだろう。

「いい天気だねぇ」

 リチャードは立ち止まり、青空を仰いだ。キャロルも、乳母車を止める。

「そうですね」

 二人の言葉に相槌を打つように、乳母車の中でウィータが歓声を上げる。

「散歩にはもってこいだよ」

 リチャードは外套の下から手を出すと、ウィータの柔らかな頬を優しく撫でた。

「ええ」

 キャロルは娘を慈しむ夫に微笑んだ。この日が訪れることを覚悟していたからか、意外にも落ち着いていた。
泣き腫らした夜もあり、逃れられぬ運命を恨んだ日もあり、覚悟を決めた夫を冷たいと思った瞬間すらあった。
ゼレイブでの暮らしはとても幸せなのだから、それ以外のことを考えずに幸せだけを考えて生きてほしい、と。
けれど、夫が自分自身が犯してしまった重大な罪に深く苦しんでいることは、キャロルが誰よりも良く知っていた。
見た目は飄々としているが、夫が苦悩しない日はなかった。笑顔を見せても、それは心からの笑顔ではなかった。
キャロルや他の皆を安心させんがために笑うのであり、リチャード自身が自分を許して笑うわけではないのだ。
それを見るたびに、罪悪感に苛まれた。リチャードをここまで追い込んでしまったのは、他ならぬキャロルなのだ。
 キャロルさえリチャードと恋仲にならなければ、リチャードはキース・ドラグーンに従って人を殺すこともなかった。
共和国戦争時代、リチャードが特務部隊隊員として戦った理由は、結婚したばかりのキャロルを守るためだった。
それさえなければ、リチャードはそれまで通りに飄々と生き、口先と魔法で乱れきった国内を脱していただろう。
だが、リチャードはキャロルを愛し、キャロルまでもを背負って生きることを選んだ結果、罪に罪を重ねていった。
 リチャードは自分自身の戦争犯罪だけでなく、ゼレイブに住まう人ならざる者達の罪を全て背負って逝くつもりだ。
連合軍に出頭して逮捕され、処刑前に全ての罪を明かし、歴史に名を残すほどの大罪人になる腹積もりなのだ。
キャロルは、何度夫を引き留めようと思ったか解らなかった。だが、引き留めたところで、夫の決意は変わらない。
夫と別れることは、身を裂かれるよりも辛い。けれど、夫が罪の意識に苦しむ様を見ることは、それ以上に辛い。
重たい罪なら、償わねばならないのは至極当然だ。だからキャロルは、妻の努めとして夫を見送ることに決めた。

「ほら、おいで、ウィータ」

 リチャードはウィータを抱き上げ、腕に収めた。

「顔立ちも随分はっきりしてきたね。君に似ているから、可愛い子になるよ」

「魔力値も、少しずつですが成長しています」

 キャロルは夫に寄り添い、その腕の中で笑う娘に触れた。

「何せ、偉大なるヴァトラ・ヴァトラスの血を引く子だからね。魔力だって成長するだろうさ」

 リチャードはウィータの胸元に、そっと指を這わせた。その感触がむず痒かったのか、ウィータは少しぐずった。

「ああ…こりゃ立派だ。異能力はないみたいだけど、魔力中枢そのものの器がそれなりに大きいから、魔力の伸びしろも大きいはずだ。ウィータはリリちゃんと違って竜の血は入っていないけど、この先、どうなるかは解らないね。何せ、子供っていうのは可能性の固まりだから」

「この子がどんな力を持とうと、いい子に育ててみせます」

「君なら出来るよ、キャロル」

 キャロルはウィータを支えながら、身を伸ばしてリチャードに近付いた。リチャードもまた、キャロルに身を寄せた。
二人は口付けて、子を間に挟んで抱き合った。名残惜しく思いながら唇を離し、リチャードは妻の肩に顔を埋めた。

「ウィータも、キャロルをよろしくね。お母さんを大事にするんだよ」

「リチャードさんも、どうかお元気で」

「すぐに殺されないように、せいぜい頑張るとするさ。連合軍は僕から証言を徹底的に引き出すつもりだろうし、ある程度はあちらさんの望む答えを返してやる必要もある。それに、魔法ってものがどんなものなのかも教えてやりたいなぁ。僕の言動の一部始終は公文書になるんだし、せっかくだから派手なこともしないとね。連合軍と他国のお偉方は民衆の心を掴むために僕を諸悪の根源にするだろうから、その要求にも応えてやらないとね。上手くすれば、僕はグレイス・ルーをも超える大悪党になれるんだから。物語の結末としては、悪くないだろう?」

