ドラゴンは滅びない




原初の海 前



 夕焼けが、空を支配していた。
 肩に乗せた釣り竿を持ち直し、小走りに駆けた。少しでも気を抜くと、すぐに二人との間隔が開いてしまうのだ。
草原には三つの長い影が伸びているが、自分の影だけがひどく短かった。それだけでも、なんだか嬉しかった。
追い付いても、二人は歩調を緩めない。一番後ろを歩いている巨体の彼は少し緩めたが、止まることはなかった。
遠くには、まばらに家々が並んでいるのが見える。魔力の蜃気楼に包まれているため、僅かに景色は歪んでいた。
四人は、家へ続く道を歩いている。先頭を行く父親の手に下げられたカゴからは、魚の尾が数本飛び出していた。

「当分は魚だねぇ、こりゃ」

 嬉しそうに笑いながら、母親が振り向いた。強い西日を浴びて、一括りに結んだ長い金髪が煌いている。

「ロイズは何がいい? あたし、頑張っちゃうんだから」

「お前の作る料理の種類などタカが知れているだろう。選択の余地などない」

 あまり期待していないのか、父親は素っ気無い。母親は、むっとする。

「そんなこと言うくせに、一番しっかり食べるのはどこの誰よ」

「仕方ないだろう。お前が馬鹿みたいな量を拵えるから、処理しなければならないんだ」

「いいじゃん、食料だけはあるんだから。それに、二人には一杯食べてもらいたいんだもん」

「だが、何事も限度というものがある。それと、新しく覚えたからといってそればかりを作るな。正直、飽きるのだ」

「えぇー、いいじゃんかー」

「お前は楽かもしれないが、大変なのは私達だ」

 父親がぼやいたので、母親はこちらに振り向き、困ったように眉を下げる。

「ロイズもそうなの?」

「あー、うん」

 答えづらかったが、答えないわけにはいかないので返事をした。父親の言う通り、同じ料理が続くと飽きてくる。
それが一度や二度ならまだしも、延々と続く場合がある。そうなってしまうと、いくら好きな料理でもうんざりする。
新しく覚えた料理を披露された時には、当然だが父親と共においしいと言う。だが、言い過ぎてしまう時もある。
すると、母親は有頂天になってしまうのだ。嬉しいのは解るし、喜ぶ様を見るのはいいが、やりすぎるのは問題だ。

「んー、じゃあどうしよっかなぁー…」

「ひたすら煮るのは勘弁してくれ。せめて、一日ごとに味を変えてくれ」

「この前それをやったら、怒ったくせにぃ」

 母親が拗ねると、父親は顔をしかめた。

「あれは、日を追うごとに味を追加していったから怒ったんだ。前の味に別の味を重ねていけば、煮詰めた海水よりも塩辛くなるのは当然のことじゃないか。どうしてそういうことだけは頭が回らないんだ」

「行軍中は文句一つ言わないで食べたくせに、どうして最近は文句ばっかり言うかなぁ!」

「あれは非常時だから食べられただけのことだ。そうでなかったら、お前の料理など食べられたものではない」

「じゃ、ダニーの分は作らない。そんなに言うんだったら、自分で作って食べればいいじゃない」

 すっかりむくれてしまった母親が唇を尖らせると、さすがに父親も少々狼狽した。

「あれをロイズにだけ食わせる気か? その方が酷ではないか」

「何よ、心配するのはそっちだけなの? あーもう、ダニーなんて!」

 そうは言いながらも、母親の声色は決して刺々しくなかった。近頃は、両親が本気で言い争いをしたことはない。
穏やかな時間が流れるうちに、両親から角が取れてきた。上下関係の名残はあるが、それほどではなかった。
二人の言い合いはじゃれあいに近く、母親から零れるかすかな思念には苛立ちなど欠片も混じっていなかった。
母親をたしなめる父親の横顔は、表情が柔らかかった。まだ若干照れ臭さは残っているが、自然な笑顔だった。
 二人の邪魔をすることが憚られたので、ロイズは歩調を緩めて距離を開けた。程なくして、鋼の兄に添った。
ヴェイパーはダニエルとフローレンスの言い合いを傍観していたが、ちょっとだけ肩を竦めた。笑っているのだ。
湖からゼレイブへの帰り道は、長いようで短い。ロイズは家族で釣りをした余韻に浸りつつ、我が家へと向かった。
 また、明日もこんな一日が続くのだろう。