 リチャードはいつもと変わらぬ軽口を並べていたが、不意に表情を消した。

「ごめんね、キャロル。最後まで、こんな調子で」

「謝らないで下さい。私は、リチャードさんの全てを愛しているんですから」

 キャロルは目元を擦り、首を横に振った。

「ありがとう」

 リチャードは妻の頬に口付けると、腰を曲げて娘と目線を合わせた。

「そういうわけだから、君は明日から片親の子になる。でも、大丈夫だ。君の傍には世界一慈悲深いお母さんがいるんだし、親戚にはやたらと怒りっぽいけど根は普通に優しい叔父さんと物凄く優しいけど本当は結構厳しい叔母さんと、従兄弟のお姉ちゃんお兄ちゃんと、その鋼の従者達と、近所のお屋敷には顔は可愛いけど根暗で趣味の悪いお姉ちゃんと、これまた顔はいいけど女の趣味は悪いお兄ちゃんとその恋人のちょっと気難しい女戦士と、その両親である銀色のイカレた銀色の骸骨と二重人格で予知能力者の小母さんと、元軍人だけど割と普通な性格の異能者の小父さんと見た目通りに温厚だけど腹の底は読めない竜族のお医者さんと、君のご先祖である子供が大好きな重剣士さんとその友達の永遠の竜少女と饒舌な粘液と、とまあ、ざっと並べただけでもこんなにもいるんだ。この人達は凄いんだか凄くないんだか今ひとつ解らない部分もあるけど、とても頼りになる人達だ。だから、君は背筋をきちんと伸ばして、お母さんと一緒に生きていけばいい」

 ウィータから目を上げたリチャードは、ね、とキャロルに笑いかけた。

「そうよ、ウィータ」

 キャロルはウィータを見下ろし、優しく微笑んだ。

「あなたのお父さんは最初からいないことになってしまうけど、あなたは愛されて生まれてきたの。私とリチャードさんが望んだから、あなたはここにいるの。だから、胸を張って生きてちょうだい」

「だから、僕も恥ずかしくない死に方をするんだ」

 リチャードはウィータをキャロルの腕に預け、身を引いた。

「ブリガドーンで戦った時に、僕はつくづく思い知ったよ。僕が紙屑みたいに殺してきた人の命は、キャロルのお腹の中に生まれた命と同じくらいの重さがあったんだってことを。僕がレオと一緒に撃沈させた戦艦の海兵達も、共和国戦争中に魔法で土に埋め殺した兵士達も、追っ手として放たれた両軍の兵士達も、僕達のことを知ってしまったからというだけで殺した人達も、当たり前だけど、元を辿れば皆同じ場所から生まれているんだ。自分に子供が出来てようやく命の重さを知るなんて少し情けないけどね。だからこそ、ウィータとキャロルは命懸けで守り抜いてみせる。もう逃げないって、ちゃんと守るって決めたんだから」

「だから、私も逃げません。リチャードさんがどうなってしまわれても、私は一生あなたの妻です」

 キャロルは涙を堪えたが、声が上擦ってしまった。リチャードは、左手の薬指から指輪を抜く。

「キャロル」

 リチャードはキャロルの手を取って開かせ、その中に自分の結婚指輪を置いた。

「僕は幸せだよ。今までも、これからも」

「私も幸せです。ずっと、ずっと、幸せです…」

 キャロルは夫の胸に顔を押し当て、肩を震わせた。リチャードは、今にも泣き出しそうな妻の顔を上げさせる。

「辛いかい?」

「ごめんなさい…。泣かないって、泣いちゃダメだって、思っていたんですけど…」

 キャロルは歯を食い縛るも、嗚咽は堪え切れなかった。リチャードは、妻の目元に口付けを落とす。

「君の方こそ、謝らないで。悲しんでくれて、嬉しいよ」

 リチャードは妻の涙を拭い、娘にも口付けてから体を起こした。水溜りの広がる道の先に、白いものがいた。
ぴんと尖った三角の耳の後ろで、二股に分かれた長い尾をゆらりと振っている。それは、ヴィンセントだった。
ネコマタは、深々と頭を下げてきた。リチャードは妻と子の体温を味わうように柔らかく抱き締めてから、離れた。