 平屋建ての校舎には、白い日差しが降り注いでいた。
 赤いレンガ造りの壁はまだ真新しさを残しており、綺麗に整備されて均された校庭は雑草一本生えていない。
校舎の周囲を囲む木製の柵はあるものの、子供の背丈ほどの高さしかなく、平原と敷地を分けているだけだった。
この校舎は、広大な平原の端にぽつんと建てられていた。子供達が通学に使う細い道が、真っ直ぐ伸びていた。
その道の先には、古びた家々が並ぶ小ぢんまりとした街があった。遮蔽物がないため、一目で全てを見渡せる。
 彼女は、校舎に続く道を歩いていた。両手には街から配達されてきた新しい教科書の束があり、重たかった。
生徒の数は少なくとも、教材は通常通りに使わなければならない。知識を正しく授けるのが、教師の役割なのだ。
校舎までは、まだそれなりに距離がある。もう少し頑張れば、と思いながら歩いていると、頭上を影が通り抜けた。
銀色の翼を煌かせている鋼鉄の鳥人はくるりと頭上を旋回していたが、目の前に舞い降り、かすかに風が起きた。

「それ、オレ様が持とうか?」

「いいよ。フリューゲルに頼っちゃったら、いけないもん」

 彼女は教科書の束を持ち直し、再び歩き出した。鋼鉄の鳥人は頭の後ろで手を組み、隣を歩く。

「昨日、こっちに来た子供ら、早く慣れるといいな」

「大丈夫だよ、すぐに慣れるよ。皆、いい子だし」

「そうか? オレ様にしてみりゃ、どいつもこいつも生意気でどうしようもねぇんだけどなこの野郎」

「いつもみたいに、手加減して遊んでやってね。でも、危なくなったらちゃんと止めてあげるんだよ?」

「くけけけけけけけけけけけけけけ! お安い御用だこの野郎!」

 甲高い笑い声を放ってから、鋼鉄の鳥人はぐいっと上体を逸らして青空を仰ぎ見た。

「なんかいいなー、こういうの! よくわかんねーけど、すっげぇいいなこの野郎!」

「でしょ?」

 両翼を広げて感嘆している鋼鉄の鳥人に微笑みかけてから、前に向いた。あの校舎には、夢が詰まっている。
大きな戦争も終わり、共和国に新たな政府が立ち上げられて統治されると、国内は以前の平穏を取り戻した。
だが、異能者や人外の者達に対する風当たりは冷たいままで、魔導師協会がないために悪化する一方だった。
しかし、魔法文化が栄えていた共和国の土壌がそうさせるのか、異能力を持った子供達は今も生まれ続けた。
魔導師協会や異能部隊といった異能者を受け入れる機関がないため、異能者の子供達は世間から冷遇された。
それを見るに見かねてゼレイブ近辺に建設したのが、この学校なのである。その名も、ヴァトラス学園という。
建設者は母親であるフィリオラ・ヴァトラスであり、その熱意と愛情をありったけ詰め込んで作り上げた学園だ。
もちろん、最初の頃は上手くいかなかった。フィリオラ自身に教師の経験もなければ、運営の経験もなかった。
並行して造ったゼレイブ内の孤児院も、皆で協力して運営していたのだが、誰一人経験がないので苦労した。
その様を間近で見てきたため、人を教えたり導くことがどれだけ大変なのかは身に染みて理解したつもりだった。
だが、いざ現場に入ってみると想像以上に大変だった。異能力を持て余した子供達は、普通よりも厄介だった。
自身も念力発火能力に振り回されて生きてきたため、子供達の苦しみや悲しみは人一倍解るので踏ん張った。
大変だが、それ以上にやりがいのある仕事だ。子供達の笑顔を見ると、この仕事を選んで良かったと思える。