「迎えが来たようだ」

「ヴィンセントさん」

 キャロルは、浅く息を飲んだ。リチャードは、待ち兼ねているネコマタを見やった。

「彼は連合軍の手先だからね。僕が望む場所まで案内してくれるはずだ」

「そうですか…」

 キャロルは複雑な思いが胸中に起きたが、精一杯の笑顔を夫に向けた。

「いってらっしゃい、リチャードさん」

「行ってくるよ、キャロル、ウィータ」

 リチャードはキャロルに笑顔を返してから、歩き出した。外套の裾を翻しながら、水を含んだ土の道を進んでいく。
キャロルはウィータを落とさぬように気を付けながら、大きく手を振り、夫の後ろ姿が見えなくなるまで振り続けた。
ヴィンセントを伴ったリチャードの姿は、平原を突っ切るように伸びている道の先に消え、地平線に溶けてしまった。
 夫の姿を見るのは、これが最後だ。キャロルは胸を抉られたかのような寂しさに襲われ、膝が笑いそうになった。
腕の中のウィータは、母親を求めて小さな手を伸ばしている。キャロルは涙を拭ってから、ウィータを見下ろした。

「さあ、帰りましょう、ウィータ」

 乳母車に乗せられたウィータは父親が去ったことに気付いたらしく、突然火が付いたように泣き出してしまった。
キャロルも泣きそうになりながらも、乳母車を揺らした。娘の悲しみが少しでも和らぐことを願って、語り掛けた。

「泣かないで、ウィータ。あなたは幸せなのよ。あなたは、お父さんに愛されているのよ」

 キャロルは喉から声を絞り出し、子守唄を歌った。途中、詰まったり上擦ったりしながらも、懸命に歌い続けた。
ウィータを抱き上げても、今は崩れ落ちてしまうだろう。歌っていなければ、泣き崩れたまま動けなくなるだろう。
だから、これぐらいしか出来なかった。ウィータを励ますためにも、自分の気持ちを奮い立てるためにも、歌った。
 泣くのは今日で終わりにしよう。明日からは胸を張って、前だけを向いて、ウィータと手を取り合って生きるのだ。
リチャードは自分の運命を見極め、足を進めた。ならばキャロルも、これから向かうべき先へ進んでいくだけだ。
そこにリチャードはいなくても、残してくれたものはある。彼の継ぐ子と、彼との絆の指輪と、彼の弛まぬ愛情だ。
キャロルは右手を開いて、夫の結婚指輪を胸に押し当てた。古びた指輪には、彼の温もりが残っている気がした。
 愛する人は、いつまでも傍にいる。




 雪解けの柔らかな道を、白ネコが歩いていく。
 二股に分かれた長い尾を振り振り、雪解け水でぬかるんでしまった赤土の道を軽やかな足取りで進んでいた。
その背を、リチャードは追っていた。ヴィンセントが連合軍まで導いてくれる、というのは嘘でもなんでもなかった。
ゼレイブを旅立つと決めて数日後に、リチャードはゼレイブの付近で偵察に訪れていたヴィンセントに遭遇した。
その時、ヴィンセントは生体魔導兵器の二人がゼレイブを襲撃する間合いを見計らうために様子を窺っていた。
リチャードはそのことを皆に知らせるか迷ったが、知らせずにおいた。その方が、何が起きているのか解るからだ。
案の定、何が起きても動かない者がいた。やはり、この数年間の一連の出来事は仕組まれて起きていたのだ。
そうでもなければ、こうも物事が連鎖していくわけがない。一度では偶然だが、それが何度となく続けば必然だ。
だが、リチャードはヴィンセントに事の真相を問いただすことも、推測を披露することもせずにただ一つ頼んだ。
連合軍本部に連れて行ってくれ、と。ヴィンセントはちょっと意外そうな顔をしたが、思いの外素直に従ってくれた。