「ねえ、フリューゲル」

 声を掛けると、鋼鉄の鳥人は振り向いた。

「なんだ、リリ?」

「また、楽しい一年が始まるね」

 笑顔を向けると、彼は銀色の翼をばさばさと振った。

「おう! リリと一緒に、オレ様も頑張るってんだぞこの野郎ー!」

「うん」

 リリは手を伸ばして、彼の頭部装甲を撫でた。フリューゲルは嬉しそうに、赤い光で成された目を細めている。
これからこの学校へやってくる子供達には、色々なことを教えてやりたかった。勉強だけでなく、生きる楽しさも。
昔は、リリも友人が少なかった。ゼレイブに同年代の子供がいなかったから、少しだけだが疎外感を覚えていた。
遥かに年上のブラッドは今も昔もいい友人で兄代わりだが、同じ目線で遊べないことを不満に思った時もある。
そこへやってきたのが、同い年のロイズと四歳年上のヴィクトリアだった。二人とは、今でもとてもいい友人だ。
年上であり性格が辛辣だったヴィクトリアとは、最初の頃こそ上手く噛み合わなかったが、次第に仲良くなれた。
同い年であり異能者であるロイズとはすぐに打ち解け、諸事情で義兄弟となったこともあって更に仲は深まった。
従姉妹のウィータは八歳も年下なので、どちらかと言えば姉妹関係に近いが、いい友人であることに変わりない。
 友人が出来たことで、それまでの幸せだがどこか物足りない日々が隅々まで満ち足り、毎日が眩しく輝いた。
子供達には、その素晴らしさを伝えたい。世界で一人きりではないことを教えて、心の底からの笑顔を与えたい。
 そのために、教師になったのだから。




 夜も更けて、闇は一層深くなった。
 暖炉の前だけは明るかったが、広大な居間の奥には夜の分厚い闇が滑り込み、豪奢な家財道具を隠していた。
暖炉から零れる炎の明かりが純金製の装飾品を煌かせ、年代物の巨大な絵画を照らし出し、家族を暖めていた。
中世時代の様式の人も入れるほどの大きさがある暖炉の前には、上質の革張りのソファーが並べられていた。
一番大きな三人掛けのソファーには両親がくつろいでおり、その傍らには紺のメイド服を着た幼女が立っていた。

「で、次は?」

 父親は丸メガネの奥で、目を細めた。

「そうなのだわ、まだ続きがあるのだわ」

 ソファーから身を乗り出して頬を上気させる娘に、母親はくすりと笑みを零す。

「そんなに焦らなくてもいいわよ、ヴィクトリア。夜はまだ長いんだから、ゆっくり話せばいいわ」

「そうですよー。しばらくはー、御主人様も奥様もー、どこにも行かないそうですしー」

 笑顔を浮かべた石の幼女は、首を曲げた。その動きに合わせ、バネのように巻かれた髪が揺れ動いた。

「今度は四人でどこかに行こうや。時間と金をどっさり掛けて、色んな場所を回ろうぜ」

 父親が笑むと、母親も声を弾ませる。

「あら、いいわね。だったら、あの飛行船とかいうものが欲しいわ。あれ、面白そうじゃないの」

「飛行船かぁ、うん、悪くねぇな」

 早速旅行の話し合いを始めた両親に、むくれながら口を挟んだ。

「お父様、お母様、まだ私の話は終わっていなくってよ」

「ああ、悪ぃ悪ぃ。で、ヴィクトリアはどこに行きたい?」

 父親は平謝りしながら、身を屈めて目線を合わせてきた。

「行けるのなら、海の向こうへ行ってみたいのだわ。だって、面白そうなんですもの」

「ああ、オレもだ。こっちの大陸には長いこといたから、ほとんどの国を見て回っちまったからなぁ。海の向こうには新しい土地があるってんだから、行かなきゃ損だぜ」

 楽しげに笑いながら、父親は髪を撫でてきた。母親も頬杖を付いて背を丸め、顔を近寄せてくる。

「飛行船の内装、一緒に考えましょう。ヴィクトリアはどんなのがいい?」

「綺麗なお部屋が良くってよ」

 二人に流される形で、つい話に乗ってしまった。そのうち、一年間に及ぶ旅の思い出話から話が逸れていった。
いつしか、両親と共に新たな旅の計画を立てていた。飛行船を買い付けて、家族だけで搭乗して世界を回るのだ。
住み慣れた大陸を離れ、海の向こうにある新たな世界を目指す。きっと、見たこともないものが待ち受けている。
想像しただけで楽しそうで、次第に浮かれてきた。両親も姉も、明るい笑顔を向け合って会話を弾ませている。
 ヴィクトリアは率先して行き先を提案しながら、嬉しくなっていた。この一年間の旅より、遥かに楽しいはずだ。
禁書を探し当てる旅は行く先々で物騒なことが起きたが、今度は違う。誰よりも強い父親と、美しい母親がいる。
そして、異形の姉もいる。この世で一番愛おしい家族が傍にいれば、どんなことも怖くない。楽しくないわけがない。
灰色の城も素晴らしいが、外の世界はまた別だ。一年間の長旅で最も深く学んだのは、この世の広さであった。
今まで、ヴィクトリアは灰色の城の中とその近辺しか知らなかった。だが、世界はそれだけではなかったのだ。
進めば進むほどに視界は広がり、目に映る景色も変わる。知らなかったことを知るたびに、視野も開けていく。
それを、今度はこの世の誰よりも愛する両親と姉と共に体験出来るのだから、素晴らしいことこの上なかった。
 至福の時間は、終わらない。




 生温い鉄錆の味が、喉を滑り落ちていく。
 温かな液体が胃に溜まり、腹部に染み渡っていった。その優しい感覚で、高ぶった神経が少し落ち着いた。
同族の血は、人間の血よりも少々甘く、味も優しい。もう少し飲みたい気もしたが、吸い過ぎるのは良くない。
遠慮して彼の首筋から牙を抜いてしまおうとすると、後頭部を大きな手に押さえられ、耳元で小声で囁かれた。

「後で取り返してやる。だから、気にすんな」

「ん…」

 その言葉に、一度抜きかけた牙をもう一度色素の薄い肌に突き刺した。新しい傷口から、とろりと血が流れる。
それを一滴も逃してはならないと、すかさず吸い上げる。かすかな呻き声が傍らから聞こえたが、苦痛ではない。
深く息を吐き、喘いでいる。背中に回された腕の力が強められて、二人の間に開いていた空間が押し潰された。
互いの低い体温が、高揚で僅かながら上気していた。それが心の底から嬉しくて、また愛おしくてたまらなかった。
思う存分血を吸い上げたので、彼の首筋から牙を抜いた。先程のと今の傷口を癒すように、舌を這わせていく。