「魔導師の旦那」

 ヴィンセントはぺたぺたと小さな足跡を連ねながら、リチャードに振り向いた。

「本当に、連合軍本部に案内するだけでええんですかい?」

「だから、最初に言ったじゃないか、それだけでいいって」

 リチャードが返すと、ヴィンセントは長いヒゲをひくつかせた。

「てっきり魔導師の旦那は、詮索がお好きなんだと思っちょりやしたがねぇ」

「まあ、どちらかって言えば好きだけど、あのことは他の人がなんとかしてくれるでしょ」

「へえ、そりゃどなたでやんすか?」

「決まっているじゃないか、いつもの人達だよ」

「ですが、本当にゼレイブを出ちまってええんですかい? あの御方は女子供にも容赦しやせんぜ、きっと」

 ヴィンセントがにいっと目を細めても、リチャードの歩調は緩まなかった。

「君の主の考えも、僕には解らないわけじゃないよ。でも、僕には僕のやり方がある。君の主が事を全てやり終えてしまったら、僕のやろうとしていることの意味がなくなるんだ。だから、僕はその前に動くしかないんだよ。もちろん、キャロルとウィータは心配だけどね」

「まあ、なるようにしかなりやせんぜ。旦那も、その奥方とお嬢ちゃんも、ついでにあっしもね」

 ヴィンセントはまた前を向き、歩き続ける。その答えに、リチャードは感心した。

「そうか。てっきり、君は逃げるのかと思っていたけど、逃げないつもりなのか」

「ここまで付き合ったんでやんすから、最後まで付き合うのが道理ってもんでごぜぇやしょう」

「ま、そういうもんだよね」

「あっしらのような人でもなければ獣でもねぇ連中は、どう足掻こうと同じ世界を見て生きちょるのでやんす。生まれの国がどこだろうが、育ちがなんだろうが、人の血が混じっていようが、体が鋼だろうが、行き着く先は決まっているのでやんす。ですから、今更道を違えたところで、何がどう変わるっちゅうわけでもありやせん。ただ、事が起きるまでの時間がちょいと間延びするだけでやんす」

 ヴィンセントは口元を広げ、短い牙を覗かせた。

「せいぜい、ご立派な大悪党になっておくんなせぇ。あっしも、ちったぁ楽しみにしちょりやすんでねぇ」

「その期待に応えられるように、頑張るとするよ。こんなことになるんだったら、グレイスさんから悪人になるための手解きでも受けておくんだったなぁ。それが当てになるかどうかは別として」

「そいつぁ違ぇねぇ」

 さも可笑しげに声を上擦らせたヴィンセントに、リチャードは言った。

「連合軍の本部までは、どのくらいだい?」

「魔導師の旦那の腕でしたら、空間移動魔法を三四回行えば着ける距離でごぜぇやす」

 ヴィンセントは立ち止まり、リチャードへ深々と頭を下げた。

「そいでは、ご案内いたしやしょう。この世の地獄へと続く、修羅の道を」

 リチャードは身を屈め、ネコの頭をぽんと叩いた。

「よろしく頼むよ。ヴィンセント」

 では、とヴィンセントは顔を上げた。リチャードは外套のフードを被ると、表情を消してネコマタの後を追った。
連合軍本部に逮捕されれば、それまでも一人歩きしていたリチャード・ヴァトラスの人物像が更に一人歩きする。
連合軍は、ここぞとばかりにリチャードへ全てを押し付けるはずだ。だが、それを抗うことは決して許されない。
自分を許せないからこそ、全てを受け入れる。それは誰に対する贖罪でもなく、他でもない自分に対する罰だ。
 不思議と、心中は清々しかった。春の気配が満ちている空気がそうさせるのか、胸苦しくなることはなかった。
妻子を残して逝くことに対するやるせなさ、歯痒さ、罪悪感、苦悩を感じていたが、その重みすら心地良かった。
最後まで愛し抜ける存在を得られたのだから、それに勝る幸福などない。ろくでもないが、満ち足りた人生だった。
愛する女との間に生まれた我が子を腕に抱くことも、娘に名を与えることも出来たのだからもう何も文句はない。
 躊躇わずに、死ねる。




 春の芽吹きと共に、罪深き男は死地へと旅立つ。
 無数の死体の上に成り立つ生き様を誇り、妻と娘を生かさんがために。
 若き日は孤独故に魔法に溺れ、女を愛するが故に生きる道を違えた魔導師は。

 己の信ずる正しき道へ、今、歩き出したのである。






07 10/29