「あ、ちょっ、待て」

 慌てた様子で肩を押され、引き剥がされた。間近に迫った彼の顔には、焦りが滲んでいた。

「それはねぇだろ、マジで」

「嫌か?」

 良いと思ったからしたのに、嫌がられるとは心外だ。彼は口元を押さえ、目線を彷徨わせる。

「そういうんじゃなくってさ…」

「だったら、何なんだ?」

 意地悪く尋ねると、彼は顔を背けてしまった。

「いや、だからさ、そんなに頻繁にやっちゃいけねぇと思って。だって、さっきもしたばっかりだしさ…」

「私は、その、別に構わないが」

 照れながら呟くと、彼はそろそろと視線を戻してきた。

「じゃあ、いいのか?」

「嫌なわけがないだろう」

 頬が高潮するのを感じながら、顔を上げた。彼の血に濡れた唇を塞がれて、鉄の味が残る舌を強く吸われた。
腰に回していた手を体に這わせながら昇らせ、乳房を掴む。もう一方の手は腰から太股へ伝い、肌を探ってくる。
深い口付けを繰り返した後、首筋に口付けが落とされた。柔らかな舌が首筋を這っていたが、牙が立てられた。
皮が貫かれる感触と鋭い痛みが走ったが、嫌な痛みではない。生々しい水音と共に、彼は血を啜り上げていく。
喉の奥で喘ぎを殺すも、堪えきれなかった。彼の背に回した手に力を込めて縋り付いて、その肩に顔を埋める。
閉じていた太股の間に骨張った太い指が差し込まれて開かされ、肌の薄い部分をゆっくりと撫で上げていった。
人差し指が局部に触れ、親指が下穿きに掛けられる。下穿きと肌の間に指が滑り込み、潤った局部に届いた。

「うあっ」

 内側に差し込まれた指の刺激に耐えかねて声を漏らすと、彼は首筋から顔を上げて囁いてきた。

「ここも可愛いぜ、ルージュ」

「そんなこと、言わないでくれ」

 背筋を逆立てる甘い感覚と羞恥で頬を染めながら、俯いた。だが、すぐに顔を上げさせられて口付けられた。
彼の舌と唇からは、自分自身の血の味がした。首筋に空いた小さな二つの穴からは、鮮血が流れ落ちていた。
 ルージュはブラッドの首に腕を回し、身を乗り出して口付けを深めた。ブラッドは、攻める手を緩めなかった。
前は荒々しいだけだった愛撫も、手馴れた今となっては優しくなった。おかげで、近頃は痛みは感じなくなった。
体を繋げたばかり頃は、どちらも慣れていなかったために快感どころの話ではなく、情交には痛みしかなかった。
回数を重ねて互いを探り合っていくうちに次第にぎこちなさが抜け、二人は呼吸を合わせられるようになった。
 互いの血を啜り合い、互いの味を共有する。それは二人が吸血鬼だからこそ出来る、最上の愛情表現だった。
体を繋げただけでは繋がり合えない部分も、血を分け合えば繋げられる。生々しい鉄の味こそが、愛の味だった。
 二人の上気した呼吸と粘ついた水音だけが、薄暗い部屋の静けさを掻き乱す。言葉など、最早必要なかった。
窓に映るのは、豊かな乳房と長い手足を持った銀髪の女。その銀色の瞳に映るのは、同じ銀色の瞳の金髪の男。
薄い汗を帯びた肌が、鉱石ランプの薄明かりで光っている。それがいやに扇情的で、そして、艶めかしかった。
体の奥底まで押し込まれた彼の熱さを感じ、ルージュは涙を滲ませた。注ぎ込まれた愛と欲が、太股を伝った。
 こんなにも、幸せなことはない。




 自分の呻き声で、目が覚めた。
 喉が干乾びるほど渇き、歯をきつく食い縛っていた。目元から流れた涙が、頭の下の枕に吸い込まれていた。
背中にはじっとりと冷や汗が滲み、手足は冷え切っている。すると、涙の跡が残る頬に大きな手が触れてきた。
目を上げると、そこには夫が座っていた。ベッドに腰掛けて、かなり不安げな眼差しでこちらを見下ろしている。

「大丈夫かい?」

 優しい声を掛けられると、安堵のあまりに脱力した。

「はい…」

「何か、悪い夢でも見ていたの?」

 夫の手で起こされ、そのまま抱き締められた。広い胸に体を預け、頷いた。

「凄く怖い夢でした。ひどい戦争が起きて、あなたが戦争に行ってしまわれて、とても重たい罪を犯してしまうんです。そして、最後には、敵の軍隊に処刑されてしまうんです」

 思い出すだけで震えが来て、夫の服を握り締めてしまった。夫は、宥めるように背中を撫で下ろしてくれる。

「それはただの夢だよ、キャロル。戦争なんて、起きていないじゃないか」

 ごらん、と促されて顔を上げると、夫は指を弾いた。すると、寝室の窓を覆っていたカーテンが独りでに開いた。
日が暮れて大分過ぎているため、外はすっかり暗くなっていた。広大な夜空には、星の運河が静かに流れている。
また、街並みにも星が散らばっていた。民家の窓に明かりが灯り、家々からは人々のざわめきや生活音がする。
日没後にも稼動している工場からは熱気の混じった煙が立ち昇り、夜露を吸い取って霧となって降り注いでいた。
蒸気機関車が駆け抜ける力強い駆動音が聞こえ、駅舎ではいざ発車せんと次なる車両が雄々しく咆えている。
雑然としているが、だからこそ人々の息吹が感じられる。かつての王宮が、闇の中から急王都を見下ろしていた。

「ほら」

 夫は柔らかく笑み、寝乱れた赤毛の長い髪に指を通してきた。

「きっと、疲れていたんだよ。ウィータも大きくなってきたからね」

「ウィータの世話をするのは大変ですけど、とても楽しいですから平気ですよ。本当に大変なのは私でもウィータでもなくて、リチャードさんの方です。魔導師協会の役員会議と並行して、魔法大学の学会もあるんですから。私になど構わずに、どうぞそちらに集中なさって下さい」

「そうだね。でも、仕事はどうにでもなるけど、キャロルとウィータはそうはいかないじゃないか」

「ですけど…」

「あんまり気を遣わないの。今の君は僕のメイドじゃなくて、僕の家族なんだから」

 夫は躊躇いなく顎を持ち上げ、口付けてきた。背中に回された腕にも力が込められたので、素直に従った。
そうだ、あれは悪い夢なのだ。現に戦争なんて起きていないし、リチャードだってちゃんとここにいるではないか。
夢の中では、リチャードは共和国軍に入隊させられて最前線で戦わされ、両軍の兵士を大量に殺してしまった。
だが、それは彼の本意ではない。特務部隊の隊長である大佐という女に、強引に従わされていただけだった。
だから、リチャードは悪くないのだ。なのに、リチャードは大佐の罪も背負わされて、自軍と敵軍から追われた。
そして最後には捕縛され、処刑されてしまった。こんなにひどい夢を見るなんて、余程育児で疲れていたのだろう。
 リチャードとキャロルが結婚して、十年が過ぎた。その間、旧王都では事件も起きたが日常は平和そのものだ。
先日産まれたばかりのウィータも健康で丸々としており、魔力数値も高く、元気一杯に育ってくれるに違いない。
女の子だが、将来は父親の跡を継いで魔導師になってくれたら嬉しい。ヴァトラス家は、魔導師の一族だからだ。
現在は、長男であるリチャードが家を継いだ。古いが大きな屋敷と財産も引き継ぎ、当主として立派にやっている。
キャロルは元はヴァトラス家のメイドだったが、上流階級と近しい暮らしにも慣れて当主の妻として振舞っている。
次男夫婦のレオナルドとフィリオラとは以前から友人だったので、今でも仲良くしており、頻繁に交流している。
だが、姪のリリも娘のウィータも女の子なので、本家の世継ぎにはなれない。なるべく早く、次子を産まなければ。
リチャードはあまり焦らなくてもいいと言ってくれているが、そうもいかない。子を産むことこそが、妻の仕事だ。
ヴァトラス家の血筋を、自分の代で途絶えさせてはならない。そして、夫の役に立たなければ意味がないのだ。
 愛する者に尽くすことこそが、愛だ。





 


07 11/